江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

古河公方館跡

2012年06月02日 19時52分28秒 | 歴史を旅する
2日土曜、湘南新宿ライン・宇都宮線で古河に行った。
古河は東京から60km。茨城の西部、埼玉の北部、栃木の南部を商業圏とする人口14万の穏やかな小京都?いい町だ。

 古河と言えば、古河公方か土井利勝。我輩は江戸時代でなく室町に関心が多い。

古河の元は、下河辺庄、つまり鎌倉時代の下河辺行平の領地。現在の古河から埼玉県三郷市あたりまでの広大な地域であった。しかし、鎌倉幕府の有力御家人であった下河辺氏がどういう理由でその領地を北条氏に奪われたかは、私の不勉強でよく分らない。

 鎌倉が滅亡した際、北条氏を滅ぼした勝者足利氏およびそのグループがこれを奪ったのでないかと想像するが、これは素人の想像。下河辺氏は昔の同族であった小山氏に追われたともいわれるが、何時頃のことか、よくわからない。

 いずれにせよ、下河辺庄の北部、いまの古河地域は足利義満から2代鎌倉公方足利氏満に与えられたと読んだ記憶がある。つまり古河は鎌倉公方家の貴重な領地であったのだ。南の方は簗田氏や野田氏が領有している。

 室町幕府足利氏は清和源氏源頼義の子孫で、その一族はすそ野が広く、足利尊氏は決して本家筋ではない。末端の一族だから、なるほど室町幕府創立という大事業をやったが、いざその政権を維持していくためには同族有力者たちの支援を頼らざるを得ない、だからこそ、室町幕府は、同類多くの一族、細川・畠山・斯波・等を含む連立政権であったのでないか。

要は、室町時代あたりでは、将軍とか鎌倉公方とか言っても、多くの有力者の中の比較的有力者の、one of them 程度で、いざとなれば有力者たちの支持を得られない、造反の恐れがあるという構造だったと考える。
(江戸時代では徳川氏は800万石という圧倒的実力をキープした。これは鎌倉・足利幕府の根本的欠陥を見抜いた徳川氏の有力官僚たちの知恵だろうと考える)

鎌倉における鎌倉公方も京都の室町幕府と同様で、関東周辺有力者の、それぞれの利害損得計算の上でのサポートを前提とした構造でないか。

一方、室町足利幕府政権から言うと、鎌倉は京都幕府の一地方機関でもあり、その枠内での関東10ヵ国を支配する構造。現在で例えれば、東京の農水省に対する さいたま市の関東農水局の位置づけかも。

 ところが歴代鎌倉公方は独立心・敵愾心の強い性格の人が多く、常に京都と対抗・独立志向が強く、結局、永享の乱では鎌倉公方足利持氏が自害。鎌倉公方は一時消滅。

その後京都の足利義教将軍謀殺という嘉吉の乱等政治情勢激動の中、いろいろあって、持氏の遺児、政氏が鎌倉公方となる。
 しかしこの鎌倉公方足利政氏が補佐役の上杉関東管領を謀殺。

このため京都幕府は、政氏を公的に追討とする。上杉関東管領勢力等に追われて、鎌倉を放棄、結局、唯一の領地、古河にその存続の基盤を作ったというのが、古河公方と解する。
以後享徳の乱といって、京都の応仁の乱10年間以上の、27年間も対立構造が続く。その根拠地で現実に居住したのが古河鴻巣館。これの跡碑を見てきたのだ。


古河の周辺は、宇都宮氏とか結城氏とか小山氏とか野田氏とか既成勢力がきっちり抑えているため、後発の公方が入るところは唯一の下河辺庄の北部、古河の地という隙間産業みたいなものと言えようか。

それでもここで、130年近く、独自の領国を維持したのだから、それなりの意義があろう。
 
 これはまた詳細を書くよ。

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