泉鏡花の元々のペンネームは、ぶっ飛んでいた。
昨今、子供に奇抜な名前をつける、キラキラネームなるものが流行っている。
こういう風潮に「いかがなものか」と眉をしかめる人もいるが、作家や漫画家のペンネームや、素人でもネット上のハンドルネームなど、あまり人のことを言えないケースも多い。
ここで注目したいのは、作家の泉鏡花。
鏡花といえば『高野聖』『歌行燈』といった作品と同時に、日本文学史上もっとも風雅なペンネームでも知られている。
泉に「鏡の花」とは、これまたなんとも貴族的であり、なにやらちょっとばかし、カッコつけすぎではないのか。
なんて、イヤごとのひとつも、いいたくもなるわけだが、実はこの泉先生の本名というのが、
「泉鏡太郎」
でありまして、これまた筆名に負けずおとらず、カッコイイのであった。
泉鏡太郎。本格推理の名探偵みたい。
そういや、古今の探偵小説に出てくる名探偵も、キラキラネームっぽい人多いよなあ。
巫弓彦とか、亜愛一郎とか、星影龍三とか。
そんな鏡太郎先生、本名もペンネームも超かっこよくて、『高野聖』とか作品名もまたスカしたシロモノ。
なんとも生意気だが、そんな名前的には完全無欠の「勝ち組」である先生も、苦労された時代もあるらしい。
かつての文学者といえば、名のあるえらい先生に弟子入りするというのが、デビューへの道であった。
夏目漱石に師事した内田百閒や芥川龍之介のように、師匠の元で学んで、目をかけていただいて、同人誌などを経由して世に出るというのが、その王道。
我らが鏡太郎先生も、やはり当時の大御所の門をたたいた。
その人とは尾崎紅葉。
『金色夜叉』で有名な文壇の大スターである。
そんな尾崎に才能を認められた鏡太郎先生は、その後大活躍することになるのだが、その前に大事なのはペンネームを決めること。
変な名前で世に出てしまって、笑いものになっては目も当てられないし、有名人と名前が、かぶってしまうというのも困りものだ。
そこで尾崎師匠が弟子のため、いい名前を送ることにした。
かつての刑事ドラマでは七曲暑のボスが、「今日からおまえは【ジーパン】だ」といったふうに、
「ラガー」
「マカロニ」
「マイコン」
などナイスな刑事ネームをつけていたが、ここで師匠が鏡先生につけた名前というのがこれ。
「畠芋之助」
読み方は「はたけ いものすけ」。
なんと、尾崎師匠は「泉鏡太郎」というカッケー名前に変えて、これを名乗れと命令したのである。
なんでも、
「田舎から出てきて、その土のにおいのする名前がいいだろう」
みたいな理由らしく、その理念はたしかに美しいが、その結果が、
「畠芋之助」
芋はないだろう、芋は。
いや、芋はおいしいけど、これは一昔前は「イモ娘」とか、アカ抜けない人を下に見る表現であったのだ。
それを弟子につけるとは、なんちゅうセンスなのか。
自分は「紅葉(こうよう)」なんて、カッコつけてるくせに。
これには文芸評論家の渡部直巳氏も、
「野良くさい駆け出しですという自己卑下か、師匠・尾崎紅葉による残酷な諧ぎゃくか?」
あきれておられたが、私もはじめて知ったときは、椅子からずり落ちそうになったものだ。
これが自虐ネタか、尾崎の「イジり」かはわからないが、自分だったら、
「こ、これは後輩つぶしッスか……」
そこを真剣に疑ったことだろう。
それくらいのインパクトだ。ほとんどイジメだよ、畠芋之助は。
文学好きの女の子と話していて、
「いいよね、泉鏡花。あんな美しい日本語は他にないよ」
「そうね、『外科室』は北村薫先生も絶賛されていたわ」
なんてやりとりがあれば、「今日はいけそうな気がする」となるが、これが
「いいよね、畠芋之助」
では、まったくダメそうだ。
かくも、名前というのは大事なのである。
幸いなことに、鏡太郎先生はその後「泉鏡花」としてブレイクし、見事日本文学史にその名前を残したが、これが「畠芋之助」のままだったらどうだったろう。
ダメだったとはいわないけど、きっと文学史における「ブランド力」は、二割くらい減だったのではなかろうか。
みなさまも、ペンネームやハンドルネームをつけるときは、くれぐれも
「この名前で、歴史の教科書に載る勇気があるのか」
といったところに、注意されるのが吉であろう。