文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

お盆休み特選。「本当の笑い」シリーズ真打登場

2011年08月15日 16時35分41秒 | 日記

…前章からの続き。 文中黒字化、*以下は私。

新規性や創造性に欠けるだけでなく、技術そのものが偽物だったケースもあった。上海交通大学の教授が03年、世界最先端の国産マイクロプロセッサ開発に成功したと発表したが、実はこの教授が記者会見で披露したチップは米モトローラ製で、日雇い労働者に表面を削らせてその上に中国語名を印刷しただけだった。

とはいえ、中国が「科学オンチ」とも言い切れない。毎年2桁近いGDP成長率で世界第2位の経済大国になった中国は、豊富な資金力を背景にアメリカや日本を上回るベースで研究開発投資を増やしている。

科学技術力を支える大学卒業生の数も、99年の84万人から09年の531万人へと急増。中国の基礎的な科学技術力は確実に上がっているとみていい。

おそらく中国に欠けているのは純粋な科学技術力ではなく、技術の神髄を自分たちよひ進んだ外国から真摯に学ぶ姿勢だろう。

13億人を抱える巨大市場にものをいわせ、「4000年の歴史」を振りかざして外国を威圧するのでなく、自分たちに足りない部分を認め、他人に謙虚に学ぶー多くの中国人がその必要性に気付けば、この国は本当の意味で発展することができるし、世界ともより健全な協力関係を築けるはずだ。

メンツか本当の進歩か

中国は今、メンツを気にした見せ掛けだけの発展を続けるのか、それとも世界から学び本当の意味で進歩できるのか、という岐路に立っている。

今回の事故では、車体を埋めようとした当局の動きが報道規制をかいくぐってネットで次々と報じられ、それが世界に広がって中国政府への圧力になり、病床の温家宝首相が異例の現場会見を迫られた。

ただその一方で、中国政府は事故後わずかI週間で再び報道規制を強め始めている。08年の四川大地震と同じ動きだ。

鉄道省に責任を押し付け、事故の真相を明らかにしても、中国政府と中国人がその「哲学」を変えない限り、どこかで過ちは繰り返されるだろう。

*私は、この長岡義博さんは、掛け値なしに、今の日本では有数のジャーナリストだと思う。
     


お盆休み特選。「本当の笑い」シリーズ②

2011年08月15日 16時08分23秒 | 日記

…前章からの続き。  文中黒字化は私。

スパコン世界一の「実力」

今回の事故の原因の1つに、鉄道省による高速鉄道網の強引で急速な拡張があったのは間違いない。政府内で「面子工程(メンツプロジェクト)」と呼ばれた高速鉄道計画を進める上で、無理もあったはずだ。ただ強引な発展だけが、今回の事故の背景にあるわけではない。

そもそも中国の発展は、「張り子の虎」の側面が強い。技術を学んで自分のものにするには一定の時間が必要だが、中国は地道に外国の知識と経験を学ぶのではなく、カネを出して技術を買い、自分たちの開発した周辺技術と組み合わせて作った製品を安く売る、という方法を選んできた。

外国製エンジンを積み込む国産自動車が典型だ。複雑なシステムで運行される高速鉄道は、その究極の形と言っていい。

その一方で、高性能や利益は追い求めても、安全性につながる技術の神髄を一から学ぽうという真摯な姿勢はあまり見られなかった。


今回の事故の場合は、日本とドイツのメーカーが技術提供した衝突車両と、中国が独自開発した運行システムとの間の技術的擦り合わせに問題があった、ともみられている。新華社通信も、運行管理センターのデータ収集ソフトと先行車両の信号受信ソフトに不備があったと伝えている。

「このやり方がもはや限界に来ていることを今回の事故は示している」と、日本の在北京大使館書記官として中国の科学技術事情を調査した文部科学省の伊佐進一は言う。

「今後、中国は技術を外国から買って済ませるのでなく、外国から技術を真摯に学ぶ姿勢が求められる」

体面や目先の利益を重んじるあまり、技術的な裏付けをないがしろにする、ということは、鉄道に限った話ではない。中国が世界一になったと騒がれたスパコンの演算能力も、実は「張り子の虎」だった。

昨年秋、中国のスパコン「天河1号」が日本やアメリカを抜いて初めて世界一に躍り出た。今年6月に発表されたランキングでは日本に首位を奪還され2位に終わったが、軍事や金融に影響を与えるスパコン開発で中国が2回連続してアメリカより上位に入ったことは、米中の軍事、経済バランスを揺るがしかねない事態だと騒がれた。

