青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

人生ということ

2010年02月18日 | 人生設計
我々は「人生」というと、「安穏」であるようにとか「満喫できる」ことを望んでいる。
それは、いわば「より豊かに、より楽しく、より楽(快適、便利)」に過ごせる事が、人生としての意義を持つと思っているようだ。
殊に定年になったり子育てを終えたりして、その後の余生を生きることとなると、どうしても「楽をして、楽しみたい」という思いをさせられる。
しかし、それでそういう「人生」というもので、良いのだろうか。

「人生」という事を考えるという事は、それは「哲学的」なことであるかもしれない。または「宗教的」であるかもしれない。
だが我々は、この「人生とはどういうものか」というものを知らないでいて、ただ「安穏に、満喫しよう」とだけして生きているなら、それは常に狂いを生ずることになる。
そしてこの「狂い」に苦しみ、泣き、世を恨み、お互いが背きあい争っていくことにもなる。

「人生」とは、「それらしく生きていく」とい事であるだろう。
人間ならば、「人間らしく生きていく」ということである。
それは、「子として生まれた」なら、「子らしく生きる」ということであり、兄弟がいたならば「兄らしく、弟らしく、姉らしく、妹らしく」生きるということである。
そしてそれは、家庭の中でのものとしても、また世間の、世の中においてでもある。
更に長じていき社会に出れば、社会の中での勤め人としての「らしく」生きていかなければならないし、結婚すれば、「夫らしく、妻らしく」していかなければならない。
子供が生まれれば、子育てしていきながら、自身を「父親らしく、母親らしく」育てていかなければならず、それに「老親育て、世帯育て、世間育て」も加わる。そればかりか、子供が成長していくと、子供たちの友達の「友達育て」も疎かにはできない。

こうした「子育て、老親育て、世帯育て」なども一段落した定年後とか子育て後も、次には「孫育て」などがあり、「世間育て」は続けていかなければならないだろうし、更には「跡継ぎ育て」もある。

もし、これらの中の一つでも疎かにしたり、無頓着や無関心になったりすると、後でそのツケが来る。「人生」にも、狂いが生ずる。
世間では、タレントや芸能人などの「芸、演技」などを持てはやしたりしているが、「人生」というものは、そうしたもので欺かれ、ごまかしきれるものではない。

我々の「人生」には、先祖から託されて受け継がれたものを持つ以上、それを子孫にも託し受け継がせていく必要がある。
といっても、それは「世襲」というような「名目」のようなものではない。「命、生命」として受け継がれた「心」ともいうべき精神、「人間らしさ」を、怠りなく努めながら続けていかざるを得ない。
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