文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

中国人観光客 世界で存在感②…日経新聞8月21日7面より

2011年08月21日 10時09分35秒 | 日記
…前章からの続き。

だが旅行者の急増に伴って世界各地でトラブルも発生。7月13日、中国南部の雲南省からマカオにやってきた41人の観光客が約1時間、ツアーガイドと運転手により観光バスの中に「軟禁」された。

旅行業者が指定した商店での買い物額が少なかったことにガイドが腹を立てたためという。

香港政府で観光業を管轄する観光事務署は中国本土の観光客向けマニュアル「香港観光心得」を7月19日付で公表。マカオ政府も北京の中央政府と共同で旅行業者の義務と責任の範囲を定めた規制を8月1日付で導入した。

パリでは一部の高級ブランド店が中国人観光客の入店を制限。仏ブランド品は中国国内では2~3割高で売られているとされ、中国からの観光客がパリで大量購入し転売するケースが相次いでいるためだ。

入店しやすい日本人に買い物を依頼してトラブルになる例も頻発している。「中国本土のツアー会社が格安攻勢を仕掛けてきた」。豪東南部ニューサウスウェールズ州シドニーでCYCトラベルサービス(見聞国際旅行社)を営む中国系豪州人バーナード・ワイさんは訴える。

ワイさんによると中国本土の一部のツアー会社は市内観光ツアーなどを無料で提供。ツアー客を連れて行く代わりに免税店や土産店からリベートを受け取る。同州は昨年、この商慣行を問題視し業者2社に行政指導した。

パリの高級茶葉店「マリアージュフレール」では、中国製の高級茶を仏で購入する中国人観光客が急増。欧州の貴族が富の象徴として中国茶を先を争い購入した18世紀から200年余。中国人が自国の高級茶を西欧観光の土産として買い戻す時代になった。

中国人客がパリで購入する有名ブランドの服飾品の多くも実は中国製。中国人が国外でお金を落としても最終的には中国に還流する。つくるのも消費するのも中国という仕組みができあがりつつある。

(パリ=古谷茂久、ニューヨーク=河内真帆、シドニー=柳迫勇人、香港=川瀬憲司)

中国人観光客 世界で存在感①…日経新聞8月21日7面より

2011年08月21日 10時04分50秒 | 日記
各国、取り込みに躍起 経済効果高く トラブルも増加

中国人観光客が世界で存在感を増している。欧米大都市の高級店街では日本人はすっかり影が薄くなり中国人に席巻される勢いだ。世界の工場となった中国で作られたブランド品を中国人が海外で買いあさるという珍現象も発生している。

トラブルに悩みながらも各国は新しいお得意様を取り込もうとサービス向上に努めている。
    
豪華なつくりの高級店が軒を連ねるパリ中心部、プランタン百貨店の脇に続々と横付けされる大型バスから降りるのはほとんどが中国人観光客だ。

そのまま「国際売り場」に案内されると、デパート側か用意した「付添人」が走り寄る。買い物選びから銀聯力ードを使った支払い、免税手続きまでやりとりはすべて中国語だ。

「国際売り場をご利用されるのはほとんどが中国の方です。このサービスは昨年に導入しました」(プランタンのパリ・オスマン店)。免税の還付業務を手掛けるグローバル・ブルーによると、2010年の仏での免税品の購入は、ロシアや日本を抑えて中国人が首位だった。

ニューヨークの高級フランス料理レストランの「ル・ベルナルダン」。最近は過半数の席が中国人顧客で埋まる。ミシュランで三つ星、主要紙でも常に最高評価を受けるシーフード料理で知られる。接客員は「中国人客のおかけで繁盛している」と話す。

高級真珠ブランド「ミキモト」が6月初旬にニューヨークで開催した優良顧客向けのセールでは、真珠のネックレスのケース前に中国人女性客が群がった。ダイヤと真珠を組み合わせた数万ドルのブローチなどを販売する会場で目立つのは中国人グループだ。

お膝元の香港やマカオにとっても中国本土からの来訪者は欠かせない上客。今年1~6月の来訪者は香港で全体の66%にあたる約1270万人、マカオでは56%の約748万人。マカオでは人口の14倍の人が中国本土から訪れた計算で絶好調のカジノ景気の最大の担い手になっている。

