
自分は普段、そんなに周囲の人間を(つぶさに)観察するタイプじゃない。だが、今年の4月2日(火)夕方に訪れた(いつも行きつけの)食品スーパーでは違った。
その日、そこで日用の食材に数本の缶ビールを買ってレジに並んだ。わたしの前には、80を越えたくらいの白髪の老人【仮に客Ⓑとする】、さらにその前には60代後半と思しき初老の男【仮に客Ⓐとする】が並んでいた。自分と合わせ、都合3人の中高年男性が、たまたま連なったことになる。
わたしは隣の県の大学に進学した時点からかれこれ40年近く独居生活をしており、特にここ15年ほどは経済的な困窮ベースが"板についた"ことから自炊に徹する毎日。ごく普通に、コメも調味料もどんどん減るようになって「食材の補充」が欠かせない。だから買い物カゴの中身も、家族所帯が買ってくような品揃えを貧相にしたくらいの違いしかない。
が、前の2名は違った。少点数ながら、内容が「ぶっ飛んで」た。
一方、それぞれの齢つきと身なりから、おそらく90パーセント以上の確率で(客A)はホームレス、(客B)は年金生活者だった。Aは髪の毛も髭も伸ばし放題、日焼けした顔に似合わぬボロの厚着。いくら朝の気温が2度だったからと言え、お天気は晴れ。昼過ぎの店内は20度にも迫っていて、彼の着込みようは明らかに周りから浮いていた。おそらく、クルマやらネカフェで泊まる生活を続けるうち、布団と普段着の区別が付かない「寝袋歩き」が常態化したのだろうと思われた。野宿生活の1歩手前と言うか、リッチなホームレスと言うか。
ご年配のBは対照的に、白っぽい長袖のポロシャツに(色までは忘れたが)濃色のスラックス。質素だが こぎれいな身なり。毎朝、家の玄関前を掃くのが日課、というタイプの典型的「昭和の爺ちゃん」に見てとれた。几帳面な性格だろうことは、スリムな身体の動きの俊敏さからも窺える。
で、そんな両名の"お買い上げ"品が



いちいち解説するまでもないが、いちおーテキストに落としてくと、品目は…
・ 客A:①トイレットペーパー、②介護用おむつ、③缶チューハイ×2箱の、計4点。
・ 客B:①カップ麺のバラ買い×9種類、②いちご1パックの、計10点。
…ンまあ、どうでしょう。アルコールと排せつ用品だけ買い込んだ、(A)のリアルな生活感。ああ「妻に先立たれた(か、妻だけ介護施設に入っちゃった)」んで、毎日毎晩🍜カップ麺すすって生きるしかなくなっちゃったんだね❕❔ という(B)の凄絶感。
3年前に83歳で逝ったウチの父親が、まさに(B)のような男だった。退職後の嘱託仕事もしなくなり、ついに1日じゅう家にいるようになった最後の十数年間も、ただの1度とて自分で台所に立つことはなかった。米も研げなきゃ、みそ汁も作れないまま人生を終えたのだ。だからか余計なことまで気にかけまくり、妻のひとりも娶れない息子を「一方的に」不憫がりつつ。
自分に言わせれば、立派に所帯を持とうと何だろと、親父のような生き方こそ「不憫」の骨頂だ。
人と生まれて生涯、自活できなかったのだから。幸せにも、たまたま自分が(家族の中で一番)先に死んだから気づくこともなかったが、もし生前に妻に捨てられたり、妻に死なれたりしてみろ。残されるのは、(B)のような、ひとりじゃ何も生活できない「カップ麺」爺さんだけだ。侘(わび)しいじゃないか。
これからのニッポンの夫婦関係なり家族は、ますます不安定に、気遣いの欠かせない生活単位となる。そこで一端に機能するには、おのおの個人が最低限「ひとりでも自活できる」素養を持つことであり、「最初っから任せきり」で「相手の苦労が解らない」者は家族人として失格だ。
それを幼稚園や学校で習わなかった昭和世代が今、だらだらと年月に押され老人層に流れ込んでいる。そんな男たちの末路は、ただただ哀れである。
=了=
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