狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

座間味にいた「うつろな目の少女」

2010-02-25 00:22:59 | オカッパの少年

 

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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先日、座間味旅行をした知人の話を聞く機会があった。

偶然、神戸から来た20人ほどの教師グループと同行し、その「平和学習ツアー」の小型バスに便乗させてもらい壕巡りを体験したという。

そのときの写真を見せてもらっているうち、その一枚に写っている人物の顔を見て、思わず驚きの声を発した。

「オカッパの少女だ!」

写真に写っている70過ぎの老人を指して、「少女だ!」と呟く姿を人に見られたら、きっと「カニハンリた」と思われたであろう。

(⇒老人性ボケをカニハンリルという

写真の日付けは8月17日。

写真に写っている老人は紛れもなく「うつろな目の少女」として知られる大城盛俊氏、その人ではないか。

知人の話によると、その人物は夏休みを利用して神戸の教師グループを率いて、沖縄「平和学習ツアー」のコーディネーターとして戦跡案内をしていたのだという。

大城氏といえば、戦時中の日本兵から受けた暴力で、右目を失明し、足には歩行障害が残っているはずだ。 

大城氏は現在神戸に在住で、喉頭がんにより声を失ったたことと、80歳近いご高齢のため、長年続けていた「沖縄戦の語り部」を引退していたはずだ。

その大城氏が元気で「平和学習ツアー」を率いて座間味村の壕巡りをしている事は驚きであった。

いや、その驚きよりも、「うつろな目の少女」として数多くの沖縄戦記本に写真が掲載された話題の人物大城盛俊氏が、沖縄紙に一行の紹介もされていないのが大きな驚きであった。

沖縄紙が喧伝する「残虐非道の日本軍」を大城氏ほど見事に体験した人物も珍しい。

食料をリュックに背負って壕に避難中、突然やってきた日本兵に食料を強奪された上、暴行をうけ壕を追い出される。 さらに実母は日本兵にスパイ容疑で虐殺され、戦後は日本兵から受けた暴行の後遺症による右目失明と歩行障害で仕事にも困難を味わったという。

大城氏の受けた艱難辛苦はそれだけではなく、日本兵から受けた障害は「援護法」の適用を却下されたという。

大城氏ほど「残虐非道の日本兵」を声高に訴えてるのに相応しい人物を筆者は知らない。

それだけではない。

「日本兵に何をされるかわからない」という理由で、オカッパ頭にされた大城氏の「少女姿の写真」は、多くの戦記本に紹介され、一昨年の琉球新報で「少女は実は少年だった」と報じられ話題になった人物だ。

このような話題の人物が沖縄の「平和学習」で沖縄を案内しているのに、沖縄紙が一切これを報じないのはいかにも不自然ではないか。

大城氏に関しては、その報道に沖縄紙が揃って腰が引けているように感じる。

このような疑念を抱くのは筆者だけではないはずだ。

やはり「うつろな目の少女」にはまだ語っていない秘密があるのではないか。

 

参考:オカッパの少年の謎

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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【最終章】オカッパの少年の正体

2010-02-24 00:20:31 | オカッパの少年
沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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■失明は「援護法」の適用除外?■

大城氏の証言を以下に紹介する。  
<戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。沖縄戦から48年後の1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れた。その2年前に戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづく障害年金の適用を厚生省へ申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。
「日本兵の暴行による障害は援護法の対象にならない」
席上、援護課長は従来からの見解をくり返した。援護法の対象は基本的に軍人・軍属・準軍属などの「戦闘参加者」に限られ、原爆や空襲などの「一般戦災」は除外されている。 しかし全島戦場と化した、「壕の提供」や伊江島・座間味・渡嘉敷の「集団自決」者なども「戦闘参加者」として援護法が適用されたのだ。
「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」
こういって大城さんは怒る。
「提訴したいが日数がかかるのであきらめました。もっと若ければ…。戦後補償は沖縄だけの問題ではない。日本が侵略したアジアの被害者に、まず補償しなければ。これからも、そんな実情を訴えていきます」>(『『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

ここらで「援護法」について概略を説明したい。

 ■「援護法」の概略■
「軍命の有無」が争われている集団自決論争で、「軍令であった」としたのは、「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)による遺族年金の受給をするための方便だったと当時の琉球政府職員が証言している。

そもそも「援護法」とは、軍人が負傷、または疾病した場合、恩給法の規定に基づき軍人に恩給を支給する法律であり、支給対象は軍人とその遺族に限られる。

だが沖縄戦の場合、悲惨な地上戦で住民が塗炭の苦しみを経験した事情に鑑み、政府は政令を発布することにより、その適用範囲を拡大して民間人も準軍属として支給対象にした。

軍が関与した民間人への適用範囲も漸次拡大し、軍の命令、関与が理解できるとは思えない6歳未満の幼児にも適用、更に再度の政令改正により遂には0歳児にも適用対象の範囲を広げた。 
つまり、軍の関与で親兄弟や知人に殺害されたり、傷を負った住民は、0歳児に至るまで「援護法」の対象になったのである。援護を受けるには、申立人(遺族)と死亡または負傷の証言をしてくれる住民の証言を記した現認証明書があればよい。
日本兵に壕を追い出されたり、食料を強奪された場合でも、「壕提供」や「食料提供」という名目の現認証明書を知人らに書いてもらい、「援護法」の適用となったのである。

そのため実際には他の住民に追い出された場合でも、「日本兵に追い出された」と証言して援護法の対象になったと言う。

政府は「援護法」の沖縄住民への適用には比較的寛大で、「戦前から目の悪かった者が戦後援護法の適用を受けている」といった話は良く聞く公然の秘密である。

大城氏の場合、日本兵に食事・宿舎の提供などで実際に協力しており、日本兵の暴行を受けたとき壕を連れ出され食料を強奪されている。その結果失明したのなら現認証明書さえあれば「援護法」に適用されて、なんら不思議でない。

ところが大城氏が「援護法」による障害年金の適用を厚生省に申請したのは戦後半世紀も経ってからであり、厚生省はこれを却下している。1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れているが、何故その時に膨大な数の署名に代わり、たった一枚の現認証明書を準備できなかったのか。
 
暴行を受けたとき近くにいた(と思われる)住民の証明があれば済むことだ。しかも援護課は現認証明書に関しては比較的大目に見ていたではないか。大城氏は「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」と怒りを露わにしているが、「日本軍の命令」により命を絶たれた子供が補償されていることを考えれば、大城氏の受けた障害が補償されなかったのは他に理由があったのではないのか。

■戦後46年経ってから「援護法」を申請■
「援護法」の適用に関し、ここで二つの疑問が生じてくる。 

第一の疑問は、大城氏は1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知ったというが、その時は既に終戦後32年も経過しており大城氏のような重篤な障害者ににしては知った時期があまりにも遅すぎる。
戦後大阪に在住した時期があり、そのため知るのが遅かったとも考えられるが、大阪とはいえ大城氏が住んでいた大正区は沖縄出身者が多く住み、沖縄人の情報ネットワークが濃密なことで知られた地域。 大城氏は日本兵の暴行による右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず苦労したというのが事実なら、何故自ら障害の補償に関する情報を求めなかったのか。 大城氏の場合は歩行障害と失明という他人が容易に識別出来る障害なので、仮に自ら情報を求めなくても、大阪の濃密な沖縄人コミュニティーの知人縁者や、沖縄の親戚から「援護法」の情報を知らされていてもおかしくはないはずだ。 重い身体的ハンディを抱えながら、何故、戦後半世紀も経過するまで「援護法」適用の申請をしなかったのか。 百歩譲ったとしても申請のための情報を得る努力をしなかったのか。

さらに不可解なのは、大城氏が「援護法」の適用を申請したのは、「援護法」の存在を知った年(1977年)から遅れること更に14年も経過した1991年になってからという事実である。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)) 
したがって大城氏が実際に申請したのは、戦後というより沖縄が返還されてから既に19年も経過してからである。
このように仕事にも影響のある重大な障害を抱えながら、「援護法」の申請を長期にわたり放置していた理由は一体何であったのか。

■得られなかった現認証明書■
次の疑問は、大城氏は、「援護法」申請のために2815人の署名を持って厚生省を訪れているが、申請手続きには一枚の現認証明書があれば済むことであり、大人数の署名など必要ないはずだ。
「援護法」の申請手続きに必要なたった一枚の現認証明書が得られないので、本土各地で行った千回以上の講演会で得た署名で現認証明書に替えようとしたのではないか。   

署名を持って大城氏は日本兵の暴行による失明を「援護法」にもとづく障害年金の適用を求めて申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。

■故郷沖縄で講演を避けたその訳は■
ここで、朝日新聞記事「75歳語り部 来年引退」を振り返ってみると、次のような記述がある。

<以来、講演は1230回を超えた。語り部は多くが沖縄在住で旅行客が相手だが、兵庫県在住の大城さんは主に本土で沖縄戦を語り続けてきた。>

沖縄は「平和教育」の盛んな地域であり、講演会やその他の手段で日本軍の住民に対する残虐行為がことさら誇張されてきた。その意味ではオカッパ頭で女装した少年が日本兵の暴行で失明し、手足に不自由をきたす障害を受けたのなら、こんな絶好の「平和教育」の題材はないはずだ。

だが、大城氏はまるで故郷沖縄での講演を避けるように、主に本土で講演会を行っている。
一方沖縄では一冊の出版物もなく、引退前の故郷での講演会も那覇市などの沖縄本島ではなく、石垣島だけの一回限りだということに疑念は更に深まる。
大城氏も地元新聞も一体何を恐れているのか。
まるで大城氏は何か写真の「少女」と現在の自分の関係で知られたくない秘密を持っており、そのため故郷での講演会や自伝等の出版物を避けているのではないのか。

■「悪逆非道の日本兵」ではなく「残酷な戦争」■
 冒頭に引用した2008年6月23日付「朝日新聞」夕刊の一面トップを飾った「残酷なのは戦争」という大見出し再度戻る。 

記事を見たときからこれが心にひっかかっていた。
 この見出しで係争中の裁判で行われた論点のすり替えが脳裏を過ぎったのだ。
 
「集団自決訴訟」で、当初は慶良間島の両戦隊長が「自決命令を下したかどうか」が争点だと思われたが、両隊長の「命令又は強制」の存在が証明されないと分かると、被告側は一転して戦隊長個人の問題から日本軍全体の責任に論点を摩り替えた。
 
大城氏の受けた日本兵による暴行に話をもどすが、人間はそんなに寛大になれるものだろうか。

  友軍のはずの日本兵に壕を追われ、食料を強奪され、更に失明と歩行障害を患うほどの暴行を受けているのだ。

それだけではない。 

大城氏の母親は身に覚えのないスパイ容疑で日本軍に虐殺されたという。大城氏が日本軍から受けたこのような理不尽な仕打ちに対して、せめて戦後の日本政府が「援護法」等の適用で報いてでもおればともかく、それさえも非情に却下されているではないか。

大城氏が日本軍に対して恨み骨髄に達したとしても不思議だとはいえまい。
 
ところが朝日記事には大城氏のまるで神か仏のように寛大なコメントが掲載されている。

「でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」と。

この大城氏の言葉は果たして大城氏の本心なのだろうか。
 「集団自決訴訟」の例と同じように、大城氏の場合も「事実として証明できないもの」の存在で、

やむを得ず恨みのターゲットを「悪逆非道の日本兵」から「残酷な戦争」にすり替えたのではないのか。

いや、論理は「集団自決訴訟」の場合より更に大幅にすり替わり、焦点は「日本兵」から「日本軍」を飛び越えて「戦争」へと拡散している。

そして論理のすり替えは、大城氏が被害を被った「沖縄戦」から、更にベトナム戦争、イラク戦争と「戦争一般」にすり替わっているではないか。
 大城氏は寛容にも、自分を失明させ足を骨折させ、さらには実母を虐殺した日本兵の残酷さを許し、戦争そのものの残酷さを訴えているのだろうか。 

■「うつろな目の少女」の真相を■
果たして「うつろな目の少女」は、間違いなく大城盛俊氏その人なのか。それにしては、あまりに当人の語った戦時中の証言に致命的とも言える矛盾が存在する。

これまでに全国で1230回を超える講演を行い、数十万の日本人に語りかけ、今年、その講演活動にピリオドを打つという大城氏には、「沖縄戦の語り部」として、「うつろな目の少女」にまつわる真相を語る責任がある。(完)

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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3・オカッパの少年の正体 沖縄タイムスがスルーした理由は?

2010-02-17 00:13:26 | オカッパの少年
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■却下された「援護法」適用■

大城少年が捕虜収容所の診療所で傷の手当てを受けた後、軍病院に一週間ほど入院させられ右肩の脱臼や眼の治療などを受け養父母との再会も果たすことになるが、その後大城氏が視力を失い歩行困難になる経緯が『沖縄戦を生きた子どもたち』(大田昌秀著 (株)クリエイティブ21 2007年)では、次のように記されている。

<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが、視力は二度と戻りませんでした。養父が二世の通訳兵を通して米軍の医者に訊いたところ、もはや眼は完治できないとの返事だったようです。しばらくして後頭部の傷もいくらか良くなったけれども、不自由になった右足の傷は完治せずに足を引きずって歩く始末でした。>

この記述が正しいとするならば、大城氏が右目の視力を失い、歩行障害を自覚したのは、戦後になってからではなく日本兵の暴行を受けたほぼ一か月直後のことになる。

さて、戦後の大城氏の居住地はめまぐるしく変わる。 

1951年、大城氏は大阪にいた実父に呼び寄せられ大阪での生活を始めるのだが、1970年に、米軍の爆撃で戦死と聞かされていた実母が、実はスパイ容疑で日本軍に斬殺されていたと聞かされる。

沖縄が返還された3年後の1975年、大城氏は沖縄に戻り与那原町でクリーニング業を始める。更に1991年、大城氏は沖縄の家を引き払って大阪の大正区に移転する。 ところが1995年の阪神大震災で自宅が全壊する災難に遭い、以後兵庫県伊丹市に転居する。


その間、沖縄に戻った二年後の1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知る。  だが大城氏は「援護法」の存在を知って直ちにその適用を申請したわけではない。 大城氏はそれから14年も経った1991年になって初めて自分が受けた障害の「援護法」適用を申請するが、その時は「右眼の失明が沖縄戦で被った障害であることを誰か証明する人がいなければ受け付けることは出来ない」と門前払いを受けている。大城氏が沖縄戦の講演会を始めたのは「援護法」適用を却下されたことが動機だというが、これが事実だとしたらこの頃から講演を始めたことになる。

<それ(却下)以後、大城さんは年金受給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。(『沖縄戦を生きた子どもたち』)>「

申請を却下された直後の1991年から講演を始めたとしても、2007年の琉球新報の取材を受けた時点では講演は16年間続けたことになり、新報記事の「(講演は)23年で1120回を数える」という記述と矛盾が生じる。 さらに『沖縄戦を生きた子どもたち』の別の記述によると、1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とあり、講演は新報取材の時まで20年間続けたことになる。 大城氏の証言はこのように取材メディアによってまちまちで、同じ本の記述でも齟齬が多い。

