インドア人間アウトドアへ リア充的バーベキュー戦記

2014年04月25日 | 時事ネタ
 バーベキューがブームであるという。

 テレビでも特集とかよくやってるし、昨今ではBBQなどと略して、なんともナウい趣味となっているようなのだ。

 そんなバーベキューであるが、私も友人に好きなのがいて、誘われてちょくちょく出かけたこともあった。関西でバーベキューといえば服部緑地や万博公園、ちょっと遠出して琵琶湖などもあるようだが、私が出動したのは主に六甲山。

 兵庫在住の友人が多かったので自然とそうなったのだが、これが実に気持ちのいいものであった。

 山はいい。空気はきれいだし、高いところというのはむやみに開放感がある。

 大きく深呼吸して、ちまちました下界を見下ろすと、ふだんの些末な悩みなどは風に流されていくようであり、なんともさわやかに

 「見ろ、人がゴミのようだ!」

 という気分になる。なんとかと煙は高いところが好きというのは、人類普遍の真理であるようだ。

 BBQはかくも楽しい。そんな感じの、いわゆる「リア充」的な話をすると、「てめえ、ふざけるな!」とか「この裏切り者!」といった罵声が聞こえてきそうである。

 たしかに普段は、やれあっちでズッコケただの、こっちで女の子に振られただのといった話ばかりしている当ページに、「BBQサイコー!」みたいな浮かれた話題は似合わない。実際かつて、友にこういう話をしたら

 「てめー! ひとりで抜け駆けしやがって、お前とは二度と話をしたくない!」

 と友達の縁を切られたこともあるのだが(実話です。しかも2人に。なんで?)、これが単なる自慢話であるなら、まあ私も苦労はないのである。

 バーベキューはたしかに楽しい。肉はうまいし、気分も開放的だ。

 だが、どうにも自分の中ではしっくりきていないというか、「アウェー」の戦いである感がいなめない。

 私自身、人生これまでそれなりに楽しく生きてこられたとは思うのだが、それはそれとしても、やはりどこか自分は「陽の当たる場所」に生きる男ではないという自覚がある。

 別にアウトローを気取っているわけではないが、やはり世間のまっとうな価値観や流行りものと、あまりなじみないところで生きてきたので、どうしてもこういう「リア充」なものに違和感がぬぐえないのだ。

 そんな人間が、六甲山のバーベキューに行くとどうなるかといえば、これがなんともまぶしい。

 それは、日差しの強さもさることながら、その空気がまぶしい。六甲山、さわやかな友たち、肉の焼けるおいしそうなにおい、はじけるような女の子たちの笑い声。

 そういった、混じりっけなしのさわやかさに囲まれていると、なんだか現実感覚をなくすというか、

 「こんな世界がホンマにあるんかいな」

 そんな疑問符が頭の中に芽生え、

 「もし本当だとしたら、自分のような人間が、こんなところにいていいのか。そんな資格があるのか」

 みたいに、アイデンティティー・クライシス的な、そんな気分におちいってしまう。

 まあさすがに、乙一さんの小説のように、「僕は一生あのような光の世界では生きられないのかと嗚咽した」みたいな絶望的気分になりこそしないが、

 「あー、なんか不思議な気分やなあ」

 とフワフワしてしまう。これだったら、京都の納涼古本市とか梅田の地下映画館の暗闇の方がよっぽど落ち着くなあと。流行のファッションやJポップもいいけど、だれか怪獣の話しようぜ。

 田舎の学校の野球部が、なんのまぐれか甲子園に出てしまったとき、1回戦でボッコボコに打たれて負けた試合を振り返って、

 「舞い上がっていて記憶にない」

 「頭がまっ白になって、気がついたら7回の裏くらいになっていた」

 なんて、そのエアポケットを告白することがあるが、まさにそうである。

 舞い上がって、自分がなにをしているのかわかっていない。なもんで、やたらと酒だけは進み、気がつけばますますアップアップする羽目になるのである。

 友に聞いてみても、

 「あー、そういやキミ、バーベキュー誘ったら、いつもグデングデンになってたなあ。えらいゴキゲンやなあって思っとったわ」

 とのことらしいが、それは機嫌がよろしかったのではなかく、まごうことなき「現実逃避」です。

 太宰治のごとき「思えば恥の多い人生でした」ゆえのことであって、一見「リア充」に見える私のBBQライフは、しょせんはこんなものなので、早とちりして裏切り者などと石を投げないでほしいものだ。


 (続く【→こちら】)



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