関心空域 ━━ す⊃ぽんはむの日記

元「関心空間」の日記(引っ越し後バージョン)です♪

🚑ラクーンシティ高規格救急搬送 第31号車 ~ フォトショで即席に "造って"みた🎵

2020年04月08日 | 日記

映画『バイオハザード』初期作品中に「そーゆう救急車」が登場してたか❔は定かでないが、別の思いつきで「コロナ禍ネタのポスター」を描こうと思って、そのなかに配する救急車を(図案の構成要素のひとつとして)フォトショで即製してみた。

まず大々前提。

「日本の総ての救急隊員と医療従事者の皆さん、日々一刻一刻、たゆまぬ粉塵努力に心より謝意と敬意を表します。本当にありがとうございます💗」…と前置きした上で言うんだが、わたしは日本の救急車の外観がキライ❕ だ。

たしかに、諸外国のそれと比べて「現代的なビジュアル」だ、とは思うよ。

日の丸みたく赤白シンプルにカラー配色され、ぬめ~っ💧と流線形な輪郭を多用した車体。そいつが119番通報するや否や、深夜だろうと赤色灯をギラギラさせて、もちろんケタたましい電子サイレン音を靡(なび)かせながら発症者や負傷者を「お迎えに」迫ってくる。でも自分に言わせりゃ、アレが視界に入って刻一刻と迫ってくる様子は「漆黒の淵の底に(搬送患者を)引きずり込もうと現世まで"出張ってきた"死神の遣いのクルマ」にしか映らないんだな。イメージ的に、かくも神々しい任に身を投じておられる救命搬送職員の皆さんの品格と高貴さを、著しく辱め、イメージダウンさせているルックスの車両だとしか思えない。

かたやアメリカ。

州により(厳密には)イロイロとは思うが、多くの州の救急車の平均値的なやつは、車体の輪郭がカクカクしてる。そして日本のより基本、ひと回り以上は図体がデカい。日本みたく狭い路地を抜けなくていーから、というのがサイズ差の根本にあるが……にしても素直に💧 そのデカさが羨ましい。

何せ、こっち(=運ばれる患者)は急病だったり流血中だったりしてるワケだぜ。病院まで送る間の話にしても、どーせなら応急処置に必要な「あらゆる救命装備」を満載してるクルマに来てもらいてえ。引受け先機関をタライ回しされる間や渋滞にハマってる間も、救命士に適宜適切な処置だけは受けていたいじゃないか。日本みたく「乗合タクシー」ばりのショボい車格のクルマに飛んできてもらったって、即座に「ああこれで助かったァ」と安堵できる人は少数だろう。然るべき病院にたどり着いて救急治療室に運び込まれるまで、まだまだ1秒先のコトさえ予断を許さないワケだ。

不吉、不安、心もとなさ、息苦しさ───そんな空気ばかりを充満させるのが、日本の(平均的な)救急車のサイズであり、積み合わされた装備&陣容態勢だ。それゆえに自分は、洋画や海外ドキュメンタリーで目にする「キャンピングカーばりの荷室スペースを背負ったアメリカの救急車」が、そんなんが走っても支障ないアメリカ国土の広さ感とも合わせ、ただただ羨ましくって💧 しかたないワケだ。

しかも、好感できるのはサイズや輪郭に とどまらない。

日本みたく、能面のよーにシンプル化された丸ゴシック体の黒文字で「〇〇市消防署/消防局」とか記されたロゴが(車体の)横っ腹に冷た~く刷られてるだけなのとは違い、アメリカの救急車の車体ロゴはド派手。しかも、ぶっちゃけダサいほどに雑然としてて、ハジけてる。日本的に言や、まるで「ちんどん屋」か「デコトラ」の巡業みたいだ。「〇〇消防署」のロゴは基本どの州でも、長距離トラックの「〇〇運送」くらいにはデカく、目立たせて塗られてる。

いゃタマらんね、この「お祭り」感ww。

災難なんだから、せめて被害者や重傷者の沈んだ心持ちだけでも「見栄えで活気づけ、浮き立たせよう!!」って、その気遣い❔が嬉しいやな。こんだけ華やかでピヵピカ⚡電飾またたかせた「お祭り救急車」に担ぎ込まれんだったら、失血で薄れゆく意識の片隅にでも「やったぜ、助かるかもなぁ」って思えそーな気がしてくらあ。

