私は、プローファイルでも述べているように、ディサービス利用者である。
この私が利用しているディサービスセンターに、元「牧師さん」だった方が見えられ、利用されるようになった。
この方のお住まいと私の処とは、約300メートルぐらいの近い所に住んでいられるのが判ってから、私は何かと話しかけると、ほとんど寝たきりの状態なのに丁寧にお答えて下さる。それも信仰の事については、単に「キリスト教」に止まらず、「浄土真宗」についても詳しいお答が戴けて話が弾んでしまいます。
この方から今回「自筆の著書」を、貸して頂きました。
題名は「霊想」、副題は「湧き上がる心の泉」。
この著書を参考に、ちょっとした「宗教観」を述べることとします。
この題名の「霊」については、11月28日のこのブログで述べましたので、本日はキリストが述べた「我は復活(よみがえり)なり、生命(いのち)なり」について述べたい。
「復活」とは、一旦無くなり消滅したものが、また復元される事を言う。
だがキリストで言う「復活」とは、これは仏教で言う「輪廻転生」とも関連を持つ。
こういう関連の元に検証すると、ここで言う「一旦無くなった後復活する」というのは、「一度無くなって一度復活する」と言うことに終わるものではないと言える。
それは「輪廻転生」という事から、何度でも「無くなって」は「復活」し、また「無くなって」は「復活」して行くという事になる。
ここで宗教においては、「復活」が「無くなる」前の状態を復元する、という事ではない。
何故ならば、例えてみれば歩いている時、一歩の後の次の一歩を踏み出す時、前後左右の物事に執着してしまい、目的にして行こうとしていた方向からそれてしまう場合がある。
更に「次の一歩」を歩み出そうとして時に、状況が一変してしまっていたために、目的の方向が判らなくなってしまう場合もある。
この事からキリストが述べた「復活」とは、「命」が変転していく中で、「正しい思いの道」に「復活」させていくことを意味し、それが一度では無く、常に行って行かなければならないということを告げている。
これは仏教で言う「縁起観」とも通じ、「因果応報」とも通じている。