東京都中央区明石町の聖路加看護大の前に浅野内匠頭邸跡の碑があります。
常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~1672)は、正保2年(1645年)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701年)、勅使の接待役の推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。(中央区教育委員会)
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常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~1672)は、正保2年(1645年)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
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忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701年)、勅使の接待役の推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。(中央区教育委員会)
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