青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

「宗教観」のまとめ   下

2011年12月25日 | 宗教観

弱いままの自分。

疲れたままの自分。しょげ切ったままの自分。

それをそのまま神仏に委ねきって、大丈夫と知った時、そこから癒しが始まる。癒しが始まれば、自分の内部の「魂と霊」に目を向けようとする余裕ができてくる。

慌てずに、自分の歩調に合わせて、ゆっくりと歩みます。

こうした自分なりの余裕ある歩調で歩めば、情操も安定する。情操の安定と供に、自分なりの創意的思考、創意的活動が生まれてくる。

普通こうした「創意的思考、創意的活動」を身に付けるために、人間は「教育を受け、学問」をする。だが兎角我々は、この「教育、学問」によって、「責任逃れ、弁解、言い訳、人を見下す」などのものにしてしまっている。
「教育、学問」は、ただ単なる「種子」を蒔くだけのものでしかない。この「種子」を育て、「花」を咲かせ、「実」を成らせる行為、実践もなしに、ただ「責任逃れ、弁解、言い訳、人を見下す」などのものでは、人としても命あるものとしての「創意的思考、創意的活動」とは成りえない。

人は表面だけの「俺が、私が」というものではなしに、胸の奥に宿る「深層意識」に宿る「命の本質」という大宇宙そのものの「思い」とともに、その「思い」とともに生きていこうとしていくことが大事になる。

人が生きること、命が生きる事は、厳しい。
たとえ「楽、楽しさ、豊かさ」に恵まれたとしても、それは一瞬の内に転落してしまう危うく、もろいものでしかない。変転していくのが、世の常であり、「無常」な世界に生かされている我々なのである。
この「無常」に、いくら「おれが、私が」と大きな顔をしても、楯突けない。歯も立たない。逆らう事も出来ない。
否応なく、楯突き、歯を立て、逆らう事すら、出来ない。
「楯突き、歯を立て、逆らう」こともできないならば、甘んじて受け入れざるを得ないし、受け入れるより他はなくなる。
こうして「楯突き、歯を立て、逆らう」こともできないのは何故かというと、我々は兎角「過去」に拘り、まだ来ない「未来」に思いをはせてしまう事にある。この為に「愚痴、不平不満、怨念」などを持ってしまい、「辛さ、苦しさ、悲しさ」の中に沈みこんでしまう事になる。
だが、「今」という一瞬の状況や状態を受け入れ、その一瞬の「今」を、「勧善懲悪」ともいう「良い事を行い、悪い尊は行わない」、即ち「心の塵を拭い、埃を払う」という一歩を踏み出すことにより、今の一歩が確実な恵まれた一歩になってくる。
これが「過去や未来」に捉われていたものになると、そうはいかない。更なる「辛さ、苦しさ、悲しさ」に揉まれていくことになる。
それ故に、「辛さ、苦しさ、悲しさ」を受けながらも、この「辛さ、苦しさ、悲しさ」に置かれている事は、幸せなことといえるものになる。
第一「辛さ、苦しさ、悲しさ」を知らず、身に受けた事のないものは、こうした事があるとすぐに怯えてしまう様な意気地なさがある。
我々は命を持ち、人と生まれたからには、こんな意気地なしであってはならない。それが「辛さ、苦しさ、悲しさ」に耐えて運ぶその一歩に、自分に潜んでいた素晴らしい「力、勇気」が発見できる。
だからこそ信仰や宗教では、「辛さ、苦しさ、悲しさ」にもまれる事は、「幸せなこと」と言っている。

最後に我々は、信仰や宗教を求めようとする時、「建築伽藍、書画や絵画、キリスト教の聖書、仏教の仏典」などに触れていくことによって得られるものと思っている。だがこうしたものを見て、聞いて得られるものではない。
我々は普通「体の眼で見、体の耳で聞こう」とする。
しかし真実を見ようとしたり聞こうとするならば、「心の眼で見、心の耳で聞く」ことが大切になる。
この「心の眼で見、心の耳で聞き」して、こうした「辛さ、苦しさ、悲しさ」に耐えて信仰を信じ、「魂と霊」に目覚めるならば……。

 

