酒酒楽楽

酒店のオバちゃんが、商工会活動や家族のことなどをマイペースで綴っていきます。

お世話になりました

2007-12-31 20:27:43 | Weblog


大晦日は雪になりました。
皆様の地方はいかがでしょうか?
大雪にならないよう願っております。


2007年もあと数時間。
お餅を搗いてお節も少し作り、
いよいよ子年の2008年を迎える準備が整いました。

と、その時、キーボードの上を干支のチュータがチョロチョロと・・・。
少し気の早いネズミのお出ましにびっくりでした。


皆様、一年間大変お世話になりました。
お陰様で健康で楽しい日々を過ごすことが出来ました。
皆様の温かいコメントに感謝致します。
また来年もどうぞよろしくお願いいたします。


このアニメは、GIFアニメ工房の無料ソフトをお借りして作成しました。



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クリスマスの贈り物

2007-12-25 17:16:06 | Weblog
昨日のイブは昭和55年と比べれば、大分様変わりしました。

娘が生まれてから小学校6年生になるまで
サンタさんは、いつもイブの夕食前に、
玄関からそっと入って誰も知らないうちに
プレゼントを置いて行ってくれました。

夕方になると、娘は台所と玄関を何度も行ったり来たりします。
そのちょっとした合間にサンタさんはさっと入り、
絶対に姿を見せることはありませんでした。

プレゼントを見つけた娘は大喜びで包みを開き、
その喜ぶ様子を見るたび大人たち(おばさんを含めて5人)も
幸せを感じていました。

さて、昨日のイブですが、
駅前の何とかいう開店したばかりのケーキ屋さん、
娘は30分も並んだそうです。
細長いケーキがこれで4人分です。


携帯で、「夕ご飯はどうするの?」って聞くと、
「ご飯だけ炊いといて」と言うので、ご飯だけ炊いて待ってました。

帰ってくるとすぐ作ってくれたのが、
クリスマスバージョンのチラシ寿司です。
これ、なんとなくツリーに見えませんか?

粉雪が少し舞っていて、空にはお星様が輝いていますね。

お歳暮にもらったいくらとおばあ大好物の蟹かまぼこ、
錦糸卵、緑の万能ねぎをトッピングしただけのシンプルなチラシ寿司です。


ござんしょチキンを揚げていると、
「あ、あたし、ちょっと・・・お母さん、やってて」と娘がいうので、
交代してフライパンの中のチキンをひっくり返したりして・・・。

台所に戻ってきた娘がまた、
「お母さん、サンタさんが来たみたいだから見てきて」なんて・・・。

10数年前までしていたこと、立場がひっくり返っています。
思わずふき出してしまいました。

玄関にはこんなものがありました。何でしょうね。
■
どうぞ、マウスをクリックしてください。

数日前、大学の研究室の忘年会とプレゼント交換があり、
買い物に行くというので
「お母さんもほしい、お母さんにも頂戴」とせがんでみたのです。
娘はそんな気持ちを察して、私のために用意してくれました。

今年もささやかではありましたが、
小さなケーキをそれぞれ4等分して、
家族4人がいっぺんに4っつのケーキを味わって、
ほんわかと温かいクリスマスイブになりました。

我が家は真言宗ですが・・・
年の暮れに家族みんなが集まって、
お酒を飲んだりご馳走食べたり、語り合ったり、
一年間の感謝の気持ちを込めてプレゼント交換したり
そんな日があってもいいんじゃないかな~と
「来年はみんなのプレゼントを用意しよう」と
しみじみと思った夜でした。

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仁井田本家社長のブログ「十八代蔵元日記




昭和55年のクリスマス豪雪(5)最終章

2007-12-24 13:45:22 | クリスマス豪雪

            

メリークリスマス!

昭和55年の記録的な豪雪もクリスマスイブの話です。
「久しぶりにホワイトクリスマスだね~」と喜んだのも束の間でした。
ロマンチックな夢は消え、町中真っ暗なクリスマスになったのです。

例の外車ですか?
それはそれは丁重に扱わせていただきましたよ。
いつ持ち主が戻られても良いように、
降りしきる雪を車に傷がつかないよう静かに払い、
そして、外車の周りもすぐに出やすいように雪かきをして・・・


(5)最終章
完全武装して出て行く夫を、私は2階の窓から見送りました。
雪道を2キロメートル先まで歩いていくには、
相当の時間がかかると予想されます。
こんなわけで、より一層不安が募りました。

