玄海原発4号機、深夜に再開 九州電力が発表(朝日新聞) - goo ニュース
「国がおおむね妥当」と折り紙を付け、市長や知事も「国が容認したから」と同意したというが、さてどうなるか。
すぐにまもなく「化けの皮」が剥がれるのが、落ちだね。
何せ「安心安全」と言いながら、甚大な放射能汚染をまき散らし、収束までには100年かかるほどの化けの皮が、いつ起きてもおかしくない状態にある。それを強いて再稼働させようというから企業を破綻させる覚悟も持っているのだろうね。
命あるものが「知恵」を持つという事は、素晴らしい事なのかというと、そうはいえない。
「知恵」を持つことによって、却って愚かになってしまう。
それが人間という場合にも言える。
人間は「民主主義」をして、主義主張の基本を整えた。
その基本理念は「自由と平等」にある。
だが、この「自由と平等」は、「平等的対等性」を持っていない。
「平等的対等性」を持たないままに、「自由と平等」を「基本的人権」と上げるものだから、社会性自体が混乱してしまっている。
我々はとかく「資質、財力、血脈、教養」などで、物事を分別する。
この事は「平等的対等性」を、持っていない。
また更に、物事を決定することに「多数決」を用いる。
この「多数決」で決められた事は、どんなにその事に反対していても、聞き入れられない事になっている。そのために議決に反対していたものは、身内の中に憤懣が鬱積する。
我々の世界が、仲良く滑らかに機能していくには、「右と左」に、または「反対、賛成」で分別すべきではない。それを「多数決」で決定すべきでもない。
「平等的対等性」であることを知り、かつその「平等的対等性」の中に、「対称性」を尊重していかなければならなくなる。
この事によって「右で左でもない」視点で、「反対でも賛成でもない」視点に立たなければならない。
この事を一般にては、「妥協」という。
しかしここで言う「平等的対等性の中の対称性」の中に立つという妥協は、視点を中間に置くということであり、それは「相対するものへの思いやり、労り、助け合う」いとことが必要になる。
この事は「半減発、脱言発、原発容認」という別れた議論にも、適用する。本来ならば、発電した電力は、発電立地地域が使用するものが、立地外の地域で需要され、その見返りとして交付金で口を締め上げる。それが事故ともなれば、反対者からして被害をこうむることとなる。
「男女共同参加」においても、お互い相対する異性に対して、「高望み」を抱いた付き合いは、必ず破綻する。ここでも「思いやり、労り、助け合い」していくことが大事になる。