以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
外交戦略の欠如
なぜ、このような事態を招くことになったのか。
まず外務省、とくにチャイナ・スクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー(外交戦略)の欠如があげられる。
とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙し、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して「戦略的思考」で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
橋本氏の二代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏は、いわゆるチャイナ・スクールではなくフレンチ・スクールだといってもよいのだが、日中間の歴史認識の問題などではチャイナ・スクール顔負けの親中国ぶりを発揮しておられた。
1985年就任の中国課長・櫛田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(1983年就任)で、氏は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表していた。
1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に「工作」したことが報じられた。
日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(1974年就任)、田島高志氏(同1976年)、谷野作太郎氏(同1978年)、池田維氏(同1980年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJlCA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナ・スクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。
香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。
この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう。
橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中-大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくり上げた原因でもある。
彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
延べ3.6兆円にも及ぶ対中国0DAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介-橋本恕―國廣道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きかったように思われる。
さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から土地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。
よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナ・スクールの伝統が加味されて、今回のような「国籍不明」の大使発言にいたったのだともいえよう。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
外交戦略の欠如
なぜ、このような事態を招くことになったのか。
まず外務省、とくにチャイナ・スクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー(外交戦略)の欠如があげられる。
とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙し、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して「戦略的思考」で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
橋本氏の二代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏は、いわゆるチャイナ・スクールではなくフレンチ・スクールだといってもよいのだが、日中間の歴史認識の問題などではチャイナ・スクール顔負けの親中国ぶりを発揮しておられた。
1985年就任の中国課長・櫛田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(1983年就任)で、氏は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表していた。
1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に「工作」したことが報じられた。
日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(1974年就任)、田島高志氏(同1976年)、谷野作太郎氏(同1978年)、池田維氏(同1980年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJlCA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナ・スクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。
香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。
この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう。
橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中-大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくり上げた原因でもある。
彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
延べ3.6兆円にも及ぶ対中国0DAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介-橋本恕―國廣道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きかったように思われる。
さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から土地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。
よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナ・スクールの伝統が加味されて、今回のような「国籍不明」の大使発言にいたったのだともいえよう。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
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とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙し、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して「戦略的思考」で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
橋本氏の二代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏は、いわゆるチャイナ・スクールではなくフレンチ・スクールだといってもよいのだが、日中間の歴史認識の問題などではチャイナ・スクール顔負けの親中国ぶりを発揮しておられた。
1985年就任の中国課長・櫛田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(1983年就任)で、氏は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表していた。
