京都に帰省してお寺をいくつか見てきた。
自分は京都のはずれの出身だがお寺とか名勝のことを何も知らなくて、この金戒光明時、別名黒谷というらしいが自分の通学路から少し外れたところにあったのだが、初めて訪問した。
京都の町の中に吉田山という結構な山があってそれを上ると大きな寺院がある。
複雑に木組みをした巨大な庇がそびえる立派な建物。
なんでも徳川幕府が二条城、知恩院と合わせて京都防衛の砦として設置したらしい。
敷地が広くて、やや、統一感に欠けるような気がしたが、全体的にはすばらしいお寺だと思う。
今回、うっかり中を拝観しないで外だけ見て帰ったのだが、会津藩士のお墓を見ることが出来た。
幕末の動乱期、このお寺に会津藩士1000名が駐留し、うち300余名が亡くなり、そのお墓を建立したのだという。
普通のお墓なのだが、木札が立てられており
此ハ会津人ノ聖地デス
礼節ヲ持ッテ墓参シテ
下サイ
西雲院
住職
と記されている。
なんかそれを読んだだけで涙が出そうになった。
まったく年取って涙腺がゆるくなったものである。
負け組みになることがほぼ分かっていても、士道のため京都守護職を引き受け、動乱のさなかに乗り込んでいった会津藩主容保公と藩士たちのやせ我慢の美学、気迫。
大東亜戦争における神風特攻隊として散華した若者たちと共通点があると思う。
フランス人の文学者アンドレ・マルロオ氏が特攻隊員の遺書などを調べて評して、彼らは決してファナティック(熱狂的)ではなかった、従容として決死の作戦に臨んでいった、死の恐怖を正気のままで踏み越えていったのが偉大である、というようなこと書いているらしい。
切れて半狂乱になって死地に飛び込んでいくのではない。この道を行けば命を失う、と分かっている。
しかし自分の命より大事なものを守るために死地に飛び込んでいく。
立場は異なるが吉田松陰も同じような心情を歌に残している。
かくすれば、かくなるものとしりながら、やむにやまれぬ大和魂。
我々のご先祖さまたちはこういう精神風土を培い、引き継いできたのだ。
自分など歴史に名を残した先人の方々にはまったく及びもつかないが、そういう伝統・歴史を持つ民族の末席にいることを忘れず、ご先祖さまに恥ずかしくない行動をとれるように気をつけたいものだ。
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