ここで京都学派の哲学者・田辺元(1885~1962)の死生観が参考になる。田辺は1958年に「メメントモリ」というエッセイを書いた。メメントーモリ(Memento mori) とは、ラテン語で「死を忘れるな」という意味だ。田辺は、原子力時代になって、人類は常に死を意識しなくてはならなくなったと考え、こう述べる。
〈今日のいわゆる原子力時代は、まさに文字通り「死の時代」であって、「われらの日をかぞえる」どころではなく、極端にいえば明日一日の生存さえも期しがたいのである。改めて戒告せられるまでもなく、われわれは二六時中死に脅かされつづけて居る。しかしそれではわれわれは果して、この死の威嚇によって賢さを身につけ知慧の心を有するに至ったのだろうか。
否、今日の人間は死の戒告をすなおに受納れるどころではなく、反対にどうにかしてこの戒告を忘れ威嚇を逃れようと狂奔する。戒告を神に祈るなどとは思いも寄らぬ、与えられる戒告威嚇の取消を迫ってやまないのである。
例えば毎日のラジオが、たあいない娯楽番組に爆笑を強い、芸術の名に値いせざる歌謡演劇に一時の慰楽を競うのは、ただ一刻でも死を忘れさせ生を楽しませようというためではないか。「死を忘れるな」の反対に「死を忘れよ」が、現代人のモットーであるといわなければならない。〉(藤田正勝編『死の哲学田辺元哲学選Ⅳ』岩波文庫、2010年、13~14頁)
ここで田辺元が言う原子力時代とは、核兵器を指すが、平和利用を目的とする原発であっても、事故が起きれば「死の時代」をもたらしうる。田辺元がこの文書が発表してから53年がたった。
今日的状況にあわせて「ラジオ」を「テレビ」に置き換えてみよう。お笑い番組によって、われわれは無意識のうちに死について考えることを封印していたのではないだろうか。死の恐怖から逃れようとしても、不可能であるという現実を知ることだ。
そして、もう一度、死について深く考えてみようではないか。そのときに重要なのが、今回の原発事故で、他者のために犠牲になろうとする気構えを持った人たちの死生観である。田辺元は生と死を一体にしてとらえよと強調する。
〈一般に人間は生か死かの行詰まりにおいて自ら進んで自己を拠ち棄てる行為に出づるならば、死にながら生との緊張聯関を保ちつつ、かえって死を生に転換し得る。
生死は本来自覚にとり離ればなれのものではなく、表裏相即し、決死行為に依って相入流通せしめられるものだからである。
もしただ生のみに執着するならば、かえって反対に死を招くという矛盾に陥ると同時に、自ら進んで死する自己拠棄の実行は、生の自己矛盾を脱出せしめることができる。〉(前掲書19~20頁)
…後略。
*読者の方々は、芥川が「第一章」から、書き続けている、「下品」、についての…田辺元からの裏付けだと思われるのではあるまいか(笑)