1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に「工作」したことが報じられた。
日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(1974年就任)、田島高志氏(同1976年)、谷野作太郎氏(同1978年)、池田維氏(同1980年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJlCA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナ・スクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。
香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。
この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう。
橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中-大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪
をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくり上げた原因でもある。
彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
延べ3.6兆円にも及ぶ対中国0DAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介-橋本恕―國廣道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きかったように思われる。
さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から土地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。
よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナ・スクールの伝統が加味されて、今回のような「国籍不明」の大使発言にいたったのだともいえよう。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
外交戦略の欠如
なぜ、このような事態を招くことになったのか。
まず外務省、とくにチャイナ・スクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー(外交戦略)の欠如があげられる。
とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙し、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して「戦略的思考」で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
橋本氏の二代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏は、いわゆるチャイナ・スクールではなくフレンチ・スクールだといってもよいのだが、日中間の歴史認識の問題などではチャイナ・スクール顔負けの親中国ぶりを発揮しておられた。
1985年就任の中国課長・櫛田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(1983年就任)で、氏は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表していた。
1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に「工作」したことが報じられた。
日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(1974年就任)、田島高志氏(同1976年)、谷野作太郎氏(同1978年)、池田維氏(同1980年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJlCA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナ・スクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。
香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。
この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう。
橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中-大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪
をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくり上げた原因でもある。
彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
延べ3.6兆円にも及ぶ対中国0DAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介-橋本恕―國廣道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きかったように思われる。
さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から土地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。
よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナ・スクールの伝統が加味されて、今回のような「国籍不明」の大使発言にいたったのだともいえよう。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
外交戦略の欠如
なぜ、このような事態を招くことになったのか。
まず外務省、とくにチャイナ・スクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー(外交戦略)の欠如があげられる。
とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙し、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して「戦略的思考」で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
橋本氏の二代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏は、いわゆるチャイナ・スクールではなくフレンチ・スクールだといってもよいのだが、日中間の歴史認識の問題などではチャイナ・スクール顔負けの親中国ぶりを発揮しておられた。
1985年就任の中国課長・櫛田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(1983年就任)で、氏は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表していた。
1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に「工作」したことが報じられた。
日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(1974年就任)、田島高志氏(同1976年)、谷野作太郎氏(同1978年)、池田維氏(同1980年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJlCA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナ・スクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。
