狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

富山眞順氏の本音 ミニコミ誌で吐露  愚者の楽園

2009-08-31 07:46:17 | ★米兵事件

 

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民主主義というものは面倒なもの。

時折回り道を強いる。

民主政治と衆愚政治は背中合わせ。

民意の巨塊は賢者の知恵を示すが、時には愚者の楽園に雪崩れ込む。

逢魔が時の、逢魔が辻では、

賢者も己を失う。

                   *

保守系ブログを自認する当日記が、八月に入ってからほとんど選挙関連のエントリーをしなかった。

マスコミの異常とも思える選挙介入に、もはや正常な民意は期待できないと感じたからだ。

これを「民主党への風」が吹いたと称する人がいるが、そんな生易しいものではない。

自民党支持者の中にも、今回はお灸をすえて民主党に入れてみるか、という人が多かったと聞く。

ところが,皆でお灸をすえたら、ガソリンを撒くヤツがいた。

そこに風が吹いたらたまったものではない。

家そのものが燃えてしまった。

だが、炎上ついでに長年家に住みついたダニやシロアリも焼き尽くして欲しかった。

山崎拓は焼死したが、加藤紘一、、二階俊博、中川秀直、古賀誠などが生き残ったのが残念だ。

全焼を奇禍として腐れ縁の同居人・公明党と決別し、真正保守を目指し捲土重来を期して欲しい。

民主主義に回り道はつきものである。

 

【独り言】小泉チルドレンに代わって、今度は小沢チルドレンの時代だとマスコミは騒いでいるが、何故鳩山チルドレンではないの?

                  ◆

 

前稿で、那覇空港で繰り広げられた「赤松隊長vs渡嘉敷」の憎悪、というウソの構図を、空港に出迎えに来ていた玉井喜八渡嘉敷村長が、「赤松隊長が慰霊祭に参加できなかったのは残念だった。 村民と赤松隊員との信頼関係が出来たのは良かった」といった主旨の随想を寄稿した村内のミニコミ誌を紹介した。

同時に「手榴弾証言」で有名な富山眞順氏も別のミニコミ誌に、手記を寄稿していると書いた。

複数の知人からその手記を紹介して欲しいとの要望があった。その手記は次のエントリーで紹介済みであるが、同エントリーを一部編集して再掲する。

続・強制された富山証言 もう一つの富山眞順手記

戦時中、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた旧軍人たちが、慰霊祭等の参加の為、島を訪れて島の人々と親しく交流する話はよく聞くが、これが地元の新聞で報じられることはない。

地元紙が報じるイメージとは、島を訪問した「残虐非道の旧軍人たち」に対して、村人たちが「人殺し!」「帰れ!」といった怒声を浴びせる憎悪のシーンであり、

このような対立構図があってこそ報道価値がある。

「住民と旧軍人の親しげな交流」など、間違っても記事になる話ではないのだ。

京都国体を見学に行った座間味の老人会グループが、ついでに旧軍人を訪ねて旧交を温めた話は以前に書いた。

「もうやめなさい!」 パニックに瀕した長老たちの悲劇

 『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。

渡嘉敷港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

旧軍人と住民の暖かい交流を示す証拠写真である。

星雅彦氏は、1970年3月27日の渡嘉敷港でおそらくはこれと同じような光景を目撃して、「軍命はなかった」という確信を持ったのだろう。

                                    ◇

富山眞順氏は、老人クラブ記念誌の他にも手記を寄稿している。

マスコミの呪縛を解かれた富山氏のミニコミに託した「本音」を読み取ってみよう。

同手記は「続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係で紹介したが,集団自決の翌日の富山氏と赤松隊長との関係を知る上で貴重な資料故、再度以下に引用する。

                     ◇

富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」
渡嘉敷漁協創立90周年記念誌(平成5年4月発行) ※(29日)等()書きは挿入

