江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

本村町貝塚を見る

2020年05月13日 18時28分00秒 | 歴史を旅する
 今日13日の散歩は麻布本村町で ここの貝塚を見ることを思いつきました。
 まず四谷から外苑西通りに入りました。

食い違い坂 大久保利通が暗殺された場所である。今はこの通り美しい。
 
東宮御所の脇を通って青山一丁目交差点を越え青山3丁目交差点を左折、外苑西通りに入りました。
西麻布の霞町交差点を進み、笄町公園で一休み。この辺りは 今は多くの国の大使館が集中しているが、江戸時代には 笄 つまりかんざし簪を作る職人たちが多く住んでおった地域である。かっての笄町が今は西麻布3丁目なる色気も何もあったもんじゃない地名に変わっている。でも笄町小学校が残っていました。
 この先を北条坂 木下坂を通って有栖川宮記念公園に入りました。





有栖川宮は明治維新 西南戦争 日清戦争などに活躍した総参謀長で、この銅像は三宅坂の旧参謀本部跡地にあったらしい。それを道路拡張等に際し、この地に移されたよし。
 有栖川宮公園の一角に 東京ローンテニスクラブがある。

我輩が普段利用している都立の日比谷公園テニスグランドと やはり相当違うんだろうな。
 ここを南へ下り フィンランドとパキスタンの大使館を過ぎて奴坂を左折。この辺が麻布本村。ここに本村小学校がありました。江戸時代よりずっとずっと昔からこの辺が一番開けた地帯であったのだろう。
 その先の薬園坂(昔ここに江戸の薬草園があったとか。小石川薬草園そして植物園に移る前だ。江戸時代も260年。その間の変化はかなりなものだ。例えば現在でも、まだ明治152年だから、江戸時代がいかに長くいかに多様性を秘めているか)を下るとその右側に



大森貝塚は有名だが ここら麻布一帯にも縄文海進の時代 貝塚があって縄文人が採拾経済をやっていた絶好地なのであろう。今は高級マンションが並んでいるが これも昔で言えば掘っ立て小屋かもしれないナ。
 薬園坂にはイラン大使館がありその壁に




イランの
有名地の写真が飾ってあった。これはわかりやすいアイディアだ。

 こうして 明治通りまで出て 歩いて大分疲れたのでバスで渋谷駅まで行き、ここで今日の食料 鮭の西京漬を仕入れて帰ってきました。

  なるべく人を接触しないで 自分の足だけで散歩遠足をするのだが 今日は疲れたのでバスと地下鉄に乗った。
 外出自粛 に反することになったことを反省しきり。







 



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