気温は前日より上がったものの北風が強く体感温度の低い中でのウォーキングになりました。風のないところではおひさまの温かみも感じることができました。このコースは隣接する世田谷区にちょっと遠征してご近所を見て回る試みです。
五本木児童遊園
祐天寺駅に集合して、近くの公園をお借りしてストレッチをして出発します。
聴力障害者情報文化センター
謡坂
謡坂を下り、蛇崩方面へ。
シダ
サザンカかな?
芦毛塚
芦毛塚は下馬の地名の元となる故事の残る場所です。かつてこのあたりは湿地で頼朝が乗っていた芦毛が足を取られて死んでしまったので、この付近は馬から降りて通行するよう頼朝が命令し「馬引沢」呼ばれるようになったのです。馬から降りた場所が下馬で乗った場所が上馬という説を私は信じていません。馬引沢村が大きかったので蛇崩川に沿って上流から上馬引沢、中馬引沢、下馬引沢と呼ばれていたものが上馬、下馬と短縮された説を支持します。中馬引沢は街道の分岐にあった三軒の茶屋から三軒茶屋と呼ばれるようになりました。
ユズ
ヒメリンゴ
ハクモクレン
キンカン
足毛橋
蛇崩川緑道案内図
三宿通りの橋の名前は足毛橋で芦毛から変化したものと思われます。
駒繋神社
頼朝が参拝した際に馬をつないだ松の木があったということが駒繋神社の名の由来です。
スイセン
ちょっと大きめ、夏みかんかな
西澄寺武家屋敷門
西澄寺
武家屋敷門は蜂須賀家の江戸藩邸から移築し、東京都の有形文化財に指定されています。
青空に煙突
三軒茶屋商店街
ブラックラムズ東京はリコーのラグビーチームです。
三軒茶屋大山道の道標
キャロットタワー
世田谷線
目青不動教学院
目黒不動と並ぶ江戸五色不動の一つ。来月もう一色訪れる予定です。
太子堂八幡神社
太子堂八幡神社略記
御祭神 誉田別命
大 祭 十月第二日曜日
社殿改築 昭和十二年八月十日
御由緒及此地の沿革
当社の鎮座年歴不祥なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦1592~6年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命を受け陸奥の阿部氏征討に向かう途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮のご分霊を勧請し村の守護神として祀ったことは明らかである。
太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行き着く目的地の名を取って付けたようである。
この鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴を張った、太子堂上本村一二一~二番地のあたりを(五丁目)土器塚と云い酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の號をとりて部落の村名とした。
以上は、古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。
太子堂弁天
圓泉寺
藤の絡まる灯篭
太子堂
太子像
木のウロの祠
縁起にあったように、太子堂の地名の由来となった太子堂。
三宿の森緑地
三宿の森を育てる会のサイトから引用します。
【緑地の由来】
2004年4月1日に開園した三宿の森緑地は、緑の少ないこの地において8,000㎡という面積を持ち、
樹齢百年に及ぶ大きな樹木と自然を大切に残すように設計された世田谷区立公園です。
1.屋敷の成立――敷根氏の時代
昭和の初年、雑木林と畑が広がるこの地を屋敷にしたのは敷根氏であるとされている。今の敷地よりずっと広く土地を求めて造園に着手し、二階建ての日本家屋を着工した。家屋は出来上がって昭和51年に5階建ての研修所宿舎建設のために取り壊されるまで、戦前の典型的日本家屋の優美な姿をとどめていた。事情はつまびらかでないが、敷根氏はここに住むことなく、中村氏が後を継いで屋敷としての完成を見る。
2.屋敷の完成――中村氏の時代
