前回(→こちら)の続き。
「人生がつまらない」。
という悩みをかかえている人に、
「キミィ、今すぐ舞台に立ちなさい!」。
そう北方謙三の「小僧、ソープへ行け!」ようなアドバイスを送った私。
心が欝々と晴れないなら「表現活動」をすればいいのだ。そうすれば人生が楽しくなるし、なんならその鬱屈を作品として昇華してしまえば一種の治療にもなる。
これは私の経験からいっても非常に効果があることはわかっているが、この手の意見にはかならずといっていいほど、同じような答えが返ってくる。
「だって、才能なんてないし……」。
才能。そう、このキーワードだ。「表現」「創作」の話をすると、十中八九この返しがある。
才能がない、だからやっても意味ないし、その資格もない。
たしかにである。世界を動かすような偉大な作品を作り出すには、その「才能」とやらは必要であろう。
かの名画『アマデウス』もそれがテーマであった。あの物語など「一番才能のあるやつ」になれないばっかりに、他の天才が(そう、漫画家の赤星たみこさんも指摘していたように、サリエリもまた凡人なんかではなく「天才」だった。そここそが悲劇であったのだ)人生を狂わせてしまう。
しかしである。私はここで声を大にしていいたいわけだ。
才能なんて、なくてもいいじゃん!
そんなもんなくったって表現はできます。だいいち、才能がないと舞台に立ってはいけないなんて、どこのだれが決めたのか。
別にプロになれといっているわけではない。金を取れといっているわけでもない。
あくまで、自分が楽しむためにやればいいのだから、才能なんて、そんな大仰にかまえなくても。
そもそも、天才しか表現活動してはいけないのなら、世のアマチュア活動や学校の部活なんかも全否定してしまうことになる。
サラリーマン川柳も、素人のど自慢も、すべてやる意味がないとでもいうのだろうか。んなわけはない。そんな息苦しい世界に私は住みたくない。
だが不思議なことに、この才能問題は表現の世界ではおそろしいほどに幅を利かす。
プロの作家や評論家などは、素人が小説を書くと
「最近は、やたらと小説を書きたがる人が増えた」
などと、見下したような言い方をするし、中には「文学のカラオケ化」とか鼻で笑うような苦言を聞くこともある。
こういう言説に接するたびに、私はなんと狭量な人だろうとあきれるような思いにかられる。
どこの世界に、自分が先陣を切っているジャンルで、それについてきてくれる人をバカにする人がいるだろう。
野球やサッカーでも、競技人口が増えれば選手も協会もよろこぶはずである。囲碁や将棋など、なんとか子供や女性のファンを増やしたいと、懸命の普及活動で、すそ野を広げるべく努力している。
あの羽生さんですら、殺人的なスケジュールの間をぬって、各種のイベントなどに出席しているのだ。すべては、素人であるファンに将棋のすばらしさを知ってもらいたいがために。それを
「プロにもなれないのに、一所懸命やっちゃって」
とか、
「才能もない素人が、やめろよ」
なんて嫌味をかましてふんぞりかえってられるというのは、たいしたお大尽である。
上に立つ人が、自分がかかわる競技やジャンルには(まあ心の中ではどうあれ)興味を持ってくれるなら、諸手をあげて歓迎するというのはごく自然なことだと思うが。
競技人口が増えれば底上げがきいて全体のレベルアップにもつながり、経済的な活性化も見込めるし、新しい才能だって発掘される可能性も増えるのは当然の話。
それを「プロになれない奴がやっても意味ない」なんていう見方が、健全なありかたとは、とても思えないのだが。
ところが、こと表現に関しては、これがそうではないから、おかしなものだ。
その特権意識とはなんだろうか。それこそ松岡修造さんが部活や街のテニススクールでラケットを振るう子に、
「テニスというスポーツを、キミみたいなへたくそな素人にやってほしくないんだ! カラオケじゃないんだぞ!」
とか
「あきらめろよ! どうせプロなんかなれないんだから、オマエ絶対あきらめろよ!」
なんてこと、いわないしなあ。
それを平気でかましてくる。表現のプロは、心が狭いなあ。
草野球や、町内の俳句会、町の碁会所なんかでは、みんな下手でも楽しんで遊んでいる。そのくらい気楽にトライしてもいいのでは?