私は冷たい布団の中でただ一人まんじりともせず、夫の帰りを待ちました。
テレビも見れないので寝てるしか方法がありません。

どのくらい経ったでしょう?
うとうととしていると、玄関が開き、夫が帰ってきました。
愛車コロナは、ようやく無事に我が家へ帰ってきたのです。
深々と雪の降る真夜中のことでした。


それから3、4日して、道路の雪も駐車場の雪もほとんど消えた頃、
外車の持ち主から車を取りに来る旨の連絡がありました。

そのとき、恥ずかしながらある期待を持つ私がいました。
「いわきの人だから、活きの良いお魚のおみやげがあるかもしれない」
「いわきの名物、じゃんがらでもいいかな~」

電話の内容によると、我が家へ到着する頃はもう暗くなっているはずです。
お出でになったら先ず温かいコタツに入ってもらおう。
熱いお茶を入れてあげよう。
それから、話も聞きたい。
福島から帰る途中にどんなことがあったのか?
何故車を置いて行ったのか?
いわきまでどのようにして帰って行ったのか?

さて、もう辺りは真っ暗です。
街灯も看板の電気も点きませんから本当に真っ暗です。
地元の人なら感で分かりますが、土地勘のない人は何を目標に来るのでしょう。
心配になった私たち夫婦は、軽トラのライトを国道側に向けて
道路を照らしながらその人の到着を待ちました。

私も夫と二人で軽トラの中で待っていましたが、
何か思いつくことがあり、家の中に戻りました。
すると数分して、夫も家に入り玄関の鍵を閉める音がしました。

「あら?どうしたの?」
「うん、帰った」
「ええっ、もう帰ったの?」

実にあっけない幕切れでした。
用意していた温かいコタツもお茶も無駄になってしまいました。
詳しい話も聞けませんでした。

夫は知らない人に対して無愛想です。
私も外にいれば、こんなことにならなかったかもしれません。
中に入ったことが悔やまれましたが、もう後の祭りです。

欲を言えば、
私たち家族にも一言お礼を言ってもらえれば・・・と思いました。


<クイズの解答>
豪雪は膝上までありました。
50センチメートル前後です。
中通り地方には、このような大雪が降ることはめったにありません。
ですから、大雪に対しての備えがないのです。
備えがない故に、50センチメートルぐらいで慌ててしまいます。
備えがない故に、交通が麻痺してしまいます。

電気が点いたのは約一週間後でした。



拙い文章を読んでくださりありがとうございました。
長い間、胸の奥にしまっておいたものを
何らかの形で吐き出したいと思っておりましたが、
ようやくこんな形で表現することが出来ました。

これで、「昭和55年のクリスマス豪雪」は終了です。
皆様の感想をお聞かせいただければ幸せに思います。


P.S
今日は、27年前のクリスマスイブとは違います。
寒さは厳しいですが、雪は降っていません。
そして、嬉しいことにサンタがやってくるような気配がするのです。
我が家では久しぶりのことです。


2006年のクリスマスイブ「Merry Christmas!!」


昭和55年のクリスマス豪雪(4)

2007-12-23 21:14:47 | クリスマス豪雪

(4)
一週間電気が点かないということは、
市内全域、一週間のキャンドルナイトみたいなものです。

いえ、キャンドルナイトなら明るい見通しがありますが、
この時は見通しが全くなく、長く暗い生活の始まりでした。

電気が点かない、井戸から動力ポンプで汲み上げている水が出ない。
電気釜でご飯が炊けない。お風呂に入れない。
コタツもファンヒーターも使えない。のないない尽くしです。
暖を取るには、唯一練炭の掘りごたつがありました。

店の棚からは売り切れが続出です。
先ずろうそくが消えました。
懐中電灯や乾電池が消えました。
即席ラーメンが消えました。
菓子パンは、なくならないうちに取っておきました。

夕方、知らない男性が来ました。
「四ツ倉まで帰りたいのだが、車が進まないので泊めてもらえないか」

“○○屋”なら富山の薬屋さんも泊めていることだし、ま、聞いてみな、
と何処かで我が家をすすめられたらしいです。

四ツ倉に行くには国道49号線を真っ直ぐ走り、途中三坂峠を超えなければなりません。この峠越えが結構厳しいのです。そして、いわき市平(たいら)まで一時間ほど、そこから6号線を北上しなければならないのです。