<こうして、「沖縄の語り部」として大城さんの新しい人生が始まることになります。それ以後、大城さんは年金支給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。>(『沖縄戦を生きた子どもたち』)

■39年ぶりの自分の写真に遭遇■

1984年、大城氏は腎臓病で那覇の病院に入院中に、偶然に『これが沖縄だ』の表紙に掲載されているオカッパ頭の自分の写真に遭遇する。 『沖縄戦を生きた子どもたち』の記述によると、その4年後の1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とある。従って大城氏の講演活動は沖縄でスタートしたことになる。

 

沖縄出身の筆者がこの「少女」が実はオカッパ頭の少年であったという事実を初めて知った2007年8月当時の沖縄は、「9・29教科書検定意見撤回を求める県民大会」(「11万人」集会)を目前にし、地元紙が沖縄戦の証言者を連日のように紹介し、「悪逆非道の日本兵」を喧伝するキャンペーンが真っ盛りの時期であった。

沖縄中が反日本軍キャンペーンに熱気を帯びている最中に、大城氏は地元紙の取材を受けるため伊丹市からわざわざ沖縄を訪れ驚愕すべき証言をしたのだ。にもかかわらず、「悪逆非道の日本兵」を印象操作に必死の沖縄地元紙が、その時大城氏に一回の講演もさせずに伊丹市に戻しているのはいかにも不自然だった。

60数年前に米軍によって撮影された有名な「少女」の写真が撮られた経緯を、そのときの琉球新報は次のように報道している。


<教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。……表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。……

 5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。>


大城氏は1983年、喉頭がんで声帯を失ったが、人工声帯で沖縄戦の実相を全国各地で語り続け、講演は「23年で1120回を数える」と記事は結んでいる。

■疑惑の「少女」■

記事を見て「少女」の正体がオカッパをした少年であったことに驚いたが、驚愕と同時に幾つかの疑念が暗雲のように胸中に湧くのを抑えられず、素朴な疑問をブログに書いた。

その時の疑問を整理すると次のようになる。

①日本軍の残虐性を象徴するような、「少女」に暴行を加え失明までさせるという沖縄紙にとってオイシイ事件を、地元紙は何ゆえこれまで報じてこなかったのか。

②琉球新報は、このような悲劇の主人公とインタビューをしておきながら、何故大城氏に一回も沖縄で講演をさせず返しているのか。 

大城氏が講演経験のない人ならともかく、彼は沖縄以外の本土各県ではそれまで23年間に1120回の講演会をこなしており、鹿児島と北海道以外はすべての地域で講演したという。単純計算をしても1週間に1、2回の割で講演会を続けたことになり、大城氏はまさに、講演のプロである。日本軍の残虐性を訴えるのに「うつろな目の少女」の主人公の講演会ほど好適な企画はなかったはずだ。

ちなみに2007年8月25日付琉球新報の記事では「(取材時まで)23年間講演をしてきた」となっているが、大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』によると大城氏が講演を開始したのは1988年からであり、新報の取材時には20年間講演を続けてきたことになる。

大城氏は他にも多くのメディアの取材を受けているが、「オカッパ頭にした理由」など重要な部分の多くの証言に矛盾が見られる。

③このドラマチックな記事が、何故この種の報道では常に先頭をきって大騒ぎする沖縄タイムスにはスルーされ、琉球新報の特ダネのように報じられたのか。(沖縄タイムスは新報より4日も遅れた8月29日になって初めて報道している。)

■沖縄タイムスが「特ダネ」をスルーした理由は?■

更に不可解なのは、沖縄タイムスは琉球新報のスクープ記事の二年前にも大城盛俊氏にインタビューしていながらその時はスクープ記事を書いていないことだ。

2005年のその記事には日本兵の暴行を避ける為オカッパの少女の姿をした大城少年のいたいけない女装については一行も触れていない。

記事はもっぱら残虐非道な日本兵の暴行により、右目失明や肩の脱臼の被害を受けたと言う記事と、それが援護法の対象にならなかった憤懣を記しているが、二年後に琉球新報のスクープとなる「オカッパの少年」については一言も触れていない。

長くなるが、二回にわたる2005年のタイムス記事を全文引用しておく。

◆沖縄タイムス<2005年3月13日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](11)
適用拡大
日本兵が暴行 右目失明
43年目に障害年金申請

 

 大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、沖縄戦の最中、日本兵による暴行で右目を失明した。母親もまた日本兵にスパイ容疑をかけられ、惨殺されている。

 戦争当時、十二歳。玉城国民学校に通う元気な少年の人生が、そのけがで一変した。

 右目が見えないため、米軍基地のハウスボーイや、土建業のお茶くみ、穴掘りといった単純な仕事しか就くことができなかった。

 敗戦六年目の一九五一年、大阪へ働きに出た。「いつか、日本兵を見つけて、敵討ちしたい」という憎しみを抱いて旅立った。

 大城さんが去った沖縄では、五三年に援護法適用、五九年には一般住民も「戦闘参加者」として、適用拡大。遺族年金や障害年金が支払われていった。

 四五年三月。十二歳の大城さんは、玉城村に養父母と住んでいた。三月二十三日に港川沖の水平線をびっしりと米艦隊が埋めた。翌日から激しい艦砲射撃が始まり、一家は同村親慶原にあるワチバル壕へ避難した。

 昼は攻撃を避け壕で過ごし、攻撃がやんだ夜に壕を出て、畑を耕した。

 そんな状態が二カ月続いた五月下旬。首里から撤退してきた石部隊の日本兵が、壕に来て「民間人はここを立ち退くように」と命令した。大城さんらは、家財道具や食糧を抱えて、玉城城跡にある壕に移らざるを得なかった。移った先で惨劇が起きた。

 六月上旬、球部隊の日本兵六人が壕にやってきて、食べ物があるか聞いた。大城さんが「ない」と否定しても持っていたリュックサックを奪い取ろうとした。

 リュックの中には、家族のための食糧が入っていた。日本兵は、「これは渡せない」と再び拒んだ大城さんの襟首をつかみ、近くの畑に引きずっていって、投げ飛ばした。意識がもうろうとする中を無理やり立たされ、顔を殴られた。倒れこむと今度は軍靴でけり飛ばされた。

 「こんな子どもに何をするのか」。追いかけて抗議した父親にも、兵隊は暴力を振るおうとした。だが、リュックをあさっていた兵隊が食糧を見つけると、暴行を加えた兵隊は用が済んだとばかりに、立ち去って行った。

 大城さんの右目は充血し腫れあがり、右肩は脱臼。体中に傷や打撲傷を負う瀕死の重傷だった。

 その後、捕虜になり、米軍の診療所で手当てを受け、傷は癒えた。しかし、その時、既に右目の視力回復は難しいといわれた。戦後に治療を受けたが回復しなかった。

 五一年、大阪に渡り、工場勤めをした。「日本兵に殴られんかったら、目も見えて、仕事もできた」。心の中では怒りを持ち続けた。沖縄を差別する同僚を懲らしめようとしたこともあった。

 七五年に転職で沖縄に帰郷。援護法の障害年金が一般住民にも支給されることを知った。

 大城さんが援護法適用を申請したのは八八年。戦後四十三年もたっていた。

                   ◇

<2005年3月17日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](12)
審判
日本兵暴行は「規定外」
裁判できず泣き寝入り

 

 一九七五年、大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、新しい仕事を得て二十四年ぶりに、沖縄へ帰郷した。その時初めて、沖縄戦で「戦闘参加者」と認定されれば、一般住民にも遺族年金や障害年金が支給されることを知った。

 県が実施した援護法の巡回相談を訪れた時のこと。大城さんは担当職員に、日本兵に暴行を受け失明した状況を説明した。

 「あなたを殴った兵隊はいるのか」。担当職員は、事務的に質問をした。

 いや応なしに沖縄戦に巻き込まれて、味方の日本兵に暴行された。十二歳だった大城さんが何一つ自分で選んだことではない。なのに、それを証明するのは自己の責任でと言われる。

 あまりに理不尽な問いに、大城さんは激怒した。「戦闘中だから、その日本兵が誰かは分からない。じゃあ、艦砲射撃でけがをした人は、撃った米兵を特定しないといけないのか」

 相談に訪れていた戦争体験者のお年寄りたちも「やんどー、やんどー(そうだ、そうだ)」と加勢してくれた。

 沖縄で援護法が適用されてから、すでに三十年たっていた。「できるだけ多くの人を救う」。初期の援護担当職員によって、そうやって運用されてきた援護法は、時の流れとともに、住民の戦争体験を審判するものに変わっていた。

 それでも、大城さんは、友人らの助けを借りながら当時の証言を集め、八八年に、申立書を申請した。

 しかし、厚生省は九二年、日本兵の暴行による障害は「援護法の規定外」として、申請を却下した。

 沖縄の一般住民が、援護法の「戦闘参加者」として認定されるためには、「日本軍への協力」が前提だ。住民が、戦争で受けた被害を補償するものではなかった。

 大城さんは、支援者らとともに、三万人余の署名を集め、厚生省に援護法適用を認めるよう要請した。却下に対して不服申し立てをしたが、九四年に再び却下された。

 後は裁判しか道は残されていなかった。「何年かかるかと弁護士に聞いたら、十年から十五年という。年も取るし、費用もかかる。結局やめてしまった」。大城さんは悔しそうに振り返った。

 九一年に娘らが育った本土へ移り、現在は伊丹市に住む。「沖縄のことをみんなが考えてくれたらありがたい」。そう思い、ボランティアで沖縄戦の語り部として、講演活動で訴える。「沖縄の戦後は終わっていない。私のように、泣き寝入りをさせられている人はたくさんいるはずだ。日本の国は、沖縄への戦後補償をしていない」

 「軍への協力」が前提となる援護法では、一般住民が沖縄戦で受けた被害は救えない。

 「住民を守る軍隊が、沖縄では、沖縄人に銃を向けた。沖縄の人一人ひとりが、沖縄戦が何だったのかもっと考えてほしい」

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2・オカッパの少年の正体

2010-02-15 00:07:08 | オカッパの少年

 

 

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■地元では知られていない「女装の少年」■

 朝日新聞のこの記事を読みながら、一年前に同じ「少女」を報じた琉球新報を思いだした。大城氏は、2007825日付琉球新報記事の取材に応じるため帰郷しているが、その時も取材のみで沖縄での講演は一度もせずに神戸に戻っている。

朝日新聞の二枚の写真付記事を見、さらに一年前の琉球新報記事を見なおして、滓のように胸中に残っていた疑惑が再び活性化してきた。                     

 

沖縄戦で米軍が撮影した膨大なフィルムが公開されてきたが、その中でも見る人の胸を打つ有名な二枚の写真がある。二枚の写真はそれぞれ大田昌秀著『写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版』(琉球新報刊)の中に収録されているが、その一枚が「白旗の少女」として知られる一枚で、他の一枚が今回朝日が紹介した「うつろ目の少女」の写真である。

「うつろな目の少女」は同書の表紙に使用されているだけでなく、冒頭第1頁でも「傷つき血みどろになった少女」とキャプション付きで掲載。一冊の本で二度も大きく紹介されているので、同書を手にした者の目に必ず飛び込んでくる構成になっている。同書は40万部を売る大ベストセラーになったせいか、この「少女」の写真は沖縄では良く知られた写真である。だが、この少女が実は男の子であったということを、地元沖縄でも、知る人は少ない。

実際、筆者の知人友人ら二十数人に尋ねてみたが、「少女」の写真は見たことはあっても「少女」の正体が少年であると知る者は一人もいなかった。 

 

試しに沖縄戦の資料展示で「反軍姿勢」で知られる二つの歴史資料館を調べてみた。

激戦地のあった本島南部にある「具志頭村立歴史民俗資料館」の沖縄戦の資料展示コーナーは、ご多分にもれず日本軍の残忍さとアメリカ人の人間性溢れる行為を強調した展示構成になっている。 

同コーナーの「村内の仮収容所(米軍指定)に集められた人たち」と題した写真展示の中に「うつろな目の少女」の写真が展示されている。 だが説明文は「傷の手当てを待つ少女」の記述だけで、「少女」の数奇な体験については一言も触れていない。「反日本軍」を訴えるには絶好のテーマのはずの「少女」の正体も記されていなければ、「日本軍の暴行を避ける為のオカッパ頭の少年」とも記されていないのだ。   

たまたま隣で見ていた地元出身の青年に「この少女は実は少年だよ」と話したが、信じてもらえなかった。 

「もしそうなら、何故事実を掲示してないのか」と反論され、返答に窮した。

「具志頭村立歴史民俗資料館」からそう遠くない場所にある「沖縄県立平和祈念資料館」といえば徹底した反日思想の展示で有名だ。赤ん坊を抱く母親に銃剣を向ける人形まで展示して反軍思想を煽っているが、不思議なことに、ここには「うつろな目の少女」の写真展示はない。 

見落としたかと思い、念のため受付の係員に尋ねたが、そもそも「うつろな目の少女」を知らなかった。学芸員と称する専門家に聞いても、最初は「うつろな目の少女」が理解できず、大田元知事の著書の表紙に使われている写真だと説明してやっと理解してくれたが、「少女」の正体が少年だったと話してもよく飲み込めない様子だった。

このように沖縄戦の資料を専門的に展示してある沖縄の代表的資料館でも「うつろな目の少女」の正体は少年だったという話は認識されていない。筆者の友人、知人達が「少女」の写真は知ってはいるが、その正体をごく最近まで知らなくても無理はない。 

続く

  

【おまけ】

沖縄出身者の筆者が、初めて「うつろな目の少女」の正体はオカッパの少年であったという報道を見たのは、戦後62年も経って琉球新報がスクープした次の記事によってである。

「うつろな目の少女」に情報をお持ちの方、ご一報頂ければ幸いです。管理人

 

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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2007年8月25日琉球新報

 <「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。>

  

【お願い】

 


オカッパの少年の謎

2010-02-14 00:01:40 | オカッパの少年

自動更新による過去記事です。

すでに読まれた方は飛ばしてください

オカッパの少年の謎

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「白旗の少女」については過去に何度かエントリーし、現在でも一日に100件前後の閲覧者がいるが、昨日は200件を越えた。

古い過去エントリーで閲覧者が200件を越すのは当日記のようなささやかなブログでは珍しいこと。 昨日のコメント欄で読者のヒロシさんが知人の小学生が「白旗の少女」の記事を読んでくれたと知らせていただきブロガー冥利につきると書いた。

戦争で戦火に翻弄される子供たちの姿は、米国側の記録写真で数多く紹介されているが、見るたびに心を痛めるものがある。 中でもこの「白旗の少女」と「うつろな目の少女」の写真が有名だが、「うつろな目の少女」が実は「オカッパの少年」だったという事実を知る者は沖縄県民でさえ少ない。

当日記でも過去に数回エントリーしたが、一部の読者には反響があったが「白旗の少女」に比べて、過去記事閲覧も少ない。

「うつろな目の少女」の体験は「残虐非道の日本軍」という沖縄紙の見出しそのままを具現したようなものである。

日本兵に食料を強奪され、壕を追い出され、その際打つ蹴るの暴行を受け右目を失明、歩行に障害の後遺症を持つ。 それだけではなく実母はスパイ容疑で日本兵に虐殺され、戦後は右目の失明と歩行障害により仕事にも困難を伴ったという。