フォトショのオリジ用に切り出した救急車(の画像)とのビフォー&アフター
 


=了=


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〔出かけず探訪〕幻の戦闘機『烈風』量産化ロマンの前に立ちふさがる松本市のラブホ、埋もれた格納庫──第2話。

2020年04月06日 | 日記
前回記事から続く〕
 
非常事態にこそ非常事態な時代を訪ねるシリーズ、第2話だ。日本戦国史ファンにとっちゃ所縁(ゆかり)の山城、林城跡を頂く信州松本の金華山 ───。

それが同時に1944(昭和19)年、三菱重工の疎開先「地下工場」建設地に宛がわれた"黒歴史"の舞台であることを あざ笑うかのように鎮座するラブホ……という凄まじい《歴史の混沌スポット》であることを見てきた。

後半の今回は、松本/里山辺で造られた『烈風』の機体パーツ、可児/久々利で造られた『烈風』エンジン等々…を最終的に完成機に組み上げる(ハズだった)菱重松本製作所(仮称)の令和な現在をGoogleマップでたどる。

旧陸軍 神林飛行場(俗称:松本飛行場)は現在の松本空港の北部一帯、射撃演習場を含めた広大な正方形の軍管轄ゾーンの東の縁(へり)に滑走路を敷く。

その滑走路脇に並んでいた既存の格納庫のひとつに、即席の『烈風』最終組立スペースを空ける❔算段であったようだ。まあ「艦上戦闘機」と言ったって、本土決戦になっちまえば日本列島自体が空母、山間部の盆地が甲板だかんね。陸軍的には翌年、昭和20年末には関東・濃尾・大阪など、太平洋側の諸平野は米軍の手に落ちてる戦況を想定せざるを得なかった。


仮設工場としての体を成す前に、神林飛行場には(三重の鈴鹿飛行場から)主たる『烈風』開発陣が第7試作機ともども、疎開し終えている。先の別記事でも述べたが、その中核エンジニアが東條輝雄氏と曽根嘉年氏(ともに故人)だ。

おふたりは1985年、つまり終戦40年にして松本市の取材を受け、当時の様子を市公報の記事として披露されている。取材にあたり実際に(飛行場の)跡地周辺も見て回ったようだが、さすがに40年も前の記憶……如何せん両氏とも戦後に超多忙な経済人でもいらしたため、まだ30歳そこそこだった戦中時分の(しかも3~4ヵ月という束の間の松本赴任での)記憶には随所に怪しいモノがある。

わたし自身の常日頃の実感でも、平社員と部長の30年後の記憶は、平社員の方が何倍にも正確だ。出世する部長は「終わったコトを忘れる能力」に長けてるから出世するし、出世できない平社員は「いつまでも引きずる能力」に秀でてるから出世しない。何十年も前に沈められた戦艦の記憶を掘り起こしたければ、元上官に取材するより元ペーペーの水兵に限る。彼らの多くこそが哀れ、そこで時間が停められてるゆえ「生きた化石」=「生き証人」たり得る。わたしに言わせれば、1985年の松本市(の広報記者)は、"戦争史の証言者"の人選を誤ったのだ。

たとえば前述の両氏、松本に渡った『烈風』試作機を型式A7M2(=後期型)だと言い、三沢基地に持ってかれ米軍に撮影された『烈風』こそが神林飛行場に置いてあった機体だと主張した。しかし周りの取り巻きや菱重の記録では、第7試作機は型式A7M1(=前期型)の改良タイプだったと証言したり記録されたりしてる。会社側の記録通りなら、三沢に飛んでったのは松本の機体ではない。当のふたり自身が(松本市の取材時点でも)試作機は「横須賀に向け」飛び去った…としていて、その矛盾が無意識に補完された結果か、件の『A7M2烈風』写真は「(三沢じゃなく)松本の格納庫で撮られたものだろう」、と証言し(おそらくは生涯)信じ切っておられたようだ。


両氏=元・開発トップの「口頭"述懐"記憶のあいまいさ」は、試作機の型式にとどまらない。たとえば、終戦時に「試作機が置かれていた格納庫」の位置。

おふたりが飛行場の跡地を(1985年に)散策されての取材時、「ここに『烈風』の格納庫の痕跡が…」と言って指さした(とされる)のは、私立管野小学校の南にある民家(松本市大字笹賀神戸3331-1)の塀っぽく❔黒ずんだセメント壁だ。


