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生まれたときから余りに見慣れてしまってるから、疑問に思う人も少ないかもしれない。
けど、わたしには釈然としない。一時停止の道路標識に掲げられた「止まれ」の三文字。一般的な丸ゴシック体とは異なる、独特の字体デザインなのはナンでなんだろう❔
道路標識の管轄は交通取締り当局=警察ではなく、道路管理者=国交省(旧・建設省)が行っている。現在の赤い逆三角形の「一時停止」デザインは昭和38(西暦1963)年の建設省令改正で、「止まれ」のデザイン自体はさらに3年遡り1960年、同省令の発布において制定された。
もしかして、当時はまだ(ひらがなの)活字が明朝体オンリーで「ゴシック体」自体が世間に根付いてなかったのか❔ いや、そんなことはない。ひらがなのゴシック体なら戦前からキッチリ確立し使われてた。
となれば、いよいよ解せない話だ。交通標識は、読みやすいほど良いに決まってる。
なぜ、わざわざあんな“変形フォント“を創って政令化したんだろう。自動車のナンバープレートは地名が丸ゴシック体、ひらがな記号が太字の教科書体だ。見やすさ最優先なら、それでいいだろ❔ あえて(一般的な字体を避け)アレに選定した意味が…謎すぎる。
本日は、その謎について考察してみる。
え? まさか…と思われるかもしれないが、太平洋戦争に敗れるまで日本の交通法規上では、運転者に「一時停止義務」など課せられていなかった。あったのは「警戒義務」といって、「この先は危ないぞ。注意しろ!」という義務のみ。標識には赤い太枠の三角形マークが用いられ、現在の「三角表示板」のルーツになっている。
思想信条にウルサかった戦中の憲兵も、運転者には甘かったのだな。十字路でサテ、いったん停止すべきか否か。その判断は国が押しつけるのではなく、運転する側の裁量に任されていたのだ💧 もっとも、そんな寛容さが通ったのも、日本ではまだ自動車運転の本格的な大衆化が起きていなかったことが一番の背景にあったのだろうが…。
上の年譜を見てお分かりの通り、戦争に負け占領された日本では初めて黄色い八角形の「STOP」標札が路地の交叉に立てられた。さらに昭和25年の建設省令で「道路標識令」が改訂され、アメリカの交通法規に倣った「一時停止」標識が定められる。
その後に独立(※1951年)を果たした日本が、ようやく「STOP 停止」でなく「止まれ STOP」と自国の文字主体に同標札を改めるのが、昭和35年12月の省令『道路標識、区画線及び道路標示に関する命令』の施行によって。そしてこのとき、本記事テーマの「止まれ」文字も公に示されたのであった。
昭和25年(1950年)から数年越し、建設省幹部の重大案件は「1960年東京五輪に向け、東京の交通機能を(会場群のデザイニングと合わせ)どう整備するか」であった。そう、東京都が最初に立候補したのは「1940年に返上の五輪を1960年に開くこと」だったのであり、1964年(のつもり)ではなかった。
1960年には、世界じゅうから東京に観客が集まる。そのために、欧米流に洗練された(=欧米客にも分かりやすい)道路標識を日本の首都にも───それが新「道路標識」策定ミッションのキーファクターとして無かったハズはないのである。
一方で、アジアで初の五輪招致には「もうアメリカの"植民地"ではない」「開かれたアジアの平和的リーダーを担(にな)うんだ」という自負を(都民はじめ日本人に)発揚させる、という狙いもあった。単に、アメリカ人の猿真似では済まされない。つまり、標識を改めたは良いが、単にゴシック体の英語部分をゴシック体の日本語にしただけというのでは、それは吹替え洋画みたく「日本向けにアメリカ人が定めた標識」であり、「世界向けに日本人が定めた標識」になってない。
建設省の策定メンバーは考えたろう。では、日本人とは何なのか❔❔
