狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「援護法の解釈」厚生省に引き継がれた「特別のご高配」

2022-12-31 12:58:35 | ●●沖縄の黒歴史
 
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大弦小弦

[大弦小弦]「島守の塔」を見る

2022年8月15日 07:21

 公人を評価する軸は、業績か人柄か。公開中の映画「島守の塔」は、そんな問いを生む。沖縄戦に協力した島田叡知事と荒井退造警察部長の苦渋を描く

 ▼北部疎開という棄民政策を進め、学徒を戦場に送った2人の内務官僚は人格者だった。同様に、日本軍の牛島満司令官も「温厚篤実」と評された。では、牛島を「いい人」とたたえる映画は成立するか。人柄は責任を洗い流さない

 ▼映画化は荒井の地元栃木県の下野新聞社と、島田の地元兵庫県の神戸新聞社が呼びかけた。2人は郷土で「偉人」とも呼ばれる

 ▼製作委員会には沖縄タイムス社と琉球新報社も参加した。作品は沖縄の人々が身をもって知った「軍隊は住民を守らない」事実も伝えるが、全体の基調は「戦場に咲いたヒューマニズム」。結果、日本の加害、沖縄の被害という構図はぼやけた

 ▼監督は「沖縄戦を知るきっかけに」と話す。学ぶ目的を、考えてみる。お年寄りが、身を削るように体験を語ってくれた理由を。それは次の戦争を止めるためではなかったか。止めるためには、惨劇が起きた原因の解明が欠かせない

 ▼劇中、うそだらけの新聞発行を終えた記者が言う。「次に新聞を作る時は、戦争の事を、何が起きたかを、本当の事を、報道したい」。負の系譜の末端に連なる者として、責任のありかを問い続ける。阿部岳

 

GHQの東京裁判史観にからめとられた沖縄タイムスは、『鉄の暴風』が説く「残虐非道なに日本軍」というイデオロギーを脱皮できず、現在でも日本軍極悪説を主張し続けている。

中国の工作員と噂の高い阿部岳記者は、『鉄の暴風』の初版の「まえがき」に記載された「人道的な米軍」を今でも信じているのだろうか。

以下過去ブログの再掲です。

改訂版・沖縄戦、厚生省に引き継がれた「特別のご高配」(援護法の解釈)2019-08-23

沖縄の学童疎開船・対馬丸が米軍の魚雷を受け撃沈。8月22日で75周年になる。

今日23日の沖タイは一面トップを含む合計三面を使って大発狂である。

■一面トップ

対馬丸 鎮魂の祈り

撃沈75周年 慰霊祭に550人

■第二社会面トップ

幼い兄に平和誓う

島袋さん、自ら遺影を掲示

■社会面トップ

75年 癒えぬ悲しみ

「戦いは絶対許せない」

対馬丸慰霊祭 生存者ら継承誓う

沖縄戦対馬丸撃沈の記憶の継承という建前に異論はない。

だが、沖縄メディアが沖縄戦を語るとき、他県には見られない特徴がある。

あたかも沖縄戦は日本軍と沖縄住民の戦いだったかのような論調で「残虐非道な日本軍」を執拗に告発するのだ。

対馬丸を撃沈したのは米軍の潜水艦であり、日本軍ではない。

明らかに米軍による民間人虐殺だ。 沖縄タイムス編著『鉄の暴風』が説く「人道的米軍」とは対極のジェノサイドだ。

しかし、沖縄2紙が「対馬丸」を報じるときは加害者はあたかも日本軍であるかのような印象報道をする。

曰く「食糧難の当時、口減らしのため学童を強制疎開させた、そのため多くの犠牲者が出た」という印象操作だ。

「石油の一滴は血の一滴」と言われた石油不足の戦時中、戦火を避けるための疎開を悪意に満ちた歪曲報道で県民を煽るのが沖縄2紙の常道だ。

その一方で敵の米軍は、沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだという印象報道。

沖縄国際大学名誉教授 石原昌家氏t

 沖縄の地上戦突入前、学童疎開は老幼婦女子の避難というより、(1)戦闘の邪魔にならないようにする(2)食料確保のための口減らし(3)明確に示されていないが次の戦闘員確保-という軍事的な戦略として行われた。背景に1937年、日中戦争の本格化の中で改正された軍機保護法がある

 

■援護法と歴史捏造

沖縄戦の真実を追究するといつも行く手に立ちふさがる大きな壁に行き当たる。

「援護法」のことだ。

本来軍人・軍属にしか適用できない同法を当時の厚生省が「拡大解釈」で無理やり沖縄の民間人に適用した。

その善意が逆に「残虐非道な日本軍」と言う神話を捏造した。 軍の命令による民間人の戦争被害は準軍属扱いで同法の適用可としたのだ。 「壕を追い出した」のも日本軍の命令であり、「食糧強奪」も日本軍の命令と政府は「指導」した。

その結果沖縄だけは民間人も援護法の適用を受けるという恩恵に浴した。 

「沖縄県民かく戦えり」で知られる大田海軍司令官が、「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ長い電文は沖縄県民の奮闘をを知る故に、沖縄に対する深い敬愛や同情もあってのことと思われる。

沖縄戦史が歪曲・捏造された原因が「援護法」の「拡大解釈」にあることは、少しでも援護法と沖縄戦の関係を知るものにとってはよく知られた事実である。

「援護法と歴史捏造」について触れた過去記事から選んで引用する。

           ★

「援護法」と「特段の配慮」のカラクリ

2008-06-06

 63年前の昭和20年6月6日。

大田実海軍少将は、沖縄県南部の海軍濠から長文の電文を海軍省に送った。

そして、その最後を次のように結んだ。

「太田中将 電文」の画像検索結果

<沖縄県民斯く戦えり。

県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。>

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手の多田武雄海軍次官は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して打電後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 

これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍であることは間違いのない事実。

ところが何故か、戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の艦砲射撃で県民を爆撃した下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住民を日本人から分断する占領方針から、沖縄住民には「優しく」対応するように努めていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、年寄りや子供に手を差し伸べる優しい米兵の顔だけしか見ていない。

艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさせ、住民を無差別殺戮し、学童輸送船を撃沈させた米兵のもう一つの酷薄な顔を見ていないのだ。

一方、沖縄県民を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態を晒した敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵、と言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍。

「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

参考⇒県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

                  *

「沖縄戦 援護法 集団自決」の画像検索結果

 

■厚生省に引き継がれた「特別のご高配」

大田少将の電文の遺言ともいえる「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」は、厚生省に引き継がれ、

「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」

と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。

意味は全く違うが、最近でもこんな例もある。

「沖縄に特段の配慮」 唯一県名挙げる 国民保護方針(2005.3.27)

                      ◇

■「特段の配慮」による「援護法」の民間適用■

大田少将の遺言は、厚生省の本来軍人対象の「援護法」を沖縄住民へ適用するという形で姿をあらわす。

日本政府は「1952年(昭和27年)6月、米軍占領下の沖縄に政府出先機関である南方連絡事務所を設置する。 今でいえば沖縄開発庁の先駆けのようのものである。

そして教職員組合と遺族会の強力な後押しによって、琉球政府でも翌53年4月に援護課を設け、援護法と恩給法に基づく復員処理事務に着手することになる。 

54年には琉球政府職員照屋昇雄さんが援護課に異動配属となっている。

慶良間島の「集団自決」に関しても、村役場の総務課が地元の窓口となり、総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走する。

「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。

■「軍命」の持つ意味の変化■

「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。

「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、

それまでの「軍命」は、「援護法」のための口裏あわせというより、親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や贖罪意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。

つまり生き残った者が、死んだ相手や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。

少なくとも、当時の座間味村助役の山城安次郎氏が、「渡嘉敷島の赤松の暴状」を訴えて沖縄タイムス大田記者の取材を受けた昭和25年前後には、

「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。

ところが、琉球政府援護課や村役場の担当課が、厚生省援護課と交渉していく過程で「集団自決」の「軍命」は別の意味を持つようになる。

元来「援護法」は「復員処理」の目的があり、対象者は戦地での戦死者か外地からの引揚げ者で、しかも対象は軍人・軍属と限られていた。

そこで琉球政府援護課と村役場が、地上戦が行われ戦場となった沖縄に「特別の配慮」をするようにとの運動を展開する。

だがこれには問題が生じてきた。

たとえば、本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならず、沖縄の一般住民に「特別の配慮」をした場合の齟齬が問題になったのだ。

日本政府は「政令」を連発するという非常手段でこれを乗り切った。

政令とは、行政府の命令のひとつで内閣が制定する成文法のことで、行政機関が制定する成文法である命令の中では優劣関係で最も高い位置づけになる。

日本政府は復員事務を処理する必要から、沖縄本島を中心とする南西諸島は政令で「戦地」と認定した。

元々軍人・軍属を対象にした「援護法」を沖縄の民間人に適用させるために政令を連発したが、それでも足りない場合は「援護法」の拡大解釈を行った。

一例を挙げると、地理に不案内な軍に道案内をした場合でも、結果的にその住民が戦死しておれば、「軍命」とされ「準軍属」扱いで遺族は年金の対象になった。

軍の命令というお墨付きが付けば「集団自決」は勿論のこと、他にも「食料供出」や「漁労勤務」という名目でも「準軍属」扱いとなった。

かくして、1983年には軍の命令が理解されるとは思われない0歳児から6歳までの幼児も「準軍属」扱いとされるようになる。

 ■宮村幸延総務課長の奔走■

座間味島の助役で、事実上「集団自決」を命令したとされる宮里盛秀氏の弟で、戦後村の総務課長として「援護法」の適用に奔走した宮村幸延氏は、この0歳児以下の適用に功績があったとして村で表彰されている。

ちなみに宮村氏は梅澤元隊長に「侘び状」を書いていながら「酔わされて書いた」として前言を翻した人物である。

また、昨年の法廷尋問のわずか一ヶ月前に証言して、宮城晴美氏の考えを変えた宮平春子氏は宮里盛秀、宮村幸延両氏の妹である。

「集団自決」に「軍命があった」ということは「事実の如何」を問わず、戦後の村にとっては、どうしても押し通せねばならぬ真実を超越した、必要欠くべからざる「証言」であった。

宮平春子氏の証言「動画」
⇒ 『日本軍の強制による集団自決 はあった!』証言2.3.4

 

■本土と沖縄の齟齬■

本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならなかった。

一方、沖縄の一般住民は「特別の配慮」で援護法の対象になった。

静岡県浜松市在住の上原宏日本戦災遺族会理事長は、本土における一般戦災者に補償がない点を、

沖縄タイムスの取材に答えて次のように語っている。

[戦闘参加者とは誰か](18) 
日本戦災遺族会 
一般戦災者に補償なし 
被害の規模が実現阻む

太平洋戦争で、日本の各都市が空襲に襲われ、一般被災者約五十万人が犠牲になったとされる。その補償を求めて、一九六六年に「全国戦災死没者遺族会連合会」が結成された。七七年には「日本戦災遺族会」と名称を変更、事務局を東京都千代田区に置き、現在全国二十地域に約二千人の会員がいる。 
 理事長の上原宏さん(84)=静岡県浜松市=は、浜松市戦災遺族会の会長を務める。 
 浜松市は、多数の軍需工場や軍施設が集中していたため、米軍の空襲が反復して行われ、約三千五百人もの死者が出た。上原さんは、この空襲で女学校二年生だった妹を自宅の防空壕で亡くしている。「空襲は、非戦闘員を狙った消滅作戦だった」と憤る。 
 一般被災者の場合、戦時中は「戦時災害保護法」で、住宅焼失は三百五十円、負傷は治療全額補償がなされていた。ところが、戦後、一般被災者への補償はなされていない。日本の戦災補償は、軍人軍属を補償した援護法が軸になってきたからだ。 
 援護法は、国との雇用関係が前提。しかし、法運用の中で、対象の「軍人軍属」の枠は次第に拡大されてきた。五八年に沖縄戦の「戦闘参加者」、全国でも五九年「学徒動員」、六三年「内地勤務軍属」、六九年「防空監視隊員」など。 
 そうした流れから、上原さんは「最後に残ったのが一般戦災者だ」と強調する。「現状は、けがの状態から、障害福祉年金などを受けている。しかし、それはけが人としての補償である。戦争による同じ『死』でも、差があるのは納得いかない」 
 また、上原さんは「私は一般被災者は約八十万人とみている。空襲時の戦死だけでなく、その後に戦病死、戦傷死が続いたからだ」と指摘する。この一般被災者の被害の多さが、補償が実現しない要因でもある。 
 連合会の前身「全国戦災死没者遺族会連合会」の時代、戦災各都市での慰霊行事への国費支出、弔慰金支給を国会と自民党に要望した。しかし一般被災者への弔慰金支給は実現していない。 
 連合会が七七年に社団法人化した時に、一般戦災者の戦災実態の調査研究、慰霊行事や慰霊碑の管理などを主に掲げ、補償要求は掲げることはなかった。 
 届かない補償要求。上原さんらが、力を入れているのは、戦争体験の継承だ。自らも、満州(中国東北部)、フィリピンの従軍、マニラへ向かう途中撃沈され、仲間を失った体験を「語り部」として小学生に話してきた。「遺族は高齢化し、消えていく。私たちの体験を伝えるために、会員それぞれが語り部活動をやっている」 
 一方で、「浜松空襲で亡くなった妹のことはつらくて話せない」という。遺族が向かい合う悲しみは戦後六十年たっても、何も変わらない。「遺族は本当は、補償をしてほしい。戦後六十年の節目に、扶助と慰霊を同時にしてほしいんです」と訴える。(社会部・謝花直美)(2005年3月26日 沖縄タイムス)

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★続・沖縄戦での米兵の蛮行、『鉄の暴風』と米軍の呪縛続・

2022-12-31 09:11:15 | 資料保管庫

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続・『鉄の暴風』と米軍の呪縛2008-08-28

米民政府の職員で新聞記者としては素人同然だった太田良博氏が、沖縄タイムスに呼ばれて『鉄の暴風』の執筆を始めた。

『鉄の暴風』と米軍の呪縛


 では、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責を委ねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
  当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強力な支援なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。

 昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。

 その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。 
 その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。

 
 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
  『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。

なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

 実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。

 彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。

 ところが、アメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

 その一方、米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。

戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」

『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。

著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。

沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、

攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。

これは歴史の皮肉である。

 

【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】

日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。

以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合や満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。

実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。

 

 


 では、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責を委ねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
  当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。

 昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。

 その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。 
 その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。

 
 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
  『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。

なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

 実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。

 彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。

 ところが、アメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

 その一方、米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。

≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)