そんな厳しい条件を考えれば、
というか、立ち往生しているのですから泊めないわけには行きません。
しかし、未だ新婚当時のうら若い私には知らないオジサンを泊めるなんて・・・
何が起こるかわからないし、とても不安でした。

家族会議の結果、
二階の座敷ではなく、階下の茶の間で寝てもらうことにして了解しました。
食事はパンとラーメンでした。

この男性、四ツ倉の自動車整備工場の方で、福島まで車検に行った帰りでした。
翌日、雪かきを手伝い、道路が正常に近い状態に戻ってから帰って行きました。

さて、心配事はもう一つ。愛車のコロナ2000GTです。
国道は除雪車が走っているので、少しずつながらも前へ進めますが、
困ったのは横道で、横道に入りたくても入れない車が国道に溢れています。
すぐそこに自宅が見えても入れなくて国道に置き去りにしなければなりません。

誰かが、「コロナが国道に停めてあったよ」と教えてくれました。
なんと我が家の愛車が2キロメートルも先の国道に置き去りにされたのです。
夫は、雪の降る中、一目散に家を飛び出して行きました。

* 次回(5)は最終章の予定です


<おまけ> 在りし日のトヨペットコロナ2000GT




昭和55年のクリスマス豪雪(3)

2007-12-22 22:30:23 | クリスマス豪雪

(3)
駐車場に残された名も知らぬ外車に目は白黒、胸はワクワクですが、
恐れ多くてドアに触れることさえ出来ません。

今日はクリスマスイブです。
当時はアイスクリームのデコレーションケーキに人気が殺到し(大げさ?)
メーカーからもらったパンフでデコレーションアイスの注文を受けていました。

家族従業員に「何個の注文をとること」なんてノルマを課したわけではないので、
幸いなことに一桁の(明確に言えばたった一個だけの)受注ということで、
今になって考えてみればこれは大変ラッキーなことで、
私たちは顔を見合わせて苦笑いをしたのでした。

夫は大のアイス好きのIさんのお宅へケーキをぶら下げて歩いて行きました。
約一キロもないので軽トラで行けば片道およそ2分の所ですが、
雪道なので20分位(?)かかったそうです。

夕方になっても雪はやまず、国道は渋滞し、
路線バスは一時間以上も遅れています。

預かった外車は降り続いた雪にすっぽりと埋もれてしまいました。
さあ、心配なのは愛車のコロナです。
今頃どの辺を走っているのでしょう?

この日から一週間、「電気がつかない」「水が出ない」の
2重苦の生活を強いられることになりました。



さて、ここで久々の問題です。
タイトルの「クリスマス豪雪」は、一体どの位積もったのでしょうか?
答えは最終回までに発表いたします。
当選された方には・・・和三盆または中華まんを進呈いたします。
ただし、最近大きなネズミが出没してちょびちょびと手を出していますので、
最終回までには全部なくなるでしょう。
その際は、それらの画像だけで我慢していただきたいと思いますので、
どうぞ悪しからず・・・。


<おまけ> 100万人のキャンドルナイト  2007・12・22 午後8時~10時


   2007年6月22日のキャンドルナイト


今日は冬至です。
餡かけの冬至カボチャを作りました。
お風呂は柚子湯にしました。
これで、年末年始を元気に過ごせそうです。



昭和55年クリスマス豪雪(2)

2007-12-21 22:50:17 | クリスマス豪雪

(2)
あっという間に夫の愛車コロナが走り去り、
我が家の駐車場には相応しくない白い外車が残されました。
見たこともない外車に目を白黒、胸はワクワクですが、
しかし、預かった車なので指一本触れることは出来ません。

雪は一向にやむ気配がなく、どんどん積もっていく一方です。
やがて庭の植木や盆栽にも雪が積もり、それはそれは重たそうに見えます。
心配した義父は竹箒でその雪を払い落としております。
さらさらした雪ではなく、水分を含んで霙がかった重たい雪なので、
さつきの大事な枝があっちでもこっちでも折れてしまいました。

暫くして向かいの山から時折「ぽき~~ん」と大きな音がします。
杉の木の枝が折れる音です。
やがてその音はいくつもいくつも連続して聞こえるようになり、
向かいの山に目を移すと、それはまるで塔婆がたったような異様な光景でした。

今日はクリスマス。アイスのデコレーションケーキの注文ももらっています。
夕方までには配達しなければなりません。



<おまけ> 中華まん



 明日(22日)は、100万人のキャンドルナイトに参加します。


昭和55年のクリスマス豪雪(1)

