…前略。
戦国出世レースのトップランナー・豊臣秀吉が最初に城持ち大名となり、天下人への道を歩み始めたのが、この地だった。浅井長政が守る小谷城を攻め落とし、領地の大部分を与えられた秀吉は、琵琶湖と北国街道に近い交通の要所・今浜を長浜と改め、新しい町づくりに取りかかる。織田信長の一字を取ったとする説が根強いが、市長浜城歴史博物館の森岡栄一学芸員(54)は「長く繁栄するよう願いを込めたのでは」。
そこで打ち出した施策が、城下の中心部で年貢などを免じた「経済特区」。信長による楽市楽座を手本にしたといわれるが、新しい町での免税は珍しかった。あまりに優遇策だったので、秀吉は免税をやめようとし、妻・ねねにとめられたという逸話が残る。
「城が戦場になることが想定された時代。それなのに秀吉は人々が集まる城下町を作り、港などのインフラを整備した」。
市曳山博物館の橋本章学芸員(43)は、その先見性を認める。`
太っ腹な秀吉は領民からも親しまれた。小牧・長久手の戦いで徳川家康と対陣していた時、町衆が名物のフナずしを差し入れ、そのお礼の手紙が残る。
当時、秀吉は長浜を既に去っていたが、城主としての「初任地」を心にかけていたに違いない。
この特区は秀吉の死後も続き、長浜は舟運や絹織物で経済発展を遂げる。曳山の山車が豪華になるのも、江戸時代になってからだ。
曳山そのものの起源も秀吉とされる。男子誕生を喜んだ秀吉が、祝いの砂金を町衆に渡しだのが財源になったとか。
昭和に入り、海外から安い繊維製品の攻勢を受けて、長浜は苦しい時期を迎える。起死回生策になったのが、黒漆喰の歴史的建築物の再生。
「黒壁スクエア」は人気を呼び、観光都市へとかじを切った長浜には年間700万人が訪れる。「町衆の心意気は今も健在」。
曳山まつりの統括役、総当番委員長の広瀬真啓さん(62)が胸を張った。
秀吉とともに歩み、「町づくりのトップランナー」となった長浜。城趾に植えられた700本の桜が、その歴史を彩る。
文・角谷陽子
尾張の農民の子として生まれた。織田信長に仕えて武功を重ね、信長の死後、事実上の天下統一を成し遂げて、関白にまで上り詰めた。
この肖像画は曳山の山組に伝わるもので毎年、まつりの際にかける習わしがある。
祭りの提灯が街にともると、湖北に春が巡ってくる。下克上の動乱を見続けてきた滋賀県長浜市。
「動く美術館」とい釦沁る豪華な山車が練り歩く「長浜曳山まつり」の開幕を9日に控え、囃子の音が温かい風に乗って、かすかに聞こえる