「少女」の受けた災難はそれだけでは止まらず、戦後「援護法」の受給申請をしたがそれも非情に却下された。

沖縄二紙が糾弾する「悪逆非道の日本兵」の被害者として、これほど絶好のネタはないはずなのに、これを報ずる沖縄紙は極めて少ない。 初めてこれをスクープした一昨年の琉球新報と、数日遅れでフォロー記事をだした沖縄タイムスの二回しか筆者は知らない。(昨年最後の講演会を石垣で行ったとき、八重山」毎日がこれを報じた。)

「少女」の体験が余りにも数奇なため、読者の理解を得るのが困難だと思うので、再度「少女」について検証し再度エントリーしてみたい。

昨年の慰霊の日(6月23日)の朝日新聞夕刊のトップに「少女」についての大きき記事が掲載され、それを中央日報がフォローしたので、読者の理解の一助として先ずそれを紹介する。

険を避けて少女になった大城さん、最後の講演/沖縄 

 

 太平洋戦争当時、日本軍が沖縄で行ってきたことを日本人に伝えてきた大城盛俊さん(75)が21日、沖縄県石垣島で最後の講演をしたと朝日新聞が伝えた。63年目を迎えた沖縄被害者「慰霊の日」の2日前だった。彼が25年間、全国を回りながら行った講演は約1230回。毎週1回のペースだった。しかし妻の病気の看護をしているうち、自分の足首の関節も弱くなって公式講演は今回で終えることにした。彼はこの日「初めて講演するときは『沖縄ってアメリカにあるんですか』と質問する子供もいた」と回顧した。それほど過去の沖縄の悲しい歴史を知らない日本人が多かったという意味だった。

  彼が沖縄戦争の証言するようになったきっかけは、1984年に現われた1枚の写真だった。沖縄琉球大学教授だった大田昌秀元沖縄知事が沖縄の悲劇を告発する『これが沖縄戦だ』という本を出し「うつろな目の少女」というタイトルで本表紙に載せた大城さんの幼いころの写真だった。この本が出ると大城さんは「写真の中の人物は僕です」と明らかにし、世間の注目を集めた。彼の証言の人生は少年が少女に化けた事情から始まる。

  日本が太平洋戦争で敗戦の色が濃くなった1945年5月。大城さんは12歳の少年だった。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」として彼の父親は大城さんを女の子に変装させた。彼の頭をおかっぱ頭にして女の子の服を着せた。その後、洞くつに隠れて過ごす中、日本軍が訪ねてきた。日本軍は大城さんが黒砂糖を入れておいた袋に何が入っているかを尋ねた後「生意気だ。反抗するのか」と大城さんの顔を軍靴で蹴った。翌日、沖縄に上陸した米軍は血だらけになったまま倒れている大城さんを治療し、このとき撮った写真が「うつろな目の少女」という名で本の表紙に使われたのだ。

  この本が出版された後、大城さんは全国を回りながら行った講演の核心は「反戦」だ。彼は「私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではなく、彼らをそこまで追いやった戦争の狂気」だとし「ベトナム戦争もイラク戦争も同じだ」と強調した。

  太平洋戦争当時、日本軍も初めは沖縄住民に「私たちが皆さんを守ってあげる」と言ったという。それで住民たちは素直に日本軍に寝る場所や食糧を提供して協力した。しかし、米軍上陸が切迫すると日本軍は恐怖に震え、狂気を見せ始めた。道路と陣地構築に住民を動員すると壕に抑留させた。そのせいで米軍の砲弾が落ちても民間人は逃げだせなかった上、日本軍が壕外に出るときには住民を前に立てて盾にしたというのが大城さんの証言だ。

  日本軍に暴行されて失明した彼は母親が死亡した経緯についても話した。「母はほかの洞くつから私(大城)がいた洞くつに戻る途中、日本軍につかまり、米軍スパイと疑われた。日本軍は母を洞くつに閉じこめて手榴弾を投げた」

  彼は喉頭がんの手術を受けたことから人工発声器を使って講演をしてきた。電気装置で声を伝達するので聞き取りにくいのだが、彼の講演にはいつも人があふれた。彼は「沖縄の空は青いが、痛い過去があったという点を覚えていてほしい」とし、最後の講演を終えた。   中央日報 2008年6月26日

 

                    ◆

「オカッパの少女」の謎を追う

うつろな目の少女」は、本当に沖縄戦の語り部・大城氏か

毎年6月23日、沖縄では戦没者を追悼する「慰霊の日」を迎える。その日は沖縄県限定の公休日であるため、国の出先機関や国立大学(琉球大学)以外の役所・学校等は休日になる。その日は、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄県主催の沖縄全戦没者慰霊祭が行われる。

 

■「うつろな目の少女」の衝撃■

2008年のその日623日、朝日新聞夕刊は、沖縄戦の語り部として講演活動をしてきた大城盛俊氏(75)が講演会活動を来年で引退すると一面トップで報じた。その記事には「うつろな目の少女」として有名な「少女」の写真と、講演をする大城氏の現在の写真を並べて掲載してある。

63年前に米兵によって撮影された「少女」の写真の説明を、朝日記事は次のように説明している。

<大城さん沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>

さらに同記事は、大城氏が「23日に沖縄県石垣島では最後となる講演を行い、戦争の残酷さを訴えた」と報じているが、事情を知らない読者は、記事が報じるように過去に1230回を超える講演をこなしてきた大城さんなら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると想像するだろう。 

だが、沖縄出身で長く沖縄に在住する筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、後にも先にも朝日が報じる20086月の一回しか知らない。しかも23年もの長期にわたる講演活動の最後の沖縄講演が、沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だという。 

何ゆえ大城氏は、沖縄での最後の講演を自分の故郷がある沖縄本島で飾らなかったのか。筆者には、知人縁者の多く住むはずの故郷での講演を避けているように感じられた。

「平和教育」のメッカともいえる那覇や本島南部地域こそ大城氏のユニークな講演の最後を飾る場として相応しくはなかったのか。大城氏は一体何を避けているのか。

「うつろな目の少女」に筆者が疑問を持ち始めたのは、この素朴な疑問がすべての出発点であった。

続く

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座間味にいた「うつろな目の少女」

2009-08-30 07:36:31 | オカッパの少年

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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先日、座間味旅行をした知人の話を聞く機会があった。

偶然、神戸から来た20人ほどの教師グループと同行し、その「平和学習ツアー」の小型バスに便乗させてもらい壕巡りを体験したという。

そのときの写真を見せてもらっているうち、その一枚に写っている人物の顔を見て、思わず驚きの声を発した。

「オカッパの少女だ!」

写真に写っている70過ぎの老人を指して、「少女だ!」と呟く姿を人に見られたら、きっと「カニハンリた」と思われたであろう。

(⇒老人性ボケをカニハンリルという

写真の日付けは8月17日。

写真に写っている老人は紛れもなく「うつろな目の少女」として知られる大城盛俊氏、その人ではないか。

知人の話によると、その人物は夏休みを利用して神戸の教師グループを率いて、沖縄「平和学習ツアー」のコーディネーターとして戦跡案内をしていたのだという。

大城氏といえば、戦時中の日本兵から受けた暴力で、右目を失明し、足には歩行障害が残っているはずだ。 

大城氏は現在神戸に在住で、喉頭がんにより声を失ったたことと、80歳近いご高齢のため、長年続けていた「沖縄戦の語り部」を引退していたはずだ。

その大城氏が元気で「平和学習ツアー」を率いて座間味村の壕巡りをしている事は驚きであった。

いや、その驚きよりも、「うつろな目の少女」として数多くの沖縄戦記本に写真が掲載された話題の人物大城盛俊氏が、沖縄紙に一行の紹介もされていないのが大きな驚きであった。

沖縄紙が喧伝する「残虐非道の日本軍」を大城氏ほど見事に体験した人物も珍しい。

食料をリュックに背負って壕に避難中、突然やってきた日本兵に食料を強奪された上、暴行をうけ壕を追い出される。 さらに実母は日本兵にスパイ容疑で虐殺され、戦後は日本兵から受けた暴行の後遺症による右目失明と歩行障害で仕事にも困難を味わったという。

大城氏の受けた艱難辛苦はそれだけではなく、日本兵から受けた障害は「援護法」の適用を却下されたという。

大城氏ほど「残虐非道の日本兵」を声高に訴えてるのに相応しい人物を筆者は知らない。

それだけではない。

「日本兵に何をされるかわからない」という理由で、オカッパ頭にされた大城氏の「少女姿の写真」は、多くの戦記本に紹介され、一昨年の琉球新報で「少女は実は少年だった」と報じられ話題になった人物だ。

このような話題の人物が沖縄の「平和学習」で沖縄を案内しているのに、沖縄紙が一切これを報じないのはいかにも不自然ではないか。

大城氏に関しては、その報道に沖縄紙が揃って腰が引けているように感じる。

このような疑念を抱くのは筆者だけではないはずだ。

やはり「うつろな目の少女」にはまだ語っていない秘密があるのではないか。

 

参考:オカッパの少年の謎

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秦 郁彦
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【最終章】オカッパの少年の正体

2009-08-21 06:09:11 | オカッパの少年

 

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秦 郁彦
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■失明は「援護法」の適用除外?■
大城氏の証言を以下に紹介する。  
<戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。沖縄戦から48年後の1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れた。その2年前に戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづく障害年金の適用を厚生省へ申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。
「日本兵の暴行による障害は援護法の対象にならない」
席上、援護課長は従来からの見解をくり返した。援護法の対象は基本的に軍人・軍属・準軍属などの「戦闘参加者」に限られ、原爆や空襲などの「一般戦災」は除外されている。 しかし全島戦場と化した、「壕の提供」や伊江島・座間味・渡嘉敷の「集団自決」者なども「戦闘参加者」として援護法が適用されたのだ。
「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」
こういって大城さんは怒る。
「提訴したいが日数がかかるのであきらめました。もっと若ければ…。戦後補償は沖縄だけの問題ではない。日本が侵略したアジアの被害者に、まず補償しなければ。これからも、そんな実情を訴えていきます」>(『『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

ここらで「援護法」について概略を説明したい。

 ■「援護法」の概略■
「軍命の有無」が争われている集団自決論争で、「軍令であった」としたのは、「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)による遺族年金の受給をするための方便だったと当時の琉球政府職員が証言している。

そもそも「援護法」とは、軍人が負傷、または疾病した場合、恩給法の規定に基づき軍人に恩給を支給する法律であり、支給対象は軍人とその遺族に限られる。

だが沖縄戦の場合、悲惨な地上戦で住民が塗炭の苦しみを経験した事情に鑑み、政府は政令を発布することにより、その適用範囲を拡大して民間人も準軍属として支給対象にした。

軍が関与した民間人への適用範囲も漸次拡大し、軍の命令、関与が理解できるとは思えない6歳未満の幼児にも適用、更に再度の政令改正により遂には0歳児にも適用対象の範囲を広げた。 
つまり、軍の関与で親兄弟や知人に殺害されたり、傷を負った住民は、0歳児に至るまで「援護法」の対象になったのである。援護を受けるには、申立人(遺族)と死亡または負傷の証言をしてくれる住民の証言を記した現認証明書があればよい。
日本兵に壕を追い出されたり、食料を強奪された場合でも、「壕提供」や「食料提供」という名目の現認証明書を知人らに書いてもらい、「援護法」の適用となったのである。

そのため実際には他の住民に追い出された場合でも、「日本兵に追い出された」と証言して援護法の対象になったと言う。

政府は「援護法」の沖縄住民への適用には比較的寛大で、「戦前から目の悪かった者が戦後援護法の適用を受けている」といった話は良く聞く公然の秘密である。

大城氏の場合、日本兵に食事・宿舎の提供などで実際に協力しており、日本兵の暴行を受けたとき壕を連れ出され食料を強奪されている。その結果失明したのなら現認証明書さえあれば「援護法」に適用されて、なんら不思議でない。

ところが大城氏が「援護法」による障害年金の適用を厚生省に申請したのは戦後半世紀も経ってからあり、厚生省はこれを却下している。1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れているが、何故その時に膨大な数の署名に代わり、たった一枚の現認証明書を準備できなかったのか。
 
暴行を受けたとき近くにいた(と思われる)住民の証明があれば済むことだ。しかも援護課は現認証明書に関しては比較的大目に見ていたではないか。大城氏は「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」と怒りを露わにしているが、「日本軍の命令」により命を絶たれた子供が補償されていることを考えれば、大城氏の受けた障害が補償されなかったのは他に理由があったのではないのか。

■戦後46年経ってから「援護法」を申請■
「援護法」の適用に関し、ここで二つの疑問が生じてくる。 

第一の疑問は、大城氏は1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知ったというが、その時は既に終戦後32年も経過しており大城氏のような重篤な障害者ににしては知った時期があまりにも遅すぎる。
戦後大阪に在住した時期があり、そのため知るのが遅かったとも考えられるが、大阪とはいえ大城氏が住んでいた大正区は沖縄出身者が多く住み、沖縄人の情報ネットワークが濃密なことで知られた地域。 大城氏は日本兵の暴行による右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず苦労したというのが事実なら、何故自ら障害の補償に関する情報を求めなかったのか。 大城氏の場合は歩行障害と失明という他人が容易に識別出来る障害なので、仮に自ら情報を求めなくても、大阪の濃密な沖縄人コミュニティーの知人縁者や、沖縄の親戚から「援護法」の情報を知らされていてもおかしくはないはずだ。 重い身体的ハンディを抱えながら、何故、戦後半世紀も経過するまで「援護法」適用の申請をしなかったのか。 百歩譲ったとしても申請のための情報を得る努力をしなかったのか。

さらに不可解なのは、大城氏が「援護法」の適用を申請したのは、「援護法」の存在を知った年(1977年)から遅れること更に14年も経過した1991年になってからという事実である。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)) 
したがって大城氏が実際に申請したのは、戦後というより沖縄が返還されてから既に19年も経過してからである。
このような仕事にも影響のある重大な障害を抱えながら、「援護法」の申請を長期にわたり放置していた理由は一体何であったのか。

■得られなかった現認証明書■
次の疑問は、大城氏は、「援護法」申請のために2815人の署名を持って厚生省を訪れているが、申請手続きには一枚の現認証明書があれば済むことであり、大人数の署名など必要ないはずだ。
「援護法」の申請手続きに必要なたった一枚の現認証明書が得られないので、本土各地で行った千回以上の講演会で得た署名で現認証明書に替えようとしたのではないか。   

署名を持って大城氏は日本兵の暴行による失明を「援護法」にもとづく障害年金の適用を求めて申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。

■故郷沖縄で講演を避けたその訳は■
ここで、朝日新聞記事「75歳語り部 来年引退」を振り返ってみると、次のような記述がある。

<以来、講演は1230回を超えた。語り部は多くが沖縄在住で旅行客が相手だが、兵庫県在住の大城さんは主に本土で沖縄戦を語り続けてきた。>

沖縄は「平和教育」の盛んな地域であり、講演会やその他の手段で日本軍の住民に対する残虐行為がことさら誇張されてきた。その意味ではオカッパ頭で女装した少年が日本兵の暴行で失明し、手足に不自由をきたす障害を受けたのなら、こんな絶好の「平和教育」の題材はないはずだ。

