日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

和歌山城(3)御橋廊下

2017-07-23 | 
御橋廊下は、藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来する橋で、平成18年に復元されました。



長さ27m、幅約3m。

江戸時代には藩主とそのお付きの人だけが行き来でき、外からは姿が見えない造りでした。

現在は通り抜けができます。





御橋廊下からの眺め




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和歌山城(4)二の丸・大奥

2017-07-15 | 

二の丸の機能は、藩の行事の場である表、殿様の日常の生活空間である中奥、殿様の奥泊りの際の寝所や奥女中の生活の場である大奥の三つに分かれていました。



二の丸大奥は、かつて奥女中の生活の場である大奥があった場所です。



穴蔵状遺構




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和歌山城(3)

2017-07-04 | 

和歌山城天守閣の内部には、徳川家ゆかりの品が多数展示されています。

天守の模型




脇差


火縄銃










長刀













展望台からの眺め






雨のために遠くまで見渡すことができませんでしたが、晴れていれば絶景を見ることができたでしょうね。

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和歌山城(2)

2017-06-27 | 
和歌山城の本丸跡へ進んでいきます。










本丸御殿跡


本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていきました。
初代・徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代・徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定め、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも呼ばれました。
1621年(元和7年)に造られた本丸庭園には、宝船を模した七福の庭がありましたが、給水場設置に伴い、1923年(大正12年)に松の丸へ移築されました。




天守





浅野家が虎伏山の西の峰に天守閣を築造。

三層の大天守から時計回りに多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守でした。

寛政10年(1798)十代藩主徳川治宝により白壁の白亜の天守となりますが、弘化3年(1846)の落雷で焼失。
御三家ということで特別に認められ、嘉永3 年( 1 8 5 0 )に再建されました。

昭和1 0 年(1935)国宝に指定されましたが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失。
市民からの要望もあり、昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されました。










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和歌山城(1)

2017-06-20 | 
和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀し、本丸の北側に二の丸、その外に大きく三の丸が配された梯郭式平山城です。


天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりで、その築城を担当したのが、藤堂高虎でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴が入り、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長が入城。
元和5年(1619)には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となりました。

一の橋・大手門


浅野・徳川時代を通して和歌山城の表門であった一の橋南詰に建つ大手門。



明治42年(1909)に自然倒壊しましたが、昭和58年(1983)一の橋とともに再建工事により復元されました。










伏虎像


江戸時代、和歌山城は別名「虎伏竹垣城」と呼ばれました。
これは、和歌山城の建つ山が虎の伏した姿に似ていたためと言われています。
この像は、和歌山城の別名にちなんで、昭和三十四年に作られました。
(現在の像は二代目にあたり、初代の像は銅製であった為、第二次大戦中、供出させました。)



和歌山城の石垣

和歌山城の石垣から時代の移り変わりを感じることができます。
二の丸庭園前には創建期と思われる「野面積み」の石垣。
大手門をくぐって城内に入った所に大きな石の間に小石を詰めた「打ち込みハギ」、さらに歩くと江戸時代の美しく積み上げられた「切り込みハギ」の石垣があります。
また、石垣には紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われており、転用石や、豊臣・浅野時代の刻印を見ることができます。














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