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民主主義というものは面倒なもの。
時折回り道を強いる。
民主政治と衆愚政治は背中合わせ。
民意の巨塊は賢者の知恵を示すが、時には愚者の楽園に雪崩れ込む。
逢魔が時の、逢魔が辻では、
賢者も己を失う。
*
保守系ブログを自認する当日記が、八月に入ってからほとんど選挙関連のエントリーをしなかった。
マスコミの異常とも思える選挙介入に、もはや正常な民意は期待できないと感じたからだ。
これを「民主党への風」が吹いたと称する人がいるが、そんな生易しいものではない。
自民党支持者の中にも、今回はお灸をすえて民主党に入れてみるか、という人が多かったと聞く。
ところが,皆でお灸をすえたら、ガソリンを撒くヤツがいた。
そこに風が吹いたらたまったものではない。
家そのものが燃えてしまった。
だが、炎上ついでに長年家に住みついたダニやシロアリも焼き尽くして欲しかった。
山崎拓は焼死したが、加藤紘一、、二階俊博、中川秀直、古賀誠などが生き残ったのが残念だ。
全焼を奇禍として腐れ縁の同居人・公明党と決別し、真正保守を目指し捲土重来を期して欲しい。
民主主義に回り道はつきものである。
【独り言】小泉チルドレンに代わって、今度は小沢チルドレンの時代だとマスコミは騒いでいるが、何故鳩山チルドレンではないの?
◆
前稿で、那覇空港で繰り広げられた「赤松隊長vs渡嘉敷」の憎悪、というウソの構図を、空港に出迎えに来ていた玉井喜八渡嘉敷村長が、「赤松隊長が慰霊祭に参加できなかったのは残念だった。 村民と赤松隊員との信頼関係が出来たのは良かった」といった主旨の随想を寄稿した村内のミニコミ誌を紹介した。
同時に「手榴弾証言」で有名な富山眞順氏も別のミニコミ誌に、手記を寄稿していると書いた。
複数の知人からその手記を紹介して欲しいとの要望があった。その手記は次のエントリーで紹介済みであるが、同エントリーを一部編集して再掲する。
戦時中、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた旧軍人たちが、慰霊祭等の参加の為、島を訪れて島の人々と親しく交流する話はよく聞くが、これが地元の新聞で報じられることはない。
地元紙が報じるイメージとは、島を訪問した「残虐非道の旧軍人たち」に対して、村人たちが「人殺し!」「帰れ!」といった怒声を浴びせる憎悪のシーンであり、
このような対立構図があってこそ報道価値がある。
「住民と旧軍人の親しげな交流」など、間違っても記事になる話ではないのだ。
京都国体を見学に行った座間味の老人会グループが、ついでに旧軍人を訪ねて旧交を温めた話は以前に書いた。
『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。
渡嘉敷港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。
旧軍人と住民の暖かい交流を示す証拠写真である。
星雅彦氏は、1970年3月27日の渡嘉敷港でおそらくはこれと同じような光景を目撃して、「軍命はなかった」という確信を持ったのだろう。
◇
富山眞順氏は、老人クラブ記念誌の他にも手記を寄稿している。
マスコミの呪縛を解かれた富山氏のミニコミに託した「本音」を読み取ってみよう。
同手記は「続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係」で紹介したが,集団自決の翌日の富山氏と赤松隊長との関係を知る上で貴重な資料故、再度以下に引用する。
◇
富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」
渡嘉敷漁協創立90周年記念誌(平成5年4月発行) ※(29日)等()書きは挿入
略…元嘉豊丸組合当時の加工場は補助金により建築された建物で周囲はコンクリート流し込みで、屋根は赤瓦葺で頑丈な建物であったが今時大戦で鈴木部隊の食料米倉庫であったため白米を加工場一杯積み込んでいたのを米軍により食料と共に焼かれました。