香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。
この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう。
橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中-大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪
をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくり上げた原因でもある。
彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
延べ3.6兆円にも及ぶ対中国0DAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介-橋本恕―國廣道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きかったように思われる。
さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から土地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。
よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナ・スクールの伝統が加味されて、今回のような「国籍不明」の大使発言にいたったのだともいえよう。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
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まず外務省、とくにチャイナ・スクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー(外交戦略)の欠如があげられる。
とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙し、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して「戦略的思考」で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
橋本氏の二代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏は、いわゆるチャイナ・スクールではなくフレンチ・スクールだといってもよいのだが、日中間の歴史認識の問題などではチャイナ・スクール顔負けの親中国ぶりを発揮しておられた。
1985年就任の中国課長・櫛田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(1983年就任)で、氏は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表していた。
1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に「工作」したことが報じられた。
日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(1974年就任)、田島高志氏(同1976年)、谷野作太郎氏(同1978年)、池田維氏(同1980年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJlCA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナ・スクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。
香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。
この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう。
橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中-大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪
をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくり上げた原因でもある。
彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
延べ3.6兆円にも及ぶ対中国0DAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介-橋本恕―國廣道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きかったように思われる。
さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から土地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。
よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナ・スクールの伝統が加味されて、今回のような「国籍不明」の大使発言にいたったのだともいえよう。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
外交戦略の欠如
なぜ、このような事態を招くことになったのか。
まず外務省、とくにチャイナ・スクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー(外交戦略)の欠如があげられる。
とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙し、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して「戦略的思考」で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
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1985年就任の中国課長・櫛田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(1983年就任)で、氏は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表していた。
1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に「工作」したことが報じられた。
日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(1974年就任)、田島高志氏(同1976年)、谷野作太郎氏(同1978年)、池田維氏(同1980年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJlCA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナ・スクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。
香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。
この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう。
橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中-大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪
をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくり上げた原因でもある。
彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
延べ3.6兆円にも及ぶ対中国0DAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介-橋本恕―國廣道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きかったように思われる。
さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から土地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。
よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナ・スクールの伝統が加味されて、今回のような「国籍不明」の大使発言にいたったのだともいえよう。
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日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
外交戦略の欠如
なぜ、このような事態を招くことになったのか。
まず外務省、とくにチャイナ・スクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー(外交戦略)の欠如があげられる。
とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙し、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して「戦略的思考」で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
橋本氏の二代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏は、いわゆるチャイナ・スクールではなくフレンチ・スクールだといってもよいのだが、日中間の歴史認識の問題などではチャイナ・スクール顔負けの親中国ぶりを発揮しておられた。
1985年就任の中国課長・櫛田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(1983年就任)で、氏は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表していた。
1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に「工作」したことが報じられた。
日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(1974年就任)、田島高志氏(同1976年)、谷野作太郎氏(同1978年)、池田維氏(同1980年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJlCA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナ・スクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。
香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。
この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう。
橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中-大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪
をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくり上げた原因でもある。
彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
延べ3.6兆円にも及ぶ対中国0DAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介-橋本恕―國廣道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きかったように思われる。
さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から土地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。
よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナ・スクールの伝統が加味されて、今回のような「国籍不明」の大使発言にいたったのだともいえよう。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
外交戦略の欠如
なぜ、このような事態を招くことになったのか。
まず外務省、とくにチャイナ・スクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー(外交戦略)の欠如があげられる。
とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙し、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して「戦略的思考」で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
橋本氏の二代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏は、いわゆるチャイナ・スクールではなくフレンチ・スクールだといってもよいのだが、日中間の歴史認識の問題などではチャイナ・スクール顔負けの親中国ぶりを発揮しておられた。
1985年就任の中国課長・櫛田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(1983年就任)で、氏は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表していた。
1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に「工作」したことが報じられた。
日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(1974年就任)、田島高志氏(同1976年)、谷野作太郎氏(同1978年)、池田維氏(同1980年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJlCA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナ・スクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。
香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。
この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう。
橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中-大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪
をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくり上げた原因でもある。
彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
延べ3.6兆円にも及ぶ対中国0DAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介-橋本恕―國廣道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きかったように思われる。
さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から土地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。
よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナ・スクールの伝統が加味されて、今回のような「国籍不明」の大使発言にいたったのだともいえよう。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
チャイナ・スクールの責任
