「ねぇ、兄さん、兄さんはどう思う?」
「どう思うって?」
「チャップリンよ。チャップリンの、『独裁者』、どう、感動的じゃない?」
私の仕事を、ナチ党の事務員だと信じて疑わないアネットは、無邪気に言った。
「あぁ、確かにな。」
「彼の訴えている人道主義に、心を打たれるでしょう?」
「あぁ、確かにな。」
「もう兄さんたら!他に言うことは無いの?」
クラウスは、徐々にアネットの口調が刺々しくなってきたのを感じ取り、急に黙々とパンをちぎって口に入れ始めた。
「確かに、彼が作り出す作品が訴えることは、もっともなことかもしれない。しかし、だから何だと言うんだ?」
「兄さんは、たくさんの人が訳も無く逮捕されたり殺されたりしている今のドイツに、何も感じないの?」
「“訳も無く逮捕されたり殺されたりしている”んじゃない。彼らは、ユダヤという、生まれながらにこうなる理由がある。彼らに対して、我々がいちいち何かを感じてやる理由が無いんだ。・・・私はな、おまえたち2人が結婚して幸福になってさえくれれば、他には何もいらないよ。」
アネットとクラウスは、互いに顔を見合わせ、同じように顔を真っ赤にしてうつむいた。
「それに・・・」
私は、冷めてしまったスープに泳がしていたスプーンを置き、席を立つ用意をした。
「1人の人間を殺した者は犯罪者としての扱いを受けるが、100万人人間を殺した者は、英雄として世に受け入れられるものなんだよ。・・・いずれ、おまえたちが愛するチャーリー(チャップリン)も、全世界から追放しなければな。」
私は、自分のベッドに横たわりながら、ヤヌスという、奇形の双頭神をふと思い出し、その、互いに反対の方向を向く2つの頭にそれぞれ、チャップリンと総統の面影を重ね合わせた。彼らは似ている。しかし、全く似ていない。少なくとも私にとって彼らは、善と悪といった次元での存在ではない。ただ、出来が良いか悪いか、それだけなのだ。出来が良い方も悪い方も、そう違いがあるわけではない。アドルフ・ヒトラーという人間に対して、親の―――それもどちらかというと母性に近い―――愛情というものを、私が抱いているとしたら、もう片方にチャールズ・チャップリンの頭を持つその存在自体を、私がいとおしく感じているのは間違いない。とすれば、私は彼を追放する気など無いということか・・・。
目を閉じると、自分のそんな思いも全て、事実として受け入れられるような気がする。しかし、ナチスの私にとっては、その事実があまりにも夢うつつのように思えてならないのだ。このことは、この戦争が終わったとき、初めてゆっくりと噛み締めることができるだろう。
私は、自分が足を踏み入れてしまった運命に、かすかな不安を覚えたが、その不安が、何に基づいたものなのか答えを出すことができないまま、いつしか眠りに就いた。
(第1章Ⅱ・終)
「どう思うって?」
「チャップリンよ。チャップリンの、『独裁者』、どう、感動的じゃない?」
私の仕事を、ナチ党の事務員だと信じて疑わないアネットは、無邪気に言った。
「あぁ、確かにな。」
「彼の訴えている人道主義に、心を打たれるでしょう?」
「あぁ、確かにな。」
「もう兄さんたら!他に言うことは無いの?」
クラウスは、徐々にアネットの口調が刺々しくなってきたのを感じ取り、急に黙々とパンをちぎって口に入れ始めた。
「確かに、彼が作り出す作品が訴えることは、もっともなことかもしれない。しかし、だから何だと言うんだ?」
「兄さんは、たくさんの人が訳も無く逮捕されたり殺されたりしている今のドイツに、何も感じないの?」
「“訳も無く逮捕されたり殺されたりしている”んじゃない。彼らは、ユダヤという、生まれながらにこうなる理由がある。彼らに対して、我々がいちいち何かを感じてやる理由が無いんだ。・・・私はな、おまえたち2人が結婚して幸福になってさえくれれば、他には何もいらないよ。」
アネットとクラウスは、互いに顔を見合わせ、同じように顔を真っ赤にしてうつむいた。
「それに・・・」
私は、冷めてしまったスープに泳がしていたスプーンを置き、席を立つ用意をした。
「1人の人間を殺した者は犯罪者としての扱いを受けるが、100万人人間を殺した者は、英雄として世に受け入れられるものなんだよ。・・・いずれ、おまえたちが愛するチャーリー(チャップリン)も、全世界から追放しなければな。」
私は、自分のベッドに横たわりながら、ヤヌスという、奇形の双頭神をふと思い出し、その、互いに反対の方向を向く2つの頭にそれぞれ、チャップリンと総統の面影を重ね合わせた。彼らは似ている。しかし、全く似ていない。少なくとも私にとって彼らは、善と悪といった次元での存在ではない。ただ、出来が良いか悪いか、それだけなのだ。出来が良い方も悪い方も、そう違いがあるわけではない。アドルフ・ヒトラーという人間に対して、親の―――それもどちらかというと母性に近い―――愛情というものを、私が抱いているとしたら、もう片方にチャールズ・チャップリンの頭を持つその存在自体を、私がいとおしく感じているのは間違いない。とすれば、私は彼を追放する気など無いということか・・・。
目を閉じると、自分のそんな思いも全て、事実として受け入れられるような気がする。しかし、ナチスの私にとっては、その事実があまりにも夢うつつのように思えてならないのだ。このことは、この戦争が終わったとき、初めてゆっくりと噛み締めることができるだろう。
私は、自分が足を踏み入れてしまった運命に、かすかな不安を覚えたが、その不安が、何に基づいたものなのか答えを出すことができないまま、いつしか眠りに就いた。
(第1章Ⅱ・終)