『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。

著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。

沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、

攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。

これは歴史の皮肉である。

【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】

日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。

以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。

実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。

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ひろゆきの言う通りかもしれません。沖縄で世論誘導するマスコミの偏向報道。止めるには●●しかありません【ホリエモン,辺野古埋め立て『承認撤回』 最高裁判決に市民らが抗議 “敗訴”の判決による今後の影響は

2022-12-31 00:34:18 | 外交・安全保障
 

 

辺野古埋め立て『承認撤回』 最高裁判決に市民らが抗議 “敗訴”の判決による今後の影響は

 

【大問題】ひろゆきの言う通りかもしれません。沖縄で世論誘導するマスコミの偏向報道。止めるには●●しかありません【ホリエモン,堀江

 

2022年12月29日

 

ホリエモン、自身の餃子店をディスられ怒り爆発『味を研究したと思えない“普通の餃子”』に「なんなの、お前?」

1 名前:muffin ★2022/12/29(木) 16:33:22.18ID:922diTdW9
画像12022年12月29日 16:06

堀江貴文氏(50)が29日までに自身のYouTubeチャンネルを更新。ユーチューバー・ヒカル(31)とタッグを組んだ東京・渋谷の餃子店「近未来餃子H」への“ディスリ”コメントに怒りをぶつける場面があった。

堀江氏は今年6月、ヒカルのYouTubeチャンネルにゲスト出演した際、20年に訪問した餃子店で、マスク着用を巡り定員と口論になり“炎上”した件を振り返った。「俺は本当に餃子が好きでさ。それで探して行ったら、めちゃ塩対応されてさ。超寂しいのよ」と語ると、ヒカルが「餃子やりましょうよ!マスク付けちゃいけない餃子屋ってどうですか?」と提案。この動画から約半年たち、餃子店をオープンした。

堀江氏は「そしたらね、なんかよく知らないヤツがディスリコメントを書いててさ。なんなの、お前って思ってさ」と眉をひそめる。「“餃子の皮と具の味を研究したとは思えない。“普通の餃子だった”とか言ってて。いや、だから普通にうまい餃子を作ってるのであってね。“こだわりの北海道産の小麦粉を使いました”とか、そんなのどうでもいいんだよ!」と、怒りをにじませていた。


https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/12/29/kiji/20221229s00041000316000c.html
96: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:50:01.73 ID:VfHYFTda0
>>1
野菜無しの餃子か 肉団子みたいだな

202: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 17:09:23.54 ID:x7SWf2hL0
>>1
すぐにむきになる小さな人間だから
からかわれてるだけでしょ

2: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:34:06.90 ID:HhFNd+U10
まあ野菜食って落ち着け

6: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:35:32.47 ID:CU0uad9K0
マスクしないで押し掛けよう

10: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:35:56.49 ID:8cHJj2JF0
>>6
そういうコンセプトの店だろ

30: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:39:33.47 ID:Q/t0EX980
野菜入りなら美味しそう

35: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:39:44.94 ID:rcY0Dnd90
怒りっぽいなら野菜を食べるのがいいかも

何事もバランスだし

4: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:35:00.02 ID:iA7zVuYB0
(本当は怒っていません)

37: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:39:48.89 ID:WN+UnK/P0
金持ち気取ってるのにいつも貧乏人と争ってるのが草

40: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:40:19.67 ID:ta6NqO9O0
ホリエモンも承認欲求のかたまりか

42: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:40:35.14 ID:8SzMptfh0
分かってるよ堀江
ここで切れて餃子店流行らせたいんだろ?
よく分かるよ堀江

70: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:45:59.33 ID:iObotKQ/0
プロレスかと思うほど過去の自分の発言が効いてるな
この界隈話題づくりならなんでもするからなあ

214: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 17:10:59.41 ID:gQP7Wbmh0
餃子界の因果応報

210: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 17:09:56.95 ID:eSlOl/S90
♪ブーメラン ブーメラン ブーメラン ブーメラン

87: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:49:04.19 ID:p8YfIUSi0
意味が解らん
自分で普通の餃子作ってるって言ってんだから
怒るとこでもディスられでも無いじゃん

コンセプト通りだなで良いじゃん
ホントコイツ頭沸いてるわ

99: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:50:08.30 ID:M9oZIo7s0
普通の味目指したというなら
評価者のレビューは正しいんじゃね?

110: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:51:20.50 ID:S4W/bvbS0
>>99
じゃあキレる必用ないなw

160: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 17:00:28.56 ID:cgeTeqbG0
餃子みたいな食べ物で肉汁したたるようなのが好きなら素直に小籠包あたり食っといたらいいよ

182: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 17:04:41.84 ID:ik4e8uKi0
普通の餃子か
じゃあ王将でいいや

185: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 17:05:13.16 ID:Zzi7L8b10
餃子の王将以上なんか、それ以下なのかが重要
餃子の王将でええやんてなる

126: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:53:46.07 ID:c2gWJVew0
変な店の名前
なに近未来餃子Hって

25: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:38:36.47 ID:IpmHXr6D0
自分は他人の餃子屋をファンネルに叩かせたくせに自分の餃子屋をディスられるのは許さないのか
なんだこいつ

26: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:39:09.74 ID:zJbvMN960
絶賛以外認めないなら向いてないよ

27: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:39:10.68 ID:cgeTeqbG0
ワンコインの和牛餃子
これで大ヒット間違いなしでっせ

63: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:44:53.89 ID:DBohTzQ90
普通に美味しい餃子の店をわざわざホリエとヒカルで出す理由とは

76: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:47:42.57 ID:BVjrfxyy0
普通の店専門店ぽく開いたって事か

77: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:48:00.80 ID:HaK40Fc30
客が感想を言ってはいけない飯屋って画期的やな。

81: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:48:32.29 ID:N9u0A8j40
飲食店なら食レポされて当然だろ

103: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:50:37.28 ID:CcBm9hDH0
ジジイはどうでもいいことですぐヒスるよな
炎上商法やろ

113: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:51:54.88 ID:IwIjOe6q0
怒り芸にシフト中なのか?

114: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:51:59.99 ID:5Bd6Q7QE0
どうしてもパッケージプロデュースで成功したいのだろうな
もうそれ無理だからと誰か教えてやれよ、あと名前出した時点でマイナスだよと

213: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 17:10:12.32 ID:CyI5H3Ws0
別にブチ切れとかじゃなくてホリエモンは普通に面白い話をしてるだけじゃんこれ

118: 名無しさん@恐縮です 2022/12/29(木) 16:52:45.85 ID:siw+9jax0
イーロンマスクは宇宙に行く

ホリエモンは餃子を焼く

w w w w w w w w w


元スレ: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1672299202/
 
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県、米須鉱山採掘を許可 業者、来月4日にも着手 戦没者遺骨土砂問題

2022-12-29 05:34:54 | 政治
 

がまふやー真面目に掘って評価され

骨の祟りで大発狂


 
糸満市米須の鉱山開発を巡る一連の流れ
糸満市米須の鉱山開発を巡る一連の流れ
全ての写真を見る 2枚
 

県、米須鉱山採掘を許可 業者、来月4日にも着手 戦没者遺骨土砂問題

 
2022年12月29日 5:00有料

 沖縄戦跡国定公園内にある糸満市米須での鉱山開発を巡り、県自然保護課は28日、新たな採掘行為届け出の書類を県に提出していた沖縄土石工業(永山盛也代表)に対し、書類に不備がないとして受理通知書を交付し、事実上採掘を許可した。同問題については、戦没者の遺骨が含まれる可能性のある土砂の採掘に懸念の声も上がっているが、自然公園法上、今月31日以降に採掘工事が可能になる。

(社会部・東江郁香)=2・27面に関連

 業者によると、関連の手続きが認められれば来年の1月4日に工事に着手するという。

 県は、糸満市が「沖縄戦で住民が利用した自然壕のシーガーアブを含む景観を事業者に守らせてほしい」などと要望する意見書の内容も考慮した上で書類を審査していた。審査期限は30日までだった。県自然保護課は「届け出の内容に反した行為があればその都度指導していく」としている。

 県の受理通知書交付を受け、永山代表は「土砂に遺骨が混じっている可能性を踏まえ、丁重に工事を進め、万が一遺骨が見つかれば和解案に沿って対応する」と強調。「景観の保全に努め、周辺環境にもできる限り配慮する」と本紙の取材に答えた。

 県は昨年5月、自然公園法に基づき「採掘開始前に遺骨の有無を関係機関と確認し、県へ報告、協議すること」などを業者側に課す措置命令を発出。業者側は不服として総務省の公害等調整委員会(公調委)に裁定を申し出て、命令の取り消しを求めた。

 県と業者側は今年7月、公調委が「工事の際に遺骨が発見された場合は、周囲半径5メートルの範囲で工事を2週間中止して戦没者遺骨収集情報センターなどによる調査や収集を認めること」などと提示した事実上の和解案に合意。今月1日には、業者が糸満市を通じて、自然公園法や和解案を基に作成した新たな採掘行為届け出を県に提出していた

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沈黙の謎 証言を阻む南の島の呪縛

2022-12-28 14:18:06 | ★集団自決

 

 

 

 

 

最も大きな障害は体験者の沈黙である■

沖縄戦、それも、特に「集団自決」の体験者の証言の聞き取り調査では、ある程度の話はしても肝心のポイントになると「多くを語らない」とか、場合によっては始めから沈黙を守る、とはよく聞く話である。

大城将保(嶋 津余志)元県立沖縄史料編集所主任編集員は、

その豊富な聞き取り調査の経験から、(真相解明の)「最も大きな障害は体験者の沈黙である」と断言する。

そして体験者のかたくな沈黙の理由をその著書『沖縄戦を考える』(ひるぎ社)の中で次のように分類している。

①あまりに残酷な目にあったために思い出すだに精神の苦痛に耐えられないという場合。 

②自分が真相を語れば関係者の誰かにめいわくが及ぶだろうと配慮している場合。 この場合共同体のタブーになっている場合が多い。

③遺族年金などとの関係で、すでに公式化された記録とくいちがう真相を語ると自分に不都合になる場合。

特定の思想信条の立場から、戦争の悲惨な側面を強調するのは好ましくないと考えている場合。

 

沖縄の新聞に登場する沖縄戦体験者の、

「多くを語りたがらなかった」といったフレーズは、

上記①の理由の「想いだすのも残酷だから」といった印象があるが、

真相に触れる重要なポイントでは、むしろ②と③が複雑に絡んで真相解明の障壁になっている。

これは、「軍命あり派」の大城氏も認めていることである。

「多くを語らなかった」どころか、事件当時村のリーダーであり、また島のリーダーの中の唯一の生存者でありながら、

自分の体験談を一切か語らなかった山城安次郎氏の言動は今でも謎に満ちて不可解だ。

山城氏の記録はネット上には、渡嘉敷島の「鬼の赤松」に関する伝聞証言のみで他には一切無い。

沖縄では普通のオジーオバーが長寿の記念等で「自伝」を出すひとも多く、「集団自決」関係者にも自決を指導したとされる座間味村助役宮里盛秀氏の父も自伝を出している。

ちなみに筆者の友人の母親も普通のオバーだが長寿のお祝いに自伝を出して親族一同に配ったという。(執筆・編集は長男があたった)

そんな沖縄の風潮の中で戦後沖縄のマスコミ業界を歩み、沖縄テレビの社長を務めたほどの著名人が「自伝」はおろか一冊の著書・共著も無く沈黙を守ったままなくなったのは不自然な話だ。

山城氏が沖縄テレビ社長に在任中に同社で勤務経験のある友人に同氏の印象を聞いてみた。

だが社長と一平社員では会話する機会もほとんど無く、唯一回だけ入社試験で社長自ら面接を行ったときの会話だけしか記憶に無いという。

その時は、「ロマンスグレーの温厚な紳士」といった印象だけで、勿論「参謀長」と呼ばれた男の面影は微塵も無かったという。

 

自由主義史観研究会機関紙『歴史と教育』(5月号)に掲載の拙文を下記に引用するが時間のある方は下記エントリーに目を通してから読んでいただくと幸いです。

「証言集」に見る新たな謎★教科書執筆者と体験者が初対面

「参謀長」と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

続・参謀長と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

「眼前の敵」 座間味で何があったか

悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

                     ◆

証言を阻む南の島の呪縛(『歴史と教育』6月号掲載記事)

狼魔人(沖縄在住ブロガー)
「狼魔人日記」

◆取材記者と取材対象者

ある事件の取材に奔走する新聞記者を、その事件の体験者が記事にしてくれと訪問してきた。記者にとってタナボタ式のこんなオイシイ話は滅多にないはずだ。しかも社を挙げてこの事件を単行本にするという。場合によっては、その体験者を中心にした特集を企画しても良いはずだ。ところがその体験者は、自分の体験は語らず類似の別の事件の伝聞情報のみ語った。結局出版された本には、この体験者の体験記は一行も記されることはなかった。

『鉄の暴風』取材中の沖縄タイムス大田記者と彼を訪問した当時の座間味村助役山城安次郎氏のことである。座間味島の集団自決が起きた当時、山城氏は座間味村の国民学校教頭をしており、校長や村の三役と並んで島のリーダーだった。当時の島のリーダーは山城氏を除いて全て集団自決で亡くなっていたので、その時山城氏は、集団自決前後の村の状況を最も知る人間だった。だが実際は『鉄の暴風』には山城氏の証言や彼に関する記述は一行も掲載されていない。折角の実体験者の訪問を受けて大田記者は「座間味の出来事」を何も取材しなかったのだろうか。獲物には貪欲なはずの新聞記者が、ネギを背負った鴨を前に、座間味での集団自決を取材しなかったというのはいかにも不自然だ。  

山城氏が取材を避けているのならともかく、自ら事件告発のため新聞社を訪問した山城氏が、自分の体験を一言も話さなかったのも、同じく不自然な話だ。とすると大田氏は記者魂を発揮して取材し、山城氏は体験談を詳しく話したと考えるのが自然だろう。

では何故大田記者は、山城氏の体験談を記事にしなかったのか。二人が既に亡くなった今となっては、推測に頼る以外に術はない。  


◆「軍の命令」という思惑  

沖縄を占領していた米軍は、沖縄を日本から分断して、永久占領を目論んでいた。そのため沖縄人宣撫のために発刊されたのが『鉄の暴風』であり、同書は米軍のプロパガンダの役目を担っていた。『鉄の暴風』に山城氏の体験談が記載されなかったのは、太田氏と山城氏の夫々の思惑が合致したからではないか。その思惑は、更に次の三つの思惑に分けられる。    