敷根氏から屋敷を引き継いだ中村氏は大陸方面で、日産コンツェルンを作った有名な鮎川義介氏と共同で事業を営んでいたという。当主は事業の地である朝鮮に在って、子息夫妻が三宿に居住し、今に残る樹林や十三重の塔、石灯籠、石像や、日本家屋と共に取り壊された泉水など、屋敷を作り上げた。今は2棟のマンションが建つ一段下がった土地には使用人の住む家があったから、敷地は1倍半くらいはあったであろう。同夫妻はこの地で3人の令嬢に恵まれ、テニスコートを邸内に持ち、揃って乗馬を楽しむという優雅な生活であったという。戦争はこの一家にも過酷な運命をもたらす。朝鮮の事業は烏有に帰し、子息は戦地から帰ることはなかったのである。
3.法務省施設の時代――昭和50年まで
終戦後はおそらく財産税物納のため国有地となり、法務省の施設となった。日本家屋は寮として使い、住宅不足時代のため職員の官舎が数棟建てられ、後には研修に召集される全国職員のための2階建て寄宿舎が設けられたが、いずれも木造であった。
樹木は年を経て成長し、隣接の三宿神社と併せて高速道路からも目立つ三宿の森となっていった。なおこの時代のエピソードがある。昭和29年のいわゆる造船疑獄のとき、時の与党幹事長佐藤栄作氏が、約400米の距離にある北沢の自宅から着流し下駄履きで散歩と称して出かけ、張り込む記者の目をくらまし、ここで検察の取り調べを受けた。犬養法務大臣の指揮権発動で難を逃れた佐藤氏は、後に総理大臣となる。その後も重大事件があるたびに記者の張り込みが見られた。
4.法務省研修所大ビルディング建設反対運動
昭和50年に法務省は突然近隣住民に対して大ビルディングの建設計画を発表した。手狭になった寄宿舎を建て直すと同時に敷地内に研修所自体を設けるため、8階建てのビルなどを建設するというのである。当時は2階建てまでの木造家屋しかない住宅地に巨大なビルをつくり、そのために樹木は多く伐採もしくは移植する、多くの近隣家屋に日照被害を与えるという国による環境破壊のとんでもない計画であった。
隣接する住民だけでなく近隣の参加を得て、早速法務省三宿ビル建設反対の会を結成して、署名運動から世田谷区への請願、区議会議員への個々の陳情、果ては参議院での質問に取り上げてもらうなど懸命の運動を繰り広げた。だが当時は日照権こそ認められていたが、環境破壊についての一般の認識は今とは格段の差があったので、運動は困難を極め、法務省との協議は時に激しいものとなった。しかし熱心な運動の結果、各方面の関心と協力を得られるようになり、また法務省としても環境保全の重要性について次第に理解を示し、計画建物の規模を縮小して昭和51年春には建設反対の会との協定を結んで、5階建て建物などの建設工事に着工した。
このときに樹木については一部移植や伐採はあるが、"等価的かつ等量的に保存する"とされたのは特記すべきであろう。建物は昭和53年に完成して、研修所の寄宿舎と若干の講義の場所として使われ、また毎年秋には司法試験の最終面接テスト会場となっていた。
5.法務省施設の完全移転と三宿の森緑地の成立
法務省が研修所を浦安に新設するので、三宿からは完全移転するらしいとの噂が流れたのは、平成9年のはじめ頃であった。もうこの土地は有力な不動産会社が入手することになっていて、マンション開発になるからと期待している商店もあるというのである。噂は次第に形となり、移転は本決まりとなって、建物と敷地は平成10年3月に法務省から大蔵省へ移る、その後の用途は決まっていないと同年秋に口頭説明があった。建設反対の会のメンバーであった近隣住民は、有志の名前で昭和50-51年のいきさつや協定確認事項を記し、環境と緑、樹林を保存するため特段の配慮を要請する文書を世田谷区や法務省、大蔵省に提出した。
片や北沢川緑道で大きな貢献をし、環境保全のトヨタ財団賞を獲得したエコアップサークル「環」のメンバーも法務省移転の情報を入手して、世田谷区で最も緑被率の低い三宿の再び得られない樹林や環境を守るべきだと立ち上がり、両者合同して三宿の緑を守る会を結成した。この残された樹林や敷地の環境的価値と、敷根、中村氏の残した石像などの文化的価値を知ってもらおうと、三宿の緑を守る会はセミナーを催して多くの人々の関心をよび、区への請願書にはわずか1週間で2千人を超える署名が集まったのである。