 略…元嘉豊丸組合当時の加工場は補助金により建築された建物で周囲はコンクリート流し込みで、屋根は赤瓦葺で頑丈な建物であったが今時大戦で鈴木部隊の食料米倉庫であったため白米を加工場一杯積み込んでいたのを米軍により食料と共に焼かれました。
 私は村民玉砕の翌日(29日)、故赤松隊長の命令を受けて渡嘉敷港海岸の加工場に食料、特に白米を保管してあるから敵前線を突破して兵員200名を誘導して加工場にある白米を確保してこいと命じられた。赤松隊長は更に部隊の前方50m程度を隠密に先行してうまく誘導し成功させよと命令されたので夜の9時を期して出発した。誘導案内はイシッピ川の高淵までの命令であったので、そこへ来ると加工場の2ヶ所嘉豊丸、源三丸加工場は石炭火の如くお米が真っ赤に燃えている。記念運動場も飯盒炊事の後が燃えている。(略)
 暫く休んでから、斥候長が私に「何か要望はないか」と問われたので「あります」といって、村民玉砕で乳飲み子の母親が戦死して、空腹で泣く子供達が居るので農協の倉庫に粉ミルクがあるだろうから運搬を協力してほしいと要望した。部隊の200名を呼んで粉ミルクを担ぎに行きました。ところがそこには粉ミルクどころか何一つなく、
部隊に戻ったときはすでに夜明になっていた。(30日朝)
 
赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵(吉川)勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したのかと喜んだ。
 暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら
、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。
 赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません。…以下省略

                     ◇

この手記(随想)が書かれた平成5年(1993年)は、「富山証言」(1990年)の三年後であるが、「自決を命じた旧軍人への憎悪」は少しも感じ取ることは出来ない。

いや、むしろ「鬼の赤松」が手榴弾による自決命令を出し、自決が実行された日(29日)の翌日(30日)にしては、この手記でも富山氏と赤松隊長との関係はいたって良好のようである。

富山氏と赤松隊長の関係は、後に(戦後45年経って)「富山証言」(手榴弾による自決命令説)をする関係とは到底信じることは出来ない。

やはり「富山証言」は戦後45年経って、ある目的を持った勢力に強制され、心ならずも証言させられたと言わざるを得ない。

なお後に吉川に改姓した役場職員は、沖縄タイムスのインタビューに答えて「耳打ち」するのを聞いて、「それが軍命だった」と細木数子もビックリの証言するのだから、富山証言もまだカワイイ部類に入るのかも知れない。

吉川勇助証言⇒(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

爆音の中で、耳打ちするのを傍で目撃し、(勿論、本人は聞こえない)それを「軍命だった」と言い当てるのだから、細木先生もビックリでしょう。

なお、戦後語り部として「軍命」を主張している吉川嘉勝氏は吉川勇氏の実弟。⇒(13)母「生きよう」脳裏に鮮明

更にこの二人の証言を取材した沖縄タイムスの謝花直美記者は、元渡嘉敷中学校長の吉川嘉勝氏の教え子であるというから、「軍命あり派」の人脈は濃密に繋がっている。

 ⇒続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

また、吉川勇助氏は、後に手榴弾配布の証言をする村役場職員の新城眞順氏と同じく、戦時中は防衛隊員として赤松隊長とはかなり身近な立場であった。
 
                                                 ◇

【おまけ】

原告準備書面(4)全文2006年9月1日

3 手榴弾配布=軍命令説の破綻

渡嘉敷島での《赤松命令説》について被告らが主張する軍命令の根拠は、詰まるところ、米軍上陸前の3月20日に手榴弾が配布されたという富山真順の証言に尽きるようである。

富山真順の証言が信用性に重大な疑問があり、その内容は真実であるとはいえないことは、既に原告準備書面(3)に主張したとおりである。そしてまた、仮に、それが真実だとしても、自決命令の根拠になりえないことも、そこで主張したとおりである。

被告大江健三郎と同じく、旧日本軍の残虐さを指弾し、終始沖縄の側にたつ姿勢を示してきた大江志及夫も、その著書『花栞の海辺から』(甲B36)に、手榴弾の配布があったことを前提にしながらも、「赤松隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」とする。

同様に林博史もその著書『沖縄戦と民衆』(甲B37)のなかで、3月20日の手榴弾配布があったという富山証言を何の留保もなく鵜呑みしながらも、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令はだされていないと考えられる」としている。