だが、大城氏はまるで故郷沖縄での講演を避けるように、主に本土で講演会を行っている。
一方沖縄では一冊の出版物もなく、引退前の故郷での講演会も那覇市などの沖縄本島ではなく、石垣島だけの一回限りだということに疑念は更に深まる。
大城氏も地元新聞も一体何を恐れているのか。
まるで大城氏は何か写真の「少女」と現在の自分の関係で知られたくない秘密を持っており、そのため故郷での講演会や自伝等の出版物を避けているのではないのか。

■「悪逆非道の日本兵」ではなく「残酷な戦争」■
 冒頭に引用した2008年6月23日付「朝日新聞」夕刊の一面トップを飾った「残酷なのは戦争」という大見出し再度戻る。 

記事を見たときからこれが心にひっかかっていた。
 この見出しで係争中の裁判で行われた論点のすり替えが脳裏を過ぎったのだ。
 
「集団自決訴訟」で、当初は慶良間島の両戦隊長が「自決命令を下したかどうか」が争点だと思われたが、両隊長の「命令又は強制」の存在が証明されないと分かると、被告側は一転して戦隊長個人の問題から日本軍全体の責任に論点を摩り替えた。
 
大城氏の受けた日本兵による暴行に話をもどすが、人間はそんなに寛大になれるものだろうか。

  友軍のはずの日本兵に壕を追われ、食料を強奪され、更に失明と歩行障害を患うほどの暴行を受けているのだ。

それだけではない。 

大城氏の母親は身に覚えのないスパイ容疑で日本軍に虐殺されたという。大城氏が日本軍から受けたこのような理不尽な仕打ちに対して、せめて戦後の日本政府が「援護法」等の適用で報いてでもおればともかく、それさえも非情に却下されているではないか。

大城氏が日本軍に対して恨み骨髄に達したとしても不思議だとはいえまい。
 
ところが朝日記事には大城氏のまるで神か仏のように寛大なコメントが掲載されている。

「でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」と。

この大城氏の言葉は果たして大城氏の本心なのだろうか。
 「集団自決訴訟」の例と同じように、大城氏の場合も「事実として証明できないもの」の存在で、

やむを得ず恨みのターゲットを「悪逆非道の日本兵」から「残酷な戦争」にすり替えたのではないのか。

いや、論理は「集団自決訴訟」の場合より更に大幅にすり替わり、焦点は「日本兵」から「日本軍」を飛び越えて「戦争」へと拡散している。

そして論理のすり替えは、大城氏が被害を被った「沖縄戦」から、更にベトナム戦争、イラク戦争と「戦争一般」にすり替わっているではないか。
 大城氏は寛容にも、自分を失明させ足を骨折させ、さらには実母を虐殺した日本兵の残酷さを許し、戦争そのものの残酷さを訴えているのだろうか。 

■「うつろな目の少女」の真相を■
果たして「うつろな目の少女」は、間違いなく大城盛俊氏その人なのか。それにしては、あまりに当人の語った戦時中の証言に致命的とも言える矛盾が存在する。

これまでに全国で1230回を超える講演を行い、数十万の日本人に語りかけ、今年、その講演活動にピリオドを打つという大城氏には、「沖縄戦の語り部」として、「うつろな目の少女」にまつわる真相を語る責任がある。(完)

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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4・オカッパの少年の正体

2009-08-20 09:29:36 | オカッパの少年

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■少年の兵役動員■
琉球新報の記事を読んで、ざっと思いついただけでも、これだけの疑念が湧いたが、何よりも一番の疑念は少年が女装した理由だった。

沖縄戦では米兵の毒牙を逃れるため女性が男装した話は多いが、日本兵から逃れるための「女装の男性」の話は大城氏の例の他には聞いたことがない。
記事を読んで真っ先に脳裏に浮かんだのは「兵役逃れ」という、当時としては恥ずべき行為だ。大城氏が正式な兵役には未だ早い少年だったとはいえ、人手不足が究極に達した当時の状況では、少年といえども兵役を免れ得なかった。
戦争末期になると、戦況の悪化、長期化により兵士が不足し、兵役対象者が大学生にまで及んだ(学徒動員)。そこで、沖縄も、1945年3月に“鉄血勤皇隊”として沖縄の学徒が召集された。
日本陸軍第32軍の「鉄血勤皇隊ならびに活用に関する覚書」によると、「各学校ごとに鉄血勤皇隊を編成し、軍の緊密な協力の下で軍事訓練を施し、非常事態ともなれば直接軍組織に編入し戦闘に参加させる」と記されており、当初から軍の援助・指導を前提に、県立学校が積極的に軍事訓練・戦闘へ取り組んでいたことが伺える。
さらに、その添付文章などによると、召集対象年齢を下回る14~16歳の学徒についても召集に備えた書類を作ることが定められていた。そうした覚書・協定に基づいて、当時の沖縄県庁は、各学校で集めた学徒名簿を軍に提出し、沖縄の14~16歳の少年を動員した。
戦争が長引けば、そのうち大城少年も正式に招集される。仮に正式な兵役召集ではなくても、少年が伝令や道案内で軍に協力するのは当時の沖縄ではよくある話だった。
結局、大城少年は兵役の手伝いを逃れるためにオカッパ頭の少女に変装していたのではないのか。
  現在の価値観でいえば、12歳の少年が将来兵役に取られるのが忍びがたく、オカッパ頭の女の子に変装させて兵役を逃れさせる親心はよく理解できる。だが、時代は63年前の戦時中のこと。当時の常識で言えば兵役逃れは恥であり、非国民といわれても仕方のない行為だ。
 
食料を要求する日本兵とそれを拒んだ「少女」が、もみ合ううちに男であることがばれてもおかしくはない。
  琉球新報の記事にある、「生意気なやつだ」という日本兵の一言から筆者が想像するのは、「女の癖に生意気だ。おや貴様、男だな。兵役逃れだな!」と言って兵隊に殴られたと見るのが自然だろう。本土各地では講演を続けられても現地の沖縄では、実質上の「徴兵逃れ」がばれてしまうのを恐れて沖縄での講演を避けたのではないか。
 それとも琉球新報が恐れたのは「うつろな目の少女」が大城盛俊氏であるという確証が得られなかったからなのか。

■オカッパ頭は「兵役逃れ」■
  このように幾つかの疑問を残したままその年を過ごしたが、年が明けて2008年の2月1日付「朝日新聞」に、「 ニッポン人脈記/沖縄の「少女」」と題する記事が出た。同記事でオカッパ頭にした理由は、「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」となっており、「女装」の理由が、ここでは「徴兵逃れ」と取れる表現になっている。 
大城氏が現在住む地元の新聞を調べてみたら、5年前の2003年8月16日付「神戸新聞」に次のような見出しの記事があった。
 ≪「沖縄戦と平和をつたえる会」会長 大城 盛俊さん(72)
無関心の怖さに警鐘 ―沖縄に生まれ、戦争は十三歳で体験した≫
 この神戸新聞の記事ではオカッパ頭にした理由を「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて.」とはっきりと明言しているではないか。
14歳以下の少年の兵役について、大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』には次のような記述がある。
 <…14歳以下の子どもたちの死因を見ると、戦地では、徴兵適齢どころか年端も行かぬ子どもたちまでが大人同様に軍隊に使役されて死んだことは明らかです。>
 さらに調べていくと、2005年8月11日放送の朝日放送の戦争特集「語りつぐ戦争」に登場した大城氏が、オカッパ頭にした理由を、次のように証言しているのを発見した。
<女の子に変装したのには、理由がありました。
「お父さんは私に向かって、『兵隊たちは年齢に関係なしに連れて行くから、髪を伸ばしなさい』と…」>(http://webnews.asahi.co.jp/you/special/sengo.html

やはり、オカッパ頭の真相は徴兵逃れであったのだ。

■新たな疑惑が浮上■  
  大城氏の引退を報じる朝日新聞の二枚の写真で、更に新たな疑惑が湧いてきた。確かに講演をする現在の大城氏の右目は写真で見ても失明の様子が伺える。だが、63年前の「少女」はカメラ目線で、焦点もしっかりしていて、とても右目に失明を伴う重症を受けているとは見て取れない。果たして米軍のカメラに撮られた「うつろな目の少女」は大城盛俊その人なのか。 

 沖縄は出版の盛な県であり、特に沖縄戦に関する本は、専門の作家やジャーナリストもおれば、歴史研究と作家の二足のわらじを履く人もいるくらいで、話題性のある逸話は必ずといっていいほど自著か、そうでなければ学者や作家の筆により出版されるのが普通である。
例えば沖縄戦の写真で、もう一人の有名な「白旗の少女」は、地元ジャーナリストと版画作家により絵本になり、さらにそれを基にしてアニメ映画が作られているほど。そして絵本には、白旗の少女を盾にした醜い日本兵がついて来たという意味の一文が加えられて、日本兵に対する憎悪を煽って「平和教育」の目玉になっている。

前述したように、「うつろな目の少女」は、ベストセラー写真集の表紙を飾り、日本軍の暴行で失明したというストーリーなど、「白旗の少女」以上のインパクトを持つる写真である。しかし、不思議なことに本人の自著は勿論、普通ならこの種の証言に飛びついてきた沖縄のメディアも、「沖縄戦研究家」たちも、この「少女」をテーマに出版したという形跡が見当たらなかった。
そんな中、上羽修著『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』(株式会社草の根出版社発行1999年)が、大城氏に触れていることを知った。 
著者の上羽氏は1996年から翌年にかけて約半年間沖縄に滞在して沖縄戦を取材し、その中で、大城さんの体験談を取り上げている。同書には大城少年に関して次のような記述がある。
<1944年夏ごろ、大城さんが玉城国民学校5年生(12歳)のとき、「これまで見たこともない大きな軍艦が横付けされ、その中からトラックや戦車が吐き出されるのを見て、みんなびっくりしました」それから村は急にあわただしくなった。4年生以上の児童は陣地構築に動員され、石や土を運ばされた。もう授業どころではなかった。女性も部隊の炊事や洗濯をさせられた。兵舎を前もって建てずにやってきた日本軍は、学校や大きな家に兵隊を分宿させた。大城少年は村会議員のおじさん夫婦と三人で暮らしていたが、家が大きいので兵隊に座敷を提供して、三人は炊事場で寝起きした。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)>
「うつろな目の少女」が米兵に撮影される一年前の1944年には、大城少年は玉城国民学校5年生(12歳)で、4年生以上は陣地構築にかり出され、女性も炊事洗濯させられていたという事実がこの記述で分かる。つまり写真を撮られた時、大城少年は13歳になっており、男の子なら戦地に引っぱりだされ伝令や道案内をさせられても当時は不自然ではなかったのだ。これは神戸新聞の「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて.」という記事とも符合する。 
更に同書で「少女」が日本兵の暴行を受ける場面が出てくる。少し長くなるが引用する。

■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■
<アメリカ軍が沖縄本島中部へ上陸すると、玉城村にいた日本軍はいったん首里のほうへ移動した。
「まもなく首里が攻められると、兵隊たちは自分の命を守るため一生懸命逃げ帰ってきました。鉄砲も持たない兵隊は持っていても杖がわりにした兵隊が村にきて、壕を探しはじめたんです」 
とうとう大城さんの壕へも5人ほどの兵隊がきた。
「ここは軍の陣地にするから民間人は出ろ」こう命令し、村びとをみんな追い出した。おじさんは炊事道具と着替えを、おばさんは味噌や塩などを、大城少年は米の入ったリュックサックを背負い、玉城城跡の南側にあった小さな自然壕へ移った。
6月に入って、この壕へも兵隊が5、6人あらわれた。
「なんだ、お前は男の子か」
兵隊は大城少年の顔を見て不信の声を上げた。
オカッパ頭だったからだ。中国戦線で日本軍の暴行を見てきたおじさんが、大城少年にも暴行をふるわないように女の子の格好をさせていたのだ。
「食べ物があったら、よこせ」  
兵隊は壕の中を引っ掻きまわした。大城少年はリュックを見つけられてはたいへんと、サッと引き寄せるところを見つかってしまった。 兵隊が引ったくろうとするのを必死にしがみついた。
「この野郎、殺したろか、沖縄人め!」

大城少年が殴られるのを見て村びとが騒いだので、兵隊は大城少年をリュックごと壕の外へ連れ出し、さんざん殴り、大きな軍靴で踏みつけた。大城少年は意識を失った。気づいたときには頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。二世が大城少年のけがをみて「これはひどい」と知念村志喜屋収容所に連れていった。そこで撮られた写真が「うつろな目の少女」である。ていねいに、治療されたが、視力と歩行は元に戻らなかった。>(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)
 
あらためて『これは沖縄戦だ』に掲載の「少女」の写真と上記引用文の大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較検証してみた。写真には「傷つき血みどろになった少女」とのキャプションが付いている。オカッパ頭の少女は着衣が黒く汚れているが、「血みどろ」という説明がなければ「泥まみれ」とも見て取れる。
細紐で首に右手を掛けているので、右肩が脱臼しているようには見えるが、顔や手足の露出部分に怪我や傷の痕跡はない。写真撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。少なくとも目の周辺に怪我らしい痕跡は見当たらない。

ここで写真の「少女」の目と大城氏が説明する目の怪我の状況に大きな矛盾が生じてくる。
怪我は日本兵の暴行により目が腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院での治療がどのようであったか知る術はないが、ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。 

もっと決定的な矛盾がある。

大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』(クリエイティブ21 2007年)には、<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが>とある。
これは、大田氏が大城氏を取材してまとめた記事である。ところで、2003年8月16日付「神戸新聞」で、大城氏は記者の質問にこう答えている。
<―体験を語るきっかけになったのは、約二十年前に新聞に「うつろな目の少女」として掲載された大城さんの写真だった
 「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて。それで、ガマに避難しているときに、日本兵がやってきて、砂糖を奪おうとした。抵抗したら『貴様は女の子かと思ったら男か。生意気だ』と、意識を失うまで殴られ、けられて全身血だらけになった。その後、今度は米兵がきて『何もしないから出てきなさい』といった。恐る恐る外へ出て、生まれて初めてもらったチョコレートを銀紙ごと食べてしまい、吐き出した。それから軍の診療所に連れていかれ、治療を待つ間に撮られたのがあの写真だ」>

米軍診療所で治療を受ける前であったとすれば、眼帯をつけられる前の写真と言えるが、その眼帯を一カ月もつけるほどの大ケガをしている目とは到底、見えない。
これらをまとめれば、大城氏が全くの虚偽を語っているのか、さもなくば「うつろな少女」が大城氏ではない、という結論となる。大城氏が右目を失明した原因が戦時中の日本兵から受けた傷のせいだという主張さえ、疑念が生じてくる。

続く

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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3・オカッパの少年の正体 沖縄タイムスがスルーした理由は?