〈米軍の思惑〉  
米軍にとって、山城氏の体験談を記載することは、「残虐な日本軍」の印象を県民に植え付けるのが目的の『鉄の暴風』の主旨にそぐわなかった。  

〈島の思惑〉  
戦後、村の助役として戦後補償に奔走したとされる山城氏は、「援護法」を集団自決の犠牲者全てに適用させたかったが、実際は軍命令ではなく村のリーダーのパニックによる誘導が原因だった。
 
〈加害者と被害者の思惑〉
集団自決といっても、座間味島の場合、手榴弾による自決者は暴発による犠牲者が数名だけで、他は農具等による殺し合いが主であり、自決を「手伝った人」も多くいた。そして生存者の中には、自らが被害者であり、また、加害者の立場に立たされた人が多くいた。  

この三つの思惑を見事に一致させる唯一のキーワードが「軍の命令」である。「軍の命令」さえあれば、自決の「手伝い」をした生存者は、贖罪意識のいくらかは救われる。そして現実的な問題として、「援護法」を自決した住民へ適用させるという思惑と、米軍の『鉄の暴風』発刊への強力な思惑が一致して、山城氏の体験証言は、以後、永久に闇に葬られることになる。  

山城氏はその後、島を出て、新聞社編集長を経て、テレビ会社に入社し、マスコミ業界を歩みつづけ、沖縄テレビの社長にまで上り詰めるが、大田記者とどのような約束があったのか、彼は一切自分の体験を語ることはなかった。  

ここに「残虐非道な日本軍の命令による集団自決」という神話が誕生する。「軍の命令」さえあれば、八方丸く納まったのだ。  


◆死亡広告は血縁社会の象徴

沖縄では沖縄タイムス、琉球新報の両紙が読者を二分している。地元紙の極端な偏向記事をブログネタにさせてもらっているが、地元の読者から次のようなコメントを何度か頂いた。

「死亡広告さえなければ、偏向した地元紙の購読は即刻やめるのだが…」

新聞の死亡広告は、沖縄県民の人間付き合いには、不可欠のもので、これだけは毎朝欠かさず目を通すという人もいる。沖縄の地元新聞を初めて見る他県人は、一面または、日によっては、二面にまたがる死亡広告欄に度肝を抜かれる。

常識に従うなら、死亡広告とは、故人がその地方で社会的に知名度が高く、特に交際範囲が広い場合に、新聞に掲載するもの。ところが沖縄の死亡広告は、本土のそれとは趣を異にする。

沖縄では、ごく一般の県民の死亡広告が、連日紙面を大きく占拠する。しかも本土紙の「訃報」記事とは異なり、故人の生前の業績等には一切触れず、故人の親戚縁者の名前を孫から曾孫、従弟、従妹そして義兄弟に至るまで詳細に記載する。親戚縁者は沖縄に留まらず千葉在、ハワイ在と世界中に在住する縁者の名前にも及ぶ。死亡広告に記される親類縁者の名前が、百人に及んでも、沖縄ではけっして珍しいことではない。死亡広告は、沖縄の濃密な血縁社会と人間の絆を示す象徴である。

濃密な人間の絆は、祖先を大事にする沖縄独特の風習であり、それに基づく相互扶助の精神は、「結いまーる」といった形で現在も残っている。

だが濃密な血縁社会の絆も、大事件に遭遇すると人々の判断を大きく狂わす場合がある。周辺を海で囲まれた沖縄の県民性は、現在では一見陽気な印象を受けるが、古い世代の県民性は、逆に内向的とされており、特に外部の人には閉鎖的になることが多かった。沖縄の離島の村落では更にその傾向が強く、血縁・地縁・職縁が渾然一体となり、島全体に閉塞的な空気を作り出す。  

沖縄人は、他県人に比べて、年寄りを大事にするといわれるが、戦前の沖縄では、年寄りは、地域社会の長老として大きな発言権を持ち、重要な決定事項には長老の意見が大きく反映された。  

リーダーの意思決定に異を唱えるものや遵守しない者に対しては、本人や肉親、更に関わった者まで異端視される。集団自決は、そんな沖縄の、渡嘉敷と座間味の両島で起きた悲劇である。そして村長を筆頭に村のリーダーが、集団自決の意思決定に大きく関わった。  

野生動物でも人間でも、大事件に遭遇しパニックになった集団のリーダーは、往々にして判断を誤る。座間味、渡嘉敷島の集団自決では、周囲を敵艦船に包囲され袋のネズミ状態に直面した村のリーダーの意思決定がとんでもない方向に向かった。そして誰もこれに逆らうことが出来なかった。


◆宮城初枝氏の口を塞ぐ島の呪縛

座間味島の集団自決の生き残りである宮城初枝氏は、証人として「援護法」の調査に来た厚生省の役人の調査に臨む前に、村の長老から脅迫的圧力を受け、「軍の命令」を証言する。  

その証言と自分の書いた「軍の命令」の手記が、梅澤隊長の運命を狂わしたことを知り、血縁社会の呪縛と真実の狭間で初枝氏は悩み葛藤する。『家の光』に虚偽の手記を書いてから数十年後の昭和55年、初枝氏は梅澤氏への贖罪意識から梅澤氏に面会し、「あなたが命令したのではありません」と真実を告白した。


◆更なる悲劇の登場

初枝氏は梅澤氏への真実の告白に留まらず、改めて事実を記した手記を出版することで、流布する「梅澤命令説」を覆そうとした。村の長老の脅迫的とも言える地域社会の呪縛を直に経験した初枝氏は、戦後生まれで村のしがらみにはとらわれないと思われた娘晴美に、真実を書き綴った一冊のノートを託す。  

晴美氏は、母の死後『母の遺したもの』を出版することになるが、それにより新たな悲劇が晴美氏を襲うことになる。戦後も〈当事者〉の親族に絡みついてくる悲劇の島の呪縛である。  

「軍の命令による自決」という虚構が、軍への協力という名目で戦後の村を潤していた。軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満から零歳児の戦没者まで、「軍の命令」による死亡として「準軍属」とみなされ、年金の対象とされていたのだ。  

当然のごとく晴美氏は、島の関係者から猛烈なバッシングを受けた。血縁社会の島では、〈当事者〉遺族が年金の恩恵を受けており、そのしがらみは、「偽証言」に関わった初枝氏や村の長老に留まらず、村の年金担当課長にまで及んでいた。  

島ぐるみで守ってきた「島の秘密」を、『母の遺したもの』で暴露され、晴美氏へのバッシングは激しさを増し、「年金が差し止められたら晴美氏が補償してくれるか」との声もあったと聞く。


◆左翼勢力の呪縛

晴美氏の悲劇は、母から引き継いだ呪縛だけではなかった。日本復帰後、急速に台頭してきた沖縄左翼勢力の呪縛である。戦後生まれの晴美氏は、地元の大学に進み左翼学者安仁屋政昭教授の薫陶を受け、地元の「プロ市民」になっていた。  
自著が大阪地裁の原告側証拠として提出されるや、被告側証人となった恩師との板ばさみという苦境に立たされることになる。晴美氏は母の遺言に反して被告側の証言台に立つことになるが、証言直後に『母の遺したもの』を書き変えるという恥ずべき行為に及ぶ。  

母は戦中戦後と島の呪縛に悩んだが、これを引き継いだ娘は新たな左翼勢力の呪縛に巻き込まれることになる。集団自決が親子二代に渡って引き起こした悲劇である。


◆二人の体験者の戦後

渡嘉敷島の生存者金城重明氏は、親兄弟のみならず、他人の自決にも「手を貸した」。島を出た金城氏は「軍の命令」と現在も叫び続けているが、そうしなければ戦後生きてはいけなかった。一方、座間味島の生存者山城安次郎氏は、自分の体験を黙して語らないまま、真実を墓場まで持ち込んだ。
 
集団自決の生存者は、単に死にきれなかった人たちだけではなく、金城氏や山城氏のように、他人の自決を「手助け」したり、自決に誘導した人が大勢いる。  

集団自決の真相は、これら生存者の証言に絡みつく濃密な共同体の呪縛と、死んだ人への贖罪意識を抜きにしては解明できない。

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大江健三郎著『沖縄ノート』は、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』が主張する「軍命令による集団自決」を大前提として書かれ、1970年の初版以来、今日まで59版(合計30数万部が発行) を重ねてきた。
 大江氏は慶良間列島の座間味及び渡嘉敷両島で集団自決を命令したとされた梅澤裕少佐と赤松嘉次大尉らを、〝屠殺者〟と呼び、その行為を〝人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊〟と断罪した。

人は「軍命」で死ねと言われて容易に死ねるものではない。ましてや自決命令をした軍人は現場に臨場しておらず、米軍との応戦で大童の状況にあった。

 少なくとも2023年1月の時点で「日本軍が集団自決を命じた」という客観的証人も証言は一件も存在しない。

これらは1973年の曽野綾子氏の『ある神話の背景』(ワックBUNKO「『集団自決』の真実」と改題)に詳述されている。

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政府主導の「公金横領」■茶番劇!靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

2022-12-28 12:30:07 | ★改定版集団自決
 

 

 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログを編集して再掲しています。

今回はこれ。⇒茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって2010-10-31

古い記事の引用なので、新しい読者にとっては理解しにくい部分が予測できる。

例えば証言者としての石原昌家沖国大教授や玉井渡嘉敷村村長など。そして関連する裁判も大江・岩波・集団自決訴訟の他に靖国合祀取消訴訟など。

沖縄戦については再検証の上、いずれ資料集として発刊の予定だが、その前に現在の読者の理解のため関連記事を再掲しよう。

今回は石原教授の致命的証言!援護法申請で2020-08-28に関連する記事。

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那覇地裁で沖縄靖国合祀訴訟の判決が出た。

結果は、もちろん原告の敗訴。

だが、常識ある人なら誰でも原告敗訴を予想できた。

さらにこの真っ当な判決に「不当判決」といきり立つ「識者」がいるのも想定できる。

世の中は面白い。(笑)⇒靖国合祀取り消し訴訟不当判決

この裁判は根っこで「集団自決」「援護法」そして「教科書記述」と複雑に絡み合う。 

だが、当日記がブログで取り上げるのは今回が初めてである。

集団自決に関しては、しつこいほど書いている当日記がこれまで避けてきた理由は、きわめて単純。

馬鹿馬鹿しくて論評に値しないからだ。

だが、その馬鹿馬鹿しい裁判も新聞が一面や社会面のトップで曲曲しく報道すると、多くの読者が誤解する。

当然、当日記としては誤解を解かねばならぬ。

それにしても「集団自決訴訟」の当事者ともいえる沖縄タイムスが、この靖国合祀取り取消訴訟について社説を書いていないのは不可解だ。

沖縄タイムスは、この訴訟が「死者の尊厳」の問題にみせながら、実際はイデオロギーのみの茶番劇であることを一番分かっているからではないか。

まあ、社説はしばらく待つとして、この問題で張りきっている琉球新報の社説を引用する。

靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するな

琉球新報社説 l2010年10月28日               

 沖縄戦で肉親を亡くした上、無断で靖国神社に「英霊」として合祀(ごうし)され、精神的苦痛を被ったとして、県内の遺族5人が起こした合祀取り消し訴訟で、那覇地裁は国、靖国神社双方への請求を退け、損害賠償も棄却した。
 今回、原告が問題視したのは、戦争の被害者である肉親が、加害者側に立つ軍人・軍属と同列視されているからだ。判決は、尊い肉親の御霊(みたま)を無関係な宗教団体が勝手に祭ることで当然生じる精神的苦痛に背を向け、非戦に向けて沖縄戦の歴史を正確に刻む営みに対する理解が欠けている。
 
沖縄戦で犠牲になった人たちの意思確認がない無断合祀を追認した上で、神社側の「信教の自由」を認める形の筋違いの司法判断が及ぼす影響は大きい。先例となる大阪地裁判決をほぼ踏襲し、激しい地上戦があった沖縄戦の特殊事情を深く考察した形跡もない。
 判決理由で、平田直人裁判長は、英霊として祭られたことへの原告の嫌悪感も理解できないわけではないとしながら、「合祀によって社会的評価が低下するとは想定できず、遺族の信教の自由の妨害とは認められない」と指摘した
 
国が神社に情報提供したことが合祀につながった点についても、「宗教的な色彩はなく、合祀の一部を構成しているとまでは言えない」と国の責任を否定している。
 判決によると、
靖国神社は援護法と絡んだ国による情報提供に基づき、遺族の同意なしに10人を合祀した。うち6人は避難壕から追い出され、砲弾の雨の中で死を迎えた主婦や2歳の幼児ら一般住民だが、「準軍属」として合祀された。判決はこうした矛盾と非人間性を正当化、追認した。
 遺族の苦痛が法的保護の対象か、権利侵害になるか否かという狭い解釈論にとらわれ、大局を見失ったという印象を抱かざるを得ない。
 
法廷でも証言した石原昌家沖縄国際大名誉教授は「壕から追い出され死亡した住民が壕を提供したとされるなど、沖縄戦の真実を捏造(ねつぞう)した」と強調し、合祀取り消しが沖縄戦の真実を正す手段と指摘してきた。
 事実と違う合祀に伴う遺族の二重の苦しみは救済されず、原告は控訴をすぐ決断した。控訴審は沖縄戦の本質に迫りつつ、被害者を戦争に馳せ参じた英霊として祭る無神経さを常識で問う曇りのない裁きにしてもらいたい。

                       ◇

「集団自決訴訟」と「靖国訴訟」では真逆のことを平気で主張する石原昌家沖国大名誉教授と「援護金」について2、3述べてみたい。

 

■政府主導の「公金横領」■

原告は、肉親が英霊として靖国に祭られているのは精神的苦痛だというが、戦死した親の墓を暴いて遺骨を靖国神社に持ち込んだわけでもなければ、また合祀して皆で英霊を侮辱し貶めているわけでもない。

それどころか毎日多くの参拝者が手を合わせて戦死者の鎮魂を祈っているのではないか。

それが精神的に我慢できないというのなら、せめて金銭面では身辺をきれいにしてから言うべきではないか。

まず靖国に合祀された根拠となる「援護金の受け取り」を拒否し、過去に受け取った総額を国に叩き返してから、大口を叩くべきではないか。

英霊としての援護金はしっかりもらっていながら、その一方で精神的苦痛クソもないだろうが。

軍人でもない一般住民が、沖縄に限って靖国に合祀さたれた経緯は、戦後沖縄の市町村が援護法の一般人への適用を熱心に国に働きかけ、それに同情した国側が「拡大解釈」で支給するために軍人扱いしたことが原因である。 その過程で2歳の子供も軍人あるいは軍属として靖国神社に連絡が行き、それが合祀に繋がった。