09年は約4766万人と、04年比で約65%増えた中国の海外旅行者。経済効果に期待する各国は誘致に懸命だ。
豪北東部クイーンズランド州は5月、アジア全域に500万人以上のファンを持つとされる香港の女性デュオ「ツインズ」を観光大使に選んだ。

中国人観光客による豪州への経済効果は昨年、約31億豪ドル(約2500億円)と英国を抜いた。観光客数ではニュージーランド、英国、米国に次ぐ4位で、13年には2位に躍り出る見通しだ。

「20年には年間100万人の中国人観光客誘致を目標とする」。スペインのセバスティアン工業・観光・商務相は今年1月、中国からの観光客を10年実績から10倍にする計画を掲げた。イタリア政府は10年、北京に観光案内所を開設。アリタリア航空は今年、上海とローマ、ミラノを結ぶ直行便の運航を始めた。

東日本大震災の影響で中国からの来訪客が1~7月は約55万人と前年同期比37%減少した日本も、今後の回復に期待する。

…以下続く。

日銀は追加緩和検討…日経新聞8月21日1面より

2011年08月21日 09時50分03秒 | 日記
政府の総合的な円高対策と歩調を合わせ、日銀は追加金融緩和を検討する。長引く円高が企業心理を冷え込ませ、雇用や設備投資の悪化を通じて日本経済に悪影響を与えかねないためだ。

政府の総合対策や再度の円売り介入と並んで日銀が金融市場に潤沢な資金を供給すれば、円高進行を抑える効果も見込める。

日銀は9月6~7日に開く金融政策決定会合で、円高が日本経済に与える影響や追加緩和の是非などを協議する。急激に円高が進んだ場合には、決定会合の前倒し開催も検討する構えだ。

日銀は今月4日の決定会合で、追加緩和として資産買い入れ基金の10兆円増額を決めた。ただ、その後も円高に歯止めがかからないため、政府・日銀が協調して円高対策に取り組んでいく姿勢を示すとみられる。

菅直人とサルコジ、アレバ社の浅ましい握り合いが無ければ、とうに解決出来ていたものを…。

2011年08月21日 09時34分28秒 | 日記
福島第1原発 新装置稼働、濃度下がる
セシウム、5万分の1
…日経新聞8月21日4面より

東京電力は20日、福島第1原子力発電所で19日に本格稼働した東芝の高濃度汚染水処理装置「サリー」によって、放射性セシウムの濃度が約5万分の1に下がったと発表した。

目標の100万分の1を大きく下回るが、東電は「能力的に問題はない」としている。

サリーでは毎時25トンの汚染水を処理。米仏の装置と合わせると処理量は毎時70トンに達する。汚染水がたまった集中廃棄物処理施設の一部建屋の地下では、汚染水の水位は19日午後4時から24時間に51センチ低下した。

汚染水は浄化後に塩分を除去し、原子炉の冷却水に再利用。汚染水処理が順調に進めば原子炉への注水を増やせる。

東電によると事故後初めて1号機の原子炉圧力容器下部など19力所の測定点すべてで、温度が100度を下回った。ただ燃料の状態はわからず、安定した「冷温停止」状態には達していないという。

また4号機では20日、使用済み核燃料プールの循環冷却装置に新たに取り付けた塩分除去装置の運転を始めた。

これが日本のマスメディアの本音だろう。…週刊朝日8月26日号より

2011年08月21日 09時02分40秒 | 日記

福島の人の声を聞きたい しがみつく女 室井佑月 

むろい・ゆづき 作家。 1970年、青森県生まれ。「小説新潮」誌の「読者による性の小説」に入選し作家デビュー。テレビ・コメンテーターとしても活躍。著書に『ぷちすとバイパー!』(中公文庫)、『ママの神様』(講談社文庫)など。

文中黒字化は私。

ニュースを観ていたら、東海テレビの『ぴーかんテレビ』という言葉が出て来てびっくりしてしまった。
じつはこの番組がはじまった当初、あたしはレギュラーとして呼ばれていたのだけれど、ちょっとした理由から辞めさせてもらった。

今回、問題となっているのは、視聴者プレゼントの『岩手県産ひとめぼれ』の当選者発表用のテロップで、そこには「怪しいお米 セシウムさん」「汚染されたお米 セシウムさん」と書かれていた。