ただし、天河1号の実力は恐れるほどではない。文部科学省の伊佐は、著書『「科学技術大国」中国の真実』(講談社)の中で、天河1号の演算の理論速度と実行速度には大きな開きがあると指摘している。

6月のランキングで公表されたデータだと、天河1号の実行速度が理論速度に占める実効性比率はわずか54%。日本の93%、アメリカの75%に比べると極端に低い。

伊佐によれば、スパコンの計算能力はCPU(中央演算処理装置)をたくさんつなげばつなぐほど増す。コンピューター科学にとってむしろ重要なのはCPU同士が整然と作業を分担し、スムーズに演算を進めるように設計することだが、

中国の設計は極端に言えば演算速度を上げて世界一の座を奪うためにCPUをつなげただけで、新規性や創造性が見いだせない。「いわば疑似的な発展をしてきたのが現実だ」と、伊佐は言う。「そのほころびが出始めている」

…後略。


お盆休み特選「本当の笑い」シリーズ①

2011年08月15日 15時48分21秒 | 日記

高速鉄道事故は中国を変えるのか…Newsweek8月10,17日号より

中国 世界があきれる追突事故で見えた発展の限界
「張り子の虎」型成長モデルを改めるべき時が来た  長岡義博(本誌記者)

文中黒字化は私。

中国浙江省温州市で先月、死傷者が200人を超える高速鉄道事故が起きると、日本に限らず欧米にも「それ見たことか」という空気が広がった。

無理もない。事故は中国に対して世界が抱くネガティブでステレオタイプな印象をそっくり反映していた。車両や駅舎といった外見こそ立派だが、中身は外国技術の継ぎはぎ。

身の丈に合わない急ペースで鉄道網を拡張し、安全性は二の次-。中国の高速鉄道で大事故が起こるのは当然の結果だった。

…中略。


その1つが鉄道だ。05年に建設が本格化した高速鉄道の総延長は、わずか5年で8000キロを超えた。日本の新幹線が46年かけて達成した総延長2300キロの3倍以上の距離をわずか9分の1の期間で達成したわけだが、これだけ急速に鉄道網を広げれば、車体はおろか運行システムの整備や要員の教育は簡単には追い付かない。

中国政府は今年6月末に開通したばかりの北京~上海間を結ぶ中国版新幹線の計画段階で、並行して独自技術に基づく実験車両「中華之星」の開発を進めていた。

中華之星は02年、当時国内最高速321キロでの走行に成功。しかしその後、電気系統やブレーキの故障が頻発し、結局「中華之星」は中国の鉄道のスターになることなく、車庫に眠ったままになった。

栄えある中国版新幹線の1番列車になったのは、日本やドイツからの技術供与を基に「自主開発」した車両だった。

…以下続く。


三鷹光器 宇宙に医療に太陽熱発電「設計図は現場にあり」

2011年08月15日 15時19分01秒 | 日記
週刊朝日5月27日号より

文中黒字化は芥川。

光学機器メーカーの三鷹光器は1966年の創業以来、スペースシャトルに搭載された宇宙観測機器や、脳外科手術用の医療機器など、前人未到の領域に次々と踏み込んできた。そのアイデアと高度な技術力は世界から称賛を浴びている。

もともとは天体望遠鏡のメーカーだった。1922年、東京天文台(現・国立天文台)が三鷹市に設置された。創業者の中村義一会長(79)と弟の勝重社長(66)はその近所で生まれた。

「兄は最初、天文台で働いていましたが、ああいう仕事は大卒じゃないと高い給料をもらえない。それで、この会社を起こしたんです。私もものづくりが好きだったので、工業高校を出て入社しました」(中村社長)

1983年に打ち上げられた米国のスペースシャトル「コロンビア」には同社製の特殊カメラが搭載された。これが一気に三鷹光器の名を高めた。その後、宇宙関連事業から医療用機器など新たな分野へも進出した。中村社長は「宇宙関連で蓄積した技術を、地上でも生かしたいと考えていた」と語る。

だが、ほかにも理由はあったようだ。発注元である宇宙関連の研究機関に対し、大企業が「あんな町工場みたいなところにやらせるのは間違っている」と、お門違いの圧力をかけてきたというのだ。

とはいえ、同社の技術は、医療用機器の分野でも世界の信頼を獲得した。世界的光学機器メーカーのライカマイクロシステムズ(本社・ドイツ)からも、外科手術用顕微鏡の開発を依頼された。脳神経外科手術用の顕微鏡と、そのスタンド分野では現在、米国で50~60%のシェアを占めている。