2009-08-18 07:09:42 | オカッパの少年

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■却下された「援護法」適用■

大城少年が捕虜収容所の診療所で傷の手当てを受けた後、軍病院に一週間ほど入院させられ右肩の脱臼や眼の治療などを受け養父母との再会も果たすことになるが、その後大城氏が視力を失い歩行困難になる経緯が『沖縄戦を生きた子どもたち』(大田昌秀著 (株)クリエイティブ21 2007年)では、次のように記されている。

<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが、視力は二度と戻りませんでした。養父が二世の通訳兵を通して米軍の医者に訊いたところ、もはや眼は完治できないとの返事だったようです。しばらくして後頭部の傷もいくらか良くなったけれども、不自由になった右足の傷は完治せずに足を引きずって歩く始末でした。>

この記述が正しいとするならば、大城氏が右目の視力を失い、歩行障害を自覚したのは、戦後になってからではなく日本兵の暴行を受けたほぼ一か月直後のことになる。

さて、戦後の大城氏の居住地はめまぐるしく変わる。 

1951年、大城氏は大阪にいた実父に呼び寄せられ大阪での生活を始めるのだが、1970年に、米軍の爆撃で戦死と聞かされていた実母が、実はスパイ容疑で日本軍に斬殺されていたと聞かされる。

沖縄が返還された3年後の1975年、大城氏は沖縄に戻り与那原町でクリーニング業を始める。更に1991年、大城氏は沖縄の家を引き払って大阪の大正区に移転する。 ところが1995年の阪神大震災で自宅が全壊する災難に遭い、以後兵庫県伊丹市に転居する。


その間、沖縄に戻った二年後の1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知る。  だが大城氏は「援護法」の存在を知って直ちにその適用を申請したわけではない。 大城氏はそれから14年も経った1991年になって初めて自分が受けた障害の「援護法」適用を申請するが、その時は「右眼の失明が沖縄戦で被った障害であることを誰か証明する人がいなければ受け付けることは出来ない」と門前払いを受けている。大城氏が沖縄戦の講演会を始めたのは「援護法」適用を却下されたことが動機だというが、これが事実だとしたらこの頃から講演を始めたことになる。

<それ(却下)以後、大城さんは年金受給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。(『沖縄戦を生きた子どもたち』)>「

申請を却下された直後の1991年から講演を始めたとしても、2007年の琉球新報の取材を受けた時点では講演は16年間続けたことになり、新報記事の「(講演は)23年で1120回を数える」という記述と矛盾が生じる。 さらに『沖縄戦を生きた子どもたち』の別の記述によると、1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とあり、講演は新報取材の時まで20年間続けたことになる。 大城氏の証言はこのように取材メディアによってまちまちで、同じ本の記述でも齟齬が多い。

<こうして、「沖縄の語り部」として大城さんの新しい人生が始まることになります。それ以後、大城さんは年金支給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。>(『沖縄戦を生きた子どもたち』)

■39年ぶりの自分の写真に遭遇■

1984年、大城氏は腎臓病で那覇の病院に入院中に、偶然に『これが沖縄だ』の表紙に掲載されているオカッパ頭の自分の写真に遭遇する。 『沖縄戦を生きた子どもたち』の記述によると、その4年後の1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とある。従って大城氏の講演活動は沖縄でスタートしたことになる。

 

沖縄出身の筆者がこの「少女」が実はオカッパ頭の少年であったという事実を初めて知った2007年8月当時の沖縄は、「9・29教科書検定意見撤回を求める県民大会」(「11万人」集会)を目前にし、地元紙が沖縄戦の証言者を連日のように紹介し、「悪逆非道の日本兵」を喧伝するキャンペーンが真っ盛りの時期であった。

沖縄中が反日本軍キャンペーンに熱気を帯びている最中に、大城氏は地元紙の取材を受けるため伊丹市からわざわざ沖縄を訪れ驚愕すべき証言をしたのだ。にもかかわらず、「悪逆非道の日本兵」を印象操作に必死の沖縄地元紙が、その時大城氏に一回の講演もさせずに伊丹市に戻しているのはいかにも不自然だった。

60数年前に米軍によって撮影された有名な「少女」の写真が撮られた経緯を、そのときの琉球新報は次のように報道している。


<教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。……表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。……

 5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。>


大城氏は1983年、喉頭がんで声帯を失ったが、人工声帯で沖縄戦の実相を全国各地で語り続け、講演は「23年で1120回を数える」と記事は結んでいる。

■疑惑の「少女」■

記事を見て「少女」の正体がオカッパをした少年であったことに驚いたが、驚愕と同時に幾つかの疑念が暗雲のように胸中に湧くのを抑えられず、素朴な疑問をブログに書いた。

その時の疑問を整理すると次のようになる。

①日本軍の残虐性を象徴するような、「少女」に暴行を加え失明までさせるという沖縄紙にとってオイシイ事件を、地元紙は何ゆえこれまで報じてこなかったのか。

②琉球新報は、このような悲劇の主人公とインタビューをしておきながら、何故大城氏に一回も沖縄で講演をさせず返しているのか。 

大城氏が講演経験のない人ならともかく、彼は沖縄以外の本土各県ではそれまで23年間に1120回の講演会をこなしており、鹿児島と北海道以外はすべての地域で講演したという。単純計算をしても1週間に1、2回の割で講演会を続けたことになり、大城氏はまさに、講演のプロである。日本軍の残虐性を訴えるのに「うつろな目の少女」の主人公の講演会ほど好適な企画はなかったはずだ。

ちなみに2007年8月25日付琉球新報の記事では「(取材時まで)23年間講演をしてきた」となっているが、大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』によると大城氏が講演を開始したのは1988年からであり、新報の取材時には20年間講演を続けてきたことになる。

大城氏は他にも多くのメディアの取材を受けているが、「オカッパ頭にした理由」など重要な部分の多くの証言に矛盾が見られる。

③このドラマチックな記事が、何故この種の報道では常に先頭をきって大騒ぎする沖縄タイムスにはスルーされ、琉球新報の特ダネのように報じられたのか。(沖縄タイムスは新報より4日も遅れた8月29日になって初めて報道している。)

■沖縄タイムスが「特ダネ」をスルーした理由は?■

更に不可解なのは、沖縄タイムスは琉球新報のスクープ記事の二年前にも大城盛俊氏にインタビューしていながらその時はスクープ記事を書いていないことだ。

2005年のその記事には日本兵の暴行を避ける為オカッパの少女の姿をした大城少年のいたいけない女装については一行も触れていない。

記事はもっぱら残虐非道な日本兵の暴行により、右目失明や肩の脱臼の被害を受けたと言う記事と、それが援護法の対象にならなかった憤懣を記しているが、二年後に琉球新報のスクープとなる「オカッパの少年」については一言も触れていない。

長くなるが、二回にわたる2005年のタイムス記事を全文引用しておく。

◆沖縄タイムス<2005年3月13日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](11)
適用拡大
日本兵が暴行 右目失明
43年目に障害年金申請

 

 大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、沖縄戦の最中、日本兵による暴行で右目を失明した。母親もまた日本兵にスパイ容疑をかけられ、惨殺されている。

 戦争当時、十二歳。玉城国民学校に通う元気な少年の人生が、そのけがで一変した。

 右目が見えないため、米軍基地のハウスボーイや、土建業のお茶くみ、穴掘りといった単純な仕事しか就くことができなかった。

 敗戦六年目の一九五一年、大阪へ働きに出た。「いつか、日本兵を見つけて、敵討ちしたい」という憎しみを抱いて旅立った。

 大城さんが去った沖縄では、五三年に援護法適用、五九年には一般住民も「戦闘参加者」として、適用拡大。遺族年金や障害年金が支払われていった。

 四五年三月。十二歳の大城さんは、玉城村に養父母と住んでいた。三月二十三日に港川沖の水平線をびっしりと米艦隊が埋めた。翌日から激しい艦砲射撃が始まり、一家は同村親慶原にあるワチバル壕へ避難した。

 昼は攻撃を避け壕で過ごし、攻撃がやんだ夜に壕を出て、畑を耕した。

 そんな状態が二カ月続いた五月下旬。首里から撤退してきた石部隊の日本兵が、壕に来て「民間人はここを立ち退くように」と命令した。大城さんらは、家財道具や食糧を抱えて、玉城城跡にある壕に移らざるを得なかった。移った先で惨劇が起きた。

 六月上旬、球部隊の日本兵六人が壕にやってきて、食べ物があるか聞いた。大城さんが「ない」と否定しても持っていたリュックサックを奪い取ろうとした。

 リュックの中には、家族のための食糧が入っていた。日本兵は、「これは渡せない」と再び拒んだ大城さんの襟首をつかみ、近くの畑に引きずっていって、投げ飛ばした。意識がもうろうとする中を無理やり立たされ、顔を殴られた。倒れこむと今度は軍靴でけり飛ばされた。

 「こんな子どもに何をするのか」。追いかけて抗議した父親にも、兵隊は暴力を振るおうとした。だが、リュックをあさっていた兵隊が食糧を見つけると、暴行を加えた兵隊は用が済んだとばかりに、立ち去って行った。

 大城さんの右目は充血し腫れあがり、右肩は脱臼。体中に傷や打撲傷を負う瀕死の重傷だった。

 その後、捕虜になり、米軍の診療所で手当てを受け、傷は癒えた。しかし、その時、既に右目の視力回復は難しいといわれた。戦後に治療を受けたが回復しなかった。

 五一年、大阪に渡り、工場勤めをした。「日本兵に殴られんかったら、目も見えて、仕事もできた」。心の中では怒りを持ち続けた。沖縄を差別する同僚を懲らしめようとしたこともあった。

 七五年に転職で沖縄に帰郷。援護法の障害年金が一般住民にも支給されることを知った。

 大城さんが援護法適用を申請したのは八八年。戦後四十三年もたっていた。

                   ◇

<2005年3月17日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](12)
審判
日本兵暴行は「規定外」
裁判できず泣き寝入り

 

 一九七五年、大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、新しい仕事を得て二十四年ぶりに、沖縄へ帰郷した。その時初めて、沖縄戦で「戦闘参加者」と認定されれば、一般住民にも遺族年金や障害年金が支給されることを知った。

 県が実施した援護法の巡回相談を訪れた時のこと。大城さんは担当職員に、日本兵に暴行を受け失明した状況を説明した。

 「あなたを殴った兵隊はいるのか」。担当職員は、事務的に質問をした。

 いや応なしに沖縄戦に巻き込まれて、味方の日本兵に暴行された。十二歳だった大城さんが何一つ自分で選んだことではない。なのに、それを証明するのは自己の責任でと言われる。

 あまりに理不尽な問いに、大城さんは激怒した。「戦闘中だから、その日本兵が誰かは分からない。じゃあ、艦砲射撃でけがをした人は、撃った米兵を特定しないといけないのか」

 相談に訪れていた戦争体験者のお年寄りたちも「やんどー、やんどー(そうだ、そうだ)」と加勢してくれた。

 沖縄で援護法が適用されてから、すでに三十年たっていた。「できるだけ多くの人を救う」。初期の援護担当職員によって、そうやって運用されてきた援護法は、時の流れとともに、住民の戦争体験を審判するものに変わっていた。

 それでも、大城さんは、友人らの助けを借りながら当時の証言を集め、八八年に、申立書を申請した。

 しかし、厚生省は九二年、日本兵の暴行による障害は「援護法の規定外」として、申請を却下した。

 沖縄の一般住民が、援護法の「戦闘参加者」として認定されるためには、「日本軍への協力」が前提だ。住民が、戦争で受けた被害を補償するものではなかった。

 大城さんは、支援者らとともに、三万人余の署名を集め、厚生省に援護法適用を認めるよう要請した。却下に対して不服申し立てをしたが、九四年に再び却下された。

 後は裁判しか道は残されていなかった。「何年かかるかと弁護士に聞いたら、十年から十五年という。年も取るし、費用もかかる。結局やめてしまった」。大城さんは悔しそうに振り返った。

 九一年に娘らが育った本土へ移り、現在は伊丹市に住む。「沖縄のことをみんなが考えてくれたらありがたい」。そう思い、ボランティアで沖縄戦の語り部として、講演活動で訴える。「沖縄の戦後は終わっていない。私のように、泣き寝入りをさせられている人はたくさんいるはずだ。日本の国は、沖縄への戦後補償をしていない」

 「軍への協力」が前提となる援護法では、一般住民が沖縄戦で受けた被害は救えない。

 「住民を守る軍隊が、沖縄では、沖縄人に銃を向けた。沖縄の人一人ひとりが、沖縄戦が何だったのかもっと考えてほしい」

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2・オカッパの少年の正体

2009-08-17 06:09:01 | オカッパの少年
沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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■地元では知られていない「女装の少年」■

 朝日新聞のこの記事を読みながら、一年前に同じ「少女」を報じた琉球新報を思いだした。大城氏は、2007825日付琉球新報記事の取材に応じるため帰郷しているが、その時も取材のみで沖縄での講演は一度もせずに神戸に戻っている。

朝日新聞の二枚の写真付記事を見、さらに一年前の琉球新報記事を見なおして、滓のように胸中に残っていた疑惑が再び活性化してきた。                     

 

沖縄戦で米軍が撮影した膨大なフィルムが公開されてきたが、その中でも見る人の胸を打つ有名な二枚の写真がある。二枚の写真はそれぞれ大田昌秀著『写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版』(琉球新報刊)の中に収録されているが、その一枚が「白旗の少女」として知られる一枚で、他の一枚が今回朝日が紹介した「うつろ目の少女」の写真である。

「うつろな目の少女」は同書の表紙に使用されているだけでなく、冒頭第1頁でも「傷つき血みどろになった少女」とキャプション付きで掲載。一冊の本で二度も大きく紹介されているので、同書を手にした者の目に必ず飛び込んでくる構成になっている。同書は40万部を売る大ベストセラーになったせいか、この「少女」の写真は沖縄では良く知られた写真である。だが、この少女が実は男の子であったということを、地元沖縄でも、知る人は少ない。

実際、筆者の知人友人ら二十数人に尋ねてみたが、「少女」の写真は見たことはあっても「少女」の正体が少年であると知る者は一人もいなかった。 

 

試しに沖縄戦の資料展示で「反軍姿勢」で知られる二つの歴史資料館を調べてみた。

激戦地のあった本島南部にある「具志頭村立歴史民俗資料館」の沖縄戦の資料展示コーナーは、ご多分にもれず日本軍の残忍さとアメリカ人の人間性溢れる行為を強調した展示構成になっている。 

同コーナーの「村内の仮収容所(米軍指定)に集められた人たち」と題した写真展示の中に「うつろな目の少女」の写真が展示されている。 だが説明文は「傷の手当てを待つ少女」の記述だけで、「少女」の数奇な体験については一言も触れていない。「反日本軍」を訴えるには絶好のテーマのはずの「少女」の正体も記されていなければ、「日本軍の暴行を避ける為のオカッパ頭の少年」とも記されていないのだ。   

たまたま隣で見ていた地元出身の青年に「この少女は実は少年だよ」と話したが、信じてもらえなかった。 

「もしそうなら、何故事実を掲示してないのか」と反論され、返答に窮した。

「具志頭村立歴史民俗資料館」からそう遠くない場所にある「沖縄県立平和祈念資料館」といえば徹底した反日思想の展示で有名だ。赤ん坊を抱く母親に銃剣を向ける人形まで展示して反軍思想を煽っているが、不思議なことに、ここには「うつろな目の少女」の写真展示はない。 