「瀋陽事件」が証明したように、「日中友好」の美名に隠れた「日中癒着」の体質は、実は日中国交正常化以前から日本政府・外務省内に存在していた。
対中国外交に関しては、どこの国の外交官なのかわからないような外務官僚が省内を跋扈し、いわゆるチャイナ・スクールと呼ばれるグループを形成してきていた。
そもそも、中国語研修を選んでキャリア外交官(上級職)としての道を歩む人々を中心とする外務省内のチャイナ・スクールは、そこに中国語研修組ではないキャリア外交官もときには加わった形で、アジア局(現アジア大洋州局)の中国課首席事務官-中国課長-(香港総領事)ーアジア局長-駐中国大使といったピラミッド構造によって、一元的に形成されてきていた。
アジア局中国課は従来、モンゴルや香港・台湾も含む東アジア全域の外交を担当し、その首席事務官はきわめて重要なポストなのである。首席事務官がやがて中国課長、アジア局長、駐中国大使などになる場合が多く、わが国の対中国政策の決定を左右するからだ。
そこで、次に歴代の中国課長を私の知るかぎりで見てみると、日中国交正常化以前(佐藤栄作内閣時)の1968年から、対中国外交の命運を決した国交樹立の時期を挟んで5年前後も異例の長期にわたって中国課長だった橋本恕(ただし)氏(のちアジア局長、駐中国大使)が注目される。
それより前の1963年10月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶(しゅうこうけい)亡命事件」が発生した。
これは、来日した中国代表団の通訳・周鴻慶が台湾へ亡命しようとしたが、それが叶わず中国に強制送還された事件であったが、橋本氏はこの事件について、当時の外務省がうまく処理して本人を中国へ送り戻したのがよかったと得々と語っていたことがある。
このあたりにも、その後の外務省の対中国姿勢の片鱗が早くも表れていたといえよう。
外務官僚から政治家になった加藤紘一氏(元自民党幹事長)は、アメリカと中国を秤(はかり)にかけて、日本は米中と二等辺三角形の位置にあるべきだと述べて多くの批判を浴びたが、その加藤氏は橋本課長のもとで次席事務官を務めていた。
私は1969年から71年まで、外務省特別研究員として香港総領事館に在勤したことがある。
当時は日中国交樹立の直前、米中接近の時期で、外務省に出向した経験に基づいて、帰国後に「『霞ヶ関外交』の体質〈岐路に立つ日本外交〉という文章を『日本経済新聞』1971年6月8日付)に寄せたことがあった。
そのなかで、わが国の中国政策決定過程を見ると「外務省の政策決定過程はあまりにも恣意的かつ不透明であるように思われる。そうした不透明さのなかで問題が処理されるだけに、だれがどんな情報をだれに送り、だれがどんな情報をだれから受けて責任ある政策を決定するか、という政策決定過程における情報とコミュニケーションのチャンネルもまた不分明であって、これではとうていあの目敏(めざと)く執拗で、またテンポの速い中国外交の展開に十分対応できないように思われる」と書いたのだが、40年以上経った現在も、この体質は基本的に変わっていない。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
チャイナ・スクールの責任
「瀋陽事件」が証明したように、「日中友好」の美名に隠れた「日中癒着」の体質は、実は日中国交正常化以前から日本政府・外務省内に存在していた。
対中国外交に関しては、どこの国の外交官なのかわからないような外務官僚が省内を跋扈し、いわゆるチャイナ・スクールと呼ばれるグループを形成してきていた。
そもそも、中国語研修を選んでキャリア外交官(上級職)としての道を歩む人々を中心とする外務省内のチャイナ・スクールは、そこに中国語研修組ではないキャリア外交官もときには加わった形で、アジア局(現アジア大洋州局)の中国課首席事務官-中国課長-(香港総領事)ーアジア局長-駐中国大使といったピラミッド構造によって、一元的に形成されてきていた。
アジア局中国課は従来、モンゴルや香港・台湾も含む東アジア全域の外交を担当し、その首席事務官はきわめて重要なポストなのである。首席事務官がやがて中国課長、アジア局長、駐中国大使などになる場合が多く、わが国の対中国政策の決定を左右するからだ。
そこで、次に歴代の中国課長を私の知るかぎりで見てみると、日中国交正常化以前(佐藤栄作内閣時)の1968年から、対中国外交の命運を決した国交樹立の時期を挟んで5年前後も異例の長期にわたって中国課長だった橋本恕(ただし)氏(のちアジア局長、駐中国大使)が注目される。
それより前の1963年10月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶(しゅうこうけい)亡命事件」が発生した。
これは、来日した中国代表団の通訳・周鴻慶が台湾へ亡命しようとしたが、それが叶わず中国に強制送還された事件であったが、橋本氏はこの事件について、当時の外務省がうまく処理して本人を中国へ送り戻したのがよかったと得々と語っていたことがある。
このあたりにも、その後の外務省の対中国姿勢の片鱗が早くも表れていたといえよう。
外務官僚から政治家になった加藤紘一氏(元自民党幹事長)は、アメリカと中国を秤(はかり)にかけて、日本は米中と二等辺三角形の位置にあるべきだと述べて多くの批判を浴びたが、その加藤氏は橋本課長のもとで次席事務官を務めていた。
私は1969年から71年まで、外務省特別研究員として香港総領事館に在勤したことがある。
当時は日中国交樹立の直前、米中接近の時期で、外務省に出向した経験に基づいて、帰国後に「『霞ヶ関外交』の体質〈岐路に立つ日本外交〉という文章を『日本経済新聞』1971年6月8日付)に寄せたことがあった。
そのなかで、わが国の中国政策決定過程を見ると「外務省の政策決定過程はあまりにも恣意的かつ不透明であるように思われる。そうした不透明さのなかで問題が処理されるだけに、だれがどんな情報をだれに送り、だれがどんな情報をだれから受けて責任ある政策を決定するか、という政策決定過程における情報とコミュニケーションのチャンネルもまた不分明であって、これではとうていあの目敏(めざと)く執拗で、またテンポの速い中国外交の展開に十分対応できないように思われる」と書いたのだが、40年以上経った現在も、この体質は基本的に変わっていない。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
チャイナ・スクールの責任
「瀋陽事件」が証明したように、「日中友好」の美名に隠れた「日中癒着」の体質は、実は日中国交正常化以前から日本政府・外務省内に存在していた。
対中国外交に関しては、どこの国の外交官なのかわからないような外務官僚が省内を跋扈し、いわゆるチャイナ・スクールと呼ばれるグループを形成してきていた。
そもそも、中国語研修を選んでキャリア外交官(上級職)としての道を歩む人々を中心とする外務省内のチャイナ・スクールは、そこに中国語研修組ではないキャリア外交官もときには加わった形で、アジア局(現アジア大洋州局)の中国課首席事務官-中国課長-(香港総領事)ーアジア局長-駐中国大使といったピラミッド構造によって、一元的に形成されてきていた。
アジア局中国課は従来、モンゴルや香港・台湾も含む東アジア全域の外交を担当し、その首席事務官はきわめて重要なポストなのである。首席事務官がやがて中国課長、アジア局長、駐中国大使などになる場合が多く、わが国の対中国政策の決定を左右するからだ。
そこで、次に歴代の中国課長を私の知るかぎりで見てみると、日中国交正常化以前(佐藤栄作内閣時)の1968年から、対中国外交の命運を決した国交樹立の時期を挟んで5年前後も異例の長期にわたって中国課長だった橋本恕(ただし)氏(のちアジア局長、駐中国大使)が注目される。
それより前の1963年10月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶(しゅうこうけい)亡命事件」が発生した。
これは、来日した中国代表団の通訳・周鴻慶が台湾へ亡命しようとしたが、それが叶わず中国に強制送還された事件であったが、橋本氏はこの事件について、当時の外務省がうまく処理して本人を中国へ送り戻したのがよかったと得々と語っていたことがある。
このあたりにも、その後の外務省の対中国姿勢の片鱗が早くも表れていたといえよう。
外務官僚から政治家になった加藤紘一氏(元自民党幹事長)は、アメリカと中国を秤(はかり)にかけて、日本は米中と二等辺三角形の位置にあるべきだと述べて多くの批判を浴びたが、その加藤氏は橋本課長のもとで次席事務官を務めていた。
私は1969年から71年まで、外務省特別研究員として香港総領事館に在勤したことがある。