おそらく模範回答的には、こうなる。「日本人とは、和を志す民族。異なるモノを柔軟に取り入れ、融和させ、あらたな価値へと高めてきた民族だ」…と。ひらがな文字ひとつ取っても、それらは(中国から渡来の)漢字の「くずし字」に大和ことばの「音(オン)」を宛がって系統化させたもの。日本人の細やかな感性と品位を、何より象徴してくれてる"情報表現"術では なかろうか。
ここからは、まったくブログ主の憶測になる。直感的に、そう感じるまでを記しておく。
以上見てきた経緯のなかで建設省内、"これからの日本の"道路標識の策定者たちは思ったのではないか ───「ならば単に、ひらがなのゴシック体ではダメだ。ひらがなを超越した、日本人の感性の広がりをシンボライズした"何か"に置き換えないと」
そして結論は、その漢字ひと文字を「ひらがなっぽく」。ひらがな二文字を「漢字っぽく」。
三文字三様に、漢字とひらがなの"中間形"の字体にアレンジすることで、きっと「止まれ」は「軍事進攻に依拠しない平和的"汎アジア志向"を体現する記号」になる。これこそ❕ アジア初の平和の祭典を日本で開く「その必然性をも掲げて誇れる道路標識」になるだろう。
そう意図した。と思えてならないんだな。
ちなみに(すでに歴史が示す通り)1960年大会の招致活動はローマの前に大敗を喫し、都は翌64年大会の招致に再立候補。彼らの立案した「一時停止標識」も、八角な外形が「いつまでアメリカ式な戒律を押しつけられる」「八角形に止まれだと(アジア的には)どこにも進めないイメージ。前進し続けるのを待て、なら三角形が自然だっ」…等々と抗議や不満の声が集中したため💧 早くも(五輪前年の)1963年には赤い▼逆三角形に改められて現在に至っている。
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生まれたときから余りに見慣れてしまってるから、疑問に思う人も少ないかもしれない。
けど、わたしには釈然としない。一時停止の道路標識に掲げられた「止まれ」の三文字。一般的な丸ゴシック体とは異なる、独特の字体デザインなのはナンでなんだろう❔
道路標識の管轄は交通取締り当局=警察ではなく、道路管理者=国交省(旧・建設省)が行っている。現在の赤い逆三角形の「一時停止」デザインは昭和38(西暦1963)年の建設省令改正で、「止まれ」のデザイン自体はさらに3年遡り1960年、同省令の発布において制定された。
もしかして、当時はまだ(ひらがなの)活字が明朝体オンリーで「ゴシック体」自体が世間に根付いてなかったのか❔ いや、そんなことはない。ひらがなのゴシック体なら戦前からキッチリ確立し使われてた。
となれば、いよいよ解せない話だ。交通標識は、読みやすいほど良いに決まってる。
なぜ、わざわざあんな“変形フォント“を創って政令化したんだろう。自動車のナンバープレートは地名が丸ゴシック体、ひらがな記号が太字の教科書体だ。見やすさ最優先なら、それでいいだろ❔ あえて(一般的な字体を避け)アレに選定した意味が…謎すぎる。
本日は、その謎について考察してみる。
考察のポイント その1: そもそも「一時停止」とは、GHQが占領政策として日本人の運転者にも課したのが始まり
え? まさか…と思われるかもしれないが、太平洋戦争に敗れるまで日本の交通法規上では、運転者に「一時停止義務」など課せられていなかった。あったのは「警戒義務」といって、「この先は危ないぞ。注意しろ!」という義務のみ。標識には赤い太枠の三角形マークが用いられ、現在の「三角表示板」のルーツになっている。
思想信条にウルサかった戦中の憲兵も、運転者には甘かったのだな。十字路でサテ、いったん停止すべきか否か。その判断は国が押しつけるのではなく、運転する側の裁量に任されていたのだ💧 もっとも、そんな寛容さが通ったのも、日本ではまだ自動車運転の本格的な大衆化が起きていなかったことが一番の背景にあったのだろうが…。
日本とアメリカにおける「一時停止」標識の変遷史