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欧州危機から、こちらに

2011年12月25日 | 短歌に政治や社会

借金依存、最悪の49% 2012年度政府予算案(朝日新聞) - goo ニュース

これだけのものなのに、「ドジョウ首相」は、「いけしぁしぁ」としている。

「日本国債格付け」の格下げが進行しているのに、更に格下げを招く「予算編成」して、ついにはこの国も「破綻」にならせるつもりらしい。

「次期主力戦闘機、新幹線延伸、リニア新幹線、高速道路作り」などしていても、「東日本大震災」地域の人などは、ちっとも潤わない。
それも「消費税増税」までするのだから・・・・・。

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やり繰り下手

2011年12月24日 | 短歌に政治や社会

国債発行額、過去最大 12年度、174兆2313億円(朝日新聞) - goo ニュース

首相も閣僚も官僚も、そろってやり繰り下手だ。

我々庶民は、欲しいものがあっても借金を控え、控えるばかりでなく何かと物価高の折、無駄を切り詰めている。

ところが「松下政経塾」出身と言いながら、こんなやり繰り下手な首相や閣僚や官僚はいない。
今に、この借金に責任取らず、消えていく。

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帝王学

2011年12月24日 | 人生設計

「帝王学」とは、君主となるために修めなければならない学問である。「君主」となり「君主」とならんが為に「帝王学」を治め、国民の手本となり、より良い社会を作り、またそれが他国との関係が良好に保つように努められる。これは単に学問であればいいのではなく、実践や行為と示すことに意義がある。

今年春の「東日本大震災」時、今上天皇はいち早く被災地に駆けつけられ、被災者たちを慰められ、労われている。またこの震災に伴い発生した「原発事故」のための節電には、率先して皇居内の節電に努められ、猛暑の夏期も耐えてこられた。

一方の「君主」とも言える首相や閣僚、官僚の方は、「事故被害」の隠匿や、「情報隠し」したりしていて、被災地域の方たちばかりでなく国民を混乱させてしまっている。この為に今だまだ「放射能汚染食品」などや「電力逼迫」などでも、腰が定まらない。
それどころか、自分たち国家公務員の給料やボーナスは削減せずに、「消費税増税、社会保障や年金給付」などは削減させたり、一旦決めた事をひっくり返してしまって平気でいる。

こうした事は巷にも多々あり、企業の首脳が会社の金を使って100億もの賭博をしたりするやら、粉飾決算、脱税なんかしている。
一般社会でも、校長や警察署長などが盗影するやら、親や子や妻を虐待する、そればかりか保護者のモンスターペアレントとか言われる自分勝手な要求などが、今の世に氾濫している。

「帝王学」とは、何も国主たるもののための学問ではない。
一般庶民の私たちとしてもこの「帝王学」を治め、「良き夫や妻に、親に、子に、社会人としての隣人に」なっていくために、絶対的に大切で必要とする学問である。
そしてこの「帝王学」で得られたものを、実践していかなければならない。

この「帝王学」の要となるものは、「信仰であり宗教」である。


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「宗教観」のまとめ    中

2011年12月24日 | 宗教観

人生で、一番貴いのは「体験」である。

「体験」の深いものや豊富な人は、自然と輝いている。

この「経験」ともいうべき境涯に耐えた体験は、真似をすることはできない。その人その人が、自分で体験しいき経験していくことによってのみ、育っていく。

この「体験や経験」は、自分自身の思い、それは「魂、霊」の住処が確立していなければ成り立たない。ちょっとした「喜怒哀楽」で揺れ動くのでは、「魂や霊」の落ち着ける住処が無くなってしまう。
しかしこの「魂や霊」の住処は、恒常的ではない。
「真理」を目指した一本道に向かって、脇目も振らずに新しい道を探し求めて、恥辱や苦難に耐えていかなければならない道である。

だが困ったことに、この「魂や霊」は見る事が出来ない。自分が持っていて胸の底に住み着いているのに、どれほど眼を凝らしても、また歳を重ねても、おいそれとは姿を現わしてはくれない。
この正体不明の「魂と霊」に目覚めさせてくれるものが信仰になる。