と見せても全体像が視えない💧 と思うので、上空からGoole Mapで描き直すと以下の赤枠ラインになる。


ところが、である。

たしかに「このゾーンに」かつて航空機の格納庫が1棟、存在したことは間違ってない。けれど、その"格納庫"は1945(昭和20)年8月15日以前に陸軍自らが(防空の観点から)破壊しており、米軍が飛行場を接収した同9月29日には(これらの一部の壁以外)更地になってた。両氏が松本に疎開してきた頃には、すでに壊したあとだった可能性が濃い。数年後に国土地理院が撮影した航空写真を(現在の)Google Mapに重ねてみても、その事実は確認できる。


てか、住宅街を散策中に両氏が「あ、ここだっ」と目ざとく視認できたのも、自分たちが(40年前に毎日のように)目にしていた「壁の残骸」そのまんまの形で残ってたせいじゃないのかあ❔❔

だから実際には、取材した記者の誤解だったって可能性もアリだ。

たとえば両氏が「ほら、この残骸も格納庫だった名残り。『烈風』とか(の航空機を かつて)置いてた」……とでも言い漏らしたのを、記者が烈風の格納庫だった』ざっくり💧理解して記事にしてしまったのかもしれない。

いずれにせよ、真の『烈風の格納庫』は、おそらく(上掲写真の)赤枠=元・更地の、そのまた北どなり───現在は小学校校舎へと生まれ変わったまさに❕その辺りに存在してたんじゃないかな。戦争史の保存的観点に立てば惜しまれる❔けれども。

ちなみに、この辺りの住宅街には至るところ「戦時中の格納庫の壁の一部」なるモノが遺されてて、そう言われないと気づかない(つか、まさか遺跡だなんて思いもしない)。どこに壁が遺ってるか❔は、戦争遺跡・旧陸軍飛行場(神林飛行場)の碑に詳し~く住宅地図入りで図示されている。そのまた一部は、何気にGoogleストリートビューでも探訪できる。今みたいな時節には「暇つぶしに回ってみる」のも一考だ。
 
シャボンネット松本(コインランドリー)駐車場の南壁も、格納庫の残骸である。


以上、"本稼働"は幻に終わった三菱重工 松本製作所の"在りし日"を偲びつつも考察してみる、の一席でしたとさ。ちゃんちゃん🎵
=了=


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〔歴史証言のフェイクを見抜け❕〕『烈風』最期の1機という"アノ写真"が旧・松本飛行場では撮られてない、これだけの物的証拠。

2020年04月05日 | 日記

70代初老たちの40年前の記憶を「細部まで」正しい歴史証言とみなせるか

1944(昭和19)年12月、紀伊半島沖を震源とする最大震度6の東南海地震が起き、その数日後にはB-29の絨毯爆撃が名古屋を見舞った。被災した三菱名古屋航空機製作所は長野県松本市へ。同じく市内で壊滅同然となった発動機製作所は岐阜県可児市への「疎開」を講ずる。

松本市の神林飛行場内、その格納庫が仮設の三菱重工"松本製作所"となり、当時開発終盤にかかってた次期艦上戦闘機『烈風』の7番目の試作機ともども、その飛行場に赴任したのが東條輝雄氏と曽根嘉年氏。うち曽根氏は、あの堀越二郎氏の補佐役から『烈風』主務者(開発主査)の要職を引き継いでいた。


上の図譜は、元帝国軍人で昭和の空軍史研究家、碇義郎氏1980年の著『幻の戦闘機 秋水、火龍、烈風、震電…開発の記録』(サンケイ出版)に著述された内容を幹に、周辺の史実情報を突き合わせて作った。碇氏は70年代に、当時の曽根嘉年氏を幾度か直接間接に取材もしてる。

そして85年春、曽根氏と東条氏は松本市にも招かれ、旧・神林飛行場(陸軍松本飛行場)跡地を訪ねるなどしながら一連の『烈風』開発について証言を行った。このとき東條氏70、曾根氏74歳である。ふたりは40年近く前の記憶を語った、という勘定になる。

そして、この齢70代の両氏(特に主務者であった曽根氏)"証言"を何よりの拠りどころに、松本市は1985年の広報に下 の『烈風』を捉えたモノクロ写真を掲載。そこに、こう書き添えたのだ ───。

