日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

福山城(2)

2016-03-02 | 
福山城博物館


福山城博物館は、1966年(昭和41年)に再建された天守閣の中にあります。

近現代から原始古代までの福山の歴史と文化、福山藩や藩主に関する書画・刀剣・甲冑の他,草戸千軒町遺跡や原始・古代の出土品などを展示しています。





中の展示物は撮影禁止なので、展望台からの眺めをどうぞ!





伏見櫓


現存する望楼型の櫓。
慶長6年(1601年)前後に建てられたと推定される伏見城松の丸の東櫓を元和6年(1620年)に移築したもので、昭和28年(1953年)の解体修理の際に2階の梁から「松ノ丸ノ東やくら」との墨書が発見され伏見城から移築された伝承を持つ櫓の中で唯一物証により移築が裏付けられています。

藩政時代には武器庫として用いられたといわれ、明治時代になると伏見櫓から続く多聞櫓は撤去され、内部はビリヤード場や骨董品売場として用いられるようになりました。
昭和20年(1845年)の空襲の火災を免れた福山城で唯一の現存する櫓。

阿部正弘像




阿部正弘之像

  太平洋の波高く、幕末内外多難の時に際し、老中筆頭として国政を総覧し、近世幕藩
  体制における鎖国の旧弊を断って日米親和の条約を結び、開国への道を求め
  近代国家への扉を叩く。

  阿部正弘は福山藩阿部家七代の藩主にして弱冠25歳で閣老に任じ、爾来10有4年
  その開明的な政策を推進し、国政を整えもって国外に対応せり。福山藩主としては
  庶民の中に人材を登用し、藩政を改革し教育に明日の世代の形成を託して藩校誠之館を
  開き、進んで西欧の学術をも取り入れ、その後の福山文化の発展に貢献す。

  市制60周年の記念すべき年にあたり銅像建立を発起し、先人の遺徳を偲び
  明日への躍進を誓う。        昭和53年4月建之


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福山城(1)

2016-03-02 | 
福山駅に降り立つと、駅前に福山城の石垣がそびえたっています。



福山城は、1622年(元和8年)水野勝成が備後10万石の領主となって築いたお城です。

水野勝成像




水野勝成之像

  瀬戸内海の中央、福山湾岸に河口を開く芦田川。その広漠たる干潟を埋めて
  城下町とし、ここに城を定む。
  水野勝成は元和5年(1619)備後10万石の藩主に封じられるやこの町を開き
  福山と命名す。

  移封以来民政に意を用い、広く領内に池溝を開削し、干拓を行い耕地の拡大に努め
  芦田川を改修し水道を穿ち藩政の安泰に力を尽す。また社寺を復興し、文化の昴揚を
  図り今日の福山の礎を築く。
  
  市制60周年の記念すべき年にあたり銅像建立を発起し、先人の遺徳を偲び
  明日への躍進を誓う。     昭和53年4月建之


形式は輪郭式の平山城で、かつては2重の堀、五重の天守と7基の三重櫓を有する大規模な城郭であったそうです。
昭和20年8月、空襲により天守閣などは消滅しましたが、現存する伏見櫓・筋鉄御門は国の重要文化財に指定されています。



筋鉄御門


本丸の正門に位置する櫓門。「筋鉄」の名称のとおり、1階の扉や門柱に筋状の鉄板が打ち付けられています。

鏡櫓




月見櫓


再建。伏見城の櫓を移築したといわれ、2層目には廻縁があり展望台の機能を持っていました。
明治初期に取り壊され、跡地には明治21年(1888年)「葦陽館」と呼ばれる貸会場が建てられましたが、福山大空襲で焼失。現在の月見櫓は昭和41年(1966年)に天守と同時に鉄筋コンクリートで再建されたものです。



御湯殿




再建。表居間と共に伏見城から移築されたといわれる建物で、懸造の座敷(展望室)と湯殿(蒸風呂)からなり、かつては本丸御殿の大書院と廊下で繋げられていました。
上段の窓から城下南側を一望できるようになっていたそうです。
この建物は大正時代ごろから「御湯殿」と呼ばれるようにうなりました。



鐘櫓


一部現存。福山市指定重要文化財(鐘楼部のみ)。
2層2階建てで、築城時に建てられました。
近世城郭で唯一本丸内に位置する鐘櫓とされ、往時は鐘突堂と呼ばれ、御台所門と火灯櫓とを結ぶ多聞櫓(枡形門)に設置された鐘楼でしたが、廃城後に取り壊されました。




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前橋城跡

2015-06-30 | 
前橋城は、群馬県の前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられました。