上の年譜を見てお分かりの通り、戦争に負け占領された日本では初めて黄色い八角形の「STOP」標札が路地の交叉に立てられた。さらに昭和25年の建設省令で「道路標識令」が改訂され、アメリカの交通法規に倣った「一時停止」標識が定められる。
その後に独立(※1951年)を果たした日本が、ようやく「STOP 停止」でなく「止まれ STOP」と自国の文字主体に同標札を改めるのが、昭和35年12月の省令『道路標識、区画線及び道路標示に関する命令』の施行によって。そしてこのとき、本記事テーマの「止まれ」文字も公に示されたのであった。
考察のポイント その2: 建設省の中では当時、標識の立案と東京五輪の招致プランニングを並行して策定中だった
昭和25年(1950年)から数年越し、建設省幹部の重大案件は「1960年東京五輪に向け、東京の交通機能を(会場群のデザイニングと合わせ)どう整備するか」であった。そう、東京都が最初に立候補したのは「1940年に返上の五輪を1960年に開くこと」だったのであり、1964年(のつもり)ではなかった。
1960年には、世界じゅうから東京に観客が集まる。そのために、欧米流に洗練された(=欧米客にも分かりやすい)道路標識を日本の首都にも───それが新「道路標識」策定ミッションのキーファクターとして無かったハズはないのである。
一方で、アジアで初の五輪招致には「もうアメリカの"植民地"ではない」「開かれたアジアの平和的リーダーを担(にな)うんだ」という自負を(都民はじめ日本人に)発揚させる、という狙いもあった。単に、アメリカ人の猿真似では済まされない。つまり、標識を改めたは良いが、単にゴシック体の英語部分をゴシック体の日本語にしただけというのでは、それは吹替え洋画みたく「日本向けにアメリカ人が定めた標識」であり、「世界向けに日本人が定めた標識」になってない。
建設省の策定メンバーは考えたろう。では、日本人とは何なのか❔❔
おそらく模範回答的には、こうなる。「日本人とは、和を志す民族。異なるモノを柔軟に取り入れ、融和させ、あらたな価値へと高めてきた民族だ」…と。ひらがな文字ひとつ取っても、それらは(中国から渡来の)漢字の「くずし字」に大和ことばの「音(オン)」を宛がって系統化させたもの。日本人の細やかな感性と品位を、何より象徴してくれてる"情報表現"術では なかろうか。
考察のポイント その3: 例の字体には「ひらがな」をアジア全体のなかに位置づけようとする高揚感が透けて見える
ここからは、まったくブログ主の憶測になる。直感的に、そう感じるまでを記しておく。
以上見てきた経緯のなかで建設省内、"これからの日本の"道路標識の策定者たちは思ったのではないか ───「ならば単に、ひらがなのゴシック体ではダメだ。ひらがなを超越した、日本人の感性の広がりをシンボライズした"何か"に置き換えないと」
そして結論は、その漢字ひと文字を「ひらがなっぽく」。ひらがな二文字を「漢字っぽく」。
三文字三様に、漢字とひらがなの"中間形"の字体にアレンジすることで、きっと「止まれ」は「軍事進攻に依拠しない平和的"汎アジア志向"を体現する記号」になる。これこそ❕ アジア初の平和の祭典を日本で開く「その必然性をも掲げて誇れる道路標識」になるだろう。
そう意図した。と思えてならないんだな。
ちなみに(すでに歴史が示す通り)1960年大会の招致活動はローマの前に大敗を喫し、都は翌64年大会の招致に再立候補。彼らの立案した「一時停止標識」も、八角な外形が「いつまでアメリカ式な戒律を押しつけられる」「八角形に止まれだと(アジア的には)どこにも進めないイメージ。前進し続けるのを待て、なら三角形が自然だっ」…等々と抗議や不満の声が集中したため💧 早くも(五輪前年の)1963年には赤い▼逆三角形に改められて現在に至っている。
=了=
この話題の関連記事:
- 〔歴史証言のフェイクを見抜け❕〕『烈風』最期の1機という"アノ写真"が旧・松本飛行場では撮られてない、これだけの物的証拠。
- 【プレイバック⚡2012.08.15】 野田・民主党政権(当時)が封印した1枚の写真 ─── 香港活動家尖閣諸島上陸事件