「才能ないから」なんて勝手に自分でハードルをあげてもしょうがない。そんなもったいないこと、すべきではない。
ここまで読んでいただければ、ひとりくらいは「そうか、やってみようかな」なんて思っていただけるかもしれない
が、そうなったはいいものの、表現活動には才能ともうひとつ壁が存在する。それこそが、
「でも、なにをやればいいのかわからない……」
気持ちや衝動はあれど、では一体なにを発信すればよいのか見えない。表現活動における、大きな悩みのひとつである。
が、私に言わせれば、その答も実はごくごく簡単なのである。
(さらに続く→こちら)
「人生がつまらない」。
という悩みをかかえている人に、
「キミィ、今すぐ舞台に立ちなさい!」。
そう北方謙三の「小僧、ソープへ行け!」ようなアドバイスを送った私。
心が欝々と晴れないなら「表現活動」をすればいいのだ。そうすれば人生が楽しくなるし、なんならその鬱屈を作品として昇華してしまえば一種の治療にもなる。
これは私の経験からいっても非常に効果があることはわかっているが、この手の意見にはかならずといっていいほど、同じような答えが返ってくる。
「だって、才能なんてないし……」。
才能。そう、このキーワードだ。「表現」「創作」の話をすると、十中八九この返しがある。
才能がない、だからやっても意味ないし、その資格もない。
たしかにである。世界を動かすような偉大な作品を作り出すには、その「才能」とやらは必要であろう。
かの名画『アマデウス』もそれがテーマであった。あの物語など「一番才能のあるやつ」になれないばっかりに、他の天才が(そう、漫画家の赤星たみこさんも指摘していたように、サリエリもまた凡人なんかではなく「天才」だった。そここそが悲劇であったのだ)人生を狂わせてしまう。
しかしである。私はここで声を大にしていいたいわけだ。
才能なんて、なくてもいいじゃん!
そんなもんなくったって表現はできます。だいいち、才能がないと舞台に立ってはいけないなんて、どこのだれが決めたのか。
別にプロになれといっているわけではない。金を取れといっているわけでもない。
あくまで、自分が楽しむためにやればいいのだから、才能なんて、そんな大仰にかまえなくても。
そもそも、天才しか表現活動してはいけないのなら、世のアマチュア活動や学校の部活なんかも全否定してしまうことになる。
サラリーマン川柳も、素人のど自慢も、すべてやる意味がないとでもいうのだろうか。んなわけはない。そんな息苦しい世界に私は住みたくない。
だが不思議なことに、この才能問題は表現の世界ではおそろしいほどに幅を利かす。
プロの作家や評論家などは、素人が小説を書くと
「最近は、やたらと小説を書きたがる人が増えた」
などと、見下したような言い方をするし、中には「文学のカラオケ化」とか鼻で笑うような苦言を聞くこともある。
こういう言説に接するたびに、私はなんと狭量な人だろうとあきれるような思いにかられる。
どこの世界に、自分が先陣を切っているジャンルで、それについてきてくれる人をバカにする人がいるだろう。
野球やサッカーでも、競技人口が増えれば選手も協会もよろこぶはずである。囲碁や将棋など、なんとか子供や女性のファンを増やしたいと、懸命の普及活動で、すそ野を広げるべく努力している。
あの羽生さんですら、殺人的なスケジュールの間をぬって、各種のイベントなどに出席しているのだ。すべては、素人であるファンに将棋のすばらしさを知ってもらいたいがために。それを
「プロにもなれないのに、一所懸命やっちゃって」
とか、
「才能もない素人が、やめろよ」
なんて嫌味をかましてふんぞりかえってられるというのは、たいしたお大尽である。
上に立つ人が、自分がかかわる競技やジャンルには(まあ心の中ではどうあれ)興味を持ってくれるなら、諸手をあげて歓迎するというのはごく自然なことだと思うが。
競技人口が増えれば底上げがきいて全体のレベルアップにもつながり、経済的な活性化も見込めるし、新しい才能だって発掘される可能性も増えるのは当然の話。
それを「プロになれない奴がやっても意味ない」なんていう見方が、健全なありかたとは、とても思えないのだが。
ところが、こと表現に関しては、これがそうではないから、おかしなものだ。
その特権意識とはなんだろうか。それこそ松岡修造さんが部活や街のテニススクールでラケットを振るう子に、
「テニスというスポーツを、キミみたいなへたくそな素人にやってほしくないんだ! カラオケじゃないんだぞ!」
とか
「あきらめろよ! どうせプロなんかなれないんだから、オマエ絶対あきらめろよ!」
なんてこと、いわないしなあ。
それを平気でかましてくる。表現のプロは、心が狭いなあ。
草野球や、町内の俳句会、町の碁会所なんかでは、みんな下手でも楽しんで遊んでいる。そのくらい気楽にトライしてもいいのでは?
「才能ないから」なんて勝手に自分でハードルをあげてもしょうがない。そんなもったいないこと、すべきではない。
ここまで読んでいただければ、ひとりくらいは「そうか、やってみようかな」なんて思っていただけるかもしれない
が、そうなったはいいものの、表現活動には才能ともうひとつ壁が存在する。それこそが、
「でも、なにをやればいいのかわからない……」
気持ちや衝動はあれど、では一体なにを発信すればよいのか見えない。表現活動における、大きな悩みのひとつである。
が、私に言わせれば、その答も実はごくごく簡単なのである。
(さらに続く→こちら)