大手メーカーをさしおいて同社が選ばれる理由は、製品開発の独創性にある。

例えばライカに開発を託された医療用顕微鏡は、執刀医と助手が同時に画像を見られる点や、スタンドが手術の邪魔にならないといったアイデアが高評価を受けている。
  
こうした独創性の原点について、中村社長は「設計図は現場にあり」と語る。「要するに、現場の声を聞くということですよ。私は実際に手術に立ち会い、医師や看護師の声を聞きました。設計はそこから始めるんです」

入社試験もユニークだ。オーソドックスな筆記試験に加え、模型飛行機を作らせ、裸電球の絵を描かせる。飛行機製作で手先の器用さを確かめるというのはわかるとしても、裸電球の絵で適性分野を判断するというのだからおもしろい。

「大まかだけど勢いよく描く人は、営業や大型機械の作製で活躍する。電球についているキズまで描くような人は、医療機器などの緻密な作業に向いている。うまく描こうとして、消しゴムをいっぱい使うようなタイプはダメ。仕上がりが遅れるからです。ウチのような中小企業はスピードが勝負。そうしないと大手に勝てませんから」(中村社長)

次の事業の柱として取り組んでいるのは太陽熱発電だ。従来の設備より低コストで、高性能なシステムを開発中だという。中村社長が熱い口調で語る。

「今回の大震災では、原発に関する技術の甘さが露呈してしまいました。今後は、原子力に代わるエネルギーの必要性が否応なく高まるでしょう。そこで太陽熱発電の需要が出てくれば、われわれ日本の中小企業の高い技術力で、間違いなく貢献できるはずですよ」

エネルギー政策が大きく変わろうとするいま、三鷹光器ならではの独創的な技術力への期待感はいや増している。

イスラム主義という幻想 …Newsweek8月10,17日号より

2011年08月15日 14時51分00秒 | 日記
アラブの春はまだ終わらない   タハール・ベンジェルーン(モロッコ出身の作家・詩人)

…前略。  文中黒字化は芥川。

カダフィが自らを独裁者と見なしたことはない。カダフィは異常ではなく、病んでいる。それもずっと前からだ。「(セルビアの独裁者スロボダン・)ミロシェビッチと異なり、カダフィには退陣以外に交渉するテーマがない。

そのせいで退陣はより不確実になっている」と、戦略研究財団(フランス)のフィリップーグロー研究員は先頃、仏紙ルモンドで語った。アラブの春は真夏の今も続いている。最大の勝利の1つがイスラム主義の失敗だ。

ペンアリやムバラクが権力の座に居座り、欧米と取引することができたのはイスラム主義の台頭という口実があったからだ。だが今や、それは幻想だったことがはっきりしている。

イスラム主義は独裁体制への民衆の抵抗に役割を果たさず、その影は薄くなった。イスラム主義者はチャンスを逃しただけでなく、チャンスが来たことも見抜けなかった。その戦略は時代遅れになり、アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディンと彼が作り出した幻影は死んだ。

エジプトでは、イスラム教スンニ派組織ムスリム同胞団が政党を結成し、民羊王義の規則を受け入れようとしている。イスラム圭義は数多くの運動の1つだ。ほかの運動と同じく存在する権利を持つが、それは民生王義の法と規則の範囲内においてでなければならない。

ビンラディンの死はテロの終焉ではない。頭のおかしい人物、あるいは集団が爆弾で無実の人々を殺害する事件はこれからも起きる。だがテロを起こすのは難しくなるだろう。人々が警戒を怠らず、警察が治安を最優先事項にしているからだ。ただし、どこかの政府が民主化を阻止すべく、テロ組織を利用しようとすれば話は違ってくる。

それでも独裁は終わる

アラブ世界のような場所はほかのどこにもない。ここには団結も共通する見解もなく、偽善がはびこっている。険悪な仲のモロッコとアルジェリアの国境は閉鎖され、チュニジアは隣国リビアを警戒し、シリアはあらゆる手段を駆使して体制維持に努める一方で、恒常的に治安が不安定なレバノンを再び支配下に置こうと狙っている。

戦争の傷が癒えないイラクでは、今もテロが市民の命を奪っている。スーダンでは不安が渦巻き、イエメンでは政権が崩壊しかけている。

こうした騒乱を横目に、イスラエルは入植政策を強化してパレスチナとの融和を拒み、アメリカの提案を棚上げにしている。イスラエルの望みは、中東における民主主義国家の座を独り占めすることだ。

