弱いままの自分。
疲れたままの自分。しょげ切ったままの自分。
それをそのまま神仏に委ねきって、大丈夫と知った時、そこから癒しが始まる。癒しが始まれば、自分の内部の「魂と霊」に目を向けようとする余裕ができてくる。
慌てずに、自分の歩調に合わせて、ゆっくりと歩みます。
こうした自分なりの余裕ある歩調で歩めば、情操も安定する。情操の安定と供に、自分なりの創意的思考、創意的活動が生まれてくる。
普通こうした「創意的思考、創意的活動」を身に付けるために、人間は「教育を受け、学問」をする。だが兎角我々は、この「教育、学問」によって、「責任逃れ、弁解、言い訳、人を見下す」などのものにしてしまっている。
「教育、学問」は、ただ単なる「種子」を蒔くだけのものでしかない。この「種子」を育て、「花」を咲かせ、「実」を成らせる行為、実践もなしに、ただ「責任逃れ、弁解、言い訳、人を見下す」などのものでは、人としても命あるものとしての「創意的思考、創意的活動」とは成りえない。
人は表面だけの「俺が、私が」というものではなしに、胸の奥に宿る「深層意識」に宿る「命の本質」という大宇宙そのものの「思い」とともに、その「思い」とともに生きていこうとしていくことが大事になる。
人が生きること、命が生きる事は、厳しい。
たとえ「楽、楽しさ、豊かさ」に恵まれたとしても、それは一瞬の内に転落してしまう危うく、もろいものでしかない。変転していくのが、世の常であり、「無常」な世界に生かされている我々なのである。
この「無常」に、いくら「おれが、私が」と大きな顔をしても、楯突けない。歯も立たない。逆らう事も出来ない。
否応なく、楯突き、歯を立て、逆らう事すら、出来ない。
「楯突き、歯を立て、逆らう」こともできないならば、甘んじて受け入れざるを得ないし、受け入れるより他はなくなる。
こうして「楯突き、歯を立て、逆らう」こともできないのは何故かというと、我々は兎角「過去」に拘り、まだ来ない「未来」に思いをはせてしまう事にある。この為に「愚痴、不平不満、怨念」などを持ってしまい、「辛さ、苦しさ、悲しさ」の中に沈みこんでしまう事になる。
だが、「今」という一瞬の状況や状態を受け入れ、その一瞬の「今」を、「勧善懲悪」ともいう「良い事を行い、悪い尊は行わない」、即ち「心の塵を拭い、埃を払う」という一歩を踏み出すことにより、今の一歩が確実な恵まれた一歩になってくる。
これが「過去や未来」に捉われていたものになると、そうはいかない。更なる「辛さ、苦しさ、悲しさ」に揉まれていくことになる。
それ故に、「辛さ、苦しさ、悲しさ」を受けながらも、この「辛さ、苦しさ、悲しさ」に置かれている事は、幸せなことといえるものになる。
第一「辛さ、苦しさ、悲しさ」を知らず、身に受けた事のないものは、こうした事があるとすぐに怯えてしまう様な意気地なさがある。
我々は命を持ち、人と生まれたからには、こんな意気地なしであってはならない。それが「辛さ、苦しさ、悲しさ」に耐えて運ぶその一歩に、自分に潜んでいた素晴らしい「力、勇気」が発見できる。
だからこそ信仰や宗教では、「辛さ、苦しさ、悲しさ」にもまれる事は、「幸せなこと」と言っている。
最後に我々は、信仰や宗教を求めようとする時、「建築伽藍、書画や絵画、キリスト教の聖書、仏教の仏典」などに触れていくことによって得られるものと思っている。だがこうしたものを見て、聞いて得られるものではない。
我々は普通「体の眼で見、体の耳で聞こう」とする。
しかし真実を見ようとしたり聞こうとするならば、「心の眼で見、心の耳で聞く」ことが大切になる。
この「心の眼で見、心の耳で聞き」して、こうした「辛さ、苦しさ、悲しさ」に耐えて信仰を信じ、「魂と霊」に目覚めるならば……。