今日の「戦没者追悼式」とは別に、まつりごと関係者の「靖国神社」に参拝者の事がニュースになっている。
殊にかっての政権党関係者の参拝が大きく取り上げられ、そうしたものを見るにつけ、ついこんなうがった見方の「うかがわれる本音」を思ってしまう。
65年前のこの日の今日、玉音放送で「朕は・・・・・」と降伏勅書とも敗戦勅書ともいうべき詔を述べられ、長きにわたった戦争を終結させられた。
しかしその直後ともいえる時、この忌まわしい戦争の悲惨さを教訓に制定した「戦闘、戦争放棄」を信条とする「憲法」を損ねるように再軍備し、「安保条約」を結び、更には制限付きながら「集団的自衛権」的「空輸、給油、地上部隊派遣」へと進み、それに加え「憲法改正」につながる「国民投票法案」を可決し、「自衛隊の恒久海外派遣」を目論んでいる。
こういう事に賛同する人たちが靖国神社に詣で、あまつさえ元首相だった人なんかは「敵基地攻撃」論をぶつ上げ、中には「核保有」論者さえいる。
こうしたことをみると、65年前の今日のこの日は、終戦を望まなかったのが「本音」なのではあるまいか。
彼らは「終戦」を望まなかった。更なる「空襲、核被爆、沖縄に続く地上戦」を望んでいたのではないか。そしてもっと多くの悲惨な犠牲が出ることも、厭わなかったのではないか。
靖国神社に詣でるのも、それが出来ない悔しさからなのかもーーーーー。
★ 今際にも 信ずればこそ つむる目に
永久には咲ける ヒマワリの花 2010/8/15
「不戦の誓い新たに」=東京で戦没者追悼式―65回目の終戦記念日(時事通信) - goo ニュース
今日の新聞には、他の紙にも載ったようだが、こんな記事が出ていた。
全国空襲連 東京で結成集会「被害者援護法を」
今日行われたように、先の大戦の「全国戦没者追善式」は、敗戦とともにこの国の「戦争放棄」を信条とすることになった「憲法」のもとに平和を切望している。
ところが自衛防衛の名のもとに再軍備に踏み切り、多くの他国の駐留基地を抱かえている。
そうしたことを許しながら、「空襲被害者援護法」をとは、何んともボケたことを言っている。
なすべきことは、「憲法」の信条どおりに「武器兵器」を持たないことを訴えるべきではないか。
それとも、朝鮮半島有事発生に伴い、駐留軍が出動したら、
「はい、出動していきました」
と、シレッと答えていればいいのだろうか。
そんなことをすれば、たちまち前線基地であり補給基地であるこの国の駐留軍基地周辺を、空襲やミサイル攻撃の対象にする。それを「自衛防衛」と言って迎撃すれば、「火に油を注ぐ」結果になるだろう。
そして「空襲被害」は、繰り返される。
しかしながらこの国の若い者は、「スポーツ、芸能、遊楽」に明け暮れ、うつつを抜かし、これもまた「大ボケ」している。
今日の新聞には、他の紙にも載ったようだが、こんな記事が出ていた。
全国空襲連 東京で結成集会「被害者援護法を」
今日行われたように、先の大戦の「全国戦没者追善式」は、敗戦とともにこの国の「戦争放棄」を信条とすることになった「憲法」のもとに平和を切望している。
ところが自衛防衛の名のもとに再軍備に踏み切り、多くの他国の駐留基地を抱かえている。
そうしたことを許しながら、「空襲被害者援護法」をとは、何んともボケたことを言っている。
なすべきことは、「憲法」の信条どおりに「武器兵器」を持たないことを訴えるべきではないか。
それとも、朝鮮半島有事発生に伴い、駐留軍が出動したら、
「はい、出動していきました」
と、シレッと答えていればいいのだろうか。
そんなことをすれば、たちまち前線基地であり補給基地であるこの国の駐留軍基地周辺を、空襲やミサイル攻撃の対象にする。それを「自衛防衛」と言って迎撃すれば、「火に油を注ぐ」結果になるだろう。
そして「空襲被害」は、繰り返される。
しかしながらこの国の若い者は、「スポーツ、芸能、遊楽」に明け暮れ、うつつを抜かし、これもまた「大ボケ」している。
(改憲論)
私は、「改憲論」者ではない。では「護憲論」者かと言うと、「護憲論」者ではない。
むしろ「改憲論」者である。
しかし「改憲論」者とは言っても、一般的な「改憲論」者とは異なる。「自衛隊の恒久的海外派兵」を可能にするようなことに賛成する「改憲論」ではない。
むしろ「戦争放棄」の信念を尊重し、恒久的に武器兵器を持たないように、また「自由表現」などについても、「児童ポルノ」や「性描写、暴力等」の制限無き「表現の自由」を規制できるように改正すべきであるという「改憲論」者である。
(玉音放送)
終戦時の玉音放送には、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」と述べられている。
この言葉は、申し訳ないが、取り様によっては「いつか必ず、また・・・・」という思いが込められているような感じを受け取ってしまう。そしてそれが故に、再び軍備増強していると・・・・・。
しかしこのように軍備増強に勤しむ者は、その心情はこのようになっている。
「後は、どのようになろうと、おれたちは知らない」
こういう人たちのために、人々はまた、「再現される悲劇」に怯える。
私は、「改憲論」者ではない。では「護憲論」者かと言うと、「護憲論」者ではない。
むしろ「改憲論」者である。
しかし「改憲論」者とは言っても、一般的な「改憲論」者とは異なる。「自衛隊の恒久的海外派兵」を可能にするようなことに賛成する「改憲論」ではない。
むしろ「戦争放棄」の信念を尊重し、恒久的に武器兵器を持たないように、また「自由表現」などについても、「児童ポルノ」や「性描写、暴力等」の制限無き「表現の自由」を規制できるように改正すべきであるという「改憲論」者である。
(玉音放送)
終戦時の玉音放送には、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」と述べられている。
この言葉は、申し訳ないが、取り様によっては「いつか必ず、また・・・・」という思いが込められているような感じを受け取ってしまう。そしてそれが故に、再び軍備増強していると・・・・・。
しかしこのように軍備増強に勤しむ者は、その心情はこのようになっている。
「後は、どのようになろうと、おれたちは知らない」
こういう人たちのために、人々はまた、「再現される悲劇」に怯える。