そしてこの「魂と霊」に目覚めた「心」こそ、本当の自分自身の「心」になる。この二つとない「心」に、一生を賭けよう。


先般述べたようにキリスト教では、キリストに「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などという「原罪」を背負わせ、そのキリストを自らの手で処刑してしまう事によって、新たなる自分を再生「復活」させるというような教えになっている。
他方「三大宗教」の中の仏教においては、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などという「原罪」を、「行い」によって自らが正していく「実践」を重んじている。
これを「勧善懲悪」ともいう。「良い事を行い、悪い尊は行わない」ということである。
しかし仏教というと、何だかんだと七難しい言葉を並べたてる。僧侶が読経するものも、それは元々到来した国の言葉であって、こちらの言葉ではない。こちらの言葉では無いが故に、読経を聞くものは眠気に誘われてり、退屈してしまう。
何れにせよ、言葉の文句というものは、云ってみれば「学問」であり「教育」みたいなものである。それを諳んじていれば、「信仰の何たるか、宗教の何たるか」を、身に着く事も着かせる事もできたものではない。
「勧善懲悪」というものは、それは実践するものであり、七難しい言葉の受け売りなどをするものではない。
ではどうすべきかというと、釈尊にまつわる次のような話が伝わっている。

釈尊には、老若男女の多くの弟子がいられた。
この中に兄弟の弟子がいて、兄の方は利発で賢い人なのだが、弟の方はその兄とは反対に「愚頓」な人だったという。云ってみれば「精神薄弱者、白痴」と言えるようだったという。この為この弟は、いくら釈尊の説教を聞いても、すぐに忘れてしまい、それで「自分は僧侶には向かない」と思って釈尊に還俗することを伝えている。
釈尊はその弟に、還俗する前に「埃を拭い、塵を払う」という行いを務めるように諭されました。
弟はこの釈尊の言葉に従って「埃を拭い、塵を払う」よう務めるのですが、こういう短い言葉も、すぐに忘れてしまう。それを兄や同輩の助けで勤めていって、この「埃を拭い、塵を払う」という事が、「心の埃を拭い、塵を払う」ことだと気が付いて、この事を更に勤めて、賢いといわれる兄より先に悟ってしまった。


我々は、何だかんだと七難しい文句に捉われる必要はないのである。今の釈尊にまつわる話に出た「白痴の弟」のように、ただひたすら「心の埃を拭い、塵を払う」ことに努めればいいのである。
それは「念仏、お題目」の「南無阿弥陀仏」とか「南妙法蓮華経」というものに、「阿弥陀仏に帰依する」という事、それは「阿弥陀仏」に「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などという「原罪」を託してしまい、何の後腐れもない思いで「心の埃を拭い、塵を払う」という事に「専念しなさい」という事でもあり、ここに変わりない信仰心と宗教心とがある。
ただ「イスラム教」についてはよく知らないので、何等ともいえない。

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知らん顔

2011年12月23日 | 短歌に政治や社会

北日本中心に大雪や強風…「冬型」27日頃まで(読売新聞) - goo ニュース

同じ国の中にこういうこととなる地域があるのに、別の地域のものは「我関せず」みたいになっている。
事に「有名人」と言われる人種は、「スポーツ、芸能ごと、会議」などであちこち飛び回るほどの体力があるのに、大雪などの災害時にもただ「義損集会」とか「コンサート」などをやってお茶を濁しいする。
ちっとは駆け付けてきてくれて、独色歌人、老夫婦、障害者音でしかいないところの「雪掻き、雪おろし」をやってくれるなら、それは「メダル、賞状、金銭」にかけがたい価値を持つだろう。

しかしこういう私は障害者で車いす生活で、老齢年金貰って生活している身だから、何にも出来ないので侘しい。

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横着

2011年12月22日 | 短歌に政治や社会

「壊し屋」新たな仕掛け、小沢氏が「新政研」発足106人集結(産経新聞) - goo ニュース

こういう集会を、国会内で行っている。
まるで国会内が自分のもので、有るかのよう・・・・。
今の我々は、節電や燃料費の高騰で寒さで震えているのに、国会内で集会したりして、結構暖房費をからめ取っている。
国会内でこんな集会をして、ちっとは「国会内借用費」を支払っているのかね。

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「宗教観」のまとめ   上

2011年12月21日 | 宗教観

人は、信ずることができる時、「ほっ」として平安を得る。

人は、望みがある時、「生きていこう !」という意欲がわいてくる。

人は、愛を感じる時、「あっ、生きていて良かった」という感謝がわいてくる。

この時に人は、柔和になる。

 

