「で、結局《鬼瓦警部》ってなんやねん!」
近所の串焼きやで、そんなツッコミを入れたのは、友人ハマデラ君であった。
と、それだけ聞いても、皆さまにはなんのことかサッパリであろうが、それは前回の
「旅行好きで旅なれてるけど、《仕事ができない》私にガイドとかトラブルシューティングは無理やから!」
という井上光晴「全身小説家」宣言ならぬ「全身無能者」宣言を表明した件で(するなよそんなもん)、冒頭に
「だから《鬼瓦警部》やって、ゆーてるやん!」
と書き出しておきながら、その後いっさいそのワードに触れることなく文章が終わってしまったからである。
なので、友の「なんやねん」という発言は至極まっとうであり、要するにこちらが「伏線の回収」を忘れただけなのだが、つまり私は旅に出ると一緒に行った人からよく、
「鬼瓦警部か!」
とのツッコミをいただくことが多いのだ。
そう説明されても、ますますなんのこっちゃだが、私は旅行好きだが「旅人」としてのスキルは低レベルなのである。
それは
「スキルなど身につけようとしなくてよい」
このことこそが、旅の楽しいところからなのだが、もうひとつ自分が「案内人」に向かない理由がある。
それが「方向音痴」だ。
それほど重度ということはないが、それでも、
「地図を観るのにタテにしたりヨコにしたりしなければならない」
という「方向音痴あるある」を実践するほどにはそうであり、スマホのない時代は探検家でもないのにコンパスを持っていくのが必須だった。
なんといっても私はスペインのバルセロナをおとずれたさい、かの大観光地であるサグラダ・ファミリアを観なかったのだ。
それは、
「観光地をめぐるなど、本当の旅ではない」
という、いにしえのバックパッカーのようなトガッたノリではなく、ただただ道に迷って目的地にたどり着けなかったためだ。
タイのワット・ポーもアムステルダムのレンブラントの家も、最初の一回ではたどりつけなかった。
それどころか、一度はたどり着いたものの、なんだかずいぶんと、しょぼくれた施設だったりして、
「有名なところらしいけど、意外と、しょうもないところなんやなあ」
とか納得していたら、それが宿に帰って調べてみると全然別の建物だったりして、ただの地元のお寺を「ワット・ポー」だと思いこみ、ただのアパートを「レンブラントの家」と信じて観光していたのだ。
このように、私の観光は常に「にせロンドンブリッジ」や「にせギザのピラミッド」にだまされる危険をはらんでおり、まさにスリリングなトラブル・トラベラーとして闊歩することになる。
そうなると、必然的にもう一回という二度手間になり、同行者たちから
「阿呆」
「無能」
「目ぇ噛んで死ね!」
罵倒をいただくのだが、さらに悪いことに、私はこういうときいつも
「自信満々で間違える」
という特技がある。
道に迷ったり、地下鉄を乗り間違えたり、言葉がわからず「右に行け」と言われてるのにさわやかに左折したりするわけだが、そのときでもかならず、
「大丈夫! もうわかったから!」
高らかに宣言するわけだ。
バット大振りで間違っておいて、この自信。
この様は推理小説やミステリ映画に出てくる、「トンマな警部」そのものではないか。
古くはシャーロック・ホームズに対するレストレード警部。金田一耕助に対する等々力警部。
事件が起こるたびにしゃしゃり出てきて(まあ警察だから当然なんだけど)、なにかをアヤシイと見るや、
「そうか、わかったぞ!」
と手を打ち、トンチンカンな推理を披露したあげく名探偵と読者に失笑されるアレだ。
道に迷い、まったく違う建物を「観光地」と言い張り、地図とぞうきんの区別もつかない私の姿はまさに、探偵ドラマに出てくる「鬼瓦警部」そのもの。
大いに改善すべき点だが、コラムニストの玉村豊男さんも、フランス語がしゃべれるうえに毎年のように仕事で海外に出ているのに失敗はなくならず、
「わたしは、いつになったら《旅なれる》のだろう」
そう、なげいておられておられました。
このレベルでもそうなるんだから、私なんかたぶん永遠に無理ですわな。