米軍上陸前の手榴弾の配布が、仮にそれが事実であったとしても、《赤松命令説》の根拠となりえないことは、これらの著作の記述からも明らかである。


関連エントリー:

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

 悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

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コメント (15)

座間味にいた「うつろな目の少女」

2009-08-30 07:36:31 | オカッパの少年

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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先日、座間味旅行をした知人の話を聞く機会があった。

偶然、神戸から来た20人ほどの教師グループと同行し、その「平和学習ツアー」の小型バスに便乗させてもらい壕巡りを体験したという。

そのときの写真を見せてもらっているうち、その一枚に写っている人物の顔を見て、思わず驚きの声を発した。

「オカッパの少女だ!」

写真に写っている70過ぎの老人を指して、「少女だ!」と呟く姿を人に見られたら、きっと「カニハンリた」と思われたであろう。

(⇒老人性ボケをカニハンリルという

写真の日付けは8月17日。

写真に写っている老人は紛れもなく「うつろな目の少女」として知られる大城盛俊氏、その人ではないか。

知人の話によると、その人物は夏休みを利用して神戸の教師グループを率いて、沖縄「平和学習ツアー」のコーディネーターとして戦跡案内をしていたのだという。

大城氏といえば、戦時中の日本兵から受けた暴力で、右目を失明し、足には歩行障害が残っているはずだ。 

大城氏は現在神戸に在住で、喉頭がんにより声を失ったたことと、80歳近いご高齢のため、長年続けていた「沖縄戦の語り部」を引退していたはずだ。

その大城氏が元気で「平和学習ツアー」を率いて座間味村の壕巡りをしている事は驚きであった。

いや、その驚きよりも、「うつろな目の少女」として数多くの沖縄戦記本に写真が掲載された話題の人物大城盛俊氏が、沖縄紙に一行の紹介もされていないのが大きな驚きであった。

沖縄紙が喧伝する「残虐非道の日本軍」を大城氏ほど見事に体験した人物も珍しい。

食料をリュックに背負って壕に避難中、突然やってきた日本兵に食料を強奪された上、暴行をうけ壕を追い出される。 さらに実母は日本兵にスパイ容疑で虐殺され、戦後は日本兵から受けた暴行の後遺症による右目失明と歩行障害で仕事にも困難を味わったという。

大城氏の受けた艱難辛苦はそれだけではなく、日本兵から受けた障害は「援護法」の適用を却下されたという。

大城氏ほど「残虐非道の日本兵」を声高に訴えてるのに相応しい人物を筆者は知らない。

それだけではない。

「日本兵に何をされるかわからない」という理由で、オカッパ頭にされた大城氏の「少女姿の写真」は、多くの戦記本に紹介され、一昨年の琉球新報で「少女は実は少年だった」と報じられ話題になった人物だ。

このような話題の人物が沖縄の「平和学習」で沖縄を案内しているのに、沖縄紙が一切これを報じないのはいかにも不自然ではないか。

大城氏に関しては、その報道に沖縄紙が揃って腰が引けているように感じる。

このような疑念を抱くのは筆者だけではないはずだ。

やはり「うつろな目の少女」にはまだ語っていない秘密があるのではないか。

 

参考:オカッパの少年の謎

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コメント (8)

緊急告知!最高裁判事国民審査

2009-08-29 15:30:28 | ★集団自決

 

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秦 郁彦
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琉球新報

最高裁裁判官国民審査 5氏「沖縄」に関係 2009年8月29日

 衆院選と同時に実施される最高裁裁判官の国民審査の期日前投票が23日から始まっている。19日から始まっている衆院選の期日前投票で、22日までに投票を済ませた人も再度、投票所を訪れ、国民審査に参加することができる。今回国民審査の対象となっている裁判官9人のうち、元外務事務次官の竹内行夫氏、桜井龍子氏、涌井紀夫氏、宮川光治氏、金築誠志氏が、沖縄の問題や裁判に現在かかわっていたり、過去にかかわった経歴を持つ。
 竹内氏は2002年から05年まで外務事務次官を務め、06年に合意された在日米軍再編の協議にかかわった。
 桜井氏、涌井氏、宮川氏は沖縄国際大学への米軍ヘリコプター墜落事故に関する日米協議の文書公開を求める訴訟の最高裁審理で裁判官を務めた。決定は国側に文書の一部を高裁に提示するよう命じた高裁決定を破棄し、不開示とされた対象文書を裁判所だけが見て開示すべきかどうかを決める事実上の非公開審理(インカメラ審理)について認めない初判断を示した。ただ宮川氏は「裁判所が文書を見ずに適切な判断をすることは困難。インカメラ審理導入の検討が望まれる」と補足意見を付けた。
 また桜井氏、涌井氏、宮川氏、金築氏が現在最高裁で沖縄戦時の「集団自決」(強制集団死)と戦隊長命令の関連性をめぐる訴訟の裁判官を務めている。

