日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

遠江分器稲荷神社(浜松市)

2023-02-15 | 神社

浜松市中区に鎮座する分器稲荷神社は、田町の氏神社とされ、永禄11年(1568年)2月に創建されたと伝えられています。



「分器」は、引馬宿南端の境界を示した「分木」が由来であるという説があります。

辺りには、尺貫法の元締めとなる役人の住居があったそうです。

社伝によれば、古くは、許免社と呼ばれ、(許免とは「コメ」と訓み、米の意味)分器宇賀大神とも称し、約1500年前の22代・清寧天皇の御代に天竜河の開墾のために勧請されたともされています。

慶長9年(1604)2月、徳川家康の命により本殿を修造。

明治7年には、三組町の秋葉神社に合祀されましたが、明治11年6月に再興が許されています。

昭和20年6月、空襲により焼失。

昭和31年に本殿、同32年に拝殿が再建されました。



拝殿


本殿


境内には、様々な狐の象があります。



黄金の狐像




神社の西側には家康の重臣・徳川四天王の一人として大活躍した本多忠勝の屋敷があったと伝わります。


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尾張一宮の旅(4)真清田神社 その壱

2022-11-29 | 神社

一宮市の中心部に鎮座する真清田神社は、古代に尾張地方を治めた尾張氏の奉斎に始まるとされ、尾張氏祖神の天火明命を祭神としています。

平安時代、「尾張國一之宮」として、国司を始め人々の崇敬を集め、一帯の地名「一宮」はこの真清田神社の社格に由来。

鎌倉時代、順徳天皇が多数の舞楽面を奉納しました。

社殿は昭和20年(1945年)の一宮空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建です。

空襲で焼失した社殿は、典型的な尾張造として知られていました。

楼門

楼門はその空襲による焼失を免れましたが、これも昭和36年(1961年)に再建されています。


拝殿・本殿

本殿内陣中陣の御扉や柱桁などは、特別に伊勢の神宮から下賜された古材を使用。

本殿・祭文殿(さいもんでん)などは神社建築としての造形を評価され、国の登録有形文化財に登録されています。


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俵藤太のムカデ退治伝説(3)御上神社

2022-04-04 | 神社

御上神社(みかみじんじゃ)は、滋賀県野洲市にある神社です。 

近江富士の別名もある三上山の山麓に鎮座し、三上山を神体山として祀る神社です。

武士の崇敬が篤く、源頼朝が建久元年(1190年)、足利尊氏が建武3年(1336年)、豊臣秀吉が天正14年(1586年)にそれぞれ神領を寄進しています。

楼門(重要文化財)

御上神社

一、御鎮座地 滋賀県野洲市三上838
一、御祭神  天之御影神(天照大神の御孫)
一、由緒
 当神社の社記によると、天之御影神は今から2千2百余年前の孝霊天皇6年6月18日三上山に御降臨になったので、神孫の御神祝等は三上山を神体山として鎮祭申上げた。
 降って養老2年、勅命によって現在の地に社殿を造営して遷祀された。
 爾来、朝野の崇敬あつく、清和天皇の御代に正一位、醍醐天皇の御代に明社大社、次に圓融天皇の御代には勅願所と定められ四海大平の祈願を行われた。
 武家政治になっても、源頼朝を始め各武将も尊崇深く神領を寄進奉った。
 明治9年郷社に、大正2年県社に、大正13年には官幣中社に御列格遊ばされたが、昭和22年2月宗教法人になり神社本庁所属の別表社となった。
一、御神徳
 御祭神天之御影神は御神徳高く霊験あらたかで、忌火神、金工鍛冶神、産業神、開運悪魔除けの神として信仰され、当地方は昔から神体山三上山を中心に忌火郷、悠紀郷、むかで退治の神話で有名で、山麓からは24個の銅鐸が発掘され、5~6世紀 の古墳群が現存している。
一、主なる祭日
 新年祭 2月17日
 春季例大祭 5月第3日曜日
 影向祭(山上祭) 旧6月18日
 秋期古例祭(ずいき祭) 体育の日
 神衣祭 忌火祭二の甲に近い土曜日もしくは日曜日
 新嘗祭 11月23日
一、文化財
御本殿(国宝) 拝殿、楼門、若宮社(各国指定重文) 三宮(県指定)
狛犬(重文) 角力人形(県指定) ずいき祭(国指定重要無形文化財)
(案内板より)