和平に背を向け、あらゆる解決策を拒否するイスラエルを、反体制運動に立ち上がったチュニジアやエジプトの市民は攻撃しなかった。幸いなことに、イスラエルとパレスチナの民衆はデモを展開して和平交渉を要求している。それでもイスラエルの現政権はパレスチナ自治区への入植政策をやめようとしない。

これが、騒乱のさなかにあるアラブ世界についての私なりの解説だ。反体制の動きがどこで始まり、どこで終わるのか、新しい土地を前にした地図作成者のように確信は持てない。

アラブの民衆の覚醒が終わっていないのは確かだ。だが恐怖する側は入れ替わった。いま恐れを抱いているのは、正統性のない権力を握る独裁者のほうだ。

彼らは追放されるだろう。アラブ世界はいずれ、国民を虐殺してでも権力にしがみっく狂人たちから自由になる。そして虐殺もまた、過去のものにならなければならない。    

服従の人生に終止符を…Newsweek8月10,17日号より

2011年08月15日 14時35分11秒 | 日記
アラブの春はまだ終わらない   タハール・ベンジェルーン(モロッコ出身の作家・詩人)
 
…前略。

昨年12月17日に焼身自殺したモハメド・ブアジジというチュニジアの青年は、その悲劇的な抗議の歴史的意味など想像できなかったに違いない。自殺はイスラム教の禁忌であり、自分の体を燃やすという行為はアラブやイスラムの文化になじまない。それを知りながら、なぜ彼は自らに火を付けたのか。

歴史上、あらゆる偉大な反乱は、不可逆的な流れのきっかけになる象徴的行動と共に始まる。ブアジジの犠牲を、アラブ世界全体が蜂起の呼び掛けと受け止めたのだ。

4月29日、13歳の少年ハムザ・アリ・アル・ハティーブはシリア南部の都市ダルアーで「体制を倒せ」と叫び、逮捕された。彼は拷問と電気ショックを受け、足と肘、膝を焼かれ、

顔面を傷つけられ、性器を切り取られた末に、3発の銃弾を浴びせられて殺された。
 5月25日、両親に返された遺体は既に腐敗していた。父親は逮捕され、イスラム過激派が息子を殺したという非難の言葉を強要された。

チュニジアのブアジジと同様、シリアのハムザ少年も蜂起の象徴となり、人々は今も血を流し続けている。 これらの蜂起は革命ではない。リーダーもイデオロギーも政党の関与もない自然発生的な行動だ。彼らを駆り立てているのは、服従の人生に終止符を打ち、人間の尊厳を取り戻したいという渇望だ。

この頑強な反乱は、抑圧と収奪、腐敗と絶対権力の象徴だった者たちが退場するまで終わらない。

…後略。


ねじれ議会で審議がもめても米政府は安泰…Newsweek8月10,17日号より

2011年08月15日 14時06分30秒 | 日記
強調は筆者。

米政府の債務上限引き上げをめぐり民主党と共和党は土壇場まで攻防を続け、議会の審議は手詰まり状態に陥ったかに見えた。だが、これを「統治能力の危機」の表れとみるのは誤りだ。

今回の状況は、95年と96年に共和党のニュート・ギングリッチ下院議長とクリントン大統領(いずれも当時)が予算案をめぐっで繰り広げた戦いの再来にすぎない。

しかもホワイトハウスにとっては、前回の共和党のほうがはるかに手ごわかった。
クリントン政権発足後の2年間で、共和党は医療保険改革を頓挫させ、中間選挙で快進撃を遂げて上下両院を制した。対するオバマは、クリントンが断念した医療保険改革を成し遂げた。

昨秋の中間選挙で、共和党が掌握したのは下院のみだ。94年の中間選挙では共和党は、「アメリカとの契約」という公約を掲げて有権者の支持を獲得。一方、昨秋の選挙ではその手の公約を打ち出さなかった。

草の根保守派運動ティーパーティーは「大きな政府」を批判し、新人議員を多数当選させたが、多くの共和党有力議員はもっと穏健な路線を取った。

現在の下院議長ジョン・ベイナーには、キングリッチのようなカリスマ性や発想力がない。キングリッチは89年に下院院内幹事に就任すると、党内の結束強化に全力を注いだ。クリントンと戦ったときは、彼の後ろには忠実な議員集団が付いていた。

一方、独白の債務上限引き上げ案をもって上院とホワイトハウスに戦いを挑んだベイナーは仲間から裏切られかねない状態だった。党内の意見調整もままならぬようでは、民主党との交渉を有利に運ぶことは望めない。