当時は日中国交樹立の直前、米中接近の時期で、外務省に出向した経験に基づいて、帰国後に「『霞ヶ関外交』の体質〈岐路に立つ日本外交〉という文章を『日本経済新聞』1971年6月8日付)に寄せたことがあった。
そのなかで、わが国の中国政策決定過程を見ると「外務省の政策決定過程はあまりにも恣意的かつ不透明であるように思われる。そうした不透明さのなかで問題が処理されるだけに、だれがどんな情報をだれに送り、だれがどんな情報をだれから受けて責任ある政策を決定するか、という政策決定過程における情報とコミュニケーションのチャンネルもまた不分明であって、これではとうていあの目敏(めざと)く執拗で、またテンポの速い中国外交の展開に十分対応できないように思われる」と書いたのだが、40年以上経った現在も、この体質は基本的に変わっていない。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
チャイナ・スクールの責任
「瀋陽事件」が証明したように、「日中友好」の美名に隠れた「日中癒着」の体質は、実は日中国交正常化以前から日本政府・外務省内に存在していた。
対中国外交に関しては、どこの国の外交官なのかわからないような外務官僚が省内を跋扈し、いわゆるチャイナ・スクールと呼ばれるグループを形成してきていた。
そもそも、中国語研修を選んでキャリア外交官(上級職)としての道を歩む人々を中心とする外務省内のチャイナ・スクールは、そこに中国語研修組ではないキャリア外交官もときには加わった形で、アジア局(現アジア大洋州局)の中国課首席事務官-中国課長-(香港総領事)ーアジア局長-駐中国大使といったピラミッド構造によって、一元的に形成されてきていた。
アジア局中国課は従来、モンゴルや香港・台湾も含む東アジア全域の外交を担当し、その首席事務官はきわめて重要なポストなのである。首席事務官がやがて中国課長、アジア局長、駐中国大使などになる場合が多く、わが国の対中国政策の決定を左右するからだ。
そこで、次に歴代の中国課長を私の知るかぎりで見てみると、日中国交正常化以前(佐藤栄作内閣時)の1968年から、対中国外交の命運を決した国交樹立の時期を挟んで5年前後も異例の長期にわたって中国課長だった橋本恕(ただし)氏(のちアジア局長、駐中国大使)が注目される。
それより前の1963年10月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶(しゅうこうけい)亡命事件」が発生した。
これは、来日した中国代表団の通訳・周鴻慶が台湾へ亡命しようとしたが、それが叶わず中国に強制送還された事件であったが、橋本氏はこの事件について、当時の外務省がうまく処理して本人を中国へ送り戻したのがよかったと得々と語っていたことがある。
このあたりにも、その後の外務省の対中国姿勢の片鱗が早くも表れていたといえよう。
外務官僚から政治家になった加藤紘一氏(元自民党幹事長)は、アメリカと中国を秤(はかり)にかけて、日本は米中と二等辺三角形の位置にあるべきだと述べて多くの批判を浴びたが、その加藤氏は橋本課長のもとで次席事務官を務めていた。
私は1969年から71年まで、外務省特別研究員として香港総領事館に在勤したことがある。
当時は日中国交樹立の直前、米中接近の時期で、外務省に出向した経験に基づいて、帰国後に「『霞ヶ関外交』の体質〈岐路に立つ日本外交〉という文章を『日本経済新聞』1971年6月8日付)に寄せたことがあった。
そのなかで、わが国の中国政策決定過程を見ると「外務省の政策決定過程はあまりにも恣意的かつ不透明であるように思われる。そうした不透明さのなかで問題が処理されるだけに、だれがどんな情報をだれに送り、だれがどんな情報をだれから受けて責任ある政策を決定するか、という政策決定過程における情報とコミュニケーションのチャンネルもまた不分明であって、これではとうていあの目敏(めざと)く執拗で、またテンポの速い中国外交の展開に十分対応できないように思われる」と書いたのだが、40年以上経った現在も、この体質は基本的に変わっていない。
この稿続く。
以下は、「日中国交正常化」は誤りだった、と題して、月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。【「WiLL](花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
チャイナ・スクールの責任
「瀋陽事件」が証明したように、「日中友好」の美名に隠れた「日中癒着」の体質は、実は日中国交正常化以前から日本政府・外務省内に存在していた。
対中国外交に関しては、どこの国の外交官なのかわからないような外務官僚が省内を跋扈し、いわゆるチャイナ・スクールと呼ばれるグループを形成してきていた。
そもそも、中国語研修を選んでキャリア外交官(上級職)としての道を歩む人々を中心とする外務省内のチャイナ・スクールは、そこに中国語研修組ではないキャリア外交官もときには加わった形で、アジア局(現アジア大洋州局)の中国課首席事務官-中国課長-(香港総領事)ーアジア局長-駐中国大使といったピラミッド構造によって、一元的に形成されてきていた。
アジア局中国課は従来、モンゴルや香港・台湾も含む東アジア全域の外交を担当し、その首席事務官はきわめて重要なポストなのである。首席事務官がやがて中国課長、アジア局長、駐中国大使などになる場合が多く、わが国の対中国政策の決定を左右するからだ。
そこで、次に歴代の中国課長を私の知るかぎりで見てみると、日中国交正常化以前(佐藤栄作内閣時)の1968年から、対中国外交の命運を決した国交樹立の時期を挟んで5年前後も異例の長期にわたって中国課長だった橋本恕(ただし)氏(のちアジア局長、駐中国大使)が注目される。
それより前の1963年10月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶(しゅうこうけい)亡命事件」が発生した。
これは、来日した中国代表団の通訳・周鴻慶が台湾へ亡命しようとしたが、それが叶わず中国に強制送還された事件であったが、橋本氏はこの事件について、当時の外務省がうまく処理して本人を中国へ送り戻したのがよかったと得々と語っていたことがある。
このあたりにも、その後の外務省の対中国姿勢の片鱗が早くも表れていたといえよう。
外務官僚から政治家になった加藤紘一氏(元自民党幹事長)は、アメリカと中国を秤(はかり)にかけて、日本は米中と二等辺三角形の位置にあるべきだと述べて多くの批判を浴びたが、その加藤氏は橋本課長のもとで次席事務官を務めていた。
私は1969年から71年まで、外務省特別研究員として香港総領事館に在勤したことがある。
当時は日中国交樹立の直前、米中接近の時期で、外務省に出向した経験に基づいて、帰国後に「『霞ヶ関外交』の体質〈岐路に立つ日本外交〉という文章を『日本経済新聞』1971年6月8日付)に寄せたことがあった。
そのなかで、わが国の中国政策決定過程を見ると「外務省の政策決定過程はあまりにも恣意的かつ不透明であるように思われる。そうした不透明さのなかで問題が処理されるだけに、だれがどんな情報をだれに送り、だれがどんな情報をだれから受けて責任ある政策を決定するか、という政策決定過程における情報とコミュニケーションのチャンネルもまた不分明であって、これではとうていあの目敏(めざと)く執拗で、またテンポの速い中国外交の展開に十分対応できないように思われる」と書いたのだが、40年以上経った現在も、この体質は基本的に変わっていない。
この稿続く。
日本は今日も高い代価を支払わされているばかりか、それほどの代価を払ってきたのに中国側はこの40年間、日本に対する敬意や本物の友情を示すことは一切なかった
「日中友好」外交は「対中国位負け」外交であり、「贖罪」外交は「日中癒着」外交にほかならないことも知ってしまったのである。
しかし、「瀋陽事件」での紛れもない映像によって、日本国民の多くは共産党独裁国家・中国の実像と「日中友好」外交の現場を見てしまった。
以下はリアルタイムのベスト10である。2020/8/12, pm 6:55
China has shown no respect or genuine friendship to Japan in the last 40 years
cũng đã tận dụng nó để tạo ra phần lớn trong
ยังใช้ประโยชน์อย่างเต็มที่เพื่อสร้างเสียงข้างมากใน
het dit ook ten volle gebruik om 'n meerderheid in
en a également pleinement profité pour créer une majorité