政治を担当しようということは、「公人」であらねばならない。「公人」と言うことは、「公器をもつ」ということだ。
ところが今日の政治に関わる人たちには、この「公器」が無い。
党首や役職にに選ばれれば「党」を私物化したみたいにし、国家さへ私物化できるものと思っている。
そこには国民の「公人、公器」としての思いはない。
こうした人々が出てくるのは、普遍性の生命性ともいうべき「理、法」の不明(無智)にあるといわなければならなくなる。
釈尊は、開悟の後八万四千の法を説かれたと言われる。
それを後の人々は、分野別に、あるいは種目別にと言うように分別していき、それを多くの経典としてまとめ上げた。
これらの経典は、それぞれに種目別分野別などに分別されてはいるが、いずれも要点として主目は「真理」を知らしめるためのものである。別には「開眼、悟り」に導くためともいえる。
この経典の中に、「維摩経」という経典と、「般若経」という経典がある。
「維摩経」の教えとは、「沈黙の教え」を説こうとしている。
一方の「般若経」では、「空」を教え説こうとしている。
「維摩経」では、教えを説こうとしながら、沈黙を持って「沈黙の教え」を説こうとしていて、沈黙していて内容を語らない。
対して「般若経」では、経数にして六百巻あるという膨大な経典である。この膨大な経典の中で、「空」を説明しようとしている。
この二つの経典の違いは、一方は沈黙して教えを説こうとしているのに対して、他方は多くの言葉を使って教えを説こうとしていることにある。
これはどういう事であろうか。
それを、ちょっとサモシイ見方で考えてみるとしよう。
「般若経」は六百巻と膨大だが、これを要点のみまとめたものが一般になじみの深い「般若心経」である。漢文にして三百字にみたら無い。
「般若経、般若心経」では、これらの中から「真理を見つけ出しなさい」というのが、教えである。
言いかえると、今日のようなまだ間に合うものがゴミとして出されたものの中から、宝物みたいなものを見つけ出すという事でもある。
一方の「維摩経」では、何もないところから「真理を見つけ出しなさい」ということであり、ちょうどそれは今時のこと、夜闇の中に目を凝らしていて、蛍の光が見えたのを見て「それだ」と見付けた感じになるようなものかもしれない。
だが我々は損得勘定でものを見、判断してしまう。そこへ持ってきての「情報過剰」状態の今日、そのために真実の「真理」と見間違えてしまう。
それがために「無心に、無欲に、無我に」なることを求められる。
「維摩経」的に生きるも、「般若経」的に生きるも、要するに欲得ずくめの損得勘定状態では、親が無くなった後の年金まで家族がむしり取るという風習になる。
政治家さへ、誰もこちらが期待していないのに、「国民の期待に応えます」などと名称詐欺みたいなことを言っている。
これは「科学」ではない。