2007-12-20 23:13:29 | クリスマス豪雪

はじめに

昭和55年のクリスマスイブに、私たちの地方(福島県中通り地方)も近年稀に見る豪雪に見舞われました。
そのことについて記事にすることをあるブログ友と約束してましたが、未だ果たせないまま月日が経ち、今年もまたクリスマスがやってきます。

今日から何回か小分けにして、27年前のクリスマスイブを振り返ってみたいと思いますので、
もしコメントをいただけますなら、最終回にお願いしたいと思います。

(1)
昭和55年12月24日の早朝、目覚めると外は雪でした。
義父は未だ未だ元気で、うっすらと積もった店の前の雪かきをしておりました。
我が家の前には国道49号線(通称にっぺい線 新潟~平)が走っています。

ふと見ると、知らない男性が、店の前にいた夫に話しかけてきました。
「福島市内まで行きたいのだが、自動車のチェーンはないか」と言ってるらしいです。
雪の少ないいわき方面から来る車は、殆どノーマルタイヤです。
夫は、相手の外車を預かり、54年式のトヨペットコロナ2000GTを貸すことにしました。
今考えれば、全く知らない人に自分の車を貸すのはあまりにもお人よし過ぎます。
しかし、家族の誰も反対する者はおりませんでした。
例え知らない人でも、他人のために奉仕することを美徳にさえ思えたのです。


<おまけ> 大好きな和三盆  

         (記事との関係はありません)


包む楽しみ~ふろしきを使って~

2007-12-14 21:52:41 | Weblog
14日は女性部のボランティアの日でした。
何があってもこれだけは外すことが出来ません。
一昨年の記事はこちらです。 
ついでに昨年の記事も。 

独立行政法人国立病院機構福島病院というやたら長い名前の病院です。
国立の郡山病院と須賀川病院が統合されたのです。

今日は金曜日。
土日とボランティアの団体が多いので、仕事を残しておかなければなりません。
担当の方から「残しておいて」と頼まれました。

ですから、早めに切り上げて食事会の会場へと移動しました。
内心、嬉しいようでもあり物足りないようでもあり、ちょっと複雑でした。

食事の前に予定していたのが「ふろしきの結び方」の伝達講習会です。

 (パンフレットより)

           (パンフレットより)

「レジ袋の有料化」や「もったいない」という言葉。
そんな中で今注目されているのが「ふろしき」です。
包装紙やレジ袋と違って、破れにくく繰り返し使用でき、収納にも場所をとらない。
季節や贈る相手に合わせて色柄を選べる、など優れものの風呂敷の魅力を再発見してみませんか?
日本古来の「結ぶ」「折る」「包む」という作業。
風呂敷の「結ぶ」「包む」を生活に生かし、現代のエコロジーを楽しんでみましょう。
(パンフより)


持参した空の一升瓶やお菓子の空き箱を使って包んでみました。
最近とんと使わなくなったふろしき。
ダサいような気がしていましたが、工夫次第で上品な包み方が出来るものですね。

これからは、マイバッグに加えてマイ風呂敷も
常にバッグに忍ばせておこうと思いました。

さあ、いよいよ待ちに待ったというか大事なお食事です。
デジカメの電池を忘れたので、写真は撮れませんでしたが、
値段の割りには思ったより豪華なランチメニューでしたよ。
イヤシイ系の私は、メタボを忘れてきれいさっぱり戴いたのでした。

<追記> 2007・12・20 以前戴いた風呂敷とふくさのセット




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伯母様が千の風に・・・

2007-12-12 20:17:26 | Weblog


伯母(義父の姉)が満87歳で亡くなりました。

11月29日の朝に脳梗塞で緊急入院。
伯母の家族や大阪の叔父(義父の弟)など全員が集まり、ずっと様態を見守っていましたが、血圧や脈拍などに変化はなく、しばらく小康状態を保っているだろうということで、3日には子供たちが、4日には叔父も帰って行きました。
ところが、長男の家族だけが付き添っていた6日の夕方に急変し、静かに眠るように息を引き取り、帰らぬ人となったのです。

7月中旬に軽い脳梗塞で倒れ、市内の総合病院へ入院、
8月8日に磐梯熱海のリハビリ専門の病院へ転院、
11月1日からは家の近くの介護施設に入所していて、
最後に会ったのは、20日の午後、商工会館での会議の帰りでした。
その後、何度も行きたいと思いつつ、月末のために忙しくてつい果たせず・・・
また、会うたびに涙を流しながら「家に帰りたい」と言われたのに、つい連れて帰ることが出来なかったこと、それだけが残念でなりません。
伯母は、長い間、実家である我が家のすぐ近くに一人で住んでいて、
一日に何度も行き来していましたので、家族と同じように思っていました。