見落としたかと思い、念のため受付の係員に尋ねたが、そもそも「うつろな目の少女」を知らなかった。学芸員と称する専門家に聞いても、最初は「うつろな目の少女」が理解できず、大田元知事の著書の表紙に使われている写真だと説明してやっと理解してくれたが、「少女」の正体が少年だったと話してもよく飲み込めない様子だった。

このように沖縄戦の資料を専門的に展示してある沖縄の代表的資料館でも「うつろな目の少女」の正体は少年だったという話は認識されていない。筆者の友人、知人達が「少女」の写真は知ってはいるが、その正体をごく最近まで知らなくても無理はない。 

続く

  

【おまけ】

沖縄出身者の筆者が、初めて「うつろな目の少女」の正体はオカッパの少年であったという報道を見たのは、戦後62年も経って琉球新報がスクープした次の記事によってである。

教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

2007年8月25日琉球新報

 <「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。>

 

【お願い】

「うつろな目の少女」に情報をお持ちの方、ご一報頂ければ幸いです。管理人

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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オカッパの少年の謎 疑念の出発

2009-08-16 07:00:25 | オカッパの少年

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「白旗の少女」については過去に何度かエントリーし、現在でも一日に100件前後の閲覧者がいるが、昨日は200件を越えた。

古い過去エントリーで閲覧者が200件を越すのは当日記のようなささやかなブログでは珍しいこと。 昨日のコメント欄で読者のヒロシさんが知人の小学生が「白旗の少女」の記事を読んでくれたと知らせていただきブロガー冥利につきると書いた。

戦争で戦火に翻弄される子供たちの姿は、米国側の記録写真で数多く紹介されているが、見るたびに心を痛めるものがある。 中でもこの「白旗の少女」と「うつろな目の少女」の写真が有名だが、「うつろな目の少女」が実は「オカッパの少年」だったという事実を知る者は沖縄県民でさえ少ない。

当日記でも過去に数回エントリーしたが、一部の読者には反響があったが「白旗の少女」に比べて、過去記事閲覧も少ない。

「うつろな目の少女」の体験は「残虐非道の日本軍」という沖縄紙の見出しそのままを具現したようなものである。

日本兵に食料を強奪され、壕を追い出され、その際打つ蹴るの暴行を受け右目を失明、歩行に障害の後遺症を持つ。 それだけではなく実母はスパイ容疑で日本兵に虐殺され、戦後は右目の失明と歩行障害により仕事にも困難を伴ったという。

「少女」の受けた災難はそれだけでは止まらず、戦後「援護法」の受給申請をしたがそれも非情に却下された。

沖縄二紙が糾弾する「悪逆非道の日本兵」の被害者として、これほど絶好のネタはないはずなのに、これを報ずる沖縄紙は極めて少ない。 初めてこれをスクープした一昨年の琉球新報と、数日遅れでフォロー記事をだした沖縄タイムスの二回しか筆者は知らない。(昨年最後の講演会を石垣で行ったとき、八重山」毎日がこれを報じた。)

「少女」の体験が余りにも数奇なため、読者の理解を得るのが困難だと思うので、再度「少女」について検証し再度エントリーしてみたい。

昨年の慰霊の日(6月23日)の朝日新聞夕刊のトップに「少女」についての大きき記事が掲載され、それを中央日報がフォローしたので、読者の理解の一助として先ずそれを紹介する。

険を避けて少女になった大城さん、最後の講演/沖縄 

 

 太平洋戦争当時、日本軍が沖縄で行ってきたことを日本人に伝えてきた大城盛俊さん(75)が21日、沖縄県石垣島で最後の講演をしたと朝日新聞が伝えた。63年目を迎えた沖縄被害者「慰霊の日」の2日前だった。彼が25年間、全国を回りながら行った講演は約1230回。毎週1回のペースだった。しかし妻の病気の看護をしているうち、自分の足首の関節も弱くなって公式講演は今回で終えることにした。彼はこの日「初めて講演するときは『沖縄ってアメリカにあるんですか』と質問する子供もいた」と回顧した。それほど過去の沖縄の悲しい歴史を知らない日本人が多かったという意味だった。

  彼が沖縄戦争の証言するようになったきっかけは、1984年に現われた1枚の写真だった。沖縄琉球大学教授だった大田昌秀元沖縄知事が沖縄の悲劇を告発する『これが沖縄戦だ』という本を出し「うつろな目の少女」というタイトルで本表紙に載せた大城さんの幼いころの写真だった。この本が出ると大城さんは「写真の中の人物は僕です」と明らかにし、世間の注目を集めた。彼の証言の人生は少年が少女に化けた事情から始まる。

  日本が太平洋戦争で敗戦の色が濃くなった1945年5月。大城さんは12歳の少年だった。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」として彼の父親は大城さんを女の子に変装させた。彼の頭をおかっぱ頭にして女の子の服を着せた。その後、洞くつに隠れて過ごす中、日本軍が訪ねてきた。日本軍は大城さんが黒砂糖を入れておいた袋に何が入っているかを尋ねた後「生意気だ。反抗するのか」と大城さんの顔を軍靴で蹴った。翌日、沖縄に上陸した米軍は血だらけになったまま倒れている大城さんを治療し、このとき撮った写真が「うつろな目の少女」という名で本の表紙に使われたのだ。

  この本が出版された後、大城さんは全国を回りながら行った講演の核心は「反戦」だ。彼は「私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではなく、彼らをそこまで追いやった戦争の狂気」だとし「ベトナム戦争もイラク戦争も同じだ」と強調した。

  太平洋戦争当時、日本軍も初めは沖縄住民に「私たちが皆さんを守ってあげる」と言ったという。それで住民たちは素直に日本軍に寝る場所や食糧を提供して協力した。しかし、米軍上陸が切迫すると日本軍は恐怖に震え、狂気を見せ始めた。道路と陣地構築に住民を動員すると壕に抑留させた。そのせいで米軍の砲弾が落ちても民間人は逃げだせなかった上、日本軍が壕外に出るときには住民を前に立てて盾にしたというのが大城さんの証言だ。

  日本軍に暴行されて失明した彼は母親が死亡した経緯についても話した。「母はほかの洞くつから私(大城)がいた洞くつに戻る途中、日本軍につかまり、米軍スパイと疑われた。日本軍は母を洞くつに閉じこめて手榴弾を投げた」

  彼は喉頭がんの手術を受けたことから人工発声器を使って講演をしてきた。電気装置で声を伝達するので聞き取りにくいのだが、彼の講演にはいつも人があふれた。彼は「沖縄の空は青いが、痛い過去があったという点を覚えていてほしい」とし、最後の講演を終えた。   中央日報 2008年6月26日

 

                    ◆

「オカッパの少女」の謎を追う

うつろな目の少女」は、本当に沖縄戦の語り部・大城氏か

毎年6月23日、沖縄では戦没者を追悼する「慰霊の日」を迎える。その日は沖縄県限定の公休日であるため、国の出先機関や国立大学(琉球大学)以外の役所・学校等は休日になる。その日は、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄県主催の沖縄全戦没者慰霊祭が行われる。

 

■「うつろな目の少女」の衝撃■

2008年のその日623日、朝日新聞夕刊は、沖縄戦の語り部として講演活動をしてきた大城盛俊氏(75)が講演会活動を来年で引退すると一面トップで報じた。その記事には「うつろな目の少女」として有名な「少女」の写真と、講演をする大城氏の現在の写真を並べて掲載してある。

63年前に米兵によって撮影された「少女」の写真の説明を、朝日記事は次のように説明している。

<大城さん沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>

さらに同記事は、大城氏が「23日に沖縄県石垣島では最後となる講演を行い、戦争の残酷さを訴えた」と報じているが、事情を知らない読者は、記事が報じるように過去に1230回を超える講演をこなしてきた大城さんなら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると想像するだろう。 

だが、沖縄出身で長く沖縄に在住する筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、後にも先にも朝日が報じる20086月の一回しか知らない。しかも23年もの長期にわたる講演活動の最後の沖縄講演が、沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だという。 

何ゆえ大城氏は、沖縄での最後の講演を自分の故郷がある沖縄本島で飾らなかったのか。筆者には、知人縁者の多く住むはずの故郷での講演を避けているように感じられた。

「平和教育」のメッカともいえる那覇や本島南部地域こそ大城氏のユニークな講演の最後を飾る場として相応しくはなかったのか。大城氏は一体何を避けているのか。

「うつろな目の少女」に筆者が疑問を持ち始めたのは、この素朴な疑問がすべての出発点であった。

続く

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沖縄戦の女装の少年ー最終章

2009-04-14 06:38:03 | オカッパの少年

 

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■失明は「援護法」の適用除外?■

大城氏が日本兵に受けた障害と「援護法」に関する証言を以下に紹介する。  

<戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。沖縄戦から48年後の1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れた。その2年前に戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづく障害年金の適用を厚生省へ申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。
「日本兵の暴行による障害は援護法の対象にならない」
席上、援護課長は従来からの見解をくり返した。援護法の対象は基本的に軍人・軍属・準軍属などの「戦闘参加者」に限られ、原爆や空襲などの「一般戦災」は除外されている。 しかし全島戦場と化した、「壕の提供」や伊江島・座間味・渡嘉敷の「集団自決」者なども「戦闘参加者」として援護法が適用されたのだ。
「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」
こういって大城さんは怒る。
「提訴したいが日数がかかるのであきらめました。もっと若ければ…。戦後補償は沖縄だけの問題ではない。日本が侵略したアジアの被害者に、まず補償しなければ。これからも、そんな実情を訴えていきます」>(『『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

 ■「援護法」の概略■

「軍命の有無」が争われている沖縄の集団自決論争で、「軍令であった」としたのは、「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)による遺族年金の受給をするための方便だったと当時の琉球政府職員が証言し、その証言は裁判の証拠として法廷に提出されている。

そもそも「援護法」とは、軍人が負傷、または疾病した場合、恩給法の規定に基づき軍人に恩給を支給する法律であり、支給対象は軍人とその遺族に限られる。

だが沖縄戦の場合、悲惨な地上戦で住民が塗炭の苦しみを経験した事情に鑑み、政府は政令を発布することにより、その適用範囲を拡大して民間人も準軍属として支給対象にした。

軍が関与した民間人への適用範囲も漸次拡大し、軍の命令、関与が理解できるとは思えない6歳未満の幼児にも適用、更に再度の政令改正により遂には0歳児にも適用対象の範囲を広げた。
 
つまり、軍の関与で親兄弟や知人に殺害されたり、傷を負った住民は、0歳児に至るまで「援護法」の対象になったのである。

援護を受けるには、申立人(遺族)と死亡または負傷の証言をしてくれる住民の証言を記した現認証明書があればよい。

実際、日本兵に壕を追い出されたり、食料を強奪された場合でも、「壕提供」や「食料提供」という名目の現認証明書を知人らに書いてもらい、「援護法」の適用となったのである。

従って大城少年が日本兵に食料を強奪され壕を追われたことも、現認証明書さえあれば「援護法」の対象になるはずだ。

政府は「援護法」の沖縄住民への適用には比較的寛大で、沖縄では「戦前から目の悪かった者が戦後援護法の適用を受けている」といった話は良く聞く公然の秘密である。

壕での食料強奪の際の暴行による失明なら現認証明書さえあれば「援護法」に適用されて、なんら不思議でない。

ところが大城氏が「援護法」による障害年金の適用を厚生省に申請したのは戦後半世紀も経ってからあり、

厚生省はこれを却下している。

1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れているが、何故その時に膨大な数の署名に代わり、たった一枚の現認証明書を準備できなかったのか。
 
暴行を受けたとき近くにいた(と思われる)住民の証明があれば済むことだ。しかも援護課は現認証明書に関しては比較的大目に見ていたではないか。

大城氏は「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」と怒りを露わにしているが、「日本軍の命令」により命を絶たれた子供が補償されていることを考えれば、大城氏の受けた障害が補償されなかったのは他に理由があったのではないのか。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

「援護法」申請者に対して、厚生省は今から考えると随分大雑把な審査で、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けたという。

また東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美)

■戦後46年経ってから「援護法」を申請■

大城氏の「援護法」の適用に関し、ここで二つの疑問が生じてくる。
 
第一の疑問は、大城氏は1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知ったというが、その時は既に終戦後32年も経過しており大城氏のような重篤な障害者にしては知った時期があまりにも遅すぎる。

戦後大阪に在住した時期があり、そのため知るのが遅かったとも考えられるが、大阪とはいえ大城氏が住んでいた大正区は沖縄出身者が多く住み、沖縄人の情報ネットワークが濃密なことで知られた地域。 

大城氏は日本兵の暴行による右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず苦労したというのが事実なら、何故自ら障害の補償に関する情報を求めなかったのか。 

大城氏の場合は歩行障害と失明という他人が容易に識別出来る障害なので、仮に自ら情報を求めなくても、大阪の濃密な沖縄人コミュニティーの知人縁者や、沖縄の親戚から「援護法」の情報を知らされていてもおかしくはないはずだ。 

重い身体的ハンディを抱えながら、何故、戦後半世紀も経過するまで「援護法」適用の申請をしなかったのか。 百歩譲ったとしても申請のための情報を得る努力をしなかったのか。

もっと不可解なのは、大城氏が「援護法」の適用を申請したのは、「援護法」の存在を知った年(1977年)から遅れること更に14年も経過した1991年になってからという事実である。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)) 

したがって大城氏が実際に申請したのは、戦後というより沖縄が返還されてから既に19年も経過してからである。

このような仕事にも影響のある重大な障害を抱えながら、「援護法」の申請を長期にわたり放置していた理由は一体何であったのか。

■得られなかった現認証明書■

次の疑問は、大城氏は、「援護法」申請のために2815人の署名を持って厚生省を訪れているが、申請手続きには一枚の現認証明書があれば済むことであり、大人数の署名など必要ないはずだ。

「援護法」の申請手続きに必要なたった一枚の現認証明書が得られないので、本土各地で行った千回以上の講演会で得た署名で現認証明書に替えようとしたのではないか。
   
署名を持って大城氏は日本兵の暴行による失明を「援護法」にもとづく障害年金の適用を求めて申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。

■故郷沖縄で講演を避けたその訳は■

沖縄は「平和教育」の盛んな地域であり、講演会やその他の手段で日本軍の住民に対する残虐行為がことさら誇張されてきた。

その意味ではオカッパ頭で女装した少年が日本兵の暴行で失明し、手足に不自由をきたす障害を受けたのなら、こんな絶好の「平和教育」の題材はないはず。

だが、大城氏はまるで故郷沖縄での講演を避けるように、主に本土で講演会を行っている。

一方地元沖縄では一冊の出版物もなく、引退前の故郷での講演会も那覇市などの沖縄本島ではなく、石垣島だけの一回限りだということに疑念は更に深まる。

大城氏も地元新聞も一体何を恐れているのか。

まるで大城氏は何か写真の「少女」と現在の自分の関係で知られたくない秘密を持っており、そのため故郷での講演会や自伝等の出版物を避けているのではないのか。

■「悪逆非道の日本兵」ではなく「残酷な戦争」■

昨年の沖縄戦慰霊の日の6月23日、朝日新聞が大城氏の記事を一面トップで報じた。

見出しはこうだ。

63年目 沖縄慰霊の碑

「残酷なのは戦争」

75歳語り部 来年引退

そして記事には次のような記述がある。

<沖縄住民は「我々が皆さんを守る」という日本軍に住まいや食料を提供し、道路や陣地作りに動員され、最後は米軍の砲弾から逃げ惑った。日本兵は、壕から出るには住民を先に立てて“盾”にした。大城さんの実母もスパイと疑われて殺された。
でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」>

