伯母(義父の姉)が満87歳で亡くなりました。
11月29日の朝に脳梗塞で緊急入院。
伯母の家族や大阪の叔父(義父の弟)など全員が集まり、ずっと様態を見守っていましたが、血圧や脈拍などに変化はなく、しばらく小康状態を保っているだろうということで、3日には子供たちが、4日には叔父も帰って行きました。
ところが、長男の家族だけが付き添っていた6日の夕方に急変し、静かに眠るように息を引き取り、帰らぬ人となったのです。
7月中旬に軽い脳梗塞で倒れ、市内の総合病院へ入院、
8月8日に磐梯熱海のリハビリ専門の病院へ転院、
11月1日からは家の近くの介護施設に入所していて、
最後に会ったのは、20日の午後、商工会館での会議の帰りでした。
その後、何度も行きたいと思いつつ、月末のために忙しくてつい果たせず・・・
また、会うたびに涙を流しながら「家に帰りたい」と言われたのに、つい連れて帰ることが出来なかったこと、それだけが残念でなりません。
伯母は、長い間、実家である我が家のすぐ近くに一人で住んでいて、
一日に何度も行き来していましたので、家族と同じように思っていました。
翌日の朝には、親族が集まって葬儀の日程と斎場などを相談し、
8日にお通夜、9日に告別式が執り行われました。
お通夜の席で、長男のHさんと話をしている時に、
「もし誰もいなければ、ウチの娘にお別れの言葉をやらせようかな」と言うと、
「一番身近にいたMちゃんに是非・・・」ということになり、
帰りの車の中であれこれと思い出話をしていくうち、
「私もやらなければ伯母様に申し訳ない」という思いがどんどん膨らみ、
最後のお別れの言葉を母娘でやらせてもらおうということになったのです。
納棺の日にお花を入れる時、
「おばさん」と声をかけただけで喉が詰まってしまい、それ以上言葉が出なかったので、最後のお別れの時にはどうしても感謝の言葉を伝えなければ・・・そんな気持ちでいっぱいでした。
家に着くや否や、二人で原稿書きに取り掛かりました。
が、伯母との思い出を綴ろうとすると涙が止めどもなく溢れ、二人で洟を啜りながら・・・そんなこんなで夜中まで掛かって仕上げましたが、寝ている間にもずっと穏やかな笑顔の伯母の顔が浮かび、熟睡できない夜を過ごしました。
さて、当日です。
住職、火葬場、斎場の都合で、出棺、火葬、告別式、精進揚げなどが大変変則的なスケジュールになっていて、告別式は午後4時からです。
準備が整い、全員合掌でご導師様である真言宗豊山派如○寺の住職と副住職の入場を待ちます。私の心臓の高鳴りと共に、絨毯とぞうりの擦れ合う音だけが聞こえました。
約30分の読経の後、日赤の弔辞があり、そのあといよいよ私たちの「お別れの言葉」です。
読経の間中、涙を流さないよう勤めていましたが、心臓は破裂しそうです。
「おばさん」と言っただけで声が出なくなるんじゃないだろうか?
3時間しか寝てないからフラフラして倒れてしまうんじゃないだろうか?
そんなことを考えながら、何度深呼吸をしたことでしょう。
娘は、早くも鼻をズルズルさせています。
私までもグスグスとなり・・・
さあ、私たちの名前が紹介されました。もう後戻りは出来ません。
親族と参列者、そしてご導師様それぞれに一礼して祭壇の前へ進むと、
いよいよ度胸が座ったようで・・・
伯母の品良く作られた写真に向かい、感情を込めて話しかけることが出来ました。
娘も終始涙声でしたが、はっきりと聞き取りやすい話し方でした。
そちこちから啜り泣きが聞こえて、場内の雰囲気を背中で感じてはいましたが、
告別式が終わると、沢山の人からお褒めの言葉や感謝の言葉を戴きました。
三・七日の法要も終わり、精進揚げの会食時には多くの方々に
「良かったよ」「感動したよ」と言われ、
このような場に立たせてもらえた私たちの方が、実は幸運なのではないかと思いました。
おばさん、27年間本当にありがとう!!
天国でもずっと私たちを見守ってください。
さようなら!!
長いことご無沙汰しておりました。
記事中の「伯母」とは、一部のブログ友の方とのコメントの中で時折話題になっていた伯母のことです。
伯母の急逝は全く想定外のことで、未だに信じられません。
今日は初七日です。
ようやく正常な生活に戻りつつありますので、記事をUPしました。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
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