明治4年(1871年)の廃藩置県により、前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれましたが、他の建屋は取り壊されました。

本丸跡地には、群馬県庁本庁舎、二の丸跡地には前橋市役所、三の丸跡地は前橋地方裁判所、前橋公園となり、遺構として、土塁、車橋門跡などが残されています。













前橋城跡の解説

前橋は古くは厩橋と称し、東山道の群馬の駅(うまや)が近く、それが地名の起こりであるという。厩橋城が築かれたのは、十五世紀のこと、初代城主は箕輪城主長野氏の一族前橋長野左衛門尉方業(法号固山宗賢)とされている。以後長野氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文二十一年(1552)小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄三年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。
 このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の理由とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防が繰り返された。
 天正十年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の部将滝川一益が厩橋城に入り、関東管領を称した。しかし信長の急死によって、一益は本国に帰り、城は北条氏の手中に帰した。ついには、天正十八年(1590)4月、小田原討伐軍の浅野長政に攻められて落城した。
 同8月に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城三万三千石に封した。親吉は慶長六年(1601)甲府に移り、代わって川越から酒井重忠が入封、以後九代の間、酒井氏の藩政が続いた。四代忠清は大老となり、下馬将軍の名で知られる。
 酒井氏治世時代の前橋城は城域十五万坪に及び、西に利根川の断崖を背とし、南東に延びる土塁と壕をめぐらしていた。本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。慶安二年(1649)五代忠挙の時、城下町は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延二年(1749)忠恭の時、姫路に転封となった。代わって姫路から松平朝矩が入封したが、酒井氏時代以降難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和四年(1767)川越に移城した。
 以後前橋城は廃され、領地は約百年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなった。城主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の城主直候ならびに直克の決断により、文久三年(1863)12月、幕府から再築の許可を得、慶応三年(1867)帰城が実現した。
 この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に寄せる藩政再建の願いと、生糸商人ら領民の莫大な献金、労力奉仕があった。しかしわずか半年で大政奉還となった。廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、前橋の現在の繁栄をみている。碑文は、藩主松平直候ならびに直克の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。前橋城址碑の位置は、旧城三の丸東南隅の土居上に当たる。
 碑の題額は、直克の長子松平直之氏、文は、修史局編修官のちの東京大学教授、貴族院議員になった重野安繹氏である。書の日下部東作氏は鳴鶴と号し、明治書道界の重鎮であった。    群馬県
 

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松江城(2)

2013-07-26 | 
天守閣へと向かいます。





松江神社







暑い中、ご苦労様です(笑)

ちなみにこの方と、次の日にも他のところで出くわしました!















城の中の展示物







天守閣からの眺めです。

松江市街



宍道湖



松江城の石垣について







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松江城(1)

2013-07-24 | 
松平直政公の銅像から歩くとすぐに松江城のお堀が見えてきました。





松江城保存につくした人たち

明治4年(1871)4月、松江城の廃城が決まり、明治8年(1875)に利用できる釘やかすがいなど金物が目的の入札が始まりました。木材は燃やし、石材は壊されるしかありませんせんでした。
この危機を救ったのが、元松江藩士 高城権八と出雲郡出東村(現 斐川町坂田)の豪農 勝部 本右衛門(かつべ もとうえもん)家の人たちでした。
高城は銅山方役人、勝部家は当時、銅山経営を行っていたので、本右衛門栄忠(しげただ)と息子の景浜(かげはま)は、高城権八と公私にわたり、親しい間柄でした。その時、松江城を管理していたのは、陸軍広島鎮台でした。入札で松江に来ていた責任者の斉藤大尉と会い、「入札額と同金額を納めるから、せめて天守閣だけでも残してほしい」と懇願しました。天守閣の入札額は、180円だったと伝えています。
こうして高城と本右衛門の努力で松江城天守閣は残り、全国に現存する十二天守の一つとして、今も戦国の威風を漂わせて、松江の町を守っています。



史跡松江城二の丸下の段の遺構  

 この二の丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあったところである。
 米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢饉がしばしば発生するようになったので米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。
 城郭図によれば、築城時(17世紀)にはL字型に建つ二棟の米蔵と門や塀が存するだけであった。  延宝七年(1679)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)とそのこ民部、久米之助のためにこの地の一角に「荻田配所」が建造された。
 さらに十八世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじめ米蔵が新たに五棟も新造されたが、この内三棟は天保年間に建てられたものである。やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治八年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてしまった。その後、一帯は運動場となり明治三十三年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行われたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。
 松江市では、昭和四十七年度から三次にわたり米蔵を中心に発掘調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であったことが確認された。(松江市教育委員会)















天守閣へと向かいます。

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