しかし今回の紛糾が序章となって混乱がエスカレートし、米議会が機能停止に陥ることはあり得ない。このドタバタ劇は、下院から政局を動かすというキングリッチの見果てぬ夢の幕切れ、とみるべきだろう。

ブルース・アッカーマン(エール大学教授)

菅内閣の酷さについて、マスコミの追及は、全く十分ではなかったのだ。

2011年08月15日 13時27分54秒 | 日記
放射能との闘いは一刻を争う…週刊朝日5月27日号より

池田教授の机上の放論 池田 清彦

いけだ・きよひこ 1947年、東京都生まれ。東京都立大学大学院理学研究科博士課程修了。生物学者。現在、早稲田大学国際教養学部教授。主な著書に 『環境問題のウソ』、『ほんとうの環境問題』(養老孟司氏との共著)など。

文中黒字化は芥川。

政府は福島第一原発の事故を受けて、半径二〇キロ圏内を立ち入り禁止区域に指定したが、帰るに帰れぬ住民は途方に暮れていることと思う。半径二〇キロ圏外でも、飯舘村や浪江町など放射能レベルの高い地域は避難対象地域になっており、原発難民の数は二〇万人近くにも上るという。

放射性物質の半減期は物理的に決まっており、いかなる技術をもってしてもこれを短縮することは不可能であり、一度汚染された地域を元に戻すのは大変なのだ。

中部大学の武田邦彦教授は表土を五ミリから一センチ除去するだけでも、かなりの除染になると主張している。

福島第一原発の周囲で放射線レベルの高い原因は、三月十二日と一四日に起きた一号機と三号機の水素爆発により飛び散った放射性ヨウ素と放射性セシウムによるところが大きい。

放射性ヨウ素は半減期が八日と短く、短期間で消えてしまうが、放射性セシウムは半減期が三〇年で、これが雨が降るたびに土壌に浸み込んでしまうので除去は時間が経てば経つほど難しくなる。

チェルノブイリの例からするとセシウムは年に数センチずつ土壌に浸み込んでゆくとのことで、梅雨や台風の前に早急に除去してしまえば、効果はかなりあるだろう。

これは時間との闘いだから、やるのであれば一刻も早くする必要がある。原子力安全委員会の緊急事態応急対策調査委員の中にも表土除去を主張する人もいるのだから、今日、明日からでもやるべきだと思う。とりあえず一千億円くらいあればかなり除去できるのではないか。

原発事故後の政府。の対応は何をするにも遅すぎる。原発事故後の放射能との闘いは同時に時間との闘いでもあることがわかっているのかしら。

最近、一番あきれたのは、年間1ミリシーベルトが被曝の限度と言っていたのを、二〇ミリリシーベルトまで大丈夫と、極めて恣意的に安全基準を変えたことだ。

さらに放射能汚染が進めば、一○○ミリにしてさらに二〇〇ミリにするのかもね。今の状態では福島県の東半分の人の年間被曝量が一ミリを超えるのは確実なので、基準を変更したのだろう。ひどい話だ。水素爆発の後ですぐに避難していれば、被曝量は最小限ですんだものを。

放射線はDNAを確率的に損傷させていくので、被曝量とがんの発症率はほぼパラレルになると思われる。被曝量は少なければ少ないほど安全だ。二〇ミリ以内なら安全などというのは真っ赤なウソだ。日本政府を信用してはいけない。


3匹の猿がプーチンを怒らせた…Newsweek8月10,17日号より

2011年08月15日 11時33分37秒 | 日記
外交術 ブローチにメッセージを込め各国トップと渡り合った日々

マデレン・オルブライト(元米国務長官)   文中黒字化は芥川。

アメリカの外交官のトップに立っていたとき、私はとてもひどい過ちを犯した。その経緯はこんな感じだ。99年、ビル・クリントン大統領とウィリアム・コーエン国防長官と私はNATO(北大西洋条約機構)創設50周年を祝った。

記念に写真を撮ることになり、3人でおどけて「見ざる言わざる聞かざる」の3匹の猿のポーズを取った。それで思い立ち、3匹の猿のブローチを買いに行ったのだ。

1年後、クリントン大統領と私は会談のためモスクワを訪れることになった。私は当時、チェチェンにおけるロシア軍の残虐行為に愕然としていた。邪悪だと思った。そこでロシアのウラジーミル・プーチン大統領との会談の場に、3匹の猿のブローチを着けていった。