平成10年10月世田谷区議会はこの請願を、願意に沿うようとの意見を付けて全会一致で採択した。それを受けて区は構想を練り、大蔵省ほかとの折衝を重ね、この法務省跡地を国から買い取って公園として整備することを正式に決定したのは平成12年12月のことであった。以来平成13年度に用地取得、14年度既設建物等の撤去、15年度公園化の工事を経て、16年4月1日に三宿の森緑地として開園の運びとなった。この間世田谷区は区民の要望を聞くべく辛抱強く打合会を持った。
南側崖の土留め工事をやり直すために年を経た貴重な樹木が数多く移植され、せっかくの樹林がまばらになってしまったなど残念な点はあるが、出来上がった姿には三宿の緑を守る会が当初提案した構想が基本的に生かされている。会の中心メンバーであり、高齢であっても知識、実行力、人格のいずれの面からもみんなの尊敬を集めた柳田友邦氏が、完成を見ずに平成15年5月に逝去されたのは誠に残念なことであった。享年92歳、同氏の徳をたたえ、また公園の実現に関わった方々に感謝するため、近隣と会の有志でサンシュの若木を記念植樹したのは、開園に先立つ内覧会の日、平成16年3月23日であった。この地で幼時を過ごしたかっての中村家令嬢も一人この日に来られ、感慨を深めていたことを記し、三宿の森緑地由来の紹介とする。
三宿神社
こちらの境内をお借りしてストレッチをして解散としました。三宿の地名の由来を世田谷区のサイトから引用します。
三宿村は東を池尻、南を下馬引沢、西を太子堂、北を代田村に囲まれ舌状形をしていて、北側は東西が約600メートル、南側は約200メートルで、南北の長さは900メートルほどのこぢんまりとした村でした。村は字が北宿、本宿、南宿の三つに分かれますが、村の人はこれを上(北宿)、中(本宿)、下(南宿)と呼んでいました。この三宿の名はこの三つの宿名からつけられたものだという説があります。もう一つの説、村の北部を流れる烏山用水によって水利に恵まれていたので、水の宿る所から水宿となり、それが三宿になったという説が有力です。
アートギャラリーのようです
サトイモ?
騎兵第一連隊址
このコースを始めて歩く人向けに階段を上ってきてみました。秋山好古が揮毫した石碑があります。
ボケ
目黒川の緑道を大橋まで歩き、本格的に解散です。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。
五本木児童遊園
祐天寺駅に集合して、近くの公園をお借りしてストレッチをして出発します。
聴力障害者情報文化センター
謡坂
謡坂を下り、蛇崩方面へ。
シダ
サザンカかな?
芦毛塚
芦毛塚は下馬の地名の元となる故事の残る場所です。かつてこのあたりは湿地で頼朝が乗っていた芦毛が足を取られて死んでしまったので、この付近は馬から降りて通行するよう頼朝が命令し「馬引沢」呼ばれるようになったのです。馬から降りた場所が下馬で乗った場所が上馬という説を私は信じていません。馬引沢村が大きかったので蛇崩川に沿って上流から上馬引沢、中馬引沢、下馬引沢と呼ばれていたものが上馬、下馬と短縮された説を支持します。中馬引沢は街道の分岐にあった三軒の茶屋から三軒茶屋と呼ばれるようになりました。
ユズ
ヒメリンゴ
ハクモクレン
キンカン
足毛橋
蛇崩川緑道案内図
三宿通りの橋の名前は足毛橋で芦毛から変化したものと思われます。
駒繋神社
頼朝が参拝した際に馬をつないだ松の木があったということが駒繋神社の名の由来です。
スイセン
ちょっと大きめ、夏みかんかな
西澄寺武家屋敷門
西澄寺
武家屋敷門は蜂須賀家の江戸藩邸から移築し、東京都の有形文化財に指定されています。
青空に煙突
三軒茶屋商店街
ブラックラムズ東京はリコーのラグビーチームです。
三軒茶屋大山道の道標
キャロットタワー
世田谷線
目青不動教学院
目黒不動と並ぶ江戸五色不動の一つ。来月もう一色訪れる予定です。
太子堂八幡神社
太子堂八幡神社略記
御祭神 誉田別命
大 祭 十月第二日曜日
社殿改築 昭和十二年八月十日
御由緒及此地の沿革
当社の鎮座年歴不祥なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦1592~6年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命を受け陸奥の阿部氏征討に向かう途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮のご分霊を勧請し村の守護神として祀ったことは明らかである。