三上山は藤原秀郷(俵藤太)のムカデ退治伝説の舞台です。

三上山のムカデ退治

朱雀天皇の御代に田原藤太秀郷という剛勇の者が、ある日瀬田の橋を渡ろうとすると大蛇が橋上に横たわっていたが、田原藤太秀郷は臆することなく大蛇を踏付け通りすぎた。
その晩大蛇は小男に化け、田原藤太秀郷の剛勇を褒め称え、『吾は竜宮に住む竜神であるが、三上山を七巻き半巻いている大ムカデに悩まされているから助けて欲しい』と頼んだ。
田原藤太秀郷は承諾し、瀬田の唐橋から矢を放ち、一矢は射損じた。二矢目は鏃に唾を付け放ち大ムカデを射止めた。
竜神は大層喜び、御礼として減ることのない米俵や使っても無くならない反物や宝物を贈った。この米俵から田原藤太秀郷の名前を俵藤太と改めた。
(御上神社HPより)

拝殿(重要文化財)

本殿(国宝)

約700年前のもので、神社・仏堂・御殿の3様式が合成された御上造とよばれる建築様式です。

三宮神社

本殿に向かって右手に鎮座。社殿は室町時代の作、一間社流造檜皮葺。滋賀県指定文化財。

若宮神社

本殿向かって左手に鎮座。社殿は鎌倉時代の作、一間社流造檜皮葺。国の重要文化財

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俵藤太のムカデ退治伝説(1)龍宮秀郷社

2022-03-20 | 神社

瀬田の唐橋の東岸にある龍宮秀郷社には、ムカデ退治伝説が伝わっています。

瀬田の唐橋には、平安時代、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(俵藤太)が、唐橋の川底にある竜宮の乙姫の願いで、大百足を退治したという伝説があり、当社は、その秀郷と乙姫の霊を祀る神社です。

右が「龍王宮」、左が「秀郷社」

むかしむかし、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々が橋を渡れなくなっていました。そこを通りかかった俵藤太は平気で大蛇を踏みつけて渡ってしまいました。

その夜、藤太が踏みつけた大蛇が美しい娘に化けて藤太を訪ねました。
娘は琵琶湖に住む龍神一族の乙姫で、龍神一族が三上山の百足に苦しめられているので、藤太に百足を退治して欲しいと懇願しました。 

藤太は、剣と弓矢を携えて三上山に向かうと、山を7巻き半する大百足が現れました。藤太は、矢を放ちましたが、大百足には通じす、最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して放つとようやく大百足を退治することができました。

藤太は乙姫から御礼として、米の尽きることのない俵、三井寺の名鐘などの宝物を贈られました。
また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといいます。

この伝説は色々なバージョンがあるようです。

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大将軍八神社

2021-11-25 | 神社

数年前、北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。



大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方除け厄除けの神として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。



本来の祭神は大将軍ですが、明治の神仏分離令にて祭神は素盞嗚尊と改められました。



方徳殿に大将軍神像80体(重要文化財)と陰陽道安倍家の古天文暦道資料(京都府指定文化財)があり、毎年5月1日~5月5日と11月1日~11月5日には一般に公開されています。(その他の日は予約制)

神像群は平安時代中期から末期の制作といわれ、すべて男神像で、甲冑を着用した武装形の像、束帯姿の像、童子形の像などがあるそうです。これはいつか公開時に観に行きたいと思っています。





当社は、平安建都の際に都城の方除守護神として造営されたのが始まりとされ 、当初は大将軍堂と称したが、江戸時代初期になって大将軍社と改められ、更に大将軍八 神社となって現在に至っている。  

大将軍とは、陰陽道にいう星神天大将軍で、方位をつかさどる神である。このため、建築 ・移動・旅行などに関し、方除け、厄除けの神として世間の崇敬を集め、その時々の権力 者達も当社を厚遇したといわれる。  

当社には、平安時代中期から末期にかけての大将軍信仰高潮期に奉製されたと思われる「 神像」百余体が所蔵されている。このうち、武装像、束帯像、童子像合わせて八十体が昭和47年(1972)に重要文化財に指定された。いずれの像も、独特の表情、装束で異 彩を放っており、興味深い。また、陰陽道に基づく、古天文暦道資料(府指定文化財)も蔵されている。

京都市





「北野白梅町」または「北野天満宮前」バス停下車 徒歩約5分

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