                     ◇

現在上告中の「集団自決訴訟」の担当裁判官が、明日の国民審査の対象になっています。

当日記は、「最高裁判事審査の投票基準資料」で、次の四人の裁判官を「国籍法」関連の判断で不適格とした。

 那須弘平(弁護士)
涌井紀夫(裁判官)
田原睦夫(弁護士
)
近藤崇晴(裁判官)

「国籍法」で「戦後民主主義的判断」をする裁判官が、集団自決の判断で、どのような判決を下すか推して知るべしです。

どんなことがあっても、特に涌井紀夫(裁判官)、は×にして退官してもらいましょう。

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星雅彦氏の直感 ウソの構図と真実の構図

2009-08-29 12:37:53 | ★集団自決

 

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『うらそえ文藝』編集長星雅彦氏はネットをやらないが、最近は知人に頼んでプリントアウトしてもらい関連記事には目を通していると聞く。

当日記にも目を通していただいているとのことだが、その星氏から先ほど連絡が入り、同氏について書いた記事にニュアンスの違う部分があるとのご指摘を受けた。

昨日のエントリーで、星氏が、渡嘉敷島の慰霊祭に参加のため那覇空港に到着した赤松元隊長と待ち受けていた左翼団体とのトラブルを、偶然目撃した話を取り上げた。

本文中、数箇所渡嘉敷を座間味と誤記した基本的ミスのご指摘を受けたが、もっと重要なニュアンスの違いのご指摘は次のくだりだ。

星氏が「軍命があった」という当時の「通説」に、それまでも疑念を抱いていたが、空港でのトラブルとそれを報じる沖縄タイムスの記事をみて、ますます疑念を深めたと書いた。

だが実際に星氏が「軍命はなかった」と確信を持ったのは、渡嘉敷村の慰霊祭が終わって、元赤松隊の一行が帰途につくときに見た村人と元隊員の惜別の光景を見た時だというのだ。

その日の渡嘉敷港では見送りに来た村民達が赤松隊隊員と別れを惜しんで手を取り合い、再会を誓い合っていた。

星氏はその感動的光景を目撃していたのだ

那覇空港での「憎悪の情景」と渡嘉敷港での「惜別の情景」は、慰霊祭参加という同じ物語のプロローグとエピローグの一シーンではあるが、

那覇空港で拳を突き上げる人々と渡嘉敷港で涙する人々とは、とても同じ物語の登場人物とは思えなかったそうだ。

空港で「県民」と称する抗議団が発する憎悪は、渡嘉敷港で別れを惜しんで涙する渡嘉敷村民の善意とは、まるで別の物語のシーンのように感じたという。

星氏はそれまでの独自の調査で「軍命はなかった」という疑念を抱いていたが、その日の渡嘉敷埠頭での別れの光景を見て、疑念が確信に変わったという。

沖縄タイムスが報じる「赤松隊と渡嘉敷住民の憎悪」というウソの構図は、渡嘉敷埠頭の「惜別の光景」という真実の構図によって一種にして粉砕された。

星雅彦氏は作家としての直感でそれを感じ取っていたのだ。

 

【追記】星雅彦氏はおそらくは、このような光景を目撃して「軍命はなかった」と確信したのだろう。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

 

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ちゅら海を守れ!偽善者の絶叫 沖縄は全国一の埋め立て県

2009-08-29 08:31:53 | 未分類


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当ブログ開設の当初は、スポーツを筆頭に各分野で活躍が著しい沖縄の若者を応援するのがその目的の一つであった。