従って何とか「援護法」を沖縄の民間人に適用したいという国側の善意が、「軍への協力」や「軍の命令」を考え出させたのだ。

現在の弛みきった厚生省官僚達と違って、当時の厚生省援護課には、担当窓口職員にわざわざ沖縄出身者を配属し、沖縄の声を出来るだけ聞くという心優しき官僚がいた。 これは後述のタイムス記事から窺い知ることが出来る。

石原教授は、援護法について「靖国訴訟」では、「戦闘行為が不可能な2歳児が軍属扱いで合祀されるのは、国家による歴史捏造だ」と主張している。 つまり国が援護金を沖縄の民間人に支給するため民間人が「壕提供」や「食料提供」等を軍の命令・強制で行ったと申請書の作成を指導したというのだ。これらは自らの意思で行ったのでははなく、国が指導した書類上の方便であるための事実ではない。 従ってで歴史捏造という論法だ。

ところがこの人物、「集団自決訴訟」では「集団自決」は軍の命令だと主張している。

一方では国が援護金支給の口実にするため「軍の命令」を捏造したと言いながら、その同じ口で「軍の命令」で集団自決をしたと主張する。

こんないい加減な人物が沖縄の新聞では「識者」として意見を吐くので事情を知らない読者は皆騙されてしまう。

「軍への協力」「軍命による行為」が書類上に記載されなければ、遺族は「擁護法」で救済されなかったのだ。

そこに国側の「善意」の思惑が働き、「援護法」が適用されるに文章を改ざんしてまで救済の道を開いた。 これがが事実である。

ところが石原教授は、この事情を一番良く知る人物でありながら、「靖国訴訟」では「国が歴史を捏造した」と原告側の応援団になり、その一方で「集団自決訴訟」では、国側が自決命令と方便を使った事実には目を閉ざし「集団自決は軍の命令だ」と被告側の応援団にまわるような二枚舌の人物である。

そこに教科書問題が絡むと石原教授はさらに、教科書にも「残虐非道な日本軍」と記述しなければならないと主張する。 

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

言葉を変えれば当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理であった。

従って靖国に合祀された戦死者の遺族が「合祀取り消し」を訴える裁判なsど馬鹿馬鹿しくて付き合ってはおれないのである。

ただ、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

原告は、控訴をするというが、援護金の受け取りを拒否してからの控訴でなければ、恥の上塗りになるだけだ。

 

【おまけ】

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

【おまけ2】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大教授の論文はこれ。

政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

語るに落ちたとはこのことだが、石原教授は「集団自決」という言葉さえ「強制集団死」とすべきだと主張している。

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自決命令を下した「田中軍曹」の謎

2022-12-28 09:38:09 | 資料保管庫

 

 

 

 

 

■自決命令を下した「田中軍曹」の謎

 集団自決は、沖縄だけではなく樺太や満州でも起きていた。それでは、なぜ沖縄の集団自決だけが大きく問題にされるのか。
 理由の一つが「援護法」の沖縄県民への拡大適用。もう一つが『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編、朝日新聞)、『沖縄ノート』(大江健三郎著、岩波出版)などの沖縄戦関連書籍による元隊長へに対するいわれなき誹謗である。
 集団自決で特に問題にはならなかった沖縄本島中部の金武村(現在の金武町)では、援護金申請の依頼を受けた村の指導者が、すべての申請書に「軍の命令による」と記入し、命令を発した軍人の名を「田中軍曹」という架空の名前を使用した。

  元々、沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は、裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたらすべてを給付の対象にした。

架空の軍人を申請書に書いて援護金の受給を受けた成功談は、戦後金武町教育委員会町史編纂室に務めた奥間俊夫氏がこう証言している。


 <もらえるものはもらいなさい、という役所の指導があって病気や空襲で死んだ人たちの遺族も便乗して申請したんです。申請書類には誰の命令で行動したか、を記入する欄があるんですがなぜかほとんどが“田中軍曹”でして調べてみるとそんな人は実在しないんです。 聞き取り調査をしても、本で読んだ話を自分の体験のように語るし何人かで集まってもらっても、「それ、言っちゃダメ」とかお互いに牽制しあう。結局丸くおさめるには「みんな日本軍にだまされて協力させられた」という話にするしかないわけです」>(引用「からくり民主主義」高橋秀美著、新潮社)

 

「援護金」を受給するために“田中軍曹”という架空の日本兵をでっち上げた金武町の場合は丸く収まったが、渡嘉敷、座間味両村の場合は、実在の梅澤裕氏と赤松嘉次氏を「軍命を下した日本兵」と明記したため、その後に大きな問題を残した。これら歪曲・捏造された証言も一旦、公的刊行物に掲載されると公式見解としての「沖縄戦史」として一人歩きすることになる。

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世界は贈与でできている

2022-12-28 04:37:13 | 経済

世界は贈与でできている

世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)
贈与は、モースからグレーバーに至るまで、人類学の中心的テーマである。資本主義は近代西欧に固有のシステムであり、市場経済もそれほど普遍的なルールではない。人類の圧倒的多数は市場を通さない贈与で生活してきたので、そのしくみを明らかにすることは、本来は経済学者の仕事である。

しかし新古典派経済学は、対象を価格メカニズムに限定したので、贈与に取り組んだのはバタイユやフーコーぐらいだが、いずれも未完に終わった。今も贈与を成り立たせるメカニズムは不明である。
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本書の「世界は贈与でできている」という発想はいいが、そのあとの話が散らかって、何を言いたいのかわからない。主題になっているウィトゲンシュタインの話もトンチンカンだ。贈与は単なる言語ゲームではなく、資源を他人に与える実物的コミットメントであり、おそらく言語より古いのだ。

肉体的に弱いホモ・サピエンスが、生存競争の中で生き残る戦略として発見したのが、集団行動だった。人類は直立歩行で自由になった手で道具をつくり、大きな脳で他の個体と協力して、大型哺乳類を殺す技能を獲得した。集団行動のためには他人とコミュニケーションをとり、自分が集団のメンバーであることを示す必要があるが、その通信手段が贈与だった。

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沖縄戦での米兵の蛮行、日本兵を殺した沖縄人

2022-12-27 14:24:31 | 資料保管庫

 

 

 

 

 

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沖縄戦史を書いた本は数多くあるが、米軍上陸後の米兵の住民に対する蛮行について記した本は殆どない。 

恥じるを知る沖縄人は自分や家族が米兵の陵辱に会った事を他人に言いふらすはずはない。

昭和20年の米軍上陸から昭和30年の約10年間の米兵による住民への蛮行を米軍のプロパガンダ紙であった沖縄紙が報じるはずも無かった。

従ってこの間の約10年間は沖縄戦史にポックリと大きな空白を生じている。

昭和30年に起きた「由美子ちゃん事件」を契機に初めて地元マスコミが米兵の蛮行を大々的に報じることになる。

 

比較的戦闘の少なかった北部地域では米兵の強姦事件を防止するため4月の時点で既に米軍公認の売春宿が設営されていたと書いた。

詳しい状況を知りたいとの問い合わせがあったが、出典元の『天王山』は上下二冊で1000ページ近くの膨大な本故、同書から該等部分を抜粋し以下に引用する。

 

天王山 沖縄戦と原子爆弾 上 (早川書房)  ジョージ・ファイファー 小城正 訳(267、258、269頁)

≪4月20日、北部地域における組織的な抵抗が終了した旨公式の声明がなされ、海兵隊6師団は掃討戦に転じ、兵器の手入れをしたり写真をとったり、赤十字のテントで歯磨きや剃刀の刃や煙草を受領し、大雨の降っている間はできれば昼寝をし、晴れている間には靴を磨くといったような、軍隊生活でのささやかな楽しみを味わいつつあった。(略)

まもなく、冒険を求めていた多くの若い兵が、運天村の近くのある家に急いで行くようになった。 物事がすべて厳格におこなわれているときには、売春宿を設けることは合衆国海兵隊としてふつうに行われていることではなかった。  しかし、ここでは例外を設けるだけの理由があった。 海兵隊がこれまで戦った太平洋のすべての島の中で、沖縄はたくさんの魅力的な女性を含めて、大きな民間人の人口を有するはじめての島だった。 すでにごく少数の女たちが食べ物と交換に売春していたが、花柳病を予防するとともに、部隊のあとを追って女たちがどこまでも移動するのを避ける手段として、こうすることが適切と思われたのである。 また、兵が村の中をうろついたり、既に若干の苦情が申し立てられているように、強姦事件を予防する上においても、良い方法であると判断されたのであった。
水上特攻艇や超小型潜水艇の巣窟として占領され運天は、本部半島の海兵隊第六」師団司令部所在地から15マイル北方にあった。 自ら志願して集まった女性達は毎日、衛生部員による検診を受け、大きい清潔な家で働いており、長い時間働いて、その地方の標準からすればかなりの金額を稼いでいた。 また、ここに通う者も相当の時間をかけなければならなかった。 まず、長い列を作って順番を待ち、三円(三十セント)券を買いーこのような占領を予期して既に軍票が作られていたー衛生部員のいるテーブルでコンドームを受領し、それから売春やどの入り口にできている、もっと短い列の後尾について順番を待たなければならなかった。  そして、マダムが相手を割り当ててくれる間、小部屋で待つのである(ある「年配」の兵はー26歳だったー小部屋の女性用のベッドに腰かけて待っていると、13歳ぐらいの女の子が入ってきた。 彼がその女の子に身振りで帰るように合図をすると、彼女はマダムと一緒に引き返してきた。 そして、マダムは彼に、その子で満足するか、あるいは帰るようにといったのである。 そこで、彼は女の子を受け入れることにした)。  このような「キャット・ハウス」の存在はもちろん発表されることもないし、認められてもいなかったが、連隊付きのカトリックとプロテスタントの従軍牧師がこの不名誉な話を聞きつけて抗議した。 連隊長は現代的な心の広さを見せて「もし私の部下がセックスすることを望むなら、そうさせてやるまでのことだ」と答えた。 二人の牧師は転属を願い出た。≫

『天王山』はアメリカ人が書いた沖縄戦記だが体験者として沖縄人が書いた沖縄戦記にも米兵による住民への残虐行為を記した部分がある。

以下に引用の「月刊ビューポイント」記事と上記引用文を照合すると米兵の知られざる「住民への蛮行」が垣間見れて興味深い。

 

平成19年10月31日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 第2部  <9>

相次ぐ米軍の無差別攻撃・暴行
住民、一斗缶鳴らし自衛
 日本兵の使っていた壕を海兵隊員が攻撃した際にケガをした少女を抱く第1海兵師団所属のデロマ薬剤師助手。民間人の誰もがこの少女のように扱われたわけではない(米軍撮影、沖縄県立公文書館所蔵)  (中略) 

だが、本土と沖縄を分断させる「米軍のヒューマニズム」戦術は、沖縄県民を一時的には感動させたが、人為的な政策であり、すべての米軍がヒューマニズムあふれる行動を取ったわけでは無論なかった。

 長周新聞社(下関市)が平成十七年に発行したパンフレット『沖縄戦の真実-千人の沖縄県民に聞いた本当の声』は、原爆展を沖縄で行った時の劇団はぐるま座、富田浩史氏のルポを掲載している。そこには、沖縄のメディアや地元の学者らが強調する「日本軍が住民を壕から追い出したり、スパイ容疑で殺害したり、あるいは凄惨(せいさん)な集団自決にすら追い込んで“本土決戦”を準備するための“捨て石”にした」という沖縄戦とは全く違った県民の証言が収録されている。幾つか紹介しよう。

 六十代の婦人。「糸満市のいま“ひめゆりの塔”のあるあたりで逃げ場所をなくしたとき、いったんすれ違った米兵に突然銃を乱射され、母は後ろから背中を撃たれて大ケガをして死んだ。叔母もいとこも即死だった。……父の弟の奥さんなどは、壕の中でなにかの破片が顔にあたり、鼻がとれて穴が空いているだけの無惨な顔にされてしまった……」

 本部町出身の六十代の婦人。この女性は沖縄戦の時、二歳だった。あまりに泣くので壕から出されてしまった。「そのとき母が壕から出てわたしを守ってくれた。助けてくれたのは母親だった。米兵ではなかった」と話す。

 <当時一六歳だったその婦人のお姉さんは、敗戦直後、女友だちと二人で歩いているとき、突然あらわれた米兵に襲われた経験があるという。お姉さんは危うく難をのがれたが、友だちは目の前でなぶり殺しにされたそうである>と富田氏は続ける。

 ほかにも、壕の入り口で赤ん坊にお乳を飲ませていた母親が米軍の戦車砲の一撃で惨殺された、北谷(ちゃたん)町では軍人・民間人の区別なく皆殺しにして、遺体を股(また)裂きにして海に投げ込んだ、十歳の少年は降参旗を振ったが艦砲に撃たれて死亡、さらに戦後も米兵の暴行を告発する証言などがあふれている。

 同新聞は、日本共産党から除名された福田正義氏が創刊したもので、反米色が強い。それでも現在の沖縄のメディアが封印している事実を暴露している点で意味があろう。

 昭和八年生まれの宮里真厚氏は、戦争前後の様子を『乙羽岳燃ゆ』にまとめているが、そこには、戦闘が終わると黒人兵や白人兵が夜、民間地帯に出没、民家に上がり込み「女性を出せ」と要求して住民を不安に陥れた、と書かれている。実際、宮里氏の近所にもアメリカ兵が来た――。

 <(米兵が上がり込んだ家の)奥の座敷の住民が打ち合わせ通りに、天にも届けとばかりに勢いよく一斗缶を叩(たた)き出したのである。そうすると隣の家でも一斗缶を叩く音がして、そのうち村中がガンガンなり出した>

 しばらく茫然(ぼうぜん)として立っていた米兵は、事の成り行きを察知するや、一目散に大通りの方へ駆け戻っていったという。翌朝、門の前に大型の牛缶が二個あった。米兵が慌てて落としていったものだ。その牛缶をめぐって住民の議論が白熱したが結局、みんなで食べることに。その「恐怖の報酬」の味たるや、「終生忘れることはないうまさだった」と宮里氏。

 戦中派の沖縄県民からも、頻発する米兵のレイプに対して、家に鉄条網を張ったり、各家庭にドラム缶を置いて、米兵が来たら思い切り鳴らして精いっぱいの威嚇をしたという話を聞いた。

 「米軍のヒューマニズム」は広く流布されて、こうした占領下での米兵の乱暴狼藉(ろうぜき)を告発する記録はそれほど多くない。

(編集委員・鴨野 守)

米兵が女を求めて民家を徘徊したという証言を記録した乙羽岳燃ゆ』 のタイトルにある乙羽岳とは沖縄の本部半島の運天の近くにあり、アメリカ人ジョージ・ファイファーが書いた『天王山』の記述と沖縄人宮里真厚氏が書いた『乙羽岳燃ゆ』の記述が一致し、沖縄における米兵の蛮行がここであぶりだされてくる。 

