上京区小川通の本法寺は、1436年(永享8)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが起こりです。はじめは東洞院綾小路にありましたが、1536年(天文5)法華の乱によって山徒に焼かれ、後に現在の地に移りました。
江戸時代には後水尾天皇、紀州徳川家の保護をうけて繁栄しました。
現代の経蔵、宝蔵のほかは天明の大火(1788)後に再建されたものです。
仁王門
本堂
1797年(寛政9年) 本阿弥光悦筆の扁額
本法寺は、琳派の祖・本阿弥光悦の菩提寺で、本堂の前には、本阿弥光悦お手植えの松があります。
本阿弥光悦(1558-1637)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した芸術家で、その才能は多岐にわたり、書・絵画・陶芸・漆芸などに優れた作品をのこしています。
本阿弥家は元来、刀剣の鑑定や研磨を生業とする家柄で、足利幕府に仕えていました。光悦の曾祖父である本阿弥本光(清信)が、刀剣の鞘走が原因で足利幕府六代将軍義教の怒りに触れ、投獄された際に獄中で日親上人と出会い、教化されて熱心な法華信者になります。
爾来、本阿弥家は本法寺を菩提寺として支え、豊臣秀吉の命によって現在地へ移転を強いられた際に、光悦は父親の光二と私財を投じ、伽藍の整備に力を尽くしました。また、これにあわせて光悦によって造られたとされる「巴の庭」は、室町時代の書院風枯山水の影響と安土桃山時代の芽生えを感じる名庭です。昭和47年に修復され、昭和61年に国指定名勝となりました。(本法寺HPより)
長谷川等伯像
多宝塔
唐門
開山堂
鐘楼
摩利支尊天堂
叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが当寺の起りという。
はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護をうけて繁栄し、中山法華経寺(千葉市中山にある日蓮宗総本山)輪番にあたる上方三山の一つでもあった。
現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴(ともえ)の庭」は有名である。このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。
寺宝には、銭舜挙(せんしゅんきょ)筆と伝える蓮花図、群介図・中文殊左右寒山拾得(かんざんじっとく)画像、長谷川等伯筆の仏涅槃図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目抄なお書二点の重要文化財を所蔵している。
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