江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

板橋区志村3丁目に 熊野神社を見る。

2018年09月24日 21時10分30秒 | Weblog
 今日も結構暑かった。しかし3連休、散歩でもしないと、体に良くないと、都営地下鉄三田線に乗って 板橋区志村に行きました。志村という土地は、中山道が通っている昔からの要衝で、江戸時代には、一里塚(現存しているので有名)、皇女和宮の通ったところで有名だが、その前の平安・鎌倉・室町・戦国とそれぞれ時代に、武蔵の勢力の闘争があったのだ。その残っている一つがここである。

この辺りは、江戸時代260年間プラス明治時代150年間の計410年以上も昔の、戦国時代・室町時代・鎌倉時代の武蔵野の原風景が、若干感じられるところである。東京の人は江戸時代を中心にしか見ないようだが、500年以上も前の武蔵野の地に、いろんな人がいたのだ。

 ここは例によってマンションや住宅地に囲まれているが、周辺を見下ろす低い台地上で、戦国以前の武士の館の造りにもってこいの土地だと思われる。この山の上に現在、熊野神社がありました。熊野神社は志村氏などが、熊野から招請したもので、一族の根拠地の跡に、神社として残したものであろう。



 これが熊野神社の本殿である。

「いざ鎌倉」と言う言葉があるように、鎌倉幕府に非常事態が生じたときは、諸国の武士勢力が、手勢を率いて鎌倉に駆けつけるということである。

 幕府のほうも心得ていて、駆けつけた武者たちに対して「着到状」という文章を手渡し、いわば出勤証明書ですな、これを提出して緊密な主従関係を確認・表明した。中世武士は、飯の種だからこの賞状を大事に保存し、例えば 観応元年1350年、志村親義着到状 というのが残っているそうである。これは、武蔵の国 志村の 七郎太郎親義が足利尊氏について、古河公方を攻めるべく古河に出陣したとの証明書である。

こういった歴史のある志村の土地が、地下鉄のそばであると言うので野次馬が見に行った次第であります。


 

この後にある志村小学校が 志村城の本丸の跡であり、この熊野神社は二の丸の跡であると言われている。そしてこの両者の間に 空堀りの跡がわずかに残っている。空堀が中世以前の特徴なのだ。





 関東もこの辺になると歴史が残っているようである。ちなみに志村氏は、桓武平氏の1つである豊島氏から分かれたもので、平安末期・鎌倉・室町と武蔵の国でいろいろ地方の武士が勢力を張ったところであるが、結果的には、後北条氏など大きな勢力に滅ぼされ、歴史に消えてしまい、ただ、そのその氏名が現在の地名に残っている。例えば 豊島 葛西 滝野川 板橋そして志村等々である。

 そして、熊野神社信仰は、熊野三山(本宮・新宮・那智)の南、黒潮な流れる紀伊半島南端に極楽浄土を思い描く信仰として、平安末から鎌倉時代に大いに栄えたとか。

 北区王子の王子神社は豊島氏が熊野の若一王子を勧請したとか。対岸の飛鳥山に祀られているのが飛鳥権現で、やはり熊野からの勧請である。(王子神社は以前、狐の嫁入り道中を見に行った覚えがある…俺も暇だね)

こうして3連休の最終日には足の向くまま気の向くまま、遠い昔の武蔵の国の名残りををいろいろ尋ねてみたと言うことであります。

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