現在の乙羽(おっぱ)岳はキャンプ地になっており近隣にある乙羽牧場の「おっぱ牛乳」や「おっぱアイスクリーム」は沖縄北部観光の名物にもなっており、名護入り口の「道の駅・許田」で販売されている。

「おっぱアイスクリーム」をなめながら夏のキャンプを楽しむ若者に、

かつてこの地で米軍による住民陵辱が連日のように行われていた歴史を知る者はいない。

「集団自決」に追い込まれた住民が怯えた「米兵の蛮行」はけして単なる噂ではなく実体験として沖縄住民を襲っていたのである。

「集団自決」のパニックへ住民を追い込んだのは軍命ではなく、

「米兵の蛮行」への恐怖心であると思う方

クリック」お願いします。

■乙羽岳森林公園

■[道の駅 許田] おっぱ牛乳のアイスクリーム http://blogs.yahoo.co.jp/eminee_k/52991779.html
 

【おまけ】

読者の 提供して下さった富村順一氏の独白です。

              ★

押しかけて来た大江派

 話は変りますが、今大江(健三郎)先生を支援している方々の中には私の知人が沢山います。(11)9日の裁判を傍聴に行き、多くの知人と会いました。それらは皆大江さんを支援する人達でした。沖縄からはフォークシンガーも来ていました。その人と私はレコードを出したこともあります。

 実は去年(平成18)10月に私は堺市の阪南病院という精神病院に一晩泊められたことがあります。大江支援者が何度も私の家に押しかけ、私と口論となり、私はその人達を木刀で叩き、大怪我をさせたことがあります。その連中は何遍も私の家に押しかけてきて、また私の留守中に出版物や名詞などを盗んでいくために私は犯人は判かっていました。大江先生を支援するグループと知ってましたから、警察に訴えましたが、警察は対応しませんでした。仕方なく私は、今度来たらひどい目に遭わせてやろうと思って枕元に黒檀の木刀を置いてありました。その木刀は朝日新聞で拳銃で自殺なさった野村秋介さんから頂いた木刀で、今手元にあります。

 

島を救った元隊長さん

 どのようにして話してよいか、前後区別もつかなくなり、何度も録音を取り直しましたが、自分の云いたいことを録音できません。

 私は人間を余り信用しません。と云うのは、座間味戦記を書いた、中村先生御存知の宮城晴美さん、あの『母の遺したもの』は、梅沢さんが自決命令を出してないと断言しています。だが彼女は法廷ではその立場を覆した。そのようなことを新聞で読んだことがあります。自分の書いたものにも責任が持てない。それは無論他人事だけではなく、私も赤松隊長について間違ったことを聞き、書いたことがあります。これは謝罪すべきです。何れ本が書けるようになれば、本で間違ったことを訴えているのなら、また本で謝罪をしたいと思ってます。

 私は嘘を云って遺族年金をごまかした人間が一方的に悪いとは思っていません。

 もし梅沢隊長や赤松隊長に濡れ衣を着せなければ、今の座間味島や渡嘉敷島はあのような仕合わせな島にはなってはいません。宮城初枝さんが嘘の沖縄戦記を書いたために、多くの本土の方々は宮城初枝さんから捏造した沖縄戦記を聞き、その家に泊り(宮城初枝さんは民宿を経営していた)、帰る時には余分な金まで置いて行ったために、宮城初枝さんの三人のお子さんが大学に進学出来た訳です。また本土から平和教育のために多くの中高校生が行ってます。その語り部が宮城初枝さんなんです。

 亡くなられた赤松隊長には申し訳ありませんが、濡れ衣を着てくれたお蔭で島の人が仕合わせになったとお考えなされば、気も休まれるんではないかと私は思ってます。故に沖縄の座間味島、渡嘉敷島の戦後の困難を救った方が、濡れ衣を着た梅沢隊長であり、赤松隊長だと思います。そのようにお考えになれば、多少なり心が安らぐことがあるのではないでしょうか。

 

「沖縄出身の日本兵」のこと

 さて、私が沖縄戦を語る時、ただ座間と渡嘉敷ではありません。久米島でスパイ容疑で殺された朝鮮釜山出身の具仲会さんのこともあります。戦前、具仲会さんは沖縄で鍋や薬缶(やかん)などを修理する鋳掛け屋さんをしていました。その方は標準語を使っていたので、日本人だと思ってました。あとで韓国人だと判りましたが、その家族七人がスパイ容疑で生後三ヶ月の赤ちゃんまで殺されました。

 その日本名谷川昇、具仲会さんは三年間私の面倒を見て下さった方です。何故私が具仲会さん一家にお世話になるようになったかと申しますと、具仲会さんは鍋や薬缶、釜の修理をしながら、朝鮮飴とスクラップの物々交換をしてました。私はその朝鮮飴を全部盗んだのです。具仲会さんに捕まってしまい、盗んだ理由を話すと、「ならば家(うち)に居なさい」と云う訳で、私は具仲会さんと一緒に具さんの大八車の後(あと)を押して、三年間沖縄本島を渡り歩きました。その一家が私にとっては命の恩人であり、また具仲会さん夫婦は私にとっては三年間、お父さんでもあり、お母さんでもあった訳です。

 長男坊に私より二つ歳下の一夫君がいましたが、一夫君が米軍の缶詰を持っていると山の部隊に報告したのは一夫君の先生なんです。その先生がカズオ君が米軍と会っていたとか、様々なことを部隊に報告した訳です。

 また朝鮮人一家だけでなく、23人の町民もスパイ容疑で殺されましたが、そのリストを作ったのは学校の先生であり、女性で初めて県会議員になった上江洲(うえす)トシさんです。そのことは私は『隠された沖縄戦記』という本に書いていますが、事実であるから上江洲さんは私を訴えることは出来ません。

 また島民を殺した日本兵と云えば、皆本土出身の日本兵と思うでしょうが、本土出身の日本兵は沖縄の地形はよく知らず、同じ沖縄人をスパイ容疑で殺したのは現地で入隊した防衛隊であり、護郷隊です。沖縄出身の日本兵です。だから沖縄の作家達は、沖縄戦記を書く場合には、「沖縄出身の日本兵」とは書かないのです。ただ「日本兵」と書けば、日本人は「本土出身の日本兵」と考えるでしょう。

 このように沖縄人は、自分達に都合のいい沖縄戦記を書いています。

 

日本兵を殺した沖縄人

 さて、自分のことも云わなければなりませんが、米軍が本部(もとぶ)半島や今帰仁(なきじん)に上陸すると同時に、本部村と今帰仁村の村民は米軍によって全て今の名護市、もとの久志村に収容されました。故に久志村に行った人々は飢えてましたが、今帰仁や本部は無人の村となり、芋をはじめとする食べ物が沢山ありましたので、私達は久志村の山を越えて、四、五日おきに本部や今帰仁の畑に芋堀りに行ってましたが、久志村の山では南部から生き延びてきた日本の敗残兵が四、五人ずつグループをつくり、二百人近くいました。私達が歩いていると、飢えた日本兵がよく「芋を下さい」と云って私達少年に頭を下げてきました。

 ある日のこと、元学校の先生が、「山には日本兵がいるでしょう。その日本兵にこの手紙を渡して下さい」と私達四、五人の少年が手紙を預りました。手紙の内容はよく分りませんでしたが、私達は本部に芋堀りに行く時に、途中の山に立て篭もっている日本兵に渡したのです。

 その翌朝、午前三時頃、激しい機関銃の音がするので、夜が明けてから行ってみると、きのう私達が手紙を渡した日本兵です。後で知ったことですが、私達に手紙をことづけた元学校の先生は手紙に「食べ物はあるから村まで取りにお出で」というような内容を書いていたようです。

 翌朝、自分達がきのう手紙を渡した日本兵が田圃の中で死んでいました。昭和21年の秋でした。沖縄は年に二度米が取れますが、二回目の稲が青々と茂ってましたので、秋だと私は思ってます。

 沖縄人は物欲しさに、山に隠れている日本兵をおびき寄せ、米軍に狙い撃ちさせ、そのご褒美に食べ物を貰った人達も沢山います。私もその一人です。だがそのような沖縄戦記を書く人は沖縄には居ません。だが私は『沖縄戦語り歩き』という本に書いてます。私が一番今でも悲しい思いをしているのは、四、五十人の村人が大きな壕に避難してました。一番奥には学校の先生や村の有志たちが一番安全な所に坐り、子供達お年寄りは弾除けのように壕の入り口に坐っている訳です。そのようにして犠牲になった子供お年寄りが沢山います。

 また或る日のこと、元学校の先生が、或いは村の有志が、私達十二、三歳の少年達に「喉が渇いたので砂糖黍を取って来い」と云ったので、私達は三人で取りに行きました。その時に二人の少年は、米軍によって艦砲射撃で殺されましたが、それがきっかけで、私は村人の壕に帰らず、一人で居るハンセン氏病のお爺さんと沖縄戦を生き延びたのです。

 戦後四、五年の沖縄の現状は、今の北朝鮮と同じだったのではないかと私は思ってます。終戦後、金は通用しません。全ての食べ物は米軍からの無償配給です。故に公平に分配すべきですが、この分配する係りになったのが元学校の先生や村の偉い方々です。その人達が他の一般の人達の何十倍も横取りして、飢えた人達は蘇鉄を食い、命を落とした人も沢山居ます。中毒死する蘇鉄も、食える蘇鉄もありますが、その見分けはつきませんでした。

 故に人間は、いくら知識や知恵があっても、飢えた時には狼になると思います。

 

 

沖縄集団自決の真実

「沖縄人の見た沖縄戦」③

――「嘘を云ったお祖父(じい)やお祖母(ばあ)は沢山いる――

 

ルポライター(沖縄県国頭郡出身)   冨村順一(大阪市西成区78)

 

平成20310日  昭和史研究所会報 第131

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。

これは本来国家のなすべき事業なのです。

 

参考⇒「サイパンの悲劇」と「集団自決」

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コメント

#ゆっくり解説 #政治 【ゆっくり解説】あの後も沖縄タイムス阿部記者は変なことばかり言ってます…

2022-12-27 08:18:53 | 政治

 

 

 

 

#ゆっくり解説 #政治

【ゆっくり解説】あの後も沖縄タイムス阿部記者は変なことばかり言ってます…

阿部記者本人の発信してるTweetとか動画とかまとめてくれるのすごいっすね、、、俺なら吐き気でまともに見れすらしないと思う。 ただこのような頭のおかしな(というか分かってて踊ってるのかもしれないが)記者を逆に広告塔にして沖縄タイムスのヤバさ、沖縄のヤバさを布教していくことはとても意義のあることだと思います。 頑張ってください。
一部を表示
 
 
16:35 「阿部記者には理屈が分からぬ」めちゃくちゃ草生えた でもこれ現文ままの「政治が分からぬ」でもほぼ問題なさそう
 
 
阿部くんの発言が日本人に対するヘイトスピーチなんだよなぁ…(無自覚)
 
 
 
 
相変わらず「ヘイトスピーチ」「ネトウヨ」って魔法の言葉使ってるんですねすごい記者なんですね(棒読み
 
 
途中でいつの間にか話変わってるの才能だと思うわ阿部さん
 
コメント (2)

集団自決、嘘つき教師が嘘の上塗りを出版!

2022-12-27 08:15:30 | ★改定版集団自決

集団自決、嘘つき教師が嘘の上塗りを出版!

2020-08-23 07:12:54 | ★改定版集団自決

 

きょう(23日)の沖縄タイムス社会面

宮城恒彦さん死去 86歳

座間味「集団自決」証言

               ★

沖縄タイムス+プラス ニュース

座間味「集団自決」の証言者 宮城恒彦さん死去 86歳

2020年8月23日 09:19

 沖縄戦中、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」を生き延びた宮城恒彦(みやぎ・つねひこ)さんが21日午前2時10分、肺炎のため亡くなった。86歳。家族によると2週間ほど前から体調を崩し、入院していた。葬儀は22日、豊見城市の自宅で近親者のみで執り行われた。併せて初七日も繰り上げ法要で行った。

戦争体験を語る宮城恒彦さん=3月17日、豊見城市

 戦後は小学校の校長を務めた。ハルさんを壕に残したことを悔やんでいたという母ウタさんが亡くなったのをきっかけに、88年から戦争体験者への聞き取りを始め、自費で証言集28冊を発行した。

 告別式は、三七日(みなんか)の9月10日、もしくは五七日(いちなんか)の9月24日に開かれる予定。喪主は妻の美代子(みよこ)さん

                ★

戦後75年の節目に沖縄戦の語り部が他界するのは残念。

ご冥福をお祈りする。

だが、宮城恒彦氏のように嘘の証言をする方に対しては、歴史の真実として反証しておく必要がある。

過去ブログをサルベージし集団自決、嘘つき教師が嘘の上塗りを出版!2011-05-26を編集して再掲します。

                ★

「集団自決」軍命を記録 座間味村の戦争体験記第23号発行

2011年5月24日      

「人を狂気に陥れる戦争を二度と起こしてはいけない」。座間味村民の戦争体験を23年間発行してきた宮城恒彦さん=10日、豊見城市渡嘉敷の自宅
 
  【豊見城】沖縄戦中の1945年3月26日、座間味村で起きた「集団自決」(強制集団死)の生き残り、宮城恒彦さん(77)=同村出身、豊見城市渡嘉敷在住=が23年間続けてきた沖縄戦体験記発行に一区切りつけた。同村住民の戦争体験を収集し、最終号の第23号を3月に発行。宮城さんは「集団自決」で姉の宮平ハルさん(当時19歳)を失った。「最も悲惨な目に遭うのは住民だ。人を狂気に陥れる戦争を二度と起こしてはいけない」との思いに突き動かされ、33人の証言を刻んできた。
 最終号には、軍命による「集団自決」を明確に示す宮平春子さん(84)の証言を収録した。当時座間味村の助役だった兄、故・宮里盛秀さんが「軍の命令で、潔く玉砕しなさいと言われているから」と言った言葉が記されている。
 宮城さんの姉ハルさんの最期を見た故・宮里美恵子さん(享年85歳)の証言も記録できたことから「一段落ついた」と体験記に終止符を打った。
 宮城さんは戦後、ハルさんを失ったことを悔やみ、自分を責め続けた母親・ウタさん(享年91歳)を前に、体験を語れなかったが、ウタさんの他界後、初めて語った。座間味村史にある想像を絶する体験の多さに衝撃を受けた。中学校で国語教師をしていたため休みを利用し、戦争体験者を訪ね聞き取りを重ねた。
 89年に1号を発行した。多くの住民が語りたがらず、古傷に触れるようでつらかった。「方言で質問すると返してくれた。体験者でないと分からない複雑な思い、惨めさがある」。険しい表情で振り返る。
 体験記は毎回、1500冊発行し座間味村内の小中学校や過去の赴任校などに置いている。「文字も大きく、行間を広げ読みやすく工夫した。平和教育にぜひ活用してほしい」。体験記が“語り部”として受け継がれるよう強く願っている。