同局は、「テロップは外部スタッフの担当者がふざけ心で作成した」と説明している。
番組を作っているスタッフが以前とおなじであるならば、まあ、そんなこともあるだろうな、とあたしは思った。

あたしがこの番組を辞めたのは、この番組でエコバッグのブランド品を取り上げた(というかヨイショした)のがきっかけで、番組終了後、「それじゃ、エコバッグの意味がないのでは」とその時、司会をしていたアナウンサーに質問してみたら、

「主婦なんてもんは、赤いトマトも青いといえば、青いものだって思うんです」との答えがかえってきた。

お客様である主婦を馬鹿だと思って、番組を作る。この人たちが怖いと思った。仲間だと思われたくもなかったので、辞めた。
同じような理由から、電力会社の広告原稿も、何度依頼されても引き受けなかった。

「絶対に安全です」という彼らの言い分か、あたしには理解できなかったからだ。理解できないというか、怪しいと思ったから。
しかし、だからといって自分が正しい、ともあたしは思っていない。むしろ、間違っているのじゃないかといつもビクビクしている。

昨日、『原発事故、放射能、ケンカ対談』という本を読んだ。副島隆彦氏と武田邦彦氏の対談本だ。
副島さんは「避難住民はもう戻っても安全だ」といっていて、武田さんは「安全を吹聴することが、いちばん危険だ」といっている。

震災後から、あたしは武田さんのブログを読んでいたので、今の基準の年間20ミリシーベルトではなく、平常時の基準の年間1ミリに沿うべく生活することが望ましいのではないかと思っていた。

今後、子供たちになにかあったら不味いのであって、心配しすぎてなにもなかったらそれでいいじゃん、と。ビクビクしているあたしらしい考え方だ。いろんな場所でそういったし、そう書いた。

しかし、それでは副島さんがいうように、東京にいて福島の不安を煽る迷惑な人であったのかもしれない。年20ミリ超えてようと、100ミリ超えてようと、そこに住まなきゃならない住人がいる。彼らはあたしのように、「不安だからそれはやめとく」という選択が出来ないのだ。どうしてそのことを考えなかったのか。

いてもたってもいられない。福島の人の声をもっと聞かなきゃ、と思う。


実に奇妙な夢を見て、あまりの事に起きて検索。…ウキペディアより。

2011年08月21日 05時29分38秒 | 日記
クエンティン・タランティーノ(英: Quentin Tarantino/ 本名クエンティン・ジェローム・タランティーノ 英: Quentin Jerome Tarantino, 1963年3月27日 - )はアメリカ合衆国の映画監督。アカデミー脚本賞とカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞している。脚本も書き、自身の作品に俳優として出演もする。
1990年代前半、入り組んだプロットと犯罪と暴力の姿を描いた作品で一躍脚光を浴びた。現在までに『レザボア・ドッグス』(1992年)、『トゥルー・ロマンス』(脚本、1993年)、『パルプ・フィクション』(1994年)、『ジャッキー・ブラウン』(1997年)、『キル・ビル』(2003年『Vol.1』、2004年『Vol.2』)、『デス・プルーフ in グラインドハウス』(2007年)および、『イングロリアス・バスターズ』(2009年)を発表している。
1998年には舞台『暗くなるまで待って』に俳優として出演した[1]。


幼年期 ~ 青年期 [編集]
タランティーノはテネシー州ノックスビル(Knoxville, Tennessee)で生まれた。母親は看護師のコニー・ザツピル(Connie Zastoupil / 旧姓マヒュー / McHugh)、父親はニューヨーククイーンズ(Queens, New York)生まれの俳優であり音楽家でもあるトニー・タランティーノ[2]。タランティーノの父はイタリア系アメリカ人、母親はアイルランド系アメリカ人でチェロキー族の血も引いていた[3][4][5]。母親は僅か16歳で未婚のままタランティーノを生んだ。タランティーノが生まれてから間もなく母親は音楽家のカーティス・ザツピル(Curtis Zastoupil)と結婚し、継父の人脈はのちのタランティーノにとって大きな強みとなった。
母子家庭で育つ。母親も大の映画マニアで、一緒に映画を見て育つ。