人生は、経験によって納得的に理解される。実験によっては、本当の理解に至らない。

 

人間は、人間としての自分に目覚めてみて、人間としての価値観を見る。

この価値観が、自分がどこへ行き、どのような境遇に見舞われても一緒になって附いてくる。「喜び、嬉しさ」なら「喜び、嬉しさ」のままに、「苦しく、悲しい」なら「苦しく、悲しい」ままに。

 

人間には、その潜在意識として「魂、霊」が存在している。

人生という命の経過は、この「潜在意識に存在する「魂、霊」の発掘作業となる。この「潜在意識の中の魂、霊」の思いに目覚め受け入れるなら、人生は楽しい。

しかしながら人間は、「潜在意識」にたどれない「深層意識」の持つ「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」に押し潰されてしまい、心の平安、精神の平安が得られないでいる。これは何によって押し潰されるかと言うと、人間は「体と心、精神」を自分自身という思いがあることによる。

この思いが「深層心理」を形成し、「深層意識」化していき、自分と外界との軋轢に混乱している。
こうした「深層心理の深層意識」を、「命の本質」である「魂、霊」の思いを受け入れさせることによって、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」感を氷解させていくのが信仰ということとなる。

別に言うと、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」を氷解させようということは捨て去る事となり、しかしただ捨てたなら廃棄する事としかならず、その行く末が定まらない。
行く末が定まらなければ「迷う」。「迷う」ということは、「亡霊、幽霊」となってしまう。
こうした行く末に迷い「亡霊、幽霊」とならないようにと、十字架の上で張り付けられ、すべての「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」感、即ち「原罪」を背負っていったのが「キリスト」である。
そしてその果てに、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」感を持たない新しいものとして「復活」していく。

それ故が持ってして、ここで言う「キリスト」とは、「自分がいて、キリストがいる」という事のキリストではない。
自分の中にキリストを持ち、その自分の中のキリストに、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などという「原罪」を背負わせ、それを自分の手で持ってして十字架に掛けて処刑してしまおうということである。
その後、「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などの「原罪」がきれいに処刑させてしまった後、こうした「恐怖、嫌悪、焦燥、怨念」などの「原罪」を持たない新たなる人間としての自分が誕生する。それが「復活」なのである。

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憲法違反

2011年12月20日 | 短歌に政治や社会

次期戦闘機、F35に正式決定 野田内閣(朝日新聞) - goo ニュース

ちょうど半年前ごろ、江利川毅・人事院総裁がこう言っていた。

「野田政権が、野党が反対する労働基本権拡大を棚上げして、賃下げ法案だけを成立させることで野党と手を組もうとすると、今度は民主党内部を分断した。江利川さんが“人勧無視は憲法違反”という見解を示すと、勢いづいた自治労は日教組出身の輿石東・幹事長らに働きかけ、民主党内に“労働基本権拡大を棚上げする気か”という空気を醸成した」(同前)

我々庶民には「消費税増税、各種の保険料値上げ、各種の社会保障手当の減額」などに対しては、何も恩慮を及ぼさない。
こうした事をしているのは、最も「憲法違反」的行為である。
我々が汗水たらして納めている「税金」を、我がもの顔に使おうとしていて、「何が憲法違反」も無いものだ。

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作詞 56.  平和への道

2011年12月20日 | 宗教観

平和への道       2011/12/19

 

 

 

誰が知ろうか 平和の道を

光求めて 古(いにしえ)より

戦いの日が 打ち続く

幸せ手にする 平和を夢見

奪い合いに 明け暮れる

求める道は 遥かなる

 

 

真っ白きに降る 初雪に

汚れておごる 身の姿を

思いを清く 胸に持ち

行い振る舞い 正しくと

言葉の使い 正しくと

誓い手にして 耐え続ける

 

 

求める幸せは 争いに

与える幸せは 和やかに

奪う幸せの 続く限り

一つの幸せも 崩れ行く

幸せ与える 難しさに

クリスマスの鐘は 鳴り響く

 

 

正しき行い 身に持ちて

正しき言葉 身に持ちて

ただ与えざる 幸せの心

貴方の元に 届けたい

一人の思いが 立つなれば

みんなの元に 広がる平和

 

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