            ☆

座間味島の集団自決を命令したのは軍人より軍人らしい言動で、住民から畏怖されていた宮里盛秀助役だと言われている。

だが、これを覆す重要証人が盛秀氏の実の妹の宮平春子氏というのも不可解である。

肉親の証言は信憑性に欠けるという常識が、ここでは通用しないのである。

ここに登場する宮城恒彦氏は、大江・岩波集団自決訴訟の最高裁判断が出た翌日4月23日の沖縄タイムスで「これ(関与)は『命令』そものだった」というデタラメなコメントを吐いた元教員である。

宮城氏の発言はもちろん間違いであり、最高裁が「関与=命令」と確定したけではない。

宮城氏は軍人より軍人らしい「参謀長」と呼ばれた教頭が登場する『潮だまりの魚』の著者でもあるが、氏の発言ががいかにデタラメであるかは以下に引用の沖縄タイムス記事を読めば明白である。

参考⇒証言集『潮だまりの魚』に見る守備隊長の実像

沖縄タイムス 2008年1月31日(木)  
 
 悲劇の島から史実訴え/座間味村が証言集

 座間味村教育委員会が沖縄戦で「集団自決(強制集団死)」を体験した住民らの証言などをまとめた「戦世を語りつぐ 座間味村平和学習ガイドブック」を発刊した。制作を委託された編集委員会が三十日、同村教委に引き渡した。沖縄戦の「集団自決」に対する日本軍の強制を示す記述を文部科学省が削除させた教科書検定問題が起きる中、「座間味での沖縄戦の真実を伝え続けよう」と編集作業は進められた。
 編集委員会は二〇〇六年十二月に発足し、同村で「集団自決」を体験した宮城恒彦さん(74)が委員長を務めた。沖縄戦を体験していない世代の編集委員が、体験者数十人から聞き取りをした。


改ざんNO


 同ガイドブックでは、座間味島の「集団自決」を「三月二十六日、米兵は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきました。それを知った住民はパニック状態におちいり、(中略)死の道へと急いだのです」と書く。宮城さんは「抑えた表現にしたが、住民を『パニック』に追い込んだのは、日本軍の強制だったことは明白だ」と説明する。

 「『敵の手にとられないように玉砕するよう、軍より命令があった』と当時、村助役だった兄が父に話すのを聞いた」との宮平春子さんの証言を収録し、編集後記には「文部科学省による『高校の歴史教科書改ざん』に対する答えは、多くの証言者の声やこの冊子に記載された内容が証明しています」と記した。


改訂も検討


 編集委員の一人、宮里芳和さん(59)は「『軍から玉砕命令があった』との証言は複数あり、日本兵側からも軍命を示す証拠や証言が新たに得られ始めた」といい、同ガイドブックの改訂時に盛り込みたい考えだ。

 二千部を発刊した。修学旅行生の平和学習などに活用し、希望者には販売する予定。問い合わせは同村教委、電話098(987)2153へ。

  宮城恒彦氏                                            ◇

 写真

 >「三月二十六日、米兵は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきました。それを知った住民はパニック状態におちいり、(中略)死の道へと急いだのです・・・抑えた表現にしたが、住民を『パニック』に追い込んだのは、日本軍の強制だったことは明白だ」

 

米軍が大挙して壕の近くまでやって来て中の住民がパニックに陥ったのなら、集団自決の原因は米軍であることは小学生でもわかることだ

このお方本当に国語の先生だったのだろうか。

それを「住民を『パニック』に追い込んだのは日本軍の強制だ」とは、まるでヤクザの言掛かりではないのか。

最高裁判断でさえも、「関与=軍命」と自分の都合の良いようにに決め付ける人物なのである。

このような理の通らぬ話がいかにも「正論」であるかのように、もっともらしく掲載される・・・これが沖縄タイムスの正体である。

■似たもの同士の宮城恒彦と宮城晴美■

>改訂も検討

宮城恒彦氏は、当初は自著で「軍命や強制はない」という内容で出版しておきながら、後で「言葉としての命令だけでなく、強要や誘導、目に見えない命令があった」といった苦し紛れの弁明で証言を変更した。

あげくの果てに「改定も検討」とは『母の遺したもの』が「軍命なし派」の証拠として係争中の裁判の原告側証拠となると、改訂版を出版をした宮城晴美氏のケースと全く同じパターンである。

おっと、もう1人『沖縄戦と民衆』を反対派の証拠に使われた林博史関東学院大学教授の例も、自著の内容と発言が違うという点では似たようなものだ。

宮城恒彦氏:
「米兵が大挙壕の近くに来て住民はパニックになり死の道を急いだが、住民のパニックも軍の強制である」

◆宮城晴美氏:
「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」(平成19年7月27日大阪地裁証人尋問)

                     ◇

【おまけ】

 読者の安仁屋正昭さんが宮城氏の人物像についてコメントされています

 5月13日

私の手元に平成9年5月発行の「しおだまりの魚たち」という小冊子があります。
この著者は本日記の「軍の関与=軍の強制=軍の命令」という明らかな間違いを読者に信じ込ませようとしている宮城恒彦氏です。
彼の経歴には、校長・島尻教育事務所所長が記されており、それなりの見識と社会に対する責任がある人物であることがわかります。

この冊子には、座間味の集団自決に遭遇した自身と家族、並びに村人や当時最も尊敬されていた校長先生夫妻の自決の様子が書かれています。
勿論、忠魂碑前の事も。
しかし、軍の命令によって自決をしたなどという最も核心的な事は何処にも書かれていません。
むしろ、迫りくる米軍の恐怖により、自分たちで相談して決した事になっています。

2008年6月20日に宜野湾市の志真志小学校にいた革マル派の宮城じゅんという教師が幼い子供達に集団自決の劇を演じさせ、問題となった時のことでした。
この宮城恒彦氏は会場となった体育館まで遠いところから出て来て、一番後ろで壁にもたれながら見ていました。

元教育事務所長といえば、所管する百数十校を指導とする総責任者だったはずです。
集団自決という最も悲惨な事件を子供達に演じさせるという暴挙に、何もせず傍観し、挙句の果ては 関与を命令と誤認させる原稿まで書くというのであれば、「嘘つき・世を惑わす者」として、何れ裁かれなければならない思います。

左翼思想を信じ込み、一方的な情報を与えられて活動している者達より、この宮城恒彦氏の方が罪が深いと言わなければならないと思います。

【おまけ】

証言集『潮だまりの魚』に見る守備隊長の実像 

2007-07-12 10:09:28 | ★集団自決

《ひと》沖縄戦「慰霊の日」に体験記を出す

2004年06月23日

写真

 

宮城恒彦さん

 沖縄戦で米軍が最初に上陸した座間味(ざまみ)島で45年3月26日に起きた「集団自決」の生き残りだ。当時は11歳。母親と姉弟で逃げ込んだ壕(ごう)の中で手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、19歳の姉と担任の教師が亡くなった。

 「戦後、母が戦争を語ることはなかった。毎年3月になると、思い出したように嘆息した」。書き始めたのは、母親が他界した翌88年から。「自決」で住民173人が犠牲になった。自分だけでなく、島の人にも聞いてまとめた。

 「慰霊の日」に合わせて出してきた体験記は今年、16冊目になった。毎回、1千部以上を発行し、学校などに配っている。さらに、23日には、東京の出版社から過去の15冊をまとめた「潮だまりの魚たち~沖縄・座間味島の戦世(いくさゆー)」(クリエイティブ21)を出版する。

 元小学校長。一番苦しんだのは「日の丸・君が代」問題。惨劇を招いた戦前の教育が頭をもたげたが、個人の意見も言えず、公私のはざまで悩んだ。「自決の時、校長が合図をし、女性教師が手榴弾を投げた」。教師になったのも、あの時の体験で教育の大切さを知ったからだという。

 講演をよく頼まれるが、全部断る。10年前に一度だけ引き受けたが、「自決」の場面で胸が詰まり、しばらくの間、言葉が出なかった。

 「若い人にどう伝えるかは難しい。元気なうちはとにかく聞き書きを続けたい」

(文・大矢雅弘、写真・水野義則) 朝日新聞

http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000119999991201

                    ◇

    ■証言者は「平和教育者」■

琉球新報の「沖縄戦特集<史実封殺> 届かぬ沖縄の心④」で証言をした宮城恒彦さん。

彼はこれまで何度か朝日の記事でも紹介されている。

朝日が紹介する『潮だまりの魚たち』(2004年6月発行)は、座間味島における著者宮城恒彦ほか多数の戦争体験者の証言集である。

著者自身が「集団自決」の生き残りであり、集団自決に触れられている箇所も多数ある。

が、同書では集団自決に関する梅沢命令あるいは軍命令には、伝聞も含め、全く触れられていない。

座間味島出身で集団自決の生き残りの証言集なら、当然これまでのマスコミが報じる集団自決を命じる“悪鬼”梅沢守備隊長を期待するのだが、そのような記述は一行も無い。

    ■「潮だまりの魚」に見る“悪鬼梅沢”と梅沢隊長の落差■

それどころか、集団自決発生の前後のエピソードとして、梅沢隊長が村民の女性らに山への避難を命じた記述(163頁)や、

あるいは戦闘により重傷を負った日本兵(少尉)が他の兵に対して、村の娘たちを無事親元に送り届けるよう指示した記述(167頁)などの、

軍による集団自決命令と完全に矛盾する人間的エピソードが、いくつも証言として載録されている。

これらの記述は、従来マスコミに流布している残虐非道な「悪鬼梅沢」とは全くかけ離れた普通の青年の行動が伺える。

これも、著者が、自身を含めた体験者の証言を丁寧に確認、記録した結果なのであろう。

このように、近年著される書籍においては、緻密な調査や史実の検証により、慶良間列島における集団自決については、部隊長命令あるいは軍命令によるものとはされないのが一般なのである。

より厳格に言うならば、学術的には軍命令で集団自決したという根拠は極めて薄いということになる。 

 

    ■真実と「平和教育」の狭間

その一方、元校長の宮城さんは「平和教育」との板ばさみなのか、

「軍命令」に関しては苦しい証言をしている。

<言葉としての命令だけでなく、強要や誘導、目に見えない命令があった>

「軍が直接命令をした」と言わずに「目に見えない命令があった」、

当時11歳の少年が「直接命令する軍人の姿」は理解できても、

「目に見えない命令」という抽象的な意味を理解できたとは思えない。

結局、宮城さんは多くの証言で「軍が命令して集団自決した」とは一言も証言していない。

>「自決の時、校長が合図をし、女性教師が手榴弾を投げた」

琉球新報特集でも次のように証言している。

<1945年3月26日の朝、宮城さんの家族が隠れていた壕に、気も狂わんばかりに逃げ込んできた女性が米軍上陸の様子を生々しく伝えた。  この言葉を引き金に「集団自決」が起こった>

いずれの証言も生々しい証言ではあるが、梅沢守備隊長の命令で自決したと決め付けるには根拠が乏しい。

せいぜい「目に見えない命令」とするのが精一杯だったのでしょう。

真実の証言とマスコミの煽動で揺れ動く心のあやが読み取れる証言だ。


    ■「歴史は政治で改ざんするものではない!」■

沖縄タイムスが異常な執念で同じ内容の社説を書き続けている。

何度議会を煽って、何度議決を繰り返しても「歴史の改ざんは出来ない」。

以下の社説のタイトルをそっくりお返ししたい。

社説【「検定撤回」再可決】歴史の改ざんを許すな (7月11日)

同じく琉球新報も7/11の夕刊は一面トップ、社会面トップの大見出しで「史実のわい曲」と来た。

「主体隠し」史実わい曲 教育関係者ら憤り  (7/11 9:42)

「歴史の改ざん」も「史実のわい曲」も沖縄の新聞ではすっかり手垢に塗れて陳腐な単語になり果ててしまったようだ。

これだけ連日紙面を使って大騒ぎするのなら、主張の対立する専門家、学者を総動員して紙面で大論争をする企画を組むのが新聞の本分だとおもうのだが、

沖縄の新聞は既に報道機関としての使命を忘れ去り、サヨク勢力のプロパガンダをその仕事としている。

その結果、「不都合な事実」は徹底的封殺し、偏った「市民運動」の走狗と成り果てている。

 

   ■沖縄の新聞に捧げる「二枚舌」(ダブル・トーク)の称号■

自らの主張に反する数々の証拠や証言は紙面から封殺する一方、都合の良い「証言者」だけの主張を連日取り上げ続ける。

学術的議論・検証を避けて、自分たちの主張だけは「紛れもない事実」と根拠無しに連日騒ぎ続ける。

「政治が検定に介入してはならない」と主張する一方、県議会の議決(政治の主張)が受け入れられるまでは検定に介入し続ける。

これだけで「二枚舌」の栄誉を受ける資格は充分だろう。

「歴史の改ざん」と「史実のわい曲」は鏡に映る己が姿ではないか。

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毎日新聞「沖縄をあざ笑うひろゆき氏 冷笑の裏にある植民地主義!」

2022-12-27 04:20:52 | 翁知事国連演説訴訟

 

 

 

毎日新聞「沖縄をあざ笑うひろゆき氏 冷笑の裏にある植民地主義!」→ ひろゆき氏のマジレスがコチラ → wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 
 
ひろゆき

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【ツイッターの反応】



 
@hirox246 変態毎日新聞の愚かな記事ですね。
 
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@hirox246 座り込みを始めて〇日って事なんでしょうね(笑)
 
 
@hirox246 ライブカメラがいいお仕事してくれそうww
 
 
@hirox246 まぁ、毎日新聞の記者はろくな日本語の文章が書けないんでしょうねw
 
 
@hirox246 まだやってんの?
 