1971年、タランティーノ一家はロサンゼルスのサウスベイ地区、セグンド(Segundo)に引っ越し、タランティーノはそこでホーソン・クリスチャン・スクール(Hawthorne Christian School)に通った。14歳の時、最初の脚本『ジ・アメージング・アドベンチャー・オブ・ミスター・リー』(The Amazing Adventures of Mr. Lee)を書いた。16歳の時にハーバー・シティー(Harbour City)のナーボン高校(Narbornne High School)を中退し、ジェームス・ベスト(James Best)劇団に加わり、そこで演技を学んだ。このときの経験は後の監督・脚本家・俳優人生において大きな意味を持つことになった。

22歳の時、タランティーノはマンハッタン・ビーチ(Manhattan Beach)のビデオショップ「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」(Manhattan Beach Video Archives)の店員となり、ロジャー・エイヴァリー(Roger Avary)や客と様々な映画について語る日々を送った[6]。

レンタルビデオショップ店員として大量の映画に埋もれ働きながら脚本を書いた。この当時に培った映画の知識が後の映画制作に役立っている。主にアジアを中心としたマニアックな映画・日本のアニメ・音楽に精通しており、自身の監督作品の随所に独特のセンスがうかがえる。シネ・フィルを自称する。

タランティーノが現役の監督で初めて夢中になった監督はブライアン・デ・パルマである。

映画人として [編集]
ハリウッドのパーティでローレンス・ベンダーに出会い、脚本を書くように勧められる。タランティーノは1987年に"My Best Friend's Birthday"という作品を監督し、共同で脚本も書いている。この作品はラボでの編集中に火災で危うく失われるところであったが、この作品が後の『トゥルー・ロマンス』(トニー・スコット監督)の元ともなった[7]。


ロバート・ロドリゲスとともに
タランティーノは『レザボア・ドッグス』で脚本家・映画監督としてデビューした。脚本が米映画俳優のハーヴェイ・カイテルに認められ、彼の出演とプロデュースを受けて[8]、カンヌ国際映画祭にも出品され、カルト的ヒットとなった。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭でも南俊子賞(批評家賞)を受賞、映画祭期間中に次回作『パルプ・フィクション』を執筆。

世界的にも配給されタランティーノはデビュー作にして注目されることとなる。

監督二作目『パルプ・フィクション』では早くもカンヌ国際映画祭・パルムドール(最優秀作品賞)を始め数々の賞に輝き、米アカデミー賞脚本賞も受賞、新しい米映画の旗手として認知されるに至った。

エルモア・レナード原作の『ジャッキー・ブラウン』では、深みのある演出が評価された。一時期沈黙したが、『キル・ビル Vol.1』『キル・ビル Vol.2』で復活した。

タランティーノの作風は、自身の映画趣味が随所に見受けられる。パロディ・オマージュ・引用のほか、千葉真一(Sonny chiba)やパム・グリアなどタランティーノが熱狂的なファンである俳優を出演させている。

レンタルビデオショップ店員時代に日本映画にもどっぷりハマっており、脚本を担当した映画『トゥルー・ロマンス』でも、主人公のサブカルチャー・ショップの店員が「Sonny chibaの空手映画のファン」という設定にしている。『パルプ・フィクション』では、ブルース・ウィリスに日本刀での殺陣を行わせた。

三隅研次・『修羅雪姫』(梶芽衣子版)の影響を強く受けたとされる『キル・ビル Vol.1』では大葉健二を起用したり、ファンである日本人映画監督が石井輝男・石井聰亙・石井隆・石井克人と、石井姓が多いことにちなみ、敵のヤクザの名前を「イシイ」としたりなど、タランティーノの感性を垣間見ることができる。

『キル・ビル Vol.1』は、アジア監督の中ではジョン・ウーと並んで彼に大きな影響を及ぼした深作欣二に捧げられている[9]。

映画監督エド・ウッドのファンでもある。このため演出においても徹底したアナログ主義で、CG嫌いを公言している。ただし、盟友のロバート・ロドリゲスが手がけた『シン・シティ』の一部シーンを監督した際には、「CGの利点も知ってほしい」というロドリゲスの意図を汲み、初めてのCG合成の演出に臨んでいる。

近年の作品には目立たないが、『意味のない話』を延々と続ける演出にはファンが多い(なお、2007年の『デス・プルーフ in グラインドハウス』では復活。ストーリーの半分を占めている)。

