映画『ギャラクシー・クエスト』が、おもしろい。
昨今ではオタク文化といえば「日本のお家芸」といったイメージがあるが、もちろんマニアックな趣味人の世界は、時代や洋の東西を問わず存在する。
そんな「OTAKU」をあつかった物語といえば、日本だと
『げんしけん』
『トクサツガガガ』
など枚挙に暇がないが、海外でも
『宇宙人ポール』
『暗黒太陽の浮気娘』
などたくさんあり、この『ギャラクシー・クエスト』もまた、そのひとつなのである。
主人公は人気SFテレビドラマ『ギャラクシー・クエスト』に出ていた俳優たち。
すでに放送終了から20年も経っているのに、そのカルト的人気はおとろえず、今でも様々なイベントが開催されるほど。
俳優たちは往年の衣装を着て、劇中の名セリフを朗読したりして喝采を浴びているのだ。
ところが、彼ら(ひとりは女優)の現状はといえば正直、役者としてはサッパリ。
いわば『ギャラクシー・クエスト』での仕事は「一発屋の営業」というか、皆食うためにイヤイヤだったり、倦怠だったりして、完全に「お仕事」としてやっているわけなのだ。
宇宙人のアレクサンダーは劇中の決めセリフを言うことを、かたくなに拒否し、ヒロインのグエンは演技より「オッパイのでかさ」しか語られないことに、ウンザリしている。
かわいかった子役の黒人トニーも、今では「ふつうの大人」でしかないし、『プロテクター号』艦長のジェイソンは、ドラマの中と違いヘラヘラしてるが、ファンが自分のことを陰で、
「過去の栄光にすがるイタイ奴」
嘲笑しているのを知り、ショックを受ける。
そんなパッとしない二流の役者たちが、ある日突然サーミアンという宇宙人の船に連れていかれることから、話が大きく動き出す。
嘘をつくという概念がなく、すべての物事を「本当のこと」と受けとめるサーミアンたちは、なんと『ギャラクシー・クエスト』を「本物のドキュメンタリー映像」と解釈。
クルーたちの、勇気あふれる戦いに感動し、
「あの人たちの手を借りよう!」
なんと悪の宇宙人サリスを、やっつけてくれと頼んでくるのだ!
ムチャクチャな展開で、こんなアホ気な設定をどうやって進行させていくのかとあきれる思いだったが、この映画、それを見事な脚本でさばいていくのだ。
まず、クルーたちが
「オレたちは宇宙船の操縦なんて、できない!」
とうったえると、
「大丈夫、あなたたちが使いやすいように、映像のままの仕様に作ってある」
つまり、役者たちがセットで演じたように、ボタンを押せばテレビでやってたままビームが出るし、「全速前進!」とレバーを上げれば宇宙船は操縦できる。
その他、廊下の長さからトイレの位置まで、すべてドラマ通り。
これなら、『ギャラクシー・クエスト』を見てたら、だれでも操縦できるやんけ!
これには腹をかかえて爆笑するとともに、えらいこと感心してしまった。
なーるほど、こりゃだいぶ、脚本練ってるやないかいな。
とにかくこの映画、設定的な乱暴さを、すべてこういう手順で納得させていくのがお見事。
SF的な「文明間の齟齬」が、巧みに設定とリンクさせてるの。いやー、うまいですわ。
さらには、そういう噛み合わなさと、オタク的発想がギャグとしても次々飛び出す。
たとえば、ジェイソンとグエンが船内を冒険するときも、やたらと危険な障害物があれこれ出てきて、
「なんでこんなものが船内にあるの?」
「ストーリーを盛り上げるためだよ。意味なんてない」
「その回の脚本を書いたヤツ、絶対殺してやる!」
みたいな、やり取りがあったり。
反炉心を停止させるボタンを押すが、何度やっても反応せず、すわ、お終いか!
覚悟を決めたところ、「1秒」の表示でピッタリ止まったり、といった「お約束」とか。
なんで自分が乗ってる船に、乗組員を殺そうとする罠があるのか、なぜあらゆる危険なボタンは、押してすぐ反応しないのか。
もちろん、これらはストーリーを盛り上げるため、ドラマ本編で脚本家がいい加減に書いたものを、サーミアンが忠実に再現してるのだ!
なんという余計なお世話で、グエンがブチ切れるのも納得だが、もしそうでなかったらメンバーは宇宙船を操縦できなかったんだから、しょうがないよねえ。
トドメに笑っちゃうのが、船内をリモートで案内するのが『ギャラクシー・クエスト』の大ファンである、イケてない青年ブランドンなこと。
なぜ彼がナビをするのかと問うならば、オタクの彼はクルーたちのだれよりも『プロテクター号』のことにくわしいから。
一方の出演者たちは、ファンほど自分たちのドラマに思い入れもないから、オンエアをまともに見ていないわけで、船内の構造なんて、なんの知識も興味もない!
これまた洋の東西や時代を問わない
「伝説の作品あるある」
であって、元ネタの『スター・トレック』にかぎらないわけだが、「わっかるわー」と、もう爆笑に次ぐ爆笑。
それこそ、『ルパン三世』で次元大介を演じておられた小林清志さんも、
「ファンの方から、よく次元の思い出を聞かれるんですが、昔の仕事なんで、よく覚えてないんです」
インタビューで困ったように答えられてましたが、たしかにわれわれは好きな作品を何回、ときには何十回と鑑賞したりするけど、むこうは
「仕事で1回」
なんだから、そこに温度差が出るのは、やむを得ないのであるなあ。
『ギャラクシー・クエスト』は、このようなファン心理やオタク心をくすぐるネタがてんこもりで、もう楽しい、楽しい。
以前、『蟲師』などで知られるアニメ監督の長濱博史さんが、
「『機動戦士ガンダム』を見たときの感動はね、あー、あのガンダムの胸のギザギザは排気口なんだ。あー、あの額の穴はバルカン砲で、横の出っ張りに弾が入ってるんだって。
そうやって見た目の違和感を、次々と説明してくれることなんだ。冨野さんに言いくるめられる快感なんだよ!」
なんて『熱量と文字数』で熱く語ってましたけど、まさに言えて妙。
私も『ギャラクシー・クエスト』のおもしろさは、この「つじつまを合わせる」楽しさ、「いいくるめられる」快感にあった。
そんな風呂敷広げて、そうたたみますか、と。ピタゴラスイッチ的ニコニコ感、とでもいいますか。
それはもうですね、やはり制作人による愛憎入り混じった「オタク愛」と、しっかり練られた脚本の力が大きい。
しかも、クライマックス付近では、役者たちのトホホな人間性や、劣等感、ドラマのマヌケな設定が、すべて伏線回収で「感動」に転化されるのだからスバラシイ。
観て思ったことは、日本のエンタメ映画の弱さは、まさにこの「愛と構成力」の不足にあるのではないか。
とりあえず演技のヘタな役者と、「説明セリフ」と「浪花節」に頼ったフニャフニャのストーリーはもうウンザリ。
めんどうかもしれないけど、地道に脚本を練る作業を、もっと重視してほしいなあ。
『カメラを止めるな!』が当たったのとか、まさにそこだと思うんですよ。