この世に存在するもの全ては、「平等的対等性」を持っている。
しかしそうでありながら、相対する対象にはそれぞれの「性質、性格、形状」らを持っている。この「それぞれが持っている性質、性格、形状」を認め、受け入れないことには、物事が円滑に進まなくなる。
それ故にこの世に存在しているもの全ては、周囲の物との共存共栄を図ることを必然なこととなしていて、自分だけの繁栄を望まない。それどころか、この共存共栄を図るために、己を犠牲にもしている。
「不服、不足、不満」などは言わない。
ところが「万物の霊長」として地上に君臨しようとしている人間は、そうではない。
共存共栄を図るどころか、むさぶり尽くすように「他の生命種」を脅かし、滅亡させている。
「文明文化」を持つと言いながら、このように「他の生命種」を滅亡に追いやるだけでなく、人間が人間を滅亡に追いやることまでしている。
そして「他の生命種」を滅亡に追いやり、同じ人間同士でありながら、他の人間を滅亡に追いやっている。
これ等は相対するものの「性格、性質、形状」を認め受け入れを拒否していることにある。
「人間が人間を滅亡させる」この要因は、人間が発展させてきた「文明文化」が持つ、「美の探究」にあると言ってよい。
だが人間が生きて行く、生活して行く世界は、「水、土、山野、」の中しかない。その「水、土、山野」には、「美」を当てていれば生活できるものではない。
一般に言う「芸術」などでは、自然の厳しさがみなぎっている自然世界には、歯が立たない。
歯が立たないというよりも、その厳しさに恐れをなして「都会へ」と逃げて行ってしまっている。
この事から人間は、自然との「平等的対等性の中の対称性」が整わず、整わないから人間と自然との「平等的対等性の中の対称性」から離れた存在になってしまい、人間が人間としてこの世に生きて行く進路を見いだせなくなっている。
人間は、人間に相対する周囲の物に、自分とは「性質、性格、形状」らが異なることを容認し、この異なることに対して尊敬の念を払わなければならない。
尊敬の念を払う時、「平等的対等性の中の対称性」が「不平不満、不服不足」の思い無く収まる。
放射能が怖い。
放射能汚染が怖い、とは言うものの、電気を使うこと自体が、今日では放射能を浴びるということになっている。
「河豚は食いたし、死にたくはなし」みたいに、「電気は使いたいし、放射能は恐いし」ということになる、