そもそも教員採用汚職事件などといったものや食品偽造事件にしてもそうだが、これらは評価主義に起因している。そして優位性を利用としようとする。
それによって、格差が生じ差別が生じ、不平等となり、それが容疑者のみの問題に止まらず、多くの人々を巻き込むことになる。
今回の事件でも、容疑者の子供には責任は無いかもしれないが、親が得たものによって現在に至っているとするならば、何らかの責任を取らざるを得ないだろう。
そこに評価主義の原罪があり、怖さがある。
「地獄」、そして「極楽」というと、宗教を連想する。
しかしこの「地獄と極楽」は、宗教心を持とうが持つまいが、私達は普通に日常的に使っている言葉である。そして言えることは、私達にとって「好ましい事」とか「欲しい物が得られた」というような場合が「極楽」であり、反対に「好ましくないこと」や「欲しい物が得られない」事とか「失くしてしまった」ことなどが「地獄」ということになっている。
こういう私達が普通に感ずる「地獄と極楽」は、言ってみれば「五官と心」に起因している。「目、耳、鼻、舌、皮膚」の五官に、それを感受する「心」である。
このことを釈尊は説法において、「一切」と語られた。それぞれには、それぞれの対象があって、対を成しているということである。
「地獄と極楽」も、一切である。相対する現象に一喜一憂して、「地獄だ、極楽だ」といっているのである。
それでは「極楽」というところは、無いのだろうか。
宗教では、ことに仏教では「後生の一大事」といって、「極楽」のことを大事にしている。そしてこの「極楽」が存在する所を、一般には死後の事と解釈されている。
だが今生きているのに、死後のことをあれこれ行っても仕方があるまい。そこのところから、宗教離れがあるように思われるのだが・・・・
私は宗教については仏教についてしか良く知らず、又宗旨宗派にもこだわっておらずに釈尊の教えというものを素直なままに見詰めているのだが、そこから見てみると、「極楽」は「五官」に「心」離れた所にあるものだと感じられる。
「目で見るものに迷うことが無く、耳で聞くものに迷うことが無く、香りに迷うことが無く、味に迷うことが無く、肌触りに迷うことも無く、それらを心で感じて迷うことが無い」ならば、精神的に平安安穏としていられるだろう。
それは物質文明に依存し、金銭に依存する現代社会からの逸脱を意味している。
それが「極楽」ということになる。
人が「五官」を離れたなら、そして「五官」を感じ受け止める「心」を離れたなら、人はとっても優しくなるだろう。人の世も平和になるだろう。地球世界も、平和になっていくことだろう・・・・・。