 
@hirox246 活動家じゃなくて活動屋だからですかね
 
 
@hirox246 職業「市民」の連中なんだから、同情をかうのが商売。それを図星で言われたからヒステリーを起こしているのですよ。
まあ、沖縄人は純粋な日本人じゃありませんから(いや本人たちが言ってる)、そなメンタルは理解しがたいものですよ
 
 
@hirox246 事実を言えばシャベツになります
 
 
@hirox246 変な活動家は多いですね…知り合いの地元民で座り込みしてる人聞いた事ないしな
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★●14。:23426、11220第十二章 追い詰められた沖縄タイムス

2022-12-24 08:19:29 | 政治

第十二章 追い詰められた沖縄タイムス、原告必勝の「三点セット」

 

現代史家秦郁彦氏は、当初原告弁護団の一員であり、証言台に立つ予定であった。だが、余りにも楽観的な原告弁護団と意見が合わず自身が歴史専門家として証言台に立つことを拒否されたことを機に弁護団を辞め法廷外から支援するようになる。

秦郁彦さんは、大江訴訟敗訴の原因として裁判長の「ノーベル賞作家への配慮」など複数の要因を挙げているが、実は秦氏は「原告弁護団の力量不足」を挙げている

小田裁判長も認める歴史の専門家の意見なので、秦郁彦著『沖縄「集団自決」の謎と真実』(PHP研究所)から長いが該当部分を引用する。

2 原告団の力量不足

形勢不利と判断した被告の弁護団は支援勢力を動員して同調圧力を加え、軍命否定論者を次々に「転向」させた。それに対して形勢有利と信じた原告弁護団は対抗手段を怠った上、準備書面の不備や遅刻などで裁判官の心証を著しく害した。

宮平証言が新聞、雑誌で報じられ当然、本人が証人として登場するだろうと予想されていたのに、なぜか弁護団は申請しなかった。裁判官も意外に思ったのか、判決文で「訴訟代理人は、期日前には、当審で宮平秀幸の証人申請を求めるとしていたが。結局、証人申請は成されなかった」(240ページ)と述べている。証人調べをする予定を狂わせられた裁判所の強い不満を窺わせる。

裁判官の心中は窺い窺いようがないので、いずれも推測の域を出ないが、本格的審理に入る前から心証はほぼ決まっていた。つまり「最初から結論ありき」ではなかったか、というのが共通の前提になっているようだ。(略)いずれにせよ双方の言い分を検討した末に帰納したのではなく、被告勝訴と決め、その理由づけに苦心した演繹的判断だったとの印象を持つ。(略)泥棒にも三分の理という諺がある。だが、小田判決では原告側が提出した諸証拠はことごとく「信用しがたい」「採用できぬ」と退けられた。一分の理さえ認められなかったのである。 逆転ホームランか、と被告側が青くなった宮平秀幸の新証言(『沖縄「集団自決」の謎と真実』に収録)に至っては、「明らかに虚言」と名誉棄損にもなりかねない「暴言」で斬り捨てた。

これほどあからさまな一方的判決では、勝訴した被告側も薄気味が悪かったのだろう。

「大きな喜びです」(大江健三郎)、「わたしたちの主張をさらに進化させた」(秋山主任弁護士)と型通りのコメントに混じって、「個人の名誉にかかわる点が争点でコメントしにくいが、棄却という判断をそのまま受け止めたい。県民の気持ちを裁判所がちゃんと考えて判断したことだ。大江さんの本の中で、県民の気持ちがある程度そういうものだろうと判断していただいた点は、ちょっとほっとする点があるのではないか」(『沖縄タイムス』11月1日付、傍点は筆者、以下同じ)という仲井真沖縄県知事のコメントが心に響いた。歯切れは良くないが、発言の隅々まで神経が行き届いた感があり、「この人は何もかも分かっているんだなあ」と感じ取れたからである。

 

原告必勝の「三点セット」

法廷に提出されない証言や証拠、あるいは裁判長に提出を否定された証言や証拠は、内容が如何に確定的でも証拠能力を持たない。

大江岩波訴訟で、被告側が青ざめたとされる「宮平証言」は、何故か法廷には提出されなかった。

現代史家秦郁彦さんの裁判に対するコメントをしばし聞いてみよう。

≪二人の原告のうち赤松は個人だが、座間味の梅澤隊長はかつて『鉄の暴風』で「慰安婦と心中死した」と事実無根のスキャンダルを書かれたのに90歳の高齢ながら心身共に衰えを見せず法廷に出ているからやりずらい相手だ。しかも隊長命令を否認する故宮城初枝の手記、故宮村幸延の「詫び状」、宮平秀幸証言の三点セットが揃っているから、それを突き崩すのは容易ではない。そのうえ三点セットを採用すれば、「自決するな」と命じたとする梅澤供述迄が生きてくることになる。そこで本人の直筆、捺印とは言え詫び状は宿泊客の梅澤が旅館主の幸延を泡盛で酔わせむりやり書かせた、初枝手記は一応信頼できるが、公判中(ママ)に被告側へ寝返った娘の晴美が『母の遺したもの』ので、実母の手記を部分的に否認したので相殺できる。梅澤供述を裏づける宮平証言は、「明らかに虚言」と強引に切りすてるしかないというのが、私なりの推測である。≫(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』PHP研究所)

 

■宮村幸延ー座間味村援護係が「詫び状」/「隊長命令」申請を謝罪

 その頃、梅澤氏は、マスコミにより「慶良間島で住民に自決命令を出した残虐非道の隊長」との汚名を着せられ、家族崩壊の危機にあった。せめて家族にだけも汚名を晴らしたいと考えた梅澤氏は、援護法の真実を記した「侘び状」を宮村幸延に要求する。梅沢氏の許可なく「隊長命令による」 と書いた贖罪意識にさいなまされた幸延氏は、言われた通り自筆押印の「侘び状」を書いて梅澤氏に手渡した。
 この「侘び状」が後になって「大江・岩波集団自決訴訟」の原告側の証拠物件として提出されるのである。


 通常、民事裁判で争われる事例では、契約の「有効」か「無効」かを争う場合が多い。本人が自筆押印した書類があれば、絶対的な証拠となる。

大江岩波訴訟で「軍命派」の支援者でありながら、梅澤隊長に謝罪文を書き、その一方援護法の適用に奔走した宮村幸延氏について解説しよう。


宮村幸延(戦後、宮里より改姓)氏は、座間味村の遺族会長であり、当時の援護係として「座間味戦記」を取りまとめた人物である。座間味島の守備隊長を務めた梅澤裕氏らが作家の大江健三郎氏と岩波裁判を相手取った「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側に立って証言した人物だ。

終戦を福岡で迎えた幸延氏は、故郷の座間味村に帰ると、長男の盛秀を含む兄弟4人のうち3人が戦死したことを知る。しかも、助役を務め兵事主任を兼任していた盛秀は集団自決を先導した張本人と噂されていた。宮城晴美著「母の遺したもの」(高文研)によると、宮里助役は梅澤隊長に自決用の爆薬を求めた村の有力者の一人。村役場に常備されていた銃と銃弾帯を常に携帯し、16歳以上の若者で組織された民間防衛隊の隊長を務め、軍人より軍人らしい民間人といわれていたという。 座間味村役所の援護係となった幸延氏は、補償申請の書類を遺族に代わって書き、厚生省援護局へ郵送した。ところが、書類が全部送り返されてきた。
 

業を煮やした幸延氏は、厚生省との直談判のため何度も上京をした。その結果、0歳児を含め6歳未満も、昭和38年以降、準軍属として確定する。こうした努力について、座間味村役所は昭和41年功労者としてとして表彰している。
 

昭和56年、幸延氏は座間味村の慰霊祭の日、梅澤氏と鉢合わせた。援護金申請書に「隊長命令による自決」と記入し、多額の給付金受給の手続きをした張本人が、梅澤隊長の姿を見て動揺したことは想像に難くない。


 この「詫び状」が後になって「大江・岩波集団自決訴訟」の原告側の証拠資料として提出された。

 

■宮村が「侘び状」を書いた理由■

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。

座間味村役所の援護担当の宮村氏は、『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していた。

そして、宮村氏は、『鉄の暴風』に「不明死」と記載され、「死んだ」はずの梅澤さんが目前に現れ生きていると知って驚天動地の心境に陥った。

何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたのだから、「公金横領」、少なくとも公文書偽造の個人責任はまぬかれない。

梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのだろう。

ところが、宮村氏はその後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻す。

その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力があった。

■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■

それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できる。

その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。

ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。

梅澤さんは昭和63年(1988年)111日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。

「軍命派」の総本山の沖縄タイムスは、梅澤さんの「誤記」に対する謝罪要求に動揺した。

だが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。

沖縄タイムスがこれまでまき散らした「軍命による集団自決」というタイムス史観が根底から覆るからだ。

詫び状は沖縄タイムス史観の瓦解

沖縄タイムスは次のように考えた。

富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題である。 

だが梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。

そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。

そこで、タイムスは時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。

驚いたのは座間味村当局。 

宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。

そこで苦渋の結果考え出した結果はこうだった。

最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた。記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。

沖縄タイムスの問い合わせが同年の113日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。

結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、沖縄タイムスの新川明氏を安堵させることになる。

10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。

そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えた。

沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。

「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。

■梅澤さんの心境

「集団自決を命じた男」として濡れ衣を着せられていた梅澤さんは、次の二つの理由で「汚名返上」と心の余裕があり、「梅澤軍命説」の元凶沖縄タイムスに対しても寛大であった。

①梅澤さんは、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている。

②宮村氏の「侘び状」まで得た。

梅澤さんの寛大な心境は、座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。(梅澤さんの生前、実際本人に確認済)

「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)

その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もしていない。

したがって、このような余裕の発言をして、村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。

事実その後交渉は打ち切られている。

 

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⑦13097、第四章 歴史か講談か、曽野綾子vs太田朝博の討論

2022-12-23 09:04:19 | 政治

 

 

 

第四章 歴史か講談か、曽野綾子vs太田朝博の討論

■曽野対太田の討論「歴史か講談」

『ある神話の背景』を出版した作家の曽野綾子は、伊佐良博記者が書いた『鉄の暴風』を指して、語気を荒だてた。

「これは歴史ではない。講談です。」

曽野は、沖縄タイムス紙上で行われた太田良博記者との対談で、太田記者が伝聞のみで書き上げた『鉄の暴風』を、沖縄戦記ではなく講談と言い切った。

曽野は、以前から『鉄の暴風』の描写を「文学的」などと皮肉っていた。 それを「講談」と断言したのは、曽野の脳裏に「講釈師見てきたような嘘を言う」というフレーズが過ったのだろう。

「講談」を簡単に説明すると、語呂の良い言葉の羅列の合間に、張り扇で釈台をパンパンと調子良く叩き、武勇伝や人情物語などを語り聞かせる寄席演芸のこと。現代でも用いられる慣用句として、他にも「講釈師 扇で嘘を叩き出し」などもあり、嘘でも実(まこと)しやかに本当のことと思わせるその話芸は、現代版スポーツ新聞の感覚に近い。

曽野が『鉄の暴風』を講談と指摘したのはの中の次の部分だ。

「住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入り口に立ちはだかって『住民はこの壕に入るべからず』と厳しく身を構え、住民たちをにらみつけていた」

確かに現地取材もせずこのような描写ができるのは「見てきたような嘘を吐く講講釈師」と言われても仕方がない。

本来、裏付け取材が必要な『鉄の暴風』の執筆に際し、太田記者は事件の現場で取材することなく「見てきたよう」に記事を書いた。それに対し、創作を生業とする作家の曽野綾子が新聞記者の常識ともいえる裏付け取材を足で稼いでまとめ上げ、そして『ある神話の背景』を出版した。 両者の執筆手法は、二人の職業の性質から言っても極めて対照的だった。 そして作家の大江健三郎が、太田記者の「講談」に尾ひれを付け、「見てきたよう」に書かれた「講談」は、さらに尾ひれが付いて話は膨らんでいく。

 

作家の大江健三郎は、太田記者が書き上げた『鉄の暴風』という「講談」を種本にして、自身も一度も現地取材せずに『沖縄ノート』を出版する。 そして「講談」に登場する主人公を、罵詈雑言の上「残虐非道」な極悪人として描く。 そのため、集団自決論争は白熱を帯び、遂には裁判沙汰にまで発展することになる。

 

昭和258月発行の『鉄の暴風』は渡嘉敷島での集団自決を次のように描いている。

 

「轟然たる不気味な轟音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして――男、女、老人、子供、嬰児――の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いにこん棒で、うち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた」。

執筆者の太田良博記者が伝聞のみで書き上げた『鉄の暴風』が、後に「軍命があったか否か」で県内外を二分する大論争に発展する。

ことの発端は『鉄の暴風』の次の記述であった。

「日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで闘いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねぱならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」

米軍の占領統治下に発行された『鉄の暴風』は米軍のヒューマニズムを謳いあげ、その一方、日本軍の描写は、憎悪を剥き出しに表現する物語風の文体で貫かれている。

そこに描かれた「軍命令による集団自決」という主張は、GHQが日本人に刷り込もうとした「非人間的な日本軍」というプロパガンダに見事に合致していた。そして、あたかも目撃証人が語るかのように物語風の表現が効果的で、沖縄戦記として沖縄県民に読まれることになる。

 

それは後に「大江岩波訴訟」の標的となった岩波書店発刊の大江健三郎著『沖縄ノート』をはじめ、上地一史著『沖縄戦史』、山川泰邦著『秘録沖縄戦史』、嘉陽安男著『沖縄県史第8巻各論篇7』といったほとんどすべての沖縄戦史に引用され、新聞、週刊誌、テレビ報道の根拠となって、「沖縄戦史のバイブル」とまで言われた。 

ここで一言補足すると、曽野は自著『ある神話の背景』で、「軍命があった」とも「無かった」とも明示していない。

それどころか「軍命」を示す確定的証拠が出てきたら自説を訂正すると述べている。

 

続いて「講釈師」太田良博記者と作家曽野綾子との白熱した対談を期待するのが本文構成の流れだろうが、曽野綾子の意を汲んでしばらく「講談」の解説を続けよう。


昭和20(1945)年3月27日、米軍は沖縄の西にある渡嘉敷島に上陸した。

『鉄の暴風』の戦記描写は、曽野の言葉を借りると「見てきたよう」な「講談」の名調子だが、講談を知らない読者にとってはまるで映画の一シーンでも見ているようなドラマチックな場面である。

赤松隊長が軍命を下す重要な場面に登場し「悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」と描かれている沖縄出身の知念少尉は、後に次のように証言している。

「渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘ばかり書くから、私は読んでいませんよ。」


『鉄の暴風』で、描かれている知念少尉は『鉄の暴風』の編著者である沖縄タイムスから、一度も取材されたことがないと証言し、「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と言う。そして住民自決という「軍命」があったことを真っ向から否定した。

曽野が喝破する「講談本」から、「住民自決命令」という「講談」が一人歩きして、教科書に載ることになる。 そこで、この沖縄タイムスの「見てきたような嘘」を、誰がどのような過程で創作したのか検証してみよう。


「思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」

先ず『鉄の暴風』が描く「見てきたよう」な場面を、振り返ってみよう。 赤松大尉による住民自決の「軍命」が伝えられ、そして集団自決が実行された最も重要な場面である。

 恩納河原(おんながわら)に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。

「こと、ここにいたっては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから全員玉砕する」というのである。(中略)

