江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

長崎旅行 6

2013年07月06日 13時08分10秒 | 歴史を旅する
長崎港クルーズで軍艦島へ行きました。近代日本の産業遺跡だ。



当時長崎で建造中の軍艦土佐によく似ていたから、軍艦島とか。石炭採掘で一世を風靡した。




三菱造船所で改修中のイージス艦「ちょうかい」


この橋の下あたりに、江戸時代の西泊御番所と戸町御番所があり、外国船打ち払いの基地であったが、
うまく機能しなかったのが、長崎的か。


三菱100万トンドック


原爆記念碑  これは祈り。言葉にならない。

長崎旅行 5

2013年07月06日 12時55分46秒 | 歴史を旅する
長崎丸山  ぶらぶら節の故郷  江戸吉原と京都島原に並ぶ格調の色街。八王子とは格が違う。









ここにも思案橋と思い切り橋があり、さらに見返り柳。吉原の見返り柳が懐かしい。


身代わり天神  ぶらぶら節の「愛八」姉さんが通った神社


近くに、砲術の高島秋帆の屋敷跡



長崎旅行 4

2013年07月06日 12時42分31秒 | Weblog
シーボルト記念館・鳴滝塾跡地。シーボルト国外追放後、30年目に開国で来訪した由。涙なくして語れない。






オランダ坂








グラバー邸




唐人屋敷あと(江戸時代の中国人隔離地で現在は普通の住宅街になっている)ちなみに、江戸時代の唐舟置き場ア父が現在うずめられて、中華街となっている。横浜、神戸に比べ小さいね。












長崎旅行 3

2013年07月06日 11時08分09秒 | 歴史を旅する
長崎の地は、司馬遼太郎によると、大村純忠配下の長崎甚佐エ門(千石程度)が受洗後、その屋敷隣にトードス・オス・サントス教会が建てられたと。つまり私領を最初の外国人神父のルイス・デ・アルメイダに譲り教会領として、1580年この教会がたてられた。



ポルトガル人が平戸から横瀬浦・福田浦をへてこの長崎の地に移り、貿易と布教活動を表裏一体とする。
この背景は「時代というものは魔法のようなものだと思わざるをえない」と司馬遼太郎の言うように、16世紀後半では日本人は国家意識を持たず、外国人が勝手にその欲する土地を決めても別に不思議と思わなかったようだ。ポルトガルはインドネシアのゴアを根拠地とし、中国にマカオ、日本に長崎と構想していたと。

時代は急速に変転。秀吉の統一政権が九州に及ぶのは長崎が教会領になってから8年後天正15年(1587年)と。秀吉は長崎の実情に驚き、1587年バテレン追放、教会領をことごとく停止しここを官地とした。




 初代の長崎奉行は秀吉の部下で、以後明治元年1868年に長崎奉行所が廃止されるまで、277年間127代の幕府官僚が務めた。

1596年、26教徒を処刑。今は26聖人殉教地となっているが、昔は今の長崎駅あたりは海に接する辺鄙な地で刑場であった。

そして1612年の禁教の時代となると、長崎市内の南蛮寺関係は一切棄却され、何も残っていない。トードス・オス・サントス教会は完全に壊され、現在の春徳寺(真宗か?)に改築させられて今に続く。
1626年には踏み絵が、1637年には島原の乱が。

そして1859年に安政の開国となり、キリスト教教会がたてられると、大浦天主堂に隠れキリシタンが200年以上経って現れるという奇跡がおこった。



長崎旅行 2

2013年07月06日 09時10分40秒 | 歴史を旅する
長崎は見学するところが多方面にある。結局、各人の関心の如何によってウェートが違うのだろう。
そこで吾輩の独断と偏見で。

1、「出島」と「西奉行所」あと。江戸のころ「へそ」のような出島は、その後の埋め立てで現在は町のなかになっている。















2、大波止の「鉄砲玉」 江戸時代から誰がなぜ置いたか分からないが、有名な鉄の弾丸?






文明堂は発祥の地で現在もなお営業している



3、西奉行所あとは、現在長崎県庁。奉行所で関係した人々の碑