続いて将軍塚へ
長岡京に遷都した桓武天皇は、様々な事故に見舞われていました。
和気清麻呂は天皇をお誘いし、この山頂から京都盆地を見下ろし、ここが都の場所にふさわしいと進言し、天皇はその勧めに従って延暦13年(794年)、平安建都に着手しました。
将軍塚は、桓武天皇が平安京造営に際し、王城鎮護のため、高さ8尺(約2.5メートル)の土の人形に甲冑を着せ、弓矢を持たせ、京都の方を向けて埋めた塚であると伝えられています。
国家の大事があると鳴動したという伝説が、源平盛衰記や太平記に残されております。
また、延元年間(1338年頃)には新田義貞がここに陣を敷いて足利尊氏の軍を敗り、また近くは太平洋戦争にここが高射砲の陣地にもなりました。(青蓮院HP参照)
展望台から見た景色
ズームにすると、「将軍塚」の文字がはっきりわかります。
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長岡京に遷都した桓武天皇は、様々な事故に見舞われていました。
和気清麻呂は天皇をお誘いし、この山頂から京都盆地を見下ろし、ここが都の場所にふさわしいと進言し、天皇はその勧めに従って延暦13年(794年)、平安建都に着手しました。
将軍塚は、桓武天皇が平安京造営に際し、王城鎮護のため、高さ8尺(約2.5メートル)の土の人形に甲冑を着せ、弓矢を持たせ、京都の方を向けて埋めた塚であると伝えられています。
国家の大事があると鳴動したという伝説が、源平盛衰記や太平記に残されております。
また、延元年間(1338年頃)には新田義貞がここに陣を敷いて足利尊氏の軍を敗り、また近くは太平洋戦争にここが高射砲の陣地にもなりました。(青蓮院HP参照)
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