彼の映画製作会社「A Band Apart」は彼自身の映画を製作するほか、長年埋もれていた中国のB級アクション映画を米国内で配給するなどしている。

この社名は彼の偏愛する映画『はなればなれに』(ジャン=リュック・ゴダール監督、1964年)にちなんでいる。

2004年度カンヌ国際映画祭の審査委員長を務めた。毎回、カンヌ国際映画祭は審査委員長の統括を受けることが多く、審査員大賞を受けた韓国映画『オールド・ボーイ』はタランティーノの嗜好を表すものといえる、バイオレンス作品であった。
受賞 [編集]

カンヌ国際映画祭パルムドール(1994年) 『パルプ・フィクション』
アカデミー賞脚本賞(1995年) 『パルプ・フィクション』
MTVムービー・アウォーズ(2004年)ベスト・ファイト賞(ザ・ブライド VS GOGO夕張 のシーン)(2004年) 『キル・ビル Vol.1』
MTVムービー・アウォーズ(2005年)ベスト・ファイト賞(ザ・ブライド VSエル・ドライバー のシーン)(2005年) 『キル・ビル Vol.2』
作品 [編集]

監督 [編集]
長編映画 [編集]
公開年 邦題 原題
1992年 レザボア・ドッグス Reservoir Dogs
1994年 パルプ・フィクション Pulp Fiction
1997年 ジャッキー・ブラウン Jackie Brown
2003年 キル・ビル Vol.1 Kill Bill: Vol. 1
2004年 キル・ビル Vol.2 Kill Bill: Vol. 2
2007年 デス・プルーフ in グラインドハウス Grindhouse
2009年 イングロリアス・バスターズ Inglorious Bastards
2012年 Django Unchained
2014年 Kill Bill: Vol. 3

その他 [編集]
公開年 邦題 原題
1987年 マイ・ベスト・フレンズ・バースデー(未公開) My Best Friend's Birthday
1995年 フォー・ルームス(4話からなるオムニバスの第4話「ハリウッドから来た男」) Four Rooms (segment "The Man from Hollywood")
ER緊急救命室(第1シーズン 第24話「母親」) ER(Season 1; Episode 24: "Motherhood")
2004年4月20日 ジミー・キンメル・ライブ! Jimmy Kimmel Live
2005年 CSI:科学捜査班シーズン5(CSI"12時間"の死闘 [前・後編]) CSI: Crime Scene Investigation ("Grave Danger: Vols. I & II")
シン・シティ(特別ゲスト監督) Sin City

脚本 [編集]
マイ・ベスト・フレンズ・バースデー My Best Friend's Birthday (1987年) 未完成の第一作品目の映画
ミッドナイト25時/殺しの訪問者 Past Midnight (1991年) 書き直し、クレジットなし
レザボア・ドッグス Reservoir Dogs (1992年)
トゥルー・ロマンス True Romance (1993年)
パルプ・フィクション Pulp Fiction (1994年)
ナチュラル・ボーン・キラーズ Natural Born Killers (1994年) 原案
フォー・ルームス Four Rooms (1995年) 4話からなるオムニバスの第4話「The Man from Hollywood」
フロム・ダスク・ティル・ドーン From Dusk Till Dawn (1995年)
クリムゾン・タイド Crimson Tide (1995年) 書き直し、クレジットなし
ザ・ロック The Rock (1996年) 書き直し、クレジットなし
Curdled (1996年)
ジャッキー・ブラウン Jackie Brown (1997年)
キル・ビル Vol.1 Kill Bill: Vol. 1 (2003年)
キル・ビル Vol.2 Kill Bill: Vol. 2 (2004年)
CSI:科学捜査班シーズン5 CSI: Crime Scene Investigation (2005年) 「CSI"12時間"の死闘 [前・後編]」Grave Danger: Vols. I & II)
デス・プルーフ in グラインドハウス Grindhouse (2007年)
イングロリアス・バスターズ Inglorious Bastards (2009年)