太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行き着く目的地の名を取って付けたようである。
この鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴を張った、太子堂上本村一二一~二番地のあたりを(五丁目)土器塚と云い酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の號をとりて部落の村名とした。
以上は、古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。
太子堂弁天
圓泉寺
藤の絡まる灯篭
太子堂
太子像
木のウロの祠
縁起にあったように、太子堂の地名の由来となった太子堂。
三宿の森緑地
三宿の森を育てる会のサイトから引用します。
【緑地の由来】
2004年4月1日に開園した三宿の森緑地は、緑の少ないこの地において8,000㎡という面積を持ち、
樹齢百年に及ぶ大きな樹木と自然を大切に残すように設計された世田谷区立公園です。
1.屋敷の成立――敷根氏の時代
昭和の初年、雑木林と畑が広がるこの地を屋敷にしたのは敷根氏であるとされている。今の敷地よりずっと広く土地を求めて造園に着手し、二階建ての日本家屋を着工した。家屋は出来上がって昭和51年に5階建ての研修所宿舎建設のために取り壊されるまで、戦前の典型的日本家屋の優美な姿をとどめていた。事情はつまびらかでないが、敷根氏はここに住むことなく、中村氏が後を継いで屋敷としての完成を見る。
2.屋敷の完成――中村氏の時代
敷根氏から屋敷を引き継いだ中村氏は大陸方面で、日産コンツェルンを作った有名な鮎川義介氏と共同で事業を営んでいたという。当主は事業の地である朝鮮に在って、子息夫妻が三宿に居住し、今に残る樹林や十三重の塔、石灯籠、石像や、日本家屋と共に取り壊された泉水など、屋敷を作り上げた。今は2棟のマンションが建つ一段下がった土地には使用人の住む家があったから、敷地は1倍半くらいはあったであろう。同夫妻はこの地で3人の令嬢に恵まれ、テニスコートを邸内に持ち、揃って乗馬を楽しむという優雅な生活であったという。戦争はこの一家にも過酷な運命をもたらす。朝鮮の事業は烏有に帰し、子息は戦地から帰ることはなかったのである。
3.法務省施設の時代――昭和50年まで
終戦後はおそらく財産税物納のため国有地となり、法務省の施設となった。日本家屋は寮として使い、住宅不足時代のため職員の官舎が数棟建てられ、後には研修に召集される全国職員のための2階建て寄宿舎が設けられたが、いずれも木造であった。
樹木は年を経て成長し、隣接の三宿神社と併せて高速道路からも目立つ三宿の森となっていった。なおこの時代のエピソードがある。昭和29年のいわゆる造船疑獄のとき、時の与党幹事長佐藤栄作氏が、約400米の距離にある北沢の自宅から着流し下駄履きで散歩と称して出かけ、張り込む記者の目をくらまし、ここで検察の取り調べを受けた。犬養法務大臣の指揮権発動で難を逃れた佐藤氏は、後に総理大臣となる。その後も重大事件があるたびに記者の張り込みが見られた。
4.法務省研修所大ビルディング建設反対運動
昭和50年に法務省は突然近隣住民に対して大ビルディングの建設計画を発表した。手狭になった寄宿舎を建て直すと同時に敷地内に研修所自体を設けるため、8階建てのビルなどを建設するというのである。当時は2階建てまでの木造家屋しかない住宅地に巨大なビルをつくり、そのために樹木は多く伐採もしくは移植する、多くの近隣家屋に日照被害を与えるという国による環境破壊のとんでもない計画であった。
隣接する住民だけでなく近隣の参加を得て、早速法務省三宿ビル建設反対の会を結成して、署名運動から世田谷区への請願、区議会議員への個々の陳情、果ては参議院での質問に取り上げてもらうなど懸命の運動を繰り広げた。だが当時は日照権こそ認められていたが、環境破壊についての一般の認識は今とは格段の差があったので、運動は困難を極め、法務省との協議は時に激しいものとなった。しかし熱心な運動の結果、各方面の関心と協力を得られるようになり、また法務省としても環境保全の重要性について次第に理解を示し、計画建物の規模を縮小して昭和51年春には建設反対の会との協定を結んで、5階建て建物などの建設工事に着工した。
