泉岳寺の大石主税の墓の横に堀部安兵衛の墓があります。
討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、堀部安兵衛は、大石主税らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられました。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹。享年34。
主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られました。
法名は刃雲輝剣信士。
忠臣蔵:堀部弥兵衛と堀部安兵衛 歌川国貞作
堀部安兵衛
赤穂浪士の一人。名は武庸(たけつね)。実父中山弥次衛門は越後(えちご)新発田(しばた)藩溝口家に仕えていたが浪人となる。父の死後江戸に出て儒学や剣を学ぶうち,伯父・甥(おい)の義盟を結んだ菅野六左衛門が高田馬場(たかだのばば)で決闘したのを助太刀して勇名をあげ,望まれて赤穂藩士堀部弥兵衛の養子となった。藩主浅野長矩の死後,高田郡兵衛,奥田孫太夫らと江戸急進派の中心となり,1702年吉良邸討入りに参加し,翌年伊予(いよ)松山藩主松平家江戸屋敷で切腹。大石良雄らとの書簡などを編集した《堀部武庸筆記》は赤穂事件の貴重な史料である。 (コトバンクより)
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