「終戦直後の昭和20年9月29日、烈風の調査に松本へ来た米軍が撮影したもの」

碇氏のような著名作家、曾根氏のような当事者中の当事者が「松本で(米軍に)撮られた写真」と言ったり記したりしたが最後、これは「もう、そう決めつけて広報しても構わないレベルの真実とみなせる」という市側の判断だったのだろう。

…が。

しかしである。同じことを青森県で言ったら、多少ともゼロ戦とかに興味のある市民からは失笑を買う。なぜなら、同写真は以前から「三沢基地で撮影されたもの」と伝え聞かされているからである。青森県立三沢航空科学館には、基地関係者から入手したとされる(同画像の)明らかにオリジナル原版に近い鮮明な大判写真の展示すらある。

松本飛行場説と三沢基地説、いったいどちらが正しいのか。

物証的には三沢説有利であるが、如何せん「あの曾根さんが(松本だったと)言ってる」というので最終判断が著しく忖度されてしまい、日本語版ウィキペディアでも「終戦後に撮影されたA7M2。三沢基地、三菱重工松本工場の諸説ある。」という両論併記に帰しているのが、令和初頭における現状なのだ。ちなみに、松本説を支える証言主の両氏は他界しておられる。おられるが、わたしはあえて「この論争」に終止符を打ちたい、と思い立った。
 
 
ミステリーめいた3枚のモノクロ写真だが、撮影した米軍サイドに原版写真があるのは「ほぼ確実」

件の、あまりにも知られた『プロペラを外した烈風』写真は、別にネス湖のネッシー捏造写真のように「ぼんやり低解像度の"謎"画像」なのではない。現在ネット上に散見される「前から」「左翼前方から」「右翼後方から」の3枚を見たって、それは歴然とする。まずは「前から」写真の、A・B・C 三種から検分してみよう。


写真Bは、元ネタが写真Aで、傾きを水平にするためにトリミングした画像と思われる。また写真Cは前述の『幻の戦闘機 秋水、火龍、烈風、震電…開発の記録』に載った1枚だが、AやBより上方の(格納庫の)壁までが写り込んでおり、より原版に近いと推定される。憶測だが、碇氏は戦後、米軍に種々の調査で協力してきた経歴もあり、掲載画像の入手に(オリジナルの保管者たる)米軍筋を頼ることができたのであろう。

一方、残る2枚については、すでに(三沢航空科学館に展示中のレベルまで)精細な画像がネット上にも出ている。【下記画像タップで精細画像へリンク】


たとえば上掲下の画像、低解像度版では背景の(格納庫の外の)光景が白く飛んでいた。精細版では(比較的)至近な距離に「波型のスレート瓦を敷いた屋根」の建屋まで確認することができる。のちに、このスレート屋根こそが「松本か三沢か」の論争に決着をつける決定打にもなってゆくのだ。


1940年代の、三沢基地か松本飛行場の格納庫を写した写真さえあれば"撮影地論争"は終わる

たしかに『烈風』開発プロジェクトの主らは(終戦後に)写真を見て「松本だ」と直感したかもしれない。しかし、考えてもみよ。あなただって、30年以上も前に勤めた職場建屋の壁や床を鮮明に思い出して、よく似た他の建屋の写真と区別することが……果たして出来る❔❔だろうか。

たしかに曾根氏は記録の鬼だった。当時の手記に記されたとおり、まさに9月29日に米軍が(松本飛行場に)来たのだろう。彼らは『烈風』試作7号機のあった格納庫内に立ち入り、あるいは同機の写真を撮ってた者も(周りには)いたかもしれない。

がしかし❕

この3枚こそが「そのときの、その場の烈風に違いない」だなどと、どうして確証もなく言い切れるのか。そこは単なる、70歳の推論(悪く言や、確信=思い込み)でしかない。実際の『烈風』に どんだけ近かった人物であるか。そんなのは(撮影地が松本であったという)信憑性のバロメーターにならない。

令和の今、あれから75年も経ってしまってから「3枚の撮影地に一定の確証を得る」には、どうすりゃいーのか。そんなコトが果たして可能なのか。

ひとつの方策としちゃ、1940年代当時の、松本か三沢の格納庫を写した写真なり映像フィルムが「別に」存在しないか当たることだ。もし仮に在ったとして、それが「一方の場所にしかない特徴」と符合したなら、もう一方の、対する場所で撮られた可能性は格段に低くなる。