翌日の朝には、親族が集まって葬儀の日程と斎場などを相談し、
8日にお通夜、9日に告別式が執り行われました。

お通夜の席で、長男のHさんと話をしている時に、
「もし誰もいなければ、ウチの娘にお別れの言葉をやらせようかな」と言うと、
「一番身近にいたMちゃんに是非・・・」ということになり、
帰りの車の中であれこれと思い出話をしていくうち、
「私もやらなければ伯母様に申し訳ない」という思いがどんどん膨らみ、
最後のお別れの言葉を母娘でやらせてもらおうということになったのです。

納棺の日にお花を入れる時、
「おばさん」と声をかけただけで喉が詰まってしまい、それ以上言葉が出なかったので、最後のお別れの時にはどうしても感謝の言葉を伝えなければ・・・そんな気持ちでいっぱいでした。

家に着くや否や、二人で原稿書きに取り掛かりました。
が、伯母との思い出を綴ろうとすると涙が止めどもなく溢れ、二人で洟を啜りながら・・・そんなこんなで夜中まで掛かって仕上げましたが、寝ている間にもずっと穏やかな笑顔の伯母の顔が浮かび、熟睡できない夜を過ごしました。

さて、当日です。
住職、火葬場、斎場の都合で、出棺、火葬、告別式、精進揚げなどが大変変則的なスケジュールになっていて、告別式は午後4時からです。
準備が整い、全員合掌でご導師様である真言宗豊山派如○寺の住職と副住職の入場を待ちます。私の心臓の高鳴りと共に、絨毯とぞうりの擦れ合う音だけが聞こえました。
約30分の読経の後、日赤の弔辞があり、そのあといよいよ私たちの「お別れの言葉」です。

読経の間中、涙を流さないよう勤めていましたが、心臓は破裂しそうです。
「おばさん」と言っただけで声が出なくなるんじゃないだろうか?
3時間しか寝てないからフラフラして倒れてしまうんじゃないだろうか?
そんなことを考えながら、何度深呼吸をしたことでしょう。

娘は、早くも鼻をズルズルさせています。
私までもグスグスとなり・・・

さあ、私たちの名前が紹介されました。もう後戻りは出来ません。
親族と参列者、そしてご導師様それぞれに一礼して祭壇の前へ進むと、
いよいよ度胸が座ったようで・・・

伯母の品良く作られた写真に向かい、感情を込めて話しかけることが出来ました。
娘も終始涙声でしたが、はっきりと聞き取りやすい話し方でした。

そちこちから啜り泣きが聞こえて、場内の雰囲気を背中で感じてはいましたが、
告別式が終わると、沢山の人からお褒めの言葉や感謝の言葉を戴きました。

三・七日の法要も終わり、精進揚げの会食時には多くの方々に
「良かったよ」「感動したよ」と言われ、
このような場に立たせてもらえた私たちの方が、実は幸運なのではないかと思いました。


おばさん、27年間本当にありがとう!!
天国でもずっと私たちを見守ってください。
さようなら!!





長いことご無沙汰しておりました。
記事中の「伯母」とは、一部のブログ友の方とのコメントの中で時折話題になっていた伯母のことです。
伯母の急逝は全く想定外のことで、未だに信じられません。
今日は初七日です。
ようやく正常な生活に戻りつつありますので、記事をUPしました。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。


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東北のウイーンで演歌を歌う

2007-12-04 22:03:07 | お酒


ここは、嘗て「東北のシカゴ」といわれた町の駅前大通りです。
昭和30年代の後半からより合唱活動が盛んになり、
「東北のウィーン」そして今では『音楽都市』といわれるまでになりました。

11月28日、会議&忘年会で駅前に行った私たちは、二次会のパブでカラオケに夢中になり帰宅は12時でした。

年に一度こういうお楽しみ会もいいものです。




29日の早朝からいろいろとあってバタバタしております。
上記タイトルで記事を書こうと気負ってみましたが、
時間が足りず、また正常化の見通しも今のところありません。
皆さんのブログはちょこちょこと読み逃げさせてもらってます。
落ち着くまでしばらくお待ち下さいませ。


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