このときに樹木については一部移植や伐採はあるが、"等価的かつ等量的に保存する"とされたのは特記すべきであろう。建物は昭和53年に完成して、研修所の寄宿舎と若干の講義の場所として使われ、また毎年秋には司法試験の最終面接テスト会場となっていた。
5.法務省施設の完全移転と三宿の森緑地の成立
法務省が研修所を浦安に新設するので、三宿からは完全移転するらしいとの噂が流れたのは、平成9年のはじめ頃であった。もうこの土地は有力な不動産会社が入手することになっていて、マンション開発になるからと期待している商店もあるというのである。噂は次第に形となり、移転は本決まりとなって、建物と敷地は平成10年3月に法務省から大蔵省へ移る、その後の用途は決まっていないと同年秋に口頭説明があった。建設反対の会のメンバーであった近隣住民は、有志の名前で昭和50-51年のいきさつや協定確認事項を記し、環境と緑、樹林を保存するため特段の配慮を要請する文書を世田谷区や法務省、大蔵省に提出した。
片や北沢川緑道で大きな貢献をし、環境保全のトヨタ財団賞を獲得したエコアップサークル「環」のメンバーも法務省移転の情報を入手して、世田谷区で最も緑被率の低い三宿の再び得られない樹林や環境を守るべきだと立ち上がり、両者合同して三宿の緑を守る会を結成した。この残された樹林や敷地の環境的価値と、敷根、中村氏の残した石像などの文化的価値を知ってもらおうと、三宿の緑を守る会はセミナーを催して多くの人々の関心をよび、区への請願書にはわずか1週間で2千人を超える署名が集まったのである。
平成10年10月世田谷区議会はこの請願を、願意に沿うようとの意見を付けて全会一致で採択した。それを受けて区は構想を練り、大蔵省ほかとの折衝を重ね、この法務省跡地を国から買い取って公園として整備することを正式に決定したのは平成12年12月のことであった。以来平成13年度に用地取得、14年度既設建物等の撤去、15年度公園化の工事を経て、16年4月1日に三宿の森緑地として開園の運びとなった。この間世田谷区は区民の要望を聞くべく辛抱強く打合会を持った。
南側崖の土留め工事をやり直すために年を経た貴重な樹木が数多く移植され、せっかくの樹林がまばらになってしまったなど残念な点はあるが、出来上がった姿には三宿の緑を守る会が当初提案した構想が基本的に生かされている。会の中心メンバーであり、高齢であっても知識、実行力、人格のいずれの面からもみんなの尊敬を集めた柳田友邦氏が、完成を見ずに平成15年5月に逝去されたのは誠に残念なことであった。享年92歳、同氏の徳をたたえ、また公園の実現に関わった方々に感謝するため、近隣と会の有志でサンシュの若木を記念植樹したのは、開園に先立つ内覧会の日、平成16年3月23日であった。この地で幼時を過ごしたかっての中村家令嬢も一人この日に来られ、感慨を深めていたことを記し、三宿の森緑地由来の紹介とする。
三宿神社
こちらの境内をお借りしてストレッチをして解散としました。三宿の地名の由来を世田谷区のサイトから引用します。
三宿村は東を池尻、南を下馬引沢、西を太子堂、北を代田村に囲まれ舌状形をしていて、北側は東西が約600メートル、南側は約200メートルで、南北の長さは900メートルほどのこぢんまりとした村でした。村は字が北宿、本宿、南宿の三つに分かれますが、村の人はこれを上(北宿)、中(本宿)、下(南宿)と呼んでいました。この三宿の名はこの三つの宿名からつけられたものだという説があります。もう一つの説、村の北部を流れる烏山用水によって水利に恵まれていたので、水の宿る所から水宿となり、それが三宿になったという説が有力です。
アートギャラリーのようです
サトイモ?
騎兵第一連隊址
このコースを始めて歩く人向けに階段を上ってきてみました。秋山好古が揮毫した石碑があります。
ボケ
目黒川の緑道を大橋まで歩き、本格的に解散です。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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