今月このblogのネタ元の1人でもある大塚惟謙氏が永眠された。92歳の大往生であった。氏は最後の内務省官僚でありその後自治省や警察庁でご活躍された。故後藤田警察庁長官の懐刀として活躍され数多くの法律を作成された。東北管区局長で退官された。
今回は戦後日本の治安の戦略的部分と言うか仕組みを作られた大塚惟謙氏について追悼の意味を込めて纏めてみたい。
氏は、大正14年に貴族院議員の大塚惟清氏の次男として生を受ける。このお父上が内務省初の官費留学生であり、当時欧州で吹き荒れていたレイニン革命の対策として英国で施行された「外事警察」制度や後日悪名高い「特別高等警察」制度を輸入された。最後は中国総監(昭和20年に作られた本土決戦で降伏する権限を有する親任官)で広島の原爆で亡くなられた。母方のご祖父は陸軍皇道派のドン上原元帥(子爵)であり、幼児期に薫陶を受けていたようだ。
氏は海軍少尉として赴任直後に終戦、その後京大に戻り卒業、廃止が決定していた内務省に入省された。
氏が未だ見習い警部の時、日本刀をGHQと折衝し救った。日本刀は武器としてGHQに所持禁止されていたのを美術品としてその存続を公式に約束させた、25歳だったそうだ。
その後、質屋営業法を法制化しそれまで各地の慣習による影響力が大きかった質屋の世界を統一した法律で一律化した。
28歳の時当時自治庁に出向しここで明治以来の大事業を完遂させる。それは「住所の地番を並べた」と言う大事業である。それまでの日本の地番は法務省管轄であり、登記の受付番号を「地番」に使用していた。コンサートホールの座席がランダムな情況と同じである。この「地番」を並べた、そして地番付与権を法務省から各市町村に移した。これで1番地の隣が2番地となった。それまでは地番がランダムだったので119番が掛かっても地番だけでは住居が不明で消防車が到着した時は全焼と言うケースも多かったそうだ。この「地番」が並んでいることで現在宅急便業界は有益に活動できる。昭和36年当時の話だそうだ。
警察庁に戻り、装備課長の時、機動隊のジラルミンの大盾やプロテクター、ヘルメット、装甲車の採用に尽力される。当時は全共闘や赤軍派のデモやテロの嵐が吹き荒れていた時代である。
デモ隊の学生も完全武装の機動隊が来ると逃げ出したり、完全武装されていない機動隊の所でデモするようになる。それも全国の機動隊が完全武装するに下火になっていく。この完全武装の予算化に職をかけて実現されたのが氏である。
浅間山荘事件で山荘の近くまで機動隊の装甲車が行っていたが氏が採用された装甲車が活躍した。その浅間山荘の前の神奈川での警官の殉職(惨殺)で、後藤田長官から給与課長だった氏に厳命されたのが殉職者の遺族への補償であった。氏が数々の反対者を説得し「特別公務補償制度」と言う法律を通した。この法律は戦後初めて警察庁から提出された法案で反対票「0」で成立した法案であった。この法律のおかげで、警察官だけでなく自衛官や消防署員・団員、その他の殉職者のご家族に、2階級特進の倍+50%の年金が出ることとなった。
311の陸前高田市の最後までアナウンスしていた女性もこの法律に該当する。亡くなった命は戻らないが、「国家のために命を捨てることになったのであるから、ご遺族には生活の苦労が無いようにと、一時金では無く年金にした(詐欺に遭わないように)」と仰られていた。
その後、機動隊の装備が一巡したら、次に各県警にヘリを導入された。2000年代に入ってからはドクターヘリの各省庁の調整もされていた。この時「最近の官僚は自省の利益ばかり固執して、国家国民のためと言う視点が欠けている」と嘆かれていた。
そして災害時や紛争時の被害者対策としてボランティアの組織化と有効活用を目的とした国民保護法に基く公益社団法人危機管理協会の立ち上げ半ばで他界された。
氏の功績はもっと国民に知られて良いものである。いや知らせるべきである。功績に比して生活は渇渇であり、繕い物のスーツを召していることが多かった。10年ほど前に叙勲はされていたが、清貧と氏のことを言うのだと常々皮肉を言っていた。
警察に労働組合が無いのも氏の功績である。他の公務員より号俸が最初から高く設定したそうだ。労働組合活動すれば他の公務員と同等の号俸になり給与が下がるのでバカバカしくて警察官は組合活動などしないようにしたそうだ。
警察官が労働運動でストなど日本では起きないのは氏のおかげである。左翼の方々にすれば敵以外の何者でもない。
氏のご冥福をお祈りすると共にこれまでこのblogのネタの提供とご指導に感謝をこめたいと思います。個人的には、「こいつは孫みたいな奴だから」と可愛がっていただき感謝の念が絶えません。