出演 [編集]
マイ・ベスト・フレンズ・バースデー My Best Friend's Birthday (1987年)
レザボア・ドッグス Reservoir Dogs (1992年)
パルプ・フィクション Pulp Fiction (1994年)
スリープ・ウィズ・ミー Sleep With Me (1994年)
サムバディ・トゥ・ラブ Somebody to Love (1994年)
ジョニー・ディスティニー Destiny Turns On the Radio (1995年)
フォー・ルームス Four Rooms (1995年) 第4話「ペントハウス ハリウッドから来た男」に出演
デスペラード Desperado (1995年)
フロム・ダスク・ティル・ドーン From Dusk Till Dawn (1996年)
ガール6 Girl 6 (1996年)
ジャッキー・ブラウン Jackie Brown (1997年)
リトル★ニッキー Little Nicky (2000年)
エイリアス Alias (2002年)
バッドアス・シネマ BaadAsssss Cinema (2002年) ドキュメンタリー
キル・ビル Vol.1 Kill Bill: Vol.1 (2003年)
Z Channel: A Magnificent Obsession (2004年) ドキュメンタリー
マペットのオズの魔法使い The Muppets' Wizard of Oz (2005年)
プラネット・テラー in グラインドハウス Planet Terror (2007年)
デス・プルーフ in グラインドハウス Grindhouse (2007年)
スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ Sukiyaki Western: Django (2007年)
ダイアリー・オブ・ザ・デッド Diary of the Dead (2008年)

製作 [編集]
マイ・ベスト・フレンズ・バースデー My Best Friend's Birthday (1987年)
Past Midnight (1992年)
キリング・ゾーイ/破滅への銃弾 Killing Zoe (1994年)
フォー・ルームス Four Rooms (1995年)
フロム・ダスク・ティル・ドーン From Dusk Till Dawn (1996年)
フェティッシュ Curdled (1996年) 製作総指揮
God Said, 'Ha!' (1998年)
フロム・ダスク・ティル・ドーン2 From Dusk Till Dawn 2: Texas Blood Money (1999年)
フロム・ダスク・ティル・ドーン3 From Dusk Till Dawn 3: The Hangman's Daughter (2000年)
HERO Hero (2002年) アメリカ配給
Daltry Calhoun (2005年)
Freedom's Fury (2005年)
ホステル hostel (2005年) 製作総指揮
トム・ヤム・クン! Tom-Yum-Goong (2005年) アメリカ配給
デス・プルーフ in グラインドハウス Grindhouse (2007年)
ホステル2 Hostel: Part II (2007年)
Killshot (2008年)
ヘルライド Hell Ride (2008年)
マチェーテ Machete (2008年)

エピソード [編集]
この節は検証可能な出典がまったく示されていないか不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。このタグは2009年6月に貼り付けられました。

タランティーノは無類の足フェチ、拷問フェチとしても知られる。『フロム・ダスク・ティル・ドーン』のダンスシーンで、脚本を急遽書き換えた。

初めて会った深作にサインを求めたのが『ガンマー第3号 宇宙大作戦』のLDであったとされる。

無名時代には履歴書に『ゴダールのリア王』(ジャン=リュック・ゴダール監督 1987年)や『ゾンビ』(ジョージ・A・ロメロ監督 1978年)に端役として出演したと嘘の経歴を書いていたらしい。

ちなみに、2008年公開のジョージ・A・ロメロ監督作品のゾンビ映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』でようやく端役(ラジオの声)としてスティーブン・キングらと共に出演した。

実の父親であるトニー・タランティーノは俳優である。トニーが22歳の時に生まれたのがクエンティンだが、実の息子を見ずに離婚。この二人は一度も顔を合わせた事がない。クエンティンが30歳の時に突然、トニーは息子にコンタクトを取ろうとしたが、「30年間も時間があったのに、アイツは一度として俺に電話をよこさなかった。俺が有名になった今頃、連絡を取ろうと浅ましい根性が気に食わない」と、日本の雑誌に語っている。40年以上経った今も本人は無視し続けている。

作家エルモア・レナードを敬愛、小説を愛読しており。電話で会話した際には「俺は、あなたの小説を映画化するために監督になった」と述べる。後にレナードの小説を原作に『ジャッキー・ブラウン』を制作。

『キル・ビル』でもオマージュしているように梶芽衣子の大ファンで、『キル・ビル Vol.1』の日本公開に当たっての舞台挨拶の際には、来日の条件として映画会社に「梶芽衣子と二人で会える時間を設ける」ことを要求していたほど。

ちなみに映画会社は梶の承諾を取らずにこの条件を飲んでしまい、当時『あなたの隣に誰かいる』の撮影中だった梶は一度この話を断ったが、同ドラマのプロデューサー・鈴木吉弘がタランティーノファンだったため特別の配慮でスケジュールを空けてもらい対面を果たした[10]。