ここにある大城氏のコメントは果たして大城氏の本心なのだろうか。

「残酷なのは戦争」という見出しを見た瞬間、係争中の裁判で行われた論点のすり替えが脳裏を過ぎった。

「集団自決訴訟」で、当初は慶良間島の両戦隊長が「自決命令を下したかどうか」が争点だと思われたが、両隊長の「命令又は強制」の存在が証明されないと分かると、

被告側は一転して戦隊長個人の問題から日本軍全体の責任に論点を摩り替えた。

大城氏の受けた日本兵による暴行に対する憎悪は朝日記事では急にトーンダウンしているが、人間はそんなに寛大になれるものだろうか。

友軍のはずの日本兵に壕を追われ、食料を強奪され、更に失明と歩行障害を患うほどの暴行を受けているのだ。

それだけではない。 

大城氏の母親は身に覚えのないスパイ容疑で日本軍に斬殺されたという。

大城氏が日本軍から受けたこのような理不尽な仕打ちに対して、せめて戦後の日本政府が「援護法」等の適用で報いてでもおればともかく、それさえも非情に却下されているではないか。

大城氏は、日本軍に対して恨み骨髄に達したとしても不思議だとはいえまい。

朝日記事には「でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」との大城氏の言葉を伝えているが、

大城氏は長年の日本軍に対する恨み辛みを朝日新聞のインタビューで一瞬にして忘れ去ってしまったのか。

「集団自決訴訟」の例と同じように、大城氏の場合も「事実として証明できないもの」の存在で、

やむを得ず恨みのターゲットを「悪逆非道の日本兵」から「残酷な戦争」にすり替えたのではないのか。

いや、論理は「集団自決訴訟」の場合より更に大幅にすり替わっているではないか。

恨みの対象は「日本兵」から「日本軍」を飛び越えて「戦争」へと拡散している。

そしてそれに伴う論理のすり替えは、大城氏が被害を被った「沖縄戦」から、更にベトナム戦争、イラク戦争と「戦争一般」にすり替わっているではないか。

大城氏は寛容にも、自分を失明させ足を骨折させ実母を斬殺した日本兵の残酷さを許し、戦争そのものの残酷さを訴えているのだろうか。 

■「うつろな目の少女」の真相を■

果たして「うつろな目の少女」は、間違いなく大城盛俊氏その人なのか。

それにしては、あまりに当人の語った戦時中の証言に致命的とも言える矛盾が存在する。

これまでに全国で1230回を超える講演を行い、数十万の日本人に語りかけ、今年、その講演活動にピリオドを打つという大城氏には、「沖縄戦の語り部」として、「うつろな目の少女」にまつわる真相を語る責任がある。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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続・沖縄戦の女装の少年ー援護法適用は却下

2009-04-12 07:55:33 | オカッパの少年

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 今朝の沖縄タイムスは「米軍流れ弾事件」が消えて、「米兵交通事故」の特集ルポ記事を掲載。

 

「交通事故」も重要だが「米軍流れ弾」の方が深刻だと思うのだが・・・。

                    * 

             

 

その後大城氏が視力を失い歩行困難になる経緯が『沖縄戦を生きた子どもたち』(大田昌秀著 (株)クリエイティブ21 2007年)では、次のように記されている。

<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが、視力は二度と戻りませんでした。養父が二世の通訳兵を通して米軍の医者に訊いたところ、もはや眼は完治できないとの返事だったようです。しばらくして後頭部の傷もいくらか良くなったけれども、不自由になった右足の傷は完治せずに足を引きずって歩く始末でした。>

この記述が正しいとするならば、大城氏が右目の視力を失い、歩行障害を自覚したのは、戦後になってからではなく日本兵の暴行を受けたほぼ一か月直後のことになる。

さて、戦後の大城氏の居住地はめまぐるしく変わる。
 
1951年、大城氏は大阪にいた実父に呼び寄せられ大阪での生活を始めるのだが、1970年に、米軍の爆撃で戦死と聞かされていた実母が、実はスパイ容疑で日本軍に斬殺されていたと聞かされる。

沖縄が返還された3年後の1975年、大城氏は沖縄に戻り与那原町でクリーニング業を始める。

更に1991年、大城氏は沖縄の家を引き払って大阪の大正区に移転する。 
ところが1995年の阪神大震災で自宅が全壊する災難に遭い、以後兵庫県伊丹市に転居する。

■戦後32年して「援護法」の存在を知る■

その間、沖縄に戻った二年後の1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知る。

だが大城氏は「援護法」の存在を知って直ちにその適用を申請したわけではない。 

大城氏はそれから14年も経った1991年になって初めて自分が受けた障害の「援護法」適用を申請することになる。

だが、その時は「右眼の失明が沖縄戦で被った障害であることを誰か証明する人がいなければ受け付けることは出来ない」と門前払いを受けている。

大城氏が沖縄戦の講演会を始めたのは「援護法」適用を却下されたことが動機だというが、これが事実だとしたらこの頃から講演を始めたことになる。

<それ(却下)以後、大城さんは年金受給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。(『沖縄戦を生きた子どもたち』)>

申請を却下された直後の1991年から講演を始めたとしても、2007年の琉球新報の取材を受けた時点では講演は16年間続けたことになり、新報記事の「(講演は)23年で1120回を数える」という記述と矛盾が生じる。 

さらに『沖縄戦を生きた子どもたち』の別の記述によると、1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とあり、講演は新報取材の時まで20年間続けたことになる。 

大城氏の証言はこのように取材メディアによってまちまちで、同じ本の記述でも齟齬が多い。


<こうして、「沖縄の語り部」として大城さんの新しい人生が始まることになります。それ以後、大城さんは年金支給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。(『沖縄戦を生きた子どもたち』)>

1984年、大城氏は腎臓病で那覇の病院に入院中に、偶然に『これが沖縄だ』の表紙に掲載されているオカッパ頭の自分の写真に遭遇する。 

『沖縄戦を生きた子どもたち』の記述によると、その4年後の1988年に大城氏の講演活動は沖縄でスタートしたことになる。
 
■疑惑の「少女」■

琉球新報の記事を見て幾つかの疑念が暗雲のように胸中に湧くのを抑えられず、素朴な疑問を当時のブログに書いた。

その時の疑問を整理すると次のようになる。

①日本軍の残虐性を象徴するような、「少女」に暴行を加え失明までさせるという沖縄紙にとってオイシイ事件を、地元紙は何ゆえこれまで報じてこなかったのか。

②琉球新報は、このような悲劇の主人公とインタビューをしておきながら、何故大城氏に一回も沖縄で講演をさせず返しているのか。
 
大城氏が講演経験のない人ならともかく、彼は沖縄以外の本土各県ではそれまで23年間に1120回の講演会をこなしており、鹿児島と北海道以外はすべての地域で講演したという。

単純計算をしても1週間に1、2回の割で講演会を続けたことになり、大城氏はまさに、講演のプロである。

日本軍の残虐性を訴えるのに「うつろな目の少女」の主人公の講演会ほど好適な企画はなかったはずだ。

ちなみに2007年8月25日付琉球新報の記事では「(取材時まで)23年間講演をしてきた」となっているが、大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』によると大城氏が講演を開始したのは1988年からであり、新報の取材時には20年間講演を続けてきたことになる。
大城氏は他にも多くのメディアの取材を受けているが、「オカッパ頭にした理由」など重要な部分の多くの証言に矛盾が見られる。

③このドラマチックな記事が、何故この種の報道では常に先頭をきって大騒ぎする沖縄タイムスにはスルーされ、琉球新報の特ダネのように報じられたのか。(沖縄タイムスは新報より4日も遅れた8月29日になって初めて報道している。)

■新たな疑惑が浮上■  

 「うつろなめの少女」の写真と講演をする現在の大城氏の写真を並べて見て、更に新たな疑惑が湧いてきた。

確かに講演をする現在の大城氏の右目は写真で見ても失明の様子が伺える。

だが、63年前の「少女」はカメラ目線で、焦点もしっかりしていて、とても右目に失明を伴う重症を受けているとは見て取れない。

果たして米軍のカメラに撮られた「うつろな目の少女」は大城盛俊その人なのか。 

沖縄は出版の盛な県であり、特に沖縄戦に関する本は、専門の作家やジャーナリストもおれば、歴史研究と作家の二足のわらじを履く人もいるくらいで、話題性のある逸話は必ずといっていいほど自著か、そうでなければ学者や作家の筆により出版されるのが普通である。

例えば沖縄戦の写真で、もう一人の有名な「白旗の少女」は、地元ジャーナリストと版画作家により絵本になり、さらにそれを基にしてアニメ映画が作られているほど。

そして絵本には、白旗の少女を盾にした醜い日本兵がついて来たという意味の一文が加えられて、日本兵に対する憎悪を煽って「平和教育」の目玉になっている。

前述したように、「うつろな目の少女」は、ベストセラー写真集の表紙を飾り、日本軍の暴行で失明したというストーリーなど、「白旗の少女」以上のインパクトを持つる写真である。

しかし、不思議なことに本人の自著は勿論、普通ならこの種の証言に飛びついてきた沖縄のメディアも、「沖縄戦研究家」たちも、この「少女」をテーマに出版したという形跡が見当たらなかった。

そんな中、上羽修著『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』(株式会社草の根出版社発行1999年)が、大城氏に触れていることを知った。
 
著者の上羽氏は1996年から翌年にかけて約半年間沖縄に滞在して沖縄戦を取材し、その中で、大城さんの体験談を取り上げている。

同書には大城少年に関して次のような記述がある。

<1944年夏ごろ、大城さんが玉城国民学校5年生(12歳)のとき、「これまで見たこともない大きな軍艦が横付けされ、その中からトラックや戦車が吐き出されるのを見て、みんなびっくりしました」それから村は急にあわただしくなった。4年生以上の児童は陣地構築に動員され、石や土を運ばされた。もう授業どころではなかった。女性も部隊の炊事や洗濯をさせられた。兵舎を前もって建てずにやってきた日本軍は、学校や大きな家に兵隊を分宿させた。大城少年は村会議員のおじさん夫婦と三人で暮らしていたが、家が大きいので兵隊に座敷を提供して、三人は炊事場で寝起きした。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)>

「うつろな目の少女」が米兵に撮影される一年前の1944年には、大城少年は玉城国民学校5年生(12歳)で、4年生以上は陣地構築にかり出され、女性も炊事洗濯させられていたという事実がこの記述で分かる。つまり写真を撮られた時、大城少年は13歳になっており、男の子なら戦地に引っぱりだされ伝令や道案内をさせられても当時は不自然ではなかったのだ。これは神戸新聞の「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて.」という記事とも符合する。 
更に同書で「少女」が日本兵の暴行を受ける場面が出てくる。少し長くなるが引用する。

■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■

<アメリカ軍が沖縄本島中部へ上陸すると、玉城村にいた日本軍はいったん首里のほうへ移動した。
「まもなく首里が攻められると、兵隊たちは自分の命を守るため一生懸命逃げ帰ってきました。鉄砲も持たない兵隊は持っていても杖がわりにした兵隊が村にきて、壕を探しはじめたんです」 
とうとう大城さんの壕へも5人ほどの兵隊がきた。
「ここは軍の陣地にするから民間人は出ろ」こう命令し、村びとをみんな追い出した。おじさんは炊事道具と着替えを、おばさんは味噌や塩などを、大城少年は米の入ったリュックサックを背負い、玉城城跡の南側にあった小さな自然壕へ移った。
6月に入って、この壕へも兵隊が5、6人あらわれた。
「なんだ、お前は男の子か」
兵隊は大城少年の顔を見て不信の声を上げた。
オカッパ頭だったからだ。中国戦線で日本軍の暴行を見てきたおじさんが、大城少年にも暴行をふるわないように女の子の格好をさせていたのだ。
「食べ物があったら、よこせ」  
兵隊は壕の中を引っ掻きまわした。大城少年はリュックを見つけられてはたいへんと、サッと引き寄せるところを見つかってしまった。 兵隊が引ったくろうとするのを必死にしがみついた。
「この野郎、殺したろか、沖縄人め!」

大城少年が殴られるのを見て村びとが騒いだので、兵隊は大城少年をリュックごと壕の外へ連れ出し、さんざん殴り、大きな軍靴で踏みつけた。大城少年は意識を失った。気づいたときには頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。二世が大城少年のけがをみて「これはひどい」と知念村志喜屋収容所に連れていった。そこで撮られた写真が「うつろな目の少女」である。ていねいに、治療されたが、視力と歩行は元に戻らなかった。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)>

 


 
あらためて『これは沖縄戦だ』に掲載の「少女」の写真と上記引用文の大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較して検証してみた。

写真には「傷つき血みどろになった少女」とのキャプションが付いている。オカッパ頭の少女は着衣が黒く汚れているが、「血みどろ」という説明がなければ「泥まみれ」とも見て取れる。

細紐で首に右手を掛けているので、右肩が脱臼しているようには見えるが、顔や手足の露出部分に怪我や傷の痕跡はない。

写真撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。少なくとも目の周辺に怪我らしい痕跡は見当たらない。

ここで写真の「少女」の目と大城氏が説明する目の怪我の状況に大きな矛盾が生じてくる。

怪我は日本兵の暴行により目が腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。

その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院での治療がどのようにていねいであったか知る術はないが、ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。 

もっと決定的な矛盾がある。

前述した大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』(クリエイティブ21 2007年)には、こう書いてある。

<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが>と

これは、大田氏が大城氏を取材してまとめた記事である。

ところで、2003年8月16日付「神戸新聞」で、大城氏は記者の質問にこう答えている。

<―体験を語るきっかけになったのは、約二十年前に新聞に「うつろな目の少女」として掲載された大城さんの写真だった
 「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて。それで、ガマに避難しているときに、日本兵がやってきて、砂糖を奪おうとした。抵抗したら『貴様は女の子かと思ったら男か。生意気だ』と、意識を失うまで殴られ、けられて全身血だらけになった。その後、今度は米兵がきて『何もしないから出てきなさい』といった。恐る恐る外へ出て、生まれて初めてもらったチョコレートを銀紙ごと食べてしまい、吐き出した。それから軍の診療所に連れていかれ、治療を待つ間に撮られたのがあの写真だ」>

