放射性物質が空へ、海へ、いまもバラまかれ続けている。震災発生から1ヵ月。足を踏み入れることさえ制限された地域の実情は、「大本営発表」からはうかがい知れない。そんなとき、ジャーナリスト・形山昌由氏のルポが編集部に持ち込まれた。形山氏は福島第一原発の正面まで独自に取材していた。写真とともに掲載する。
ジャーナリスト形山昌由かたやま・まさよし 1965年生まれ。98年に渡米し、ロス市警による三浦和義氏逮捕などを取材。 95年の阪神大震災と2010年チリ地震に被災し、AERAにもリポートを寄せた。
原発作業員たちは防護服姿だった(右ページ)/福島第一原発の西門には「警備強化中」の看板が立てかけられていた
アーチがかかった正面ゲートにレンタカーを止めた。北東に約700メートル進むと、いま世界が注目する福島第一原発が立ち並んでいる。そう思うと、全身に汗がにしんできた。4月1日午後4時を過ぎていた。
防護服にマスクを着けた60歳近い守衛の男性が歩いてきた。「どちらさまですか」
私が名前を告げ、取材したいと伝えると、その男性は福島なまりでこう言った。
「取材ではここには入れません。Uターンして戻ってください」
ゲート近くの東京電力サービスホールの前に車を置いた。そして、放射線量計を手に、原発の金網に沿って歩き始めた。急激に数値が上昇すると線量計の警報音が鳴る。音は何度消してもすぐに鳴り始めたー。
少しだけ、時計を逆回転する。
3月30日、私は千葉で車を借り、国道6号をひたすら北上した。カッパをかぶって軍手をし、長靴をはいて、めがねをかけた。目的地は福島第一原発。圧力容器に真水の注入が始まり、1号機建屋近くの地下排水から放射性ヨウ素131を検出する前日だった。
私は東日本大震災以降、情報がリアルに伝わってこないことに、イライラしていた。現場を見ることで何かわかるはずだと思った。覚悟を決めて出かけることにした。
国道6号は道路の陥没や崩壊などでところどころが寸断されていた。他の被災地なら幹線道路は復旧作業に取りかかるところだが、ここはほとんどが手つかずだ。山側に迂回し、なんとか、いわき市の小川町に着いた。もうすぐ屋内退避指示区域の30丿圏内だ。道路沿いに警察官の姿が見えた。検問所なのか。
警察官は私に、
「この先20キロ圏内は立ち入り禁止です。道中、自衛隊の検問がありますから、そこから中には入れません」 と言って、通行を許してくれた。
もうすぐ避難指示区域の20キロ圏内にさしかかる川内村で、歩いている男性に出会った。一時帰宅したのだという。
その男性が言った。「この道をまっすぐ行ってからT字路があって、左に曲がると消防車なんかがたくさん止まってる。右へ行くと大熊町に入って、そのまま第一原発まで行ける。検問なんてないよ。この先、ずーっと原発までだれもいない」
この男性の話の通り、何の検問もないまま、20キロ圏内に入った。亀裂が走った道路に落ちた車や崩れた民家は手つかずのままだった。富岡町の中心地にある健康増進センター「リフレ富岡」が見えた。温泉やスポーツジムをそなえた施設の駐車場には、たくさんの車が止まっていたが、建物の中にはだれもいない。部屋の奥には、ひな壇から床に落ちたひな人形が見えた。
線量計が突然 警報音を出した
車を降りて、崩れ落ちたブロック塀や屋根瓦を見ながら、歩いた。午後2時半だというのに、物音さえしない。ガラスが2羽飛んでいた。ふと、映画「バニラ・スカイ」で、主演のトムークルーズが無人のマンハッタンを疾走するシーンが頭をかすめた。
。
ここは棄てられた街だと、景色を見て思った。震災翌日の3月12日午後には避難指示が出て、人はいなくなったのだ。
車に乗り込み、さらに東へ走ると国道6号にぶつかった。右手から来た白いバンが、猛スピードで隣町の大熊町方面へと走り去っていった。第一原発へ向かう作業員を乗せているのだろう。乗っていた4人は白い防護服に防護マスク姿だった。20キロ圏内で初めて人を見た。
線量計がないと、自分の身が危ない。東京都内で借りて、4月1日に出直した。
線量計は千葉を出るときは毎時O・1舒シーベルトだったが、富岡町辺りからは毎時20~30マイクロシーベルトを示し続けていた。山側に、ひび割れた道路にタイヤがはまって動けなくなった車が1台放置されているのが見えた。
その瞬間だった。
突然、線量計が警報音を鳴らした。車は、国道6号の中央台前交差点に差し掛かろうとしていた。交差点から海側に約1.5キロ進めば福島第一原発だ。
線量計の数字を見た。毎時100マイクロシーベルトを超えていた。ここからは線量計の数値は上がる一方になった。得体の知れない緊張感が胸の辺りに押し寄せてきた。
時折すれ違う車両はすべてが原発作業員を乗せた車やバスだ。