住民たちは死場所を選んで、各親族同志が一塊(かたまり)り塊り(原文のママ)になって、集まった。手榴弾を手にした族長(ママ)や家長が「みんな笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。

 住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。

 手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然(ごうぜん)たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、--男、女、子供、嬰児(えいじ)--の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻(あび)叫喚の光景が、くりひろげられた。

死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀(かみそり)で、自らの頸部(けいぶ)を切ったり、鍬(くわ)で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、、世にも恐ろしい情景が、 あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納 河原の谷水は、ために血にそまっていた≫

■安里巡査の反論「あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」

 実際に地元の駐在巡査として村民と行動を共にし、赤松大尉と接触もあった安里(あさと)喜順(後に比嘉と改名)は、沖縄タイムスから一度も取材を受けていないという。

 

安里巡査は、「赤松大尉が軍命を出した」と報道した沖縄タイムスを鵜呑みにした元厚生省調査団の徳嵩氏に反論の手紙を出した。

 

安里巡査の手紙は、集団自決の現場に居合わせた証人のに直接の取材に相当する歴史的一次資料なので、長文だが引用する。



■比嘉喜順巡査の手紙

それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。(略)

それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。(略)それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。

 


戦後一貫して沖縄に在住した安里巡査を沖縄タイムス等地元メディアは一度も取材していない。だが、県外のジャーナリスト鴨野守氏や『うらそえ文藝』の星雅彦編集長は安里巡査に複数回取材している。 安里巡査によれば、自分は赴任したばかりで島の地理に疎いので、赤松隊長に村民の避難場所を尋ねたところ、「作戦の邪魔にならない、部隊近くのどこか安全なところに避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」と答えた。

しかし集まった村の幹部たちは、米軍の艦砲射撃の爆音で動揺しており、自決した方が良いという結論になった。自決が始まったが、手榴弾の使い方が分からない人がいたり、不発弾も多く、自決に失敗した村民たちが部隊の陣地になだれ込み、銃を貸してくれと頼んだ。 赤松部隊は村民の要請を拒否したが、そこに米軍の迫撃砲が撃ち込まれ、約60人が死亡しそれを見て皆われに返った。

 赤松隊長は自決の知らせに驚き、「早まったことをしてくれた」と嘆いたという。米軍が上陸すると、赤松隊長は軍の食料の半分を民間と分け、安里氏はその分配に立ち会った。「部隊は最後まで頑張る。あなたがたは、このあるだけを食べて、あとは蘇鉄(そてつ)でも食べて生きられるだけ生きなさい」と言った。

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★琉球新報の原稿削除の経緯。「全体主義の沖縄」狙われる沖縄、雑誌「WILL」で暴露!

2022-12-23 00:37:57 | ★原稿

 

 

 

 

「全体主義の沖縄」、雑誌「WILL」で暴露!2011-01-31

沖縄集団自決「軍の命令ではない」 地元誌が特集記事
産経新聞 2009.6.10

上原氏は長く「鉄の暴風」を疑ったことがなく、現地調査した作家の曽野綾子氏が1973年に「ある神話の背景」で疑問を呈したさいも、軍命による集団自決を事実として信じて疑わなかった。ところが、沖縄タイムスや琉球新報などで沖縄戦に関連した連載記事を書くうちに、新たな住民の証言や米軍の報告書などを入手、「(『鉄の暴風』は)現地調査しないまま軍命による集団自決をでっち上げたという結論に達した」という。

 上原氏によると、こうした結論を2年前に琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」と説明している。

 また、星氏も沖縄県史編纂(へんさん)で40年ほど前に、集団自決事件の起きた渡嘉敷島を訪問した際、住民の話から軍命の存在に疑問を抱いたが、「鉄の暴風」が沖縄県民の間で定着し、疑問を差し挟めない状況だった。しかし、「今回は勇気を持って真実を知らせるべきと決心した」と、話している。

 富田詢一・琉球新報社編集局長の話「上原氏への圧力はありません」

                        ◇ 

■琉球新報の言論封殺、雑誌「WILL」が暴露!

星、上原両氏の勇気ある告発にも関わらず、沖縄メディアは己が行った言論封殺を否定している。

だが、次に述べるように、筆者(狼魔人)は、何時でも琉球新報の言論封殺を読者として体感しており、法廷でも証言できる立場にある。

当時、筆者は琉球新報を購読し、上原氏の問題の連載記事を愛読していた。

 ところが、琉球新報は読者に一言の断りもなく同連載を「無期限中止」にした。 

筆者は何度も琉球新報に問い合わせの電話をした。

だが、対応した新報職員は中止の理由はもちろん、再開するかどうかについても納得できる説明はできず、「目下調整中」の一言しかなかった。 

その詳しい経緯については当日記でもしつこくエントリーしてある。

⇒ 【再掲】琉球新報の言論封殺に抗議します

琉球新報の上原正稔氏についての言論封殺については、さらには筆者(狼魔人)は、その年(2007年)の月刊誌『WILL』8月増刊号でも「偏向報道ウォッチング これが沖縄の言論封殺」と題する小論を書いている。

月刊誌『WILL』の一部を引用するとこうだ。

・・・平成19年6月19日は、琉球新報の長期特集記事(火曜から土曜の夕刊に掲載)の第二話「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の掲載予定日であった。 第一話「みんないなくなった 伊江島戦」が前日で終了、19日からは第二話「慶良間で何が起きたか」が始まる予定であった。 筆者上原正稔氏は掲載日の前、知人に「集団自決」に関するもので、圧力に屈することなく執筆する」と語っていたと聞いた。
「集団自決」というテーマは地元二紙を中心に沖縄メディアが“民意”を煽っている最もホットなテーマのはずだった。 言うまでもなく慶良間とは「集団自決」に関する「軍命令の有無」が問題になっている座間味島と渡嘉敷島を含む、慶良間諸島のことを指す。 
だが、その特集記事は、読者に何の断りもなく、突然、中止になった。執筆者あるいは新聞社側の「お知らせ」や「弁明」等は一行も掲載されていなかった。 
地元を代表する新聞が、「集団自決」に関する連載記事を突然中止したことに対しては当然、いろんな憶測が飛び交った。
「新聞を中心に展開されている教科書検定運動に水をかけることになる内容になるため」だとか、「編集担当者の態度に変化があり、今回の事態になった」とも言われた。 偏向記事で知られる沖縄紙ではあるが、連載中止という非常手段に打ってでるのはよっぽどのことがあったに違いない。 
上原氏の連載が中止された日の朝刊、文化面のトップに林博史関東学院大学教授の「沖縄戦」特集の第一回目が掲載されていた。 林教授といえば日本軍は残虐非道だと糾弾するサヨク学者で、「集団自決訴訟」でも被告側の証拠を収集したことで知られている。
上原氏の記事「慶良間で何が起きたか」には、一体、琉球新報を動揺させるどんな内容が書かれていたのだろうか。(月刊誌『WILL』より)

上原氏の封殺された原稿には、まさに琉球新報が動揺するような「慶良間島の真実」が描かれていたのである。

上原氏は琉球新報のあからさまな言論封殺に遭い、遂に地元の文芸誌『うらそえ文藝』に「慶良間島で何が起きたか」の内容を発表するという非常手段に訴えたのだ。

ところが沖縄二紙は、『うらそえ文藝』が発刊された後一か月経過しても黙殺を続けた。

上原氏は沖縄二紙の黙殺という卑怯な態度に業を煮やし、記者会見に踏み切った。

さて、琉球新報に突然の連載中止を受けた後、琉球新報は読者に向かってその顛末をどのように説明したのか。

当日記はこれについても、しつこくエントリーしている。

 ⇒再開された上原正稔氏の特集  パンドラの箱は開くか?

四ヶ月にも渡る長期中断の後(その間に「11万人集会」が行われた)、連載再開に当たって琉球新報は連載中止には一言も説明せず、卑怯にも執筆者の上原氏に苦しい弁解を強いてお茶を濁した。

『WILL』にその後の経緯についても書いてあるので、引き続き同記事を引用する。

10月16日、連載再会の冒頭で、執筆者の上原氏は次のような弁明をした。《「パンドラの箱の順序も中身もちょっと変更を加えることにしたのでご了承お願いしたい。 だが、読者が「あっ」と驚く話が続くことには何ら変わりはない》
前述のように事前の予告では「慶良間で何が起こったか」を明らかにし、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだった。 
しかし、再開した上原氏の原稿タイトルは「軍政チームは何をしたか」であった。 「集団自決」が起きた1945年3月下旬の慶良間を飛び越えて、4月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間に何が起こったか」については触れていない。(『WILL』より)

では、問題の『うらそえ文藝』で上原氏は自分が琉球新報から受けた言論封殺をどのように語っているのか。

 そうですね。現在でもある意味では統制されているわけですからね。

 上原 もう完全に右も左も統制です。僕は琉球新報のⅯ(※)記者たちに「パンドラの箱…」の掲載をストップさせられた。怒鳴りつけてやった。「君らは表現の自由を知ってるか」ってね。しかし動じる様子もなかった。連載は二〇〇七年四月から四ケ月も中断した。

  社の方針に反するということだろうね。それはまたその人たちも統制の枠の中にいるってことだが、意識してないかもしれない。

 上原 彼らはまず沖縄の知識人、自分たちは文化人だと思い込んでいるんですよ。それで自分たちの発言や行動はすべて正しいと思っているわけです。

 星 正しいかどうかは何十年か何百年か経たないと分からない。

 上原 いつも彼等は正しいと思ってる。だから、僕が本当のことを書こうとしたら、もう読みもしないうちからストップかけるわけです。これは新報の編集方針に反するからといってね。僕は二回にわたって四人組の記者から吊し上げられ、連載を申止させられた。一番腹が立ったのはM記者だったが、彼も新聞社をバックに空威張りしたのにすぎない。彼等も統制のオリの中にいるわけですよ。

注(※)Ⅿ記者とは当時上原さんの原稿を担当していた前泊盛博記者。

前泊記者は上原さんを言論封殺した功績で、沖縄国際大学教授に出世している。

一方上原さんを批判する沖縄タイムスの屋良朝博記者はめでたく国会議員に出世した。

一方、上原さんを支援した星雅彦さんは琉球新報・沖縄タイムスへの連載を断られ失職中である。

             ★

産経新聞はどのように報道したか。

産経新聞の那覇支局は、県庁近くの琉球新報の旧本社社屋内に事務所を間借りしている。 

沖縄タイムス社内に事務所を構える朝日新聞那覇支局なら、お互いに同じ論調なので問題はないが、琉球新報が大家さんに当たる産経那覇支局としては、大家が報道しない記者会見を報じるのは大家の顔に泥を塗るとになるとでも思ったのか、昨日の記事でも記者会見そのものについては触れていない。

だが、産経は昨日の記事で、上原氏が琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」というくだりに関して、富田詢一・琉球新報社編集局長の裏付けのコメントを取っている。

当然のごとく琉球新報の富田詢一・編集局長は「上原氏への圧力はありません」と上原氏の発言を否定している。

だが執筆者の上原さんが前日に予告までした最も書きたい記事、同時に読者も最も読みたがっていた記事が掲載予定日になって、何の断りもなく「無期中断」を強いられた。 富田編集局長は、これが新聞社の圧力でなければ一体誰の圧力だったと強弁するつもりか。

この「圧力の有無」で訴訟が起きるとは思わないが、その時は「狼魔人日記」と『WILL』の記事が大きな証拠物となるであろう。(笑)

【追記】(その後、上原さんは琉球新報を提訴している)

上原さんの勝訴確定については、次回掲載。

何しろ電話で問い合わせたときの新報職員の動揺ぶりはただ事ではなかった。

なお『WILL』(2008年8月増刊号)の記事にはほかにも、小林よしのり氏が琉球新報の罠にかかって、沖縄紙を根城にする「サヨク知識人」たちに袋叩きに遭う様子も「罠にかかった小林よしのり」という項目を設けて書いているので、興味のある方は一読をお願いしたい。

 

今回の星、上原両氏の沖縄マスコミへの挑戦に対して、沖縄タイムスや琉球新報に相手にされないのでその鬱憤晴らしの記者会見といったデマを流しているサヨクブログがある。

両氏は、少なくとも沖縄では知名人であり、上原氏は琉球新報に長期連載記事を書いていたし、星氏は沖縄紙の文化面の常連ともいえるほど頻繁にその論が掲載されており、昭和44年3月には第3回沖縄タイムス芸術選賞奨励賞を受賞しているくらいで、両氏とも沖縄メディアに冷たくされるどころか、大変重宝されていた知識人である。 

サヨクブログの誹謗は両氏の勇気ある発言に動揺し、これに反論しようとしても、やっかみと中傷の暴言を吐く以外に打つ手がないのであろう。これをゴマメの歯軋りと人はいう。

沖縄県庁での記者会見の内容を、地元紙が黙殺し、ほとんどの県民はつんぼ桟敷に置かれている。 わずかに全国紙を購読している一部の県民が会見の模様を全国紙で知るという異常な事態が沖縄の言論空間である。

これこそ沖縄が「全体主義の島」と呼ばれる所以である。

 

沖縄戦「集団自決」
狙われる沖縄

■目次 
 緊急特別対談 
■田久保忠衛×櫻井よしこ
「沖縄的なるもの」の正体

■渡部昇一
歴史教育を歪めるもの

 梅澤少佐独占手記 
■梅澤裕 (聞き手・鴨野守)
私は集団自決など命じていない

■藤岡信勝
教科書記述問題の決定版
文科省再検定で大膨張する反軍記述

■曽野綾子
強制された死か、個人の尊厳か

■鴨野守
村民多数を手にかけた
「悲劇の証人」金城牧師

 【特集】大江健三郎に問う! 
■曽野綾子
神の座に就いた作家と裁判官
■藤岡信勝
大江健三郎“勝訴”の深見判決を斬る
■徳永信一
ノーベル賞作家のまやかしのレトリック
■松本藤一
大江健三郎と岩波書店は不誠実だ
■松本藤一
沖縄の言論封鎖で住民は再び殺される
■飯嶋七生
母の「遺言」はなぜ改変されたか

 「反日」の沖縄 
■藤岡信勝・鴨野守
沖縄タイムスの「不都合な真実」
■皆本義博
渡嘉敷島、中隊長が語る「集団自決」の現場
■奥 茂治
沖縄タイムスを使った米軍の住民洗脳工作
■勝岡寛次
米軍の「心理作戦」で日本軍は沖縄の敵となった
江崎 孝
偏向ウォッチング これは沖縄の言論封殺だ

■グラビア特集
沖縄の「戦争」

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