私かブローチに自分の気分を代弁させるようになったのは、国連大使時代からだ。国連は当時イラクに経済制裁を科してお
り、私はサダム・フセイン大統領への非難の気持ちを常に示すよう指示されていた。

するとフセインはイラクの新聞に詩を掲載して私を「希代のヘビ」に例えた。ちょうどヘビのブローチを持っていたので、それを着けることにした。理由を聞いてくる報道陣には、「サダム・フセインが私を希代のヘビに例えたから」と答えた。

これに味を占めて、いつか使えそうなブローチを大量に買い込んだ。気分のいい日はチョウや花や風船のブローチを着け、悪い日は昆虫のブローチを着けた。例えばロシアの外交団と会談中に国務省内の会議室で盗聴器(バグ)が見つかったことがある。それで次にロシアの外交団と会談した際は巨大な虫(バグ)のブローチを着けた。

 通じなかったユーモア

しかし猿のブローチを着けてプーチン大統領に会ったのは過ちだった。部屋に入るとプーチンはクリントンに向かって「いつもオルブライト長官のブローチに注目している」と言った。

それから私に向き直って「なぜ猿のブローチを?」と尋ねた。「あなたのチェチェン政策のせいです」と答えると、プーチンは激怒した。
しまった、やり過ぎたと思った。

ありかたいことに、米口大統領の重要な会談には影響しなかった。私は謝罪しなかったが、ほどほどが肝心だということを知った。深刻な場面では、相手が同じユーモアのセンスを持ち合わせていないとジョークでは済まなくなる場合もある。 

巨匠フロイドと人生のカオス…Newsweek8月10,17日号より

2011年08月15日 11時26分04秒 | 日記
追悼 刺激的な生きざまをキャンバスにぶつけたルシアン・フロイド

文中黒字化は芥川。

7月20日、ルシアン・フロイドがロンドンで他界した。88歳たった。トマス・ゲインズボロやジョン・コンスタブル、J・M・W・ターナーの流れを受け継ぐ最後のイギリス人現代画家として知られていた。

フロイドは昔ながらのボヘミアンとしても名をはせた。猛烈にカネを使い、猛烈に酒を飲み、猛烈に女と遊び、猛烈に絵を描いた。借金は刺激的だと語り、2回結婚して、恋人や子供の数は確認のしようがない。

彼の人生のカオスは、キャンバスのカオスとして感じられる。肖像画のモデルは、画家の酔っぱらい具合に合わせるかのようにゆがんで見えるーー相手がエリザベス英女王でも。

画家としてのスタートは波乱に満ちていた。80年代に具象的な手法が再流行して世界的な人気を博し、奇抜な行動にもかかわらず、イギリス絵画の大御所と見なされるようになった。

祖父は精神分析学者ジークムント・フロイト。ベルリンの名家に生まれ、ナチス政権から逃れて33年にイギリスへ移住し11歳の少年は、突然投げ込まれた新しい文化を無視することも、溶け込むこともできなかった。イギリスらしさとはフロイドにとって常に、心の葛藤と譲歩の対象だった。

フロイド以前のイギリス絵画は、欧米の急進的な流れとはうまく距離を置いていた。パリやモスクワ、ベルリン、ニューヨークでは最先端の芸術家が、ピカソのキュビスムやマレーピッチの抽象主義、デュシャンの概念論を追い掛けていた。

しかしロンドンでは多くの芸術家が、18~19世紀のイギリス絵画の先駆者が残した遺産に答えを求めた。そしてフロイドは周囲の保守主義を無視するのではなく、受け入れた。

フロイドはイギリス絵画の先駆者たちと同じプロセスを踏みながら、それが破裂するまで膨らませていった。そのためモデルと長時間、向き合うことでも知られていた。

人物のありのままの姿を正確に描くのではない。彼の作品は肉体と持続、観察についての叫びであり、こぎれいなイギリスらしさを最後の一撃で打ち砕く。

ブレイク・ゴプニック(アート担当)

昨日、朝日新聞の社説に呆れかえる。

2011年08月15日 11時05分41秒 | 日記
昨日、朝日新聞の社説は、「今、民主主義を鍛え直す」 というものだったが、芥川は本当に呆れかえった。今の朝日の重鎮論説委員たちは、どこまで度し難いのだろうか。

今までの所業、この20年超、30年超、否、80年超の有り様について、鍛え直さなければならないのは、貴方がたの方である。

その貴方がたが…日本国民の、たった3万人前後に過ぎない貴方がたが、日本国民の99パーセントを占める労働者に向かって、民主主義を説くなぞという高説をたれる。

本末転倒も甚だしい。

芥川は、よっぽど、もうこの新聞を取るのは止めようかとさえ思うのだが、その他の部分についての長年の愛着と、その他の部分のクオリティーの確かさに対する信用が、芥川を辛うじて、今も購読者として留めているに過ぎない。