松本飛行場の格納庫内は、当の開発プロジェクト自体が軍事機密。戦中は無論、終戦直後のドサクサに何か撮れたとは思えない。そも(庶民にとっての)現像手段すら、松本の街に残されてなかったろう。だから格納庫が撮れてるとすりゃ、やはり米軍が接収した三沢基地の側。

それを調べにググってたら、まさかの❕❔ "金鉱"に当たった。

それは……米軍三沢基地で起きた、以下のごとき"知られざる"事故である。

1949年6月13日、占領下の日本は青森県───米軍は"密かに"三沢基地上空で、ソ連=北朝鮮による奇襲空爆作戦を想定した迎撃ドッグファイトの模擬訓練を行った。このとき、攻撃役として入間基地から発進した12機のF-51戦闘機(艦載型のマスタング)のうち1機が、三沢基地格納庫前の駐車場に背面から激突炎上。搭乗パイロットは即死。地上に駐機中だったF-51 2機、F-80 2機にも事故機の爆片が当たり類焼損壊する

という(墜落地点によっちゃ💧さらなる大惨事もあり得た)とんでもない事故が発生した。

同年の日本駐留軍は1月にもB-29爆撃機が兵庫県西宮市内の工場建屋に墜落、日本人工員多数を死傷させるなど醜態事案が相次いでいたのみならず、そもそも模擬訓練自体が機密であったため、この甚大な自損"オウンゴール"災禍も青森県民や日本政府側に知らされることはなかった。

しかし。今じゃ時効とでも?思ってるのか、このときの被災直後の写真が基地情報アーカイブスの中では公開されてる。そのうちの1枚には、左手奥の端に「当時の格納庫」も一緒に写ってる。どんだけ「奇跡的な」1枚なのだろう…❕


さっそく同部分をズームUPして、『烈風~左翼前方から』写真の背景と比較してみた。

格納庫入り口向かって右側面……そこにある、まったく同一な広窓の型枠。その向こうには、事故写真にも『烈風』写真にも、同じような距離で同じような高さの「波型のスレート瓦屋根」があることが見て取れる。


これはもう、「撮影地は三沢基地」って結論で文句ないのではないか。

ただま、曲がりなりにも「松本市の広報サイトがフェイク情報を載せてる」と結論づける💧ことにもなるんで、検証は最後まで慎重に。一応、松本飛行場に当該の「スレート瓦屋根の建屋」がマッチしないことも(科学的見地から)確かめられないか試みてみる。

実は、(松本の)格納庫内部の写真は無理でも、格納庫外の建物配置なら確認方法が残されていた。それは終戦から数年後、国土地理院が測量目的で(地上施設としては遺棄された)旧・神林飛行場を上空から撮った航空写真。

その画像には往時、日本陸軍が建造した計6棟の「格納庫および格納庫跡」がキレイに写し出されている。それも終戦時まで遺された実稼働庫4棟と、戦中末期に陸軍自らが(密集した大面積の屋根群は上空から目に留まりやすい!と)予防目的で破壊した旧格納庫2棟の更地部分に管制ビルだった1棟分の基礎跡……それらの区別も含め明瞭にクッキリ視認できる。
この一連の"擬装解体"事実は平成以降、現地に建立された『戦争遺跡・旧陸軍飛行場(神林飛行場)の碑』の碑文中にも記載されている。

もう昭和19年秋には、敵偵察機を本土上空から未然に払い落とすだけの防空力すら日本軍に余されていなかった衰弱ぶりが伺える。

松本南部───モノクロ写真が昭和29年国土地理院撮影、黄枠で示したのが当時の滑走路。写真出典:Wikipedia
 

これでもう、誰の目にもお分かりと思う。


旧・滑走路の東エリアに並び建つ格納庫4棟のいずれも、その入口向かって右側面に寄り添うような建屋は存在しない。スレート瓦葺きの屋根か否か以前に、そもそも建屋自体が松本飛行場には無かったのだ。

70代の初老たちが(判断に十分な確証もなしに)単なる憶測だけで証言したことを、彼らが当の開発史における中核人物だったという社会的地位と年功のみを根拠に取材者が勝手に忖度しまくって75年もの間、「諸説あり」のウヤムヤに片づけてきた。高い教育を受けた日本人だからこそ陥りやすい「フェイク信奉の罠は、こういう悪条件が揃うことでいともカンタンに罷(まか)り通る。
=了=


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