目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

東部地区コース 約5.4km&忘年会

2024-12-10 11:58:45 | 東京都目黒区
12月の第二週は忘年会のため忘年会会場の近くでウォーキングを終える、忘年会の開始時間に合わせてスタート時間を決めるなど忘年会仕様になっています。


祐天寺墓地の広い空
集合は祐天寺駅改札、祐天寺に移動してストレッチをしてスタートです。私が子供のころは近所で広い空が見られる場所はいくらでもあったのですが、最近はこんな空が見える場所は少なくなりました。


油面小学校前の立派な門
個人のお宅のようですがヒマラヤスギも立派ですね。油面小学校は向田邦子さんが一時通っていたそうです。小字「油面」について目黒区のサイトから引用します。
目黒の地名 油面(あぶらめん)
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 油面
「油面(あぶらめん)」は、衾(ふすま)・碑文谷(ひもんや)などとともに、初めての人にはまず読めそうにない地名の一つ。もとは、現在の中町一丁目に、同二丁目、中央町二丁目の一部を加えた一帯の旧字名だが、その名は、油面小学校、油面公園をはじめ、商店街通りや交差点、バス停などに今も残り、「住区」の名称ともなっており、その長い歴史に新たな一ページを加えている。
さて、「油面」の地名は、多くの地名の例に漏れず、土地の産物にちなむもの。江戸時代の中ごろから、この辺り一帯では菜種の栽培が盛んとなり、絞った菜種油は芝の増上寺や、その流れをくむ祐天寺の灯明用として使われていた。この油の奉納に付随して、絞油業に対する租税が免除されていたらしく、油製造により税が免ぜられている村、すなわち「油免」が、いつしか「油面」となったと伝えられる。
ただし、「面」については、韓国などで、村長のことを面長といっているように、「村」の意味とする説もあり、この説によれば、「油面」は、単に「油のとれる村」の意味となる。
なお、菜種の栽培は昭和の初めごろまで行われ、開校当時(大正14年)の油面小学校は、菜の花畑と竹やぶ、雑木林に囲まれた、畑の中の学校だったという。路線バスが商店街や住宅地を縫うように走る今日の町並みからは、想像もできない風景である。



油面子育地蔵尊
関連する情報を目黒区のサイトから引用します。
目黒のみち 油面地蔵通り
「目黒のみち」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒のみち 油面地蔵通り
目黒消防署の筋向かいの油面交番を北に入る道が、高地蔵尊を中心として栄える商店街、油面地蔵通りである。
現在、地蔵尊は商店街のほぼ中央の堂舎内にあるが、元は目黒通りの前身、下野毛道に面して、油面交番の向かいの角にあった。そこは、三田・白金方面から続く下野毛道が、祐天寺方面と碑文谷、九品仏方面に分岐するところであり、地蔵尊を載せる台石に刻まれた(右面)「是より右ゆうてん寺」、(左面)「是より左九ほんぶつ」の文字から、道標でもあったことがわかる。それが、関東大震災後、目黒通りの拡張や周辺の宅地化により、現在地へ移転された。
子育て・眼病にも霊験あらたかとして、お参りする人も数多い。



林試の森公園 くぬぎ門

林試の森の紅葉

寒さを吹き飛ばして遊ぶ子供たち
ずっと南下し、くぬぎ門から林試の森公園に入ります。この日はこの冬一番の冷え込みで北風も強くとても寒い夕方でしたが、子供は元気ですね。


目黒不動仁王門とイチョウの黄葉

ジュウガツザクラと紅葉

車祈祷所

イチョウの黄葉

コダチダリヤ

仁王門と月
目黒不動でトイレ休憩。この日は階段下から遥拝するだけでした。


五百羅漢寺

目黒川
羅漢寺川跡に沿って山手通り、一本裏に入り電車道。電車道について目黒区のサイトから引用します。
目黒のみち 電車道
「目黒のみち」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒のみち 電車道
権之助坂の下、目黒川に架かる新橋のたもとから、不動前方面へ向けて斜めに走る道がある。歩道を含め、最大幅員18メートルに及ぶ立派な道だが、全長わずかに600メートル足らず。山手通りに交差した途端、こつ然ととぎれる、太く短い道である。
戦前、東京市が天現寺・恵比寿長者丸間の市電路線を延長するために買収した軌道敷用地が、この道の前身。昭和19年に、既存の路線自体が廃止となったため、戦後、新橋から終点予定地までの軌道敷用地が、そのまま道路に生まれ変わった。
柳並木があったため「柳通り」の名もあるが、現在はハナミズキの並木道である。昔を知る人の間では、今も「電車道」と呼ばれる、歴史を刻む道である。


太鼓橋で目黒川を渡ります。昔の太鼓橋はこちら
太鼓橋については八百屋お七に絡む話もあるのでWikipediaから引用します。
最初の架橋と伝説
1769年(明和6年)に完成した。建設された当時としては珍しい石造りであった。長さ8間3尺(約15.3メートル)、幅2間(約3.6メートル)であり、名前の通りいわゆる「太鼓橋」の形状をしていた。
斎藤月岑が『江戸名所図会』(第三巻、1834年)に選び、歌川広重が『江戸名所百景』(1857年)にも描いた。周辺には目黒不動や行人坂、千代ヶ崎(上大崎村千代ヶ崎、現在の品川区上大崎3丁目)等の名所が多かった。
太鼓橋を造った人物には諸説あり、八百屋お七の恋人の吉三郎が出家した西運上人だったという伝説がある。修行中に江戸の民衆から寄進を集めて太鼓橋を造ったという。橋の東側にあった大円寺には吉三の伝説が書かれた標識があったほか、旧太鼓橋に使用された石材が置かれてある。ほかにも、木喰上人(木食養阿)が1700年代の始めに作り始め、江戸・八丁堀の町人が資金を出し合い、完成させたという説がある。
同地は、1889年(明治22年)までは荏原郡下目黒村、1922年(大正11年)までは同郡目黒村大字下目黒、1932年(昭和7年)までは同郡目黒町大字下目黒であった。当初の石橋は、1920年(大正9年)9月1日に豪雨で流された。


目黒川沿いを北へ向かい、船入場でストレッチをして解散。多くは忘年会へ。


代官山花壇

この日のメニュー
贅沢な忘年会で楽しい時間を過ごしました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。

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