昨夜、午後9時からのNHKのドキュメンタリーは「圓の戦争」だった。

2011年08月15日 10時47分48秒 | 日記
昨夜、確か午後9時からだったと思うが、NHKドキュメンタリー、「圓の戦争」というタイトルだった。最初芥川は、現今の円高についての特集番組かな、と思って見る事にしたのだったが。

なんと、日本はいかにしてemperor-banzai- fascismの戦争に突入していったかという事。通貨と国家財政の両面から解き明かした実に優れ物の番組…全国民必見の番組だった。

この番組を見ていなかった大多数の日本国民、日曜日の夜9時にNHKのドキュメンタリーを見ているのはわずか数パーセントだろう。残りの90%超は痴呆民放テレビを見ていたはずだから…。

しかして、日本国民の大半は、未だにemperor-banzai- fascismの戦争の深層を知る事はないのである。芥川ですら、この通貨と国家財政とうい側面から当時の日本を認識したのは恥ずかしながら、昨夜がはじめてだったのだから。

横浜正金銀行が、日銀に次ぐ日本最大の或いは唯一の国際銀行であった。という事を、日本の歴史の教科書は教えてはいないはずだ。

Hさんへ。

2011年08月15日 10時16分18秒 | 日記
gooにおける昨日のアクセス数は、以下の数字でした。

8月14日のアクセス数 閲覧数:7,131PV 訪問者数:542IP
順位: 1,054位 / 1,619,714ブログ中 (前日比 ↓)

一方昨日のアメーバは 閲覧数:714 訪問者数:495

gooの、ページごとの閲覧数ベスト20は以下の通りです。


1「レヴィ=ストロース 夜と音楽」今福 龍... 58 PV
2トップページ 53 PV
3中国の食品・外食 外資、相次ぎM&A…日... 44 PV
4NY株乱高下 高速取引も一因?…日経新聞8... 37 PV
5コバレント、台湾企業に売却…日経新聞8月12... 37 PV
6Hさんへ。 36 PV
7「女優は男だ」とはよく言われることだが…... 36 PV
8「中国が読んだ現代思想」王前著…日経新聞8... 35 PV
9多くの改革を阻止してきた構造…週刊朝日8月... 34 PV
10「国際人のすすめ」松浦 晃一朗著…日経新... 33 PV
11イサム・ノグチに秘術施す…日経新聞8月14日... 33 PV
12「世界一大きな問題のシンプルな解き方」ポ... 32 PV
13明確な外交戦略を持て…日経新聞8月14日1面より 31 PV
14「イカの心を探る」池田譲著…日経新聞8月14... 29 PV
15ヤマダ電機 エス・バイ・エルを買収…日経新聞... 15 PV
16近鉄、遊休地使い農業 傘下のスーパーで販... 13 PV
17東レ 繊維成熟超え世界へ…日経新聞8月13日... 12 PV
18韓国、ウォン安路線貫く 李政権、輸出後押... 11 PV
19中国 BRICS周辺国に接近…日経新聞8月... 11 PV
20空売り禁止 流動性低下の副作用…日経新聞8... 11 PV


昨日の結果も芥川の本望であり本懐でした。今日はお盆の15日。

ストックホルムの中心部・セルゲル広場。夏の日差しを求める人々が集まっていた。

2011年08月15日 10時04分24秒 | 日記

第7回今国際派と暗号 週刊司馬遼太郎 週刊朝日8/19号から。

文中黒字化は私。

…前章続き。

〈明石の能力を過大に評価することはできない。明石をしてその巨大な業績をあげしめたのは、むしろ時の勢いというものであった〉
 
その後も明石は手を緩めず、スイスで小銃2万5千挺、小銃弾420万発を用意し、各地の反対勢力に輸送を試みてもいる。

作家の水木楊さんには、『動乱はわが掌中にありI情報将校明石元二郎の日露戦争-』という著書がある。冒頭に陸軍の最高権力者、山県有朋が明石からの報告書を見て、「明石というのは恐ろしい男だ……」とつぶやく場面がある。山県と明石について、水木さんはいう。
 
