東京都新宿区北新宿3丁目にある鎧神社
当社には鎧にまつわる話があります。
創建以前、日本武尊東征の際、その甲冑を埋めたのが、当社のはじめといわれています。
天慶三年(940)、関東に威をとなえていた平将門公が藤原秀郷によって討たれると、この地の人々はその死を悼み、天暦元年(947)、将門公の鎧もまた当地に埋めたと言われています。
また一説によると、将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気がたちまち治ったと言われます。 それを聞いた人々はその御神徳に恐れ畏み、以後、村の鎮守の社として近隣の尊崇をうけてきたと伝えています。 これらのことから、「鎧」の社名が起こったと伝えられています。(鎧神社HPより)
天神社の両脇にある狛犬は、全国的にも非常に珍しい狛犬型庚申塔。
造営は享保6年(1721)で、向かって右側が阿形像(雄)、左側は叫形像(雌)。
摂社 天神社
学問の神様・菅原道真をお祀りする摂社です。
鎧神社縁起
祭神
日本武命 大己貴命 少彦名命 平将門公縁起、氏子地
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事よリ社名起ると伝えている。天慶三年(940)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(947)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという、別説によれば将門軍残党を追つて此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒リ也と怖れ、薬師如未を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子弛は北新宿全域と西新宿一部 (案内板より)
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当社には鎧にまつわる話があります。
創建以前、日本武尊東征の際、その甲冑を埋めたのが、当社のはじめといわれています。
天慶三年(940)、関東に威をとなえていた平将門公が藤原秀郷によって討たれると、この地の人々はその死を悼み、天暦元年(947)、将門公の鎧もまた当地に埋めたと言われています。
また一説によると、将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気がたちまち治ったと言われます。 それを聞いた人々はその御神徳に恐れ畏み、以後、村の鎮守の社として近隣の尊崇をうけてきたと伝えています。 これらのことから、「鎧」の社名が起こったと伝えられています。(鎧神社HPより)
天神社の両脇にある狛犬は、全国的にも非常に珍しい狛犬型庚申塔。
造営は享保6年(1721)で、向かって右側が阿形像(雄)、左側は叫形像(雌)。
摂社 天神社
学問の神様・菅原道真をお祀りする摂社です。
鎧神社縁起
祭神
日本武命 大己貴命 少彦名命 平将門公縁起、氏子地
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事よリ社名起ると伝えている。天慶三年(940)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(947)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという、別説によれば将門軍残党を追つて此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒リ也と怖れ、薬師如未を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子弛は北新宿全域と西新宿一部 (案内板より)
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