江戸の退屈御家人

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歴史を旅する・・・・岩槻城をみる

2012年11月24日 20時31分26秒 | Weblog
かっての埼玉県岩槻市は現在さいたま市岩槻区であるそうな。歴史は変わる。

1457年長禄元年、太田道真・太田道灌父子によって築かれたとされているが、敵方成田氏の構築との説もある。

この城は、当時の関東の政治情勢を前提に、当時、古河公方足利成氏とこれに対抗する関東管領上杉一族との対抗する領土陣地紛争根拠地と位置づけ、利根川沿いに構築された、江戸城・岩槻城・川越城の防衛ラインの中心である。
 ここは鎌倉街道中道と奥州街道に接する要衝で、元荒川の後背地に沼地に囲まれた半島状に突き出た丘に、後部には空堀を配した曲輪構造であった。

太田道灌が主君扇谷上杉定正に暗殺されたのち、扇谷の敵方となった山内上杉に走った道灌の孫、太田資頼が奪取して太田の城とした。その後関東に勢力を浸透してきた後北条氏が川越夜戦の圧勝で関東の覇を上杉一族から奪いとったとき以降も、太田氏が孤立しながら持ちこたえていた。

その後の北条氏の繁栄関東支配拡張のもと、当主太田資正の留守中、嫡子民資が北条氏康に内応した。以後、岩槻城は北条側になった。婚姻政策で太田の名を残しながら北条支配下に。(現在の住所表示でも太田1丁目から3丁目ぐらいまで残っている)

1590年、秀吉の小田原征伐に際し、北条方の岩槻城は2千の兵で、二万の秀吉軍に攻められ降伏落城。このときの空堀跡が現在も格子堀として残っている。(写真)

徳川時代には、岩槻城は川越城とともに江戸城の北方を守る重要な城として、譜代大名が歴代守りを固めていた。

明治政府になって、廃城令により取り壊され、現在は岩槻城址公園となっている。

なお、道灌築城時に鶴が飛来してきていたことから、白鶴城と言われていたようで、昭和になって天主部分の後にその碑が立っている。









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