「明石の活動を支えた人物として山県有朋がいます。司馬さんは山県の評価が低いですが、私はもっと評価していいと思います。山県にはある種の臆病さがあり、臆病ゆえに情報を重んじる。新聞の外電面をなめるようにして読んだといいます。人気はありませんが、このリアリストの功績は大きいですよ。シリアクスの回顧録を読むと、山県から明石が指示を受ける場面が出てきますね」
 
水木さんの本に、社会革命党の戦闘団長のイェノフ・アゼーフが登場する。前述したプレーヴエ内務大臣やセルゲイ大公の暗殺など、数々のテロの首謀者として知られる。
 
水木さんは書いている。「この男、イェノフ・アゼーフは、まことに奇怪なことに、実はオフラーナと通じていたのである」オフラーナとは、ロシアの秘密警察のことで、アゼーフはダブルスパイだったことになる。
 
「明石はアゼーフに資金を提供していますが、帝政ロシアに通じているとは知らなかったでしょう。スパイというのは、ほとんど二重スパイじゃないと成り立たない。相手に食い込まないとなりませんから」
 
アゼーフはその後、スパイであることが露見したが、愛人とともにドイツに逃げたという。こうした虚々実々の駆け引きのなか、明石は成果をあげていったことになる。
 
多くの革命家たちが集まってきた最大の理由は資金力ですね。明石は天才的な語学力を持ち、人をひきつける魅力もありました。レーニンとも面識があったし、血の日曜日のガポンも、アゼーフも頼ってきたわけです
 
山県、明石のように情報を重視する傾向が、日露戦争以後、薄らいでいったと、水木さんはみている。
 
多くの人間が国際派だったと思うんですね。原書で勉強して、外国に学び、さらには外国の情報を集めて必死で日露戦争を戦った。しかし成功が失敗のもとになります。明石のような人間が活躍することもなくなり、大和魂を強調する内向きの時代となっていきました

…後略。


「ロシアに革命が来るかどうかは、私にはまだわからない。しかし山の木は十分に枯れ

2011年08月15日 09時40分00秒 | 日記

第7回今国際派と暗号 週刊司馬遼太郎 週刊朝日8/19号から。

だいぶ以前に書いた様に、高校2年生時分に、世界史の教諭に「ここはキサラの方が、俺より詳しいから」と
2回に渡って、同級生の前でロシア革命前後について講義をした私の目に留ったのも当然なのだった。

文中黒字化は私。

『坂の上の雲』に登場する国際派といえば、明石元二郎大佐(1864~1919)だろう。
 「ロシアに革命が来るかどうかは、私にはまだわからない。しかし山の木は十分に枯れている。火をつければ山火事ぐらいはおこせそうだ」と、開戦まもなく、親しかったロシア公使館の職員に語っている。
 スウェーデンのストックホルムやパリなどを舞台に、ロシアの情報を収集、ポーフンド、フィンランド、そしてロシア本国の政情不安を扇動する工作に活躍した。
 ロシア側によって書かれたロシア革命史に明石元二郎が登場することはないと、司馬さんは書く。
が、ロシア革命は、明石が出現する時期からくっきりと時期を劃して激化し、各地に暴動と破壊事件が頻発したということはたれも曲げることはできないであろう
 参謀本部から出た100万円(約80億円)の豊富な資金力を持ち、フィンランドの革命家、コンニーシリアクスの人脈を起点に、明石は反ロシアネットワークを構築していく。
 1904(明治37)年秋は旅順の戦いが始まったばかりで、一方、バルチック艦隊がアジアを目指して航海を始めたころでもある。
 明石、シリアクスはこの時期にパリで会議を開いた。
ロシアに痛めつけられている国々の革命家もいれば、ロシア本国の強硬派、社会革命党(エスエル)もいた。
 社会革命党は、ロシア内務大臣のプレーヴエをターゲットにしている。
革命運動を弾圧する一方、「革命の毒気をはらうには、戦争が必要である。それもちょっとした戦争がいい」と公言する人物だった。
愛国的な気分が盛り上がり、革命気分を吹き飛ばすことができると考えたようだ。
しかし、「ちょっとした戦争」が始まって5ヵ月後、自分が爆弾で吹き飛ばされてしまう。
暗殺したのは社会革命党の党員だった。
強硬派、穏健派の区別なく明石は援助し、パリ会議以降、各国で革命運動が活発化していく。
旅順が陥落した明治38年1月には、ペテルブルグで血の日曜日事件(1月22日)が起きている。
僧侶ガポンに率いられた平和的なデモに官憲が発砲、多くの血が流れた。
ロシア皇帝への反感が高まり、明石は仕事がしやすくなっていく。
…以下続く。