例え「授業料無償化」になっても、塾通い費用は親が持つことになる。
それと同様、外国人が外国で教育受けようとするならば、塾通いするみたいなもので親、即ち母国が面倒をみるのが本筋になる。
こうしたことは「外国人参政権」問題も同様で、異国の政治に関わるべきではなく、自国の選挙政治に対してのみ、参政権を行使してもらいたい。
それを、我が国国政に参政させるのは、整合性を持たない。
我々が生きていくなら、生きていくそこは「豊かな」ものであった方がよい。
それは「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」な中で生きられた方が、より生き甲斐を持つ。
この「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」目指して、明治時代は「豊国強兵」に取り組み、敗戦後は「経済大国」を目指して頑張って来た。
だがしかし現在は、その目論見は外れて、金融危機に襲われて不況にあり、社会は悲嘆な事件が多発し、少子高齢化が進んだ上に核家族化して人々は孤立化しいる。
こうした社会状況を改善すべき政府国家は、政争に明け暮れて少しも役に立たず、当てにもならなくなっている。
元々「豊かな」という事は、「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」事ではあるが、我々はそれを「経済成長、景気拡大、科学発展」らによって手に入れようとしたことが、そもそもの間違いと言わなければならない。
云わば「経済成長、景気拡大、科学発展」などでは、「国が立ちいかなくなってしまうのである。
殊に我々は、「豊かな」という事に、「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」に生きていこうとしてしまう。
だから「コンサート、イベント、スポーツ鑑賞、演劇鑑賞」とかへと出かけたりする。
それによって「怠け」てしまう。
「人や、他のもの、機械などを、当てにして頼り」にしてしまう。
その為にダラケ癖がついてしまい、出来るだけ簡単に生活できて「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」に生きられることだけに必死になる。それが、「世の中や国を、立ちいかなく」していく。
そうした我々を、何が「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」にさせ、「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」にさせてくれるかということに思いをはせて、導かせてくれるものがいない。
「ノーベル賞とか、文化勲章とか、五輪メダル」を取った人たちでも、何も教え語ってはくれない無能さがある。
だが寂れ行く辺地の片隅で、黙々と農作業や林業漁業に勤しむ人たちは、その背中で何が我々の、「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」の礎なのかを語ってくれている。
今の今日、我々は発想の転換をしなければならない。