富岡町の自動車販売店のショールームのガラスは割れたままだった(原発から3.5キロ=上)/JR大野駅改札付近には駅長の手書きのお知らせが掲げられたままだった(同2キロ=下)
ジャーナリスト形山昌由かたやま・まさよし 1965年生まれ。98年に渡米し、ロス市警による三浦和義氏逮捕などを取材。 95年の阪神大震災と2010年チリ地震に被災し、AERAにもリポートを寄せた。
原発作業員たちは防護服姿だった(右ページ)/福島第一原発の西門には「警備強化中」の看板が立てかけられていた
アーチがかかった正面ゲートにレンタカーを止めた。北東に約700メートル進むと、いま世界が注目する福島第一原発が立ち並んでいる。そう思うと、全身に汗がにしんできた。4月1日午後4時を過ぎていた。
防護服にマスクを着けた60歳近い守衛の男性が歩いてきた。「どちらさまですか」
私が名前を告げ、取材したいと伝えると、その男性は福島なまりでこう言った。
「取材ではここには入れません。Uターンして戻ってください」
ゲート近くの東京電力サービスホールの前に車を置いた。そして、放射線量計を手に、原発の金網に沿って歩き始めた。急激に数値が上昇すると線量計の警報音が鳴る。音は何度消してもすぐに鳴り始めたー。
少しだけ、時計を逆回転する。
3月30日、私は千葉で車を借り、国道6号をひたすら北上した。カッパをかぶって軍手をし、長靴をはいて、めがねをかけた。目的地は福島第一原発。圧力容器に真水の注入が始まり、1号機建屋近くの地下排水から放射性ヨウ素131を検出する前日だった。
私は東日本大震災以降、情報がリアルに伝わってこないことに、イライラしていた。現場を見ることで何かわかるはずだと思った。覚悟を決めて出かけることにした。
国道6号は道路の陥没や崩壊などでところどころが寸断されていた。他の被災地なら幹線道路は復旧作業に取りかかるところだが、ここはほとんどが手つかずだ。山側に迂回し、なんとか、いわき市の小川町に着いた。もうすぐ屋内退避指示区域の30丿圏内だ。道路沿いに警察官の姿が見えた。検問所なのか。
警察官は私に、
「この先20キロ圏内は立ち入り禁止です。道中、自衛隊の検問がありますから、そこから中には入れません」 と言って、通行を許してくれた。
もうすぐ避難指示区域の20キロ圏内にさしかかる川内村で、歩いている男性に出会った。一時帰宅したのだという。
その男性が言った。「この道をまっすぐ行ってからT字路があって、左に曲がると消防車なんかがたくさん止まってる。右へ行くと大熊町に入って、そのまま第一原発まで行ける。検問なんてないよ。この先、ずーっと原発までだれもいない」
この男性の話の通り、何の検問もないまま、20キロ圏内に入った。亀裂が走った道路に落ちた車や崩れた民家は手つかずのままだった。富岡町の中心地にある健康増進センター「リフレ富岡」が見えた。温泉やスポーツジムをそなえた施設の駐車場には、たくさんの車が止まっていたが、建物の中にはだれもいない。部屋の奥には、ひな壇から床に落ちたひな人形が見えた。
線量計が突然 警報音を出した
車を降りて、崩れ落ちたブロック塀や屋根瓦を見ながら、歩いた。午後2時半だというのに、物音さえしない。ガラスが2羽飛んでいた。ふと、映画「バニラ・スカイ」で、主演のトムークルーズが無人のマンハッタンを疾走するシーンが頭をかすめた。
。
ここは棄てられた街だと、景色を見て思った。震災翌日の3月12日午後には避難指示が出て、人はいなくなったのだ。
車に乗り込み、さらに東へ走ると国道6号にぶつかった。右手から来た白いバンが、猛スピードで隣町の大熊町方面へと走り去っていった。第一原発へ向かう作業員を乗せているのだろう。乗っていた4人は白い防護服に防護マスク姿だった。20キロ圏内で初めて人を見た。
線量計がないと、自分の身が危ない。東京都内で借りて、4月1日に出直した。
線量計は千葉を出るときは毎時O・1舒シーベルトだったが、富岡町辺りからは毎時20~30マイクロシーベルトを示し続けていた。山側に、ひび割れた道路にタイヤがはまって動けなくなった車が1台放置されているのが見えた。
その瞬間だった。
突然、線量計が警報音を鳴らした。車は、国道6号の中央台前交差点に差し掛かろうとしていた。交差点から海側に約1.5キロ進めば福島第一原発だ。
線量計の数字を見た。毎時100マイクロシーベルトを超えていた。ここからは線量計の数値は上がる一方になった。得体の知れない緊張感が胸の辺りに押し寄せてきた。
時折すれ違う車両はすべてが原発作業員を乗せた車やバスだ。
富岡町の自動車販売店のショールームのガラスは割れたままだった(原発から3.5キロ=上)/JR大野駅改札付近には駅長の手書きのお知らせが掲げられたままだった(同2キロ=下)