成田山新勝寺の豆まき、朝青龍が欠席 寺側に抗議相次ぎ(朝日新聞) - goo ニュース
社会や世間も、世の中も甘くありすぎる。
一芸に秀でるなら、酩酊するほど酔っぱらうほど飲まないように自制できるもの。
それが以前の、何とか云ったタレントが酩酊して公園で素っ裸になって暴れていたのが、又タレント業やマスコミメディアなどに復帰させている。
社会や世間や世の中、ことにマスコミメディアの甘さが、目に余る。
「一芸に秀でる」という事は、単に一芸に得意なことではない。
一芸を通じて、全てにおいて優れた素質を持つということである。
それは大工に例えると・・・・・・
釘を、金槌で上手に打てれば、それで立派な大工かと言えるかと言うと、そうはいかない。
のこぎりも使えないといけないし、カンナもかけられないといけない。ノミも使えないでは、大工としての値打もない。
その上更に、何と言ったか物覚えが悪くなったので忘れたが、金の物差し、かね尺とかいったか、それに墨つぼから糸を引いて指でつまんで離し、直線の墨線を引いたりして、のこぎりの切れ目やノミの入れ目の印を付ける作業もできないといけない。
これは生活の上では、世帯のやり繰りみたいなものに当たる。
これでもまだ、一人前とは言えない。
建て主さんが、「こういう間取りにして」というような事を聞いて図面を引く。それを柱や梁、筋交いなどをどのようにするか決めていく。
これは生活における、世間との世渡りともいえる。
しかし、こういう事が出来るようになったとしても、これで良いかというと、これでもまだ一人前とは言えないだろう。
この上になさなければならない事は、跡取りを育てなければならないからだ。
子弟の養育であり、教育である。子育てでもある。
それは、人任せにしておいて、いいものではないし、子供や子弟は、先人の有様を見ていて、まねてしまう。
それだけに、「一芸に秀でる」という事は、全てに秀でなければならないことであり、楽をしようとか酩酊しようとしたりするのは、まだまだ子供みたいな者といえる。