青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

恐れ(恐怖)の克服 -中-

2008年07月18日 | 人生設計

前編において「恐れ(恐怖)の克服は、こうした心の隙間をなくすこと、即ち人や物への依存を止める事。そして自立心を持ち自主的になり独立心を養っていくことにある。」と述べた。
しかし人は、悲しいことに弱い生き物である。どんなに自立心を持ち自主的になり独立心を持って生きようとしても、出来ない。独善的になってしまい、それは依存したものになってしまう。
何故そうなのかというと、人というものは「拠りて立つ」ものだからである。別な言い方をするならば、「生かされている」生き物なのである。
これは何も、人だけではない。全ての存在するものは、天と地の恵みと、そこを動かす力(法と言い表される)によって生かされている。この恵みと法によらなければ、自立心を持ち自主的になり独立心を持つ事はできない。
私達の主権主義である「民主主義」の「自由と平等」も、ただ「生きている」という視点での「自由と平等」ならば、無限の広がりを持った抑制の利かない暴走をする。しかし「生かされている」という立場に立つ時、節度と摂理をわきまえた「自由と平等」になる。
これは「ただ生きている」という時には「霊、魂、悪魔」になるが、「生かされている」という時、「悪魔」は消え去り、変わって「神」とか「仏」となって自立心を持ち自主的になり独立心を持つ
「霊、魂、神」となる。いわば「霊」も「悪霊」ではなく「善霊」になり、「魂」も「善い魂」になる。
それ故に、恐れ(恐怖)の克服となる。
それはまた、「ただ生きる」ということは「信仰を持たない」事でもあり、「生かされている」と教えることは教育、そして生きる事は「信仰を持つ」ことで、宗教心を持つことでもある。

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恐れ(恐怖)の克服 -前-

2008年07月18日 | 人生設計

人は強いだろうか。逞しいだろうか。
強いなら、逞しいなら、何故恐れというものを持ち、恐怖心というものを抱くのだろう。
いや、強くなろうとするのも逞しくなろうとするのも、それは恐れから逃れようとしているからだといえる。そのために優位に立とうとして評価されようとする。他を蹴落とし、攻め、いじめ、中傷し、偽装し賄賂もして、上位に立とうとする。
それは、受けるものばかりでなく与えるものも、人の弱さからである。

また人は、その弱さのために、そこから逃れようとして「霊」とか「魂」とか「悪魔」の存在を信じようとする。
だが元々こういう「霊、魂、悪魔」などは、存在するともしないとも言えないものである。私達の心に、こういうものを受け入れるような「隙間」があると、「霊、魂、悪魔」などは存在することになるのであって、「隙間」が無ければ存在することは無い。だから「隙間」を作らなければよい訳である。

「心の隙間」というものは、主に「依存心」によるようだ。
人や他の物に「寄りかかる」ことにある。自立心や自主性、独立心が無いということである。
こうした自立心自主性独立心が無いと、取り合いを始め、それによって奪われまいとする恐れを始終持つことになる。この恐れの隙間をぬって「霊、魂、悪魔」などが入り込んでくる。「霊、魂、悪魔」などは、自分で自分が招いたものなのである。

恐れ(恐怖)の克服は、こうした心の隙間をなくすこと、即ち人や物への依存を止める事。そして自立心を持ち自主的になり独立心を養っていくことにある。
しかしだからといって「独善的になれ」というのではない。

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