私は村民玉砕の翌日(29日)、故赤松隊長の命令を受けて渡嘉敷港海岸の加工場に食料、特に白米を保管してあるから敵前線を突破して兵員200名を誘導して加工場にある白米を確保してこいと命じられた。赤松隊長は更に部隊の前方50m程度を隠密に先行してうまく誘導し成功させよと命令されたので夜の9時を期して出発した。誘導案内はイシッピ川の高淵までの命令であったので、そこへ来ると加工場の2ヶ所嘉豊丸、源三丸加工場は石炭火の如くお米が真っ赤に燃えている。記念運動場も飯盒炊事の後が燃えている。(略)
暫く休んでから、斥候長が私に「何か要望はないか」と問われたので「あります」といって、村民玉砕で乳飲み子の母親が戦死して、空腹で泣く子供達が居るので農協の倉庫に粉ミルクがあるだろうから運搬を協力してほしいと要望した。部隊の200名を呼んで粉ミルクを担ぎに行きました。ところがそこには粉ミルクどころか何一つなく、部隊に戻ったときはすでに夜明になっていた。(30日朝)
赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵(吉川)勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したのかと喜んだ。
暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。
赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません。…以下省略
◇
この手記(随想)が書かれた平成5年(1993年)は、「富山証言」(1990年)の三年後であるが、「自決を命じた旧軍人への憎悪」は少しも感じ取ることは出来ない。
いや、むしろ「鬼の赤松」が手榴弾による自決命令を出し、自決が実行された日(29日)の翌日(30日)にしては、この手記でも富山氏と赤松隊長との関係はいたって良好のようである。
富山氏と赤松隊長の関係は、後に(戦後45年経って)「富山証言」(手榴弾による自決命令説)をする関係とは到底信じることは出来ない。
やはり「富山証言」は戦後45年経って、ある目的を持った勢力に強制され、心ならずも証言させられたと言わざるを得ない。
なお後に吉川に改姓した役場職員は、沖縄タイムスのインタビューに答えて「耳打ち」するのを聞いて、「それが軍命だった」と細木数子もビックリの証言するのだから、富山証言もまだカワイイ部類に入るのかも知れない。
吉川勇助証言⇒(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」
爆音の中で、耳打ちするのを傍で目撃し、(勿論、本人は聞こえない)それを「軍命だった」と言い当てるのだから、細木先生もビックリでしょう。
なお、戦後語り部として「軍命」を主張している吉川嘉勝氏は吉川勇氏の実弟。⇒(13)母「生きよう」脳裏に鮮明
更にこの二人の証言を取材した沖縄タイムスの謝花直美記者は、元渡嘉敷中学校長の吉川嘉勝氏の教え子であるというから、「軍命あり派」の人脈は濃密に繋がっている。
【おまけ】
原告準備書面(4)全文2006年9月1日
3 手榴弾配布=軍命令説の破綻
渡嘉敷島での《赤松命令説》について被告らが主張する軍命令の根拠は、詰まるところ、米軍上陸前の3月20日に手榴弾が配布されたという富山真順の証言に尽きるようである。
富山真順の証言が信用性に重大な疑問があり、その内容は真実であるとはいえないことは、既に原告準備書面(3)に主張したとおりである。そしてまた、仮に、それが真実だとしても、自決命令の根拠になりえないことも、そこで主張したとおりである。
被告大江健三郎と同じく、旧日本軍の残虐さを指弾し、終始沖縄の側にたつ姿勢を示してきた大江志及夫も、その著書『花栞の海辺から』(甲B36)に、手榴弾の配布があったことを前提にしながらも、「赤松隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」とする。
同様に林博史もその著書『沖縄戦と民衆』(甲B37)のなかで、3月20日の手榴弾配布があったという富山証言を何の留保もなく鵜呑みしながらも、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令はだされていないと考えられる」としている。
米軍上陸前の手榴弾の配布が、仮にそれが事実であったとしても、《赤松命令説》の根拠となりえないことは、これらの著作の記述からも明らかである。
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