昨年の何月号だったか
JR東日本「大人の休日倶楽部」に特集記事が載ってましたし、
またこのブログでも簡単に紹介しましたが、
安積疏水はが 日本遺産に認定されました。
そのことに関して、思い出したことがあります。
極めて私的なと言うか、身内(母方の祖母)の話ですが、どうぞお付き合いの程をヽ`(~д~*)、ヽ`…(汗)
ここに、昭和53年2月14日の福島民報「大郡山版」の〝写し”があります。
見出しは、
「中条政恒邸跡 史跡公園に」〝安積開拓の父”永遠に 地権者、快く了解 と。
安積疏水(あさかそすい)と言えば、中条政恒とファンドールン、ですね。
旧米沢藩士 中条政恒は、
安積疏水事業と安積平野開拓に情熱を注ぎ、郡山発展の道をひらいた。
作家の宮本百合子は、中条正恒の孫にあたり、
「貧しき人々の群れ」や「播州平野」は、郡山市を舞台にしている。
(福島民報より抜粋)
この新聞報道から約2か月後の4月4日、
祖母(86歳)と祖母の兄嫁(96歳)が、この史跡公園に、山桜の苗木4本の植樹をしました。
この史跡公園は、現在の開成郵便局の真ん前にあります。
この前年の4月から5月にかけて入院した義母。
病院に泊まり込みで看病したのは、私いっこんまでした。
これ ↓ は、身体が弱っていた祖母が、当時の市長高橋亮氏あてに書いたお礼状です。
『中條邸跡記念公園に植樹申し入れが、市長様のお許しを得て、
姉(スカ)と、市の木「山桜」四本植えさせて頂きました。
誠にありがとうございます。
歴史を大事にする市長様、地下の中條様と半右衛門と喜んで居る事と思います。
山桜の成長と百万都市の前途を祈願して止みません。
塩田様、忠花園の皆様にはお世話になりました。
今、旧邸跡に立ちて、
祖母(ウン)様に手を引かれて
帰桑毎に寄ってくれた子どもの頃(8、9才の頃)の百合子さんの色白な可愛い顔を思い起こしてゐます。
又、ウン様、開拓当時、政恒様と共に起居した裏の廃屋を見廻って、
当時のきびしさ、つらさを思い出してゐました。
私の13、4才の頃です。
七郎(甥)の嫁の背中で、ここは中條邸(サマ)の屋敷だなあ~と漏らし、
碑を読みだした姉の言葉には誠に驚きました。
皆の人が力を合わせて郡山の文化を守り続けますやう切に願い居ります。
姉共々長生きして、又山桜の節に必ずここをおとつれて来ます。
皆様ほんとうに有りがとうございました。
心より郡山の発展を祈って止みません。
昭和五十三年四月四日
相楽 スカ(96才)
登梛 千代(86才)
植樹の日に記す』 (原文のまま)
祖母の父は、大槻村最後の名主でした。
*大槻村最後の名主 相楽半右衛門伝 矢部洋三
故に、上記民報新聞の「地権者」=相楽家となります。
上の手紙は何度読んでも私の胸にジンと来ます。
そして、気になること。
40年の時を経た今、google map を開くと、この史跡公園は、開成緑地となってます。
史跡公園ではないのか? 4本の山桜はどうなっているのか?
山桜の咲く頃に、祖母に会いに行きます!
<追記>
この後、祖母の病気が悪化しました。
父の提案で、長女である母が引き取ることになり、4年間の自宅介護。
初め、お医者様が数回訪問してくださいましたが、
「このお歳ですから、もう薬は要らないでしょう」と。
母が殆ど一人で介護しておりました。
それでも寝たきりで4年間生き延びたのです。
毎日身体を拭いてあげたりと、献身的な介護が功を奏したのでしょう。
誤嚥も褥瘡もなく、見事な最後でした。
加登屋酒店HP こちらもどうぞ。