「もしかして、これが噂の【英国式ユーモア】というヤツか!」
その発見に感嘆しそうになったのは、夏目漱石『坊ちゃん』について考えていたときのことであった。
ここまで私は漱石の代表作ともいえる『坊ちゃん』において、
「松山の人は、なぜ作品中で、あんな地元をボロクソに描いている小説を球場や観光施設の名前に取り入れているのだろう」
という疑問に対し、
「そもそも原作を読んでいないのではないか」
「いや、読んではいるけど
【漱石に悪口を描かれている】
という屈辱的事実に耐えきれず、《なかったこと》にしているか、あたかも《寛容》なフリをしている、という岸田秀的態度ではないか」
などと予想してみたが、先日サウナでリラックスしているときに、ふとこういうものも思いついたわけなのだ。
それが、
「松山人が発揮する反逆の英国式ユーモア」
人生にはユーモアが大事とは、よく言われるところである。
とはいえ、ユーモアと言われても、にわかにはピンとこないところもある。「お笑い」とかとは違うモノなの?
ここで参考になるが、河合塾で講師もされている青木裕司先生の名著『世界史講義の実況中継』。
大学受験で世界史選択だった私が大いにお世話になった本で、レーニンや毛沢東を礼賛する思想的に偏っ……全編が熱い信念につらぬかれた渾身の講義なのだった。
そんな青木先生の授業の中で、こんな一説があった。
「ユーモアとはなにか」
先生が言うにはユーモアというのは基本的に、失敗したり、だれかにバカにされたりしたときに、
「こんな自分を、みんなで笑ってくれよ」
というスタンスで見せるものだと。
一方、フランス人の得意な「エスプリ」というのは逆で、
「こいつはバカだから、みんなで指さして笑おうぜ」
ただ、青木先生が言うには、ユーモアとは単に自虐するだけでなく、そこに「反骨」「反逆」の精神がなくてはならないと。
そこで例に挙げるのが、イギリスの清教徒。
「ピューリタン革命」でおなじみのピューリタンだ。
彼ら彼女らはエリザベス朝時代、堕落した英国国教会やカトリックに対し、もっと純粋な信仰を取り戻すべきではないか、と訴えたプロテスタントの人々。
いわば、自習時間に教室でさわぐ生徒たちに、
「静かにしてください! 自習時間は自習をする時間で、遊んでいいわけではありません!」
とか注意していた学級委員みたいなものだが、こういう人が煙たがられるのは、どこも同じである。
「男子、ちゃんとして!」
みたいなノリで詰め寄る新教徒に、旧教やエリザベス女王は軽蔑の念を隠さず、こう言い放ったという。
「アンタら、えらいマジメっ子やねんね。純粋無垢やわー。ピュアでかわいいわねー。あ、純粋って言葉のホンマの意味わかってはるかな? 《阿呆》ってことやねんで」
メチャクチャにイジリ倒したのだ。
それを受けたイギリスのプロテスタントはどうしたか。
ふつうはブチ切れ案件だが、そこはユーモアの本場であるイギリスのこと、なんとプロテスタントたちは、
「ほう、ワシらがピュアとな。そら、おもろいやん。じゃあ、こっちは逆にアンタらが言うように《ピュアな奴ら》(ピューリタン)って名乗ったるわい!」
相手の悪口を、そのまま自分たちの名前にしてしまったのだ。
またオランダでは、スペインの植民地支配に抵抗した貴族たちが「ゴイセン」(現地読みでは「ヘーゼン」)を自称していたが、なんと意味は「乞食」。
貴族が乞食。同じように、スペイン人から
「おまえらなんか乞食や!」
とののしられたのを、
「ハイ、それいただき!」
とばかりに名乗ってしまったのだ。
青木先生が言うには、こういう相手のディスにヘコまない不屈の闘志こそが「英国式ユーモア」であるというのだった。
日本でも「萌え豚」「社畜」「パチカス」「バキバキ童貞」なんて自称して、自らの境遇をたくましく「キャラ」に昇華させる人は多いが、それみたいなものであろう。
なんてことを思い出して、「そっか」となったわけだ。
だとしたら、これは松山市とも当てはまるのではないか。
松山は夏目漱石に『坊ちゃん』の中で「荒くれの住む田舎」みたいに描かれて、善人のはずの清にすら悪く言われている。
ふつうなら落ちこむところだが、そこをあえて「英国式ユーモア」で切り返しているのではないか。
「え? 夏目が悪口言うてる? じゃあ、オレらはあえてそれにノッて、こっちで色々アイツの名前つけたろうやないけ!」
これなんである。
大嫌いな土地に、自分の作品の名前が残ったら、アイツ嫌がりよるでワッハッハ!
こうして松山と『坊ちゃん』を結びつけることによって、われわれは松山に飛んだり、現地で野球の試合を見るたびに、
「『坊ちゃん』ってどんな話やっけ」
と気になり、今回の私のように読んでみたりすることもあろう。
なれば必然、その内容にあきれ返り、
「松山のことをこんなに悪く言うなんて、なんて夏目は性格が悪いんだ!」
その悪評は際立ち、むしろ松山に同情するようになる。
夏目はそれこそ自分の「黒歴史」をユーモア小説で塗りつぶしたつもりかもしれないが、逆に松山によってそれをいつまでも掘り返されるのだ。
なんという見事な意趣返し。
実際、『坊ちゃん』を読んでみても感じるのは、主人公のイヤな言い草と、松山に対する判官びいきのみだ。
しかも、その漱石ファンの「聖地巡礼」で観光客もやってくる。
そういう連中からお金が落ちれば、
「悪口書いてもらったおかげで、すわってるだけで金がチャリンですわ! お札を刷ってるようなもんや! 夏目先生、アザーッス!」
てなもんであろう。なんと痛快なことか。
そこまで計算しての「坊ちゃんスタジアム」「坊ちゃん列車」だったとは……。
松山人の骨太なユーモアには恐れ入るしかない。これこそが、パンク魂ではないか。
「悪口言われてるのに、媚びてるのかな?」
「愛媛の有名人が、夏目漱石をボコボコにしばく映画を撮ったらいいのに」
などと、一瞬でも想像した自分が恥ずかしい。
抵抗者たちとの魂の抱擁。これぞ真の「日英同盟」といえるだろう。
カッケーぜ松山!
夏目漱石といえば、『吾輩は猫である』などでユーモアが評価されているそうだが、松山のやり口にくらべれば足元にも及ばないと言っても過言ではあるまい。
私は今、松山の見せている熱き反逆の魂に、感動の震えが、いまだ止まらないところなのだ。
……て、そんなわけないか。