米軍診療所で治療を受ける前であったとすれば、眼帯をつけられる前の写真と言えるが、その眼帯を一カ月もつけるほどの大ケガをしている目とは到底見えない。

これらをまとめれば、大城氏が全くの虚偽を語っているのか、「うつろな少女」が大城氏ではない、という結論となる。

大城氏が右目を失明した原因が戦時中の日本兵から受けた傷のせいだという主張さえ、疑念が生じてくる。

 続く

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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  ■却下された「援護法」適用■

オカッパ頭の大城少年は捕虜収容所の診療所で傷の手当てを受けた後、米軍病院に一週間ほど入院させられ右肩の脱臼や眼の治療などを受け養父母との再会も果たすことになる。


続・女装の少年の謎ー歴史資料館も知らないエピソード

2009-04-10 06:21:52 | オカッパの少年
     
沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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「うつろな目の少女」として夙に知られた写真の少女の正体が、

実は女装した大城盛俊氏だ、と報じた琉球新報の記事に衝撃を受けた。

だが沖縄出身で長年沖縄に在住する筆者が何よりも驚いたのは、この手のニュースには過敏に反応するはずの沖縄紙が戦後60数年間もこんなオイシイ話を見逃してきた事実である。

大城氏が自分の体験を語るのを好まず、そのときまで沈黙を守っていたのなら納得もできる。

だが、大城氏は全国を行脚して千数百回にも及ぶ講演会行っている講演会のプロではないか。

それに大城氏が写真の少女が自分であると知ったのは、二十年以上も前のことである。

更に、不謹慎ながら、新報記事を見てとんでもない誤読をしてしまったことが驚きに輪ををかけた。

戦時中に鬼畜米兵の毒牙を免れるため女性が断髪し男装したとは沖縄では良く聞く話。

だが、「少女が髪を切って少年に化ける」のなら腑に落ちるのだが、その逆の大城氏の場合は筆者の理解を超えた。

髪の伸びる時間や技術的にいっても、丸刈りよりオカッパ頭の方が調髪は難しいはずだ。

それにこのような例は数ある沖縄戦の証言の中でも、後にも先にも、大城氏の話が初めてであると思われた。

記事を誤読したというのは、次のくだりである。

<当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。(琉球新報 2007年8月25日)>

冷静に読めば「男の子は兵隊にやられる」とは「兵隊に遣(や)られる」だと理解できるのだが、

二年前のその当時は「11万人」集会を目前に控え新聞は連日「悪逆非道の日本軍」という合言葉を表面に押し立てた大キャンペーンを張っている最中である。

筆者は恥ずかしながら記事中の「兵隊」という単語に脊髄反応してしまい、「男の子は兵隊にヤルられる」、つまり犯されると誤読してしまったのだ。

ということは沖縄に派遣された日本兵は揃って男色性癖のある「ホモ軍団」ということになる。

いくらなんでも日本軍を貶めるのに「ホモ集団」はないだろうと怒りを通り超して苦笑した。

まもなく誤読と判明するのだが、実際は大城氏は兵役の手伝いをされるのを避けるため少女に扮装していたのだ。

現在の感覚で言えば兵役を逃れるため大城少年をオカッパ頭の少女に仕立てた義父の心境はよく理解できるが、兵役忌避は例え少年といえども当時は恥ずべき行為とみなされる時代であった。

大城氏が、自分の故郷である沖縄本島での講演をさけるようにもっぱら本土を中心に講演している理由も、女装により「兵役忌避」したと言う負い目があったのではないか。

この兵役忌避は筆者の勝手な推量ではなく、本人が2005年8月11日放送の朝日放送の戦争特集「語りつぐ戦争」に登場して、オカッパ頭にした理由を、次のように証言している。

<女の子に変装したのには、理由がありました。

「お父さんは私に向かって、『兵隊たちは年齢に関係なしに連れて行くから、髪を伸ばしなさい』と…」>(http://webnews.asahi.co.jp/you/special/sengo.html 

 

   

 教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

2007年8月25日琉球新報

 <「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。>
                  ◇

■地元では知られていない「女装の少年」■

沖縄戦で米軍が撮影した膨大なフィルムが公開されてきたが、その中でも見る人の胸を打つ有名な二人の「少女」の写真がある。

「少女」の写真はそれぞれ大田昌秀著『写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版』の中に収録されているが、

その一枚が「白旗の少女」として知られる一枚で、他の一枚が「うつろ目の少女」の写真である。

「うつろな目の少女」は同書の表紙に使用されているだけでなく、冒頭第1頁でも「傷つき血みどろになった少女」とキャプション付きで掲載。

一冊の本で二度も大きく紹介されているので、同書を手にした者の目に必ず飛び込んでくる構成になっている。

同書は40万部を売る大ベストセラーになったせいか、この「少女」の写真は沖縄では良く知られた写真である。

だがこの少女が実は男の子であったということを知る人は、地元沖縄でも少ない。

実際、筆者の知人友人ら二十数人に尋ねてみたが、「少女」の写真は見たことはあってもその正体が少年であると知る者は一人もいなかった。 

■沖縄戦史資料館も知らない「少女」の秘密■

試しに沖縄戦の資料展示で「反軍姿勢」で知られる二つの歴史資料館を調べてみた。

激戦地のあった本島南部にある「具志頭村立歴史民俗資料館」の沖縄戦の資料展示コーナーは、ご多分にもれずお決まりの日本軍の残忍さとアメリカ人の人間性溢れる行為を強調した展示構成になっている。 

同コーナーの「村内の仮収容所(米軍指定)に集められた人たち」と題した写真展示の中に「うつろな目の少女」の写真が展示されているが、説明文は「傷の手当てを待つ少女」とだけしか記されてない。

「反日本軍」を訴えるには絶好のはずの「少女」の正体も記されていなければ、「日本軍の暴行を避ける為のオカッパ頭の少年」とも記されていないのだ。   

 たまたま隣で見ていた地元出身の青年に「この少女は実は少年だよ」と話したが、信じてもらえなかった。 

「もしそうなら、何故事実を掲示してないのか」と反論され、返答に窮した。

「具志頭村立歴史民俗資料館」からそう遠くない場所にある「沖縄県立平和祈念資料館」といえば徹底した反日思想の展示で有名だ。

赤ん坊を抱く母親に銃剣を向ける人形まで展示して反軍思想を煽っているが、

不思議なことに、ここには「うつろな目の少女」の写真展示はない。 

見落としたかと思い、念のため受付の係員に尋ねたが、そもそも「うつろな目の少女」を知らなかった。

学芸員と称する専門家に聞いても、最初は「うつろな目の少女」が理解できず、大田元知事の著書の表紙に使われている写真だと説明してやっと理解してくれた。

だが、「少女」の正体が少年だったと話してもよく飲み込めない様子だった。

このように沖縄戦の資料を専門的に展示してある沖縄の代表的資料館でも「うつろな目の少女」の正体は少年だったという話は認識されていない。

筆者の友人知人が「少女」の写真は知ってはいるが、その正体をごく最近まで知らなくても無理はない話だ。

後に、大城氏は右目を日本兵の暴行により失明したとして「援護法」の適用申請したが却下されたという。

日本兵の暴行による失明は果たして事実なのか。

それよりも少女の正体が大城氏だという話そのものが事実なのだろうか。

「うつろの目の少女」のエピソードを追えば追うほど謎は深まってくる。

(続く) 

 

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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続・沖縄戦の女装の少年、地元紙も知らなかった女装の謎

2009-04-06 07:40:04 | オカッパの少年

 

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沖縄戦の女装の少年、地元紙も知らなかった女装の謎の続編です。

                 *

2005年の沖縄タイムスの大城氏へのインタビュー記事には、戦時中大城氏が日本兵に失明を伴う暴行を受けた恨み辛みが記されていた。

だが、暴行を受けたとき大城少年がオカッパ頭で女装していたことには触れていない。

その三年後の沖縄タイムスのインタビュー記事でやっと女の子に化けていたことに触れている。

沖縄タイムス 2008年8月29日

連載「教科書改ざん ただす」(6)

第1部 体験者
大城盛俊さん(75)“うつろな目の少女” (8月29日朝刊社会面)
傷癒えぬ県民 怒るべき

 「『集団自決』も日本軍による住民虐殺。自分自身や祖父母、親が受けた戦争体験が消されようとしている。県民はもっと怒るべきだ」

 日本兵から受けた暴行、食料の略奪、そして右目の失明—。旧玉城村出身で、米軍撮影の“うつろな目の少女”の写真で知られる兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)は六十二年前の体験を振り返り、怒りで声を震わせた。

 一九四五年五月末、当時十二歳の大城さんは、戦火を逃れ、玉城村のガマに家族や地域住民ら約三百人と隠れていた。そこに銃を持った六人の日本兵が現れ暴行された。リュックサックに残されたわずかな食料を奪おうとした日本兵に「これは渡せない」と拒んだためだった。

 ガマの外に引きずり出され、軍靴でけられ素手で殴られた。意識がもうろうとする中、さらに無理やり立たされて暴行を受けた。充血した右目は腫れ上がり、右肩は脱臼、瀕死の重傷だった。捕虜になり、米軍の治療を受けて傷は癒えたが、右目の視力は回復しなかった。戦後、別々に逃げていた母がスパイ容疑で射殺されたことも聞かされた。

 「軍は国を守っても住民は守らず、殺害した。当時は敵に見つかったら男は戦車でひき殺され、女は強姦されると言い聞かされてきた。『集団自決』の犠牲者も自らの意思で死んだわけではない。死に追い込んだのは日本兵だ」

 大城さんも敵に捕まることを恐れた。伯父から「女の子に成りすましたほうがいい」と言われ、おかっぱ頭になった。診療所で米軍に撮影された写真は後に沖縄戦の本で使われ、教科書でも掲載されるようになった。

 その教科書から史実が消されようとしている。

 「県民大会の後は飛行機や船を総動員して大勢の県民代表を送り、政府や国会に直接抗議行動をするべきだ。黙っていることは歴史のうそを受け入れることであり、子どもたちにうそを教えることになる」と大城さんは訴える。

 現在、大城さんは修学旅行で沖縄を訪れる前の子どもたちの事前学習などで語り続けている。喉頭がんで声帯を失ったが人工声帯を付け、全国を回り、八五年から続ける講演は千百八十回を数える。「私は自らの体験を訴えて全国の人に沖縄戦の真実を語り続ける。県民も頑張ってほしい」(社会部・平良吉弥)

                  

太田昌秀著『これが沖縄戦だ」の表紙に使用され有名になった「うつろな目の少女」の写真はこれ。

 
1945.6月
   

 どう見ても戦渦にほんろうされるいたいけない少女の写真だが、実は日本全国で沖縄戦の講演行脚をする大城盛俊氏の女装姿であった。

この衝撃的ニュースは、上記沖縄タイムス記事の一年前、琉球新報によって沖縄メディアとしては(筆者の知る限り)、初めて報じられた。

それがこれ。

教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

2007年8月25日琉球新報

「沖縄がいつまでもバカにされたままでいいのか。沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴える大城盛俊さん=那覇市天久の琉球新報社

 「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。24日、琉球新報社を訪れた大城さんは、史実を歪める教科書検定の動きに「教科書が嘘(うそ)をついて、その嘘を教えられた子どもたちが大きくなったらどうなるのか」と懸念し、憤りで声を震わせた。
 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。
 大城さんは、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸後に家族と玉城村のガマ(壕)に避難したときのことを鮮明に記憶している。そこには200―300人の住民がいた。5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。
 数日後、大城さんは米兵に助けられた。同写真は診療所の前で撮影された。(略)
 (深沢友紀)

                   ◇

この記事を見て驚いた素直な感想を、当時のブログに書いたのがこれ。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

同じような衝撃が全国を走ったようで、翌2008年2月には朝日新聞がこれを報じた。

それがこれ。↓

ニッポン人脈記/沖縄の「少女」 これは僕

朝日新聞 2008年02月01日

 1枚の写真が大田昌秀(82)の目をくぎ付けにした。

 おかっぱ頭の少女が血まみれで座りこみ、うつろな目をカメラに向けている。あの沖縄戦のなかを逃げまどったのだろう。

 大田は学生時代、鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員され、大勢の友を失った。戦後、琉球大学で教壇に立ち、米国の公文書館などで沖縄戦の資料を集める。

 そこでみつけた写真を「うつろな目の少女」と名づけ、本の表紙に使った。琉球新報に書いた連載をまとめ、77年に出した記録写真集『これが沖縄戦だ』である。

 与那原町でクリーニング店を営んでいた大城盛俊(75)は、この写真を84年に見る。内臓病で入院中、隣のベッドの患者が広げた地元紙にのっていた。

 その新聞をもらい、タクシーで新聞社に駆けつけ、大田の自宅を聞く。けげんな顔で玄関にあらわれた大田に紙面をつきつけた。

 「これは僕です」

 「でもあんた、男じゃないか」

   *

 大城は沖縄戦当時、12歳。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」と案じた父のいいつけで、女の子のように髪を伸ばしていた。

 だが、なりすましてもムダだった。島がまるごと戦場になった45年6月、家族の食料を奪おうとした日本兵にとりすがる。「生意気だ。反抗するのか」。ひそんでいた壕からひき出された。こっぴどく殴られ、けられ、気を失う。右腕は脱臼、右目は失明。右足にいまも障害が残る。

 大田がみつけた写真は、米軍につかまった大城が治療されている時に撮られたものだった。「あんた、生きていたのか……」。大田は泣きだした。大城も涙する。ふたりはかたく抱きあった。

 大城は、沖縄戦の悲惨を語りつぐ「語り部」になった。全国の学校や平和団体を訪ね、1200回を超す。喉頭がんの手術をして22年前から人工発声器をつかう。低く聞きとりにくい声。生徒たちは息をころして聴き入る。

 「日本軍は『お前ら、アメリカにつかまるとスパイになるんだろう』と住民に手投げ弾を渡した。壕から出るときも、子どもを先頭に立たせて盾にした。沖縄の住民の敵は日本軍だったんです。そういう戦争を知らない人が歴史の教科書を書いている。情けない」(略)

                   

戦争に翻弄される少女の写真と思ったのが、名乗り出た人物が75歳の老人だったという衝撃もさることながら、「残虐非道な日本軍」というオイシイ話を喧伝するには絶好の大城氏の証言を、沖縄マスコミが戦後60数年も放置していたのは何故か。
 
大城氏が太田氏を訪ねて名乗り出たのは20数年も前の1984年ではないか。
 
しかも大城氏は沖縄戦の語り部として千数百回にも及ぶ講演会で全国行脚をする講演会のプロである。
 
一昨年の琉球新報の特ダネと思われる記事の後も、沖縄紙は「うつろな目の少女」のエピソードには何故か及び腰であり、その後も沖縄本島での講演会は一度も行っていない。
 

2008年6月、大城氏は沖縄での最後の講演会を石垣市で行い、長年の講演会活動を、翌2009年の3月で終了するとした。

何ゆえ大城氏は長年の講演会活動を沖縄本島で行わなかったのか。

激戦地のある沖縄本島南部地域は大城氏の故郷ではなかったか。
 

日本兵が暴行、右目失明 表紙の「少女」大城さん、沖縄戦を語る 2008年6月22日

日本軍の暴行や虐殺を静かな怒りで語る大城盛俊さん=21日、石垣市民会館中ホール