高校野球に、ゴルフ、ボクシング、空手、ハンドボール、ウェイトリフティングなどスポーツ分野に止まらず、マーチングバンドやロボット工作など、最近の沖縄の若者は文武両道で全国レベルの活躍が著しい。

文武両道だけではない。

知花さくらさんなどは、沖縄一の進学校・開邦高校から難関とされる上智大学を卒業し、ミスユニバースの二位を獲得するという才色兼備を誇っている。

目を芸能界に転じると、安室奈美枝、仲間ゆきえ、に最近では黒木メイサそして・・・うーん、これを枚挙に暇がないというべきなのだろう。

今や芸能界は沖縄の若者を抜きには考えられないほどの活躍ぶりである。

ところがである。

話が学力に及ぶと急に今までの勢いがトーンダウンしてしまう。

それにしても3年連続の全国最下位とは。

沖縄タイムス 2009年08月28日 社会 

学力テスト3年連続最下位 小学2科目、順位上昇【08月28日】
県教育長 「正答率公表を希望」
 文部科学省と県教育庁は27日、学力の把握を目的に小学6年と中学3年の全児童・生徒を対象に今年4月に実施した2009年度全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果を公表した。国語、算数・数学の2教科で知識をみるA問題と活用力をみるB問題の平均正答率で、沖縄県の公立校は、過去2回、8科目全部が全国最下位の47位だったが、今回は2科目で順位を上げ、小学校国語Bが46位、小学校算数Aが41位。総合的にみると3年連続最下位だった。また、金武正八郎県教育長は「市町村教育委員会が、正答率を含め積極的に結果を公表することを希望している」と表明。関係者からは「序列化につながるのではないか」と警戒する声も出ている。(略)

                     ◇

ここで教育問題を論じるのは目的でないので「2科目で順位を上げた云々」には触れない。

深入りは遠慮して縁側さんの全国学力テストで我が県は・・ におまかせするが、

次のは三つだけは言っておきたい。

①小学校教育に関しては数学者・藤原正彦教授の意見に全面的に同意する。

初等教育で重要なのは、

「一に国語で、二に国語、三、四がなくて五に算数」ということ。

②従って、小学校で英語を教えるのには反対。 そんな時間があれば、国語と算数に廻す。

③沖縄の教師の「平和活動」という名の「政治活動」の禁止。

それに漢字の母国・中国には存在しない「躾」(漢字ではなく国字)を教えれば、学力は自ずと向上すること間違いない。

それにしても自分の「身」を「美しく」することは化粧ではなく、躾(しつけ)であるとは、昔の日本人は偉かった。

 

ところで、低学力児童がそのまま大人になったような「プロ市民」には小学生でもわかる簡単な理屈が理解できないようだ。

日米で合意した「普天間基地」を辺野古に移設すると、ジュゴンが可哀相だから反対だという。

住宅密集地に隣接する「普天間基地」のことは、基地と住民のどちらが先住者かの問題はさておいても、危険であることに異を唱えるものはない。

戦争のない世界や、軍事基地のない世界が可能ならこれに越したことはないが、世間は希望する全てが成就するほど単純でない。これは今時、小学生でも理解出来ること。

人命に関わることは、ベストを望む前に、次善の策で緊急避難するのが良識ある大人の考えではないのか。

「危険きわまる普天間基地」は、より危険度の少ない辺野古に移設すべしと、当日記でも再三述べた。

ところが辺野古沖を埋め立てるとジュゴンが可哀相だと、「プロ市民」が反対する。 

「ジュゴンと人命とどっちが大事なのだ」と叫びたいが、ここは抑えて、

話は一転、普天間基地代替施設のための辺野古先沖埋め立てについて言及したい。

その前に、ジュゴンなんて食ってしまえと、相変わらず威勢のよい縁側さん。

環境アセスメント 」のコメント欄にジュゴンの味について書いてあります。(旨くないそうです)

 

                    *

沖縄で埋め立て工事というと、辺野古沖と泡瀬干潟しか報道されず、それ以外の多くの埋め立て事業を知る県民は少ない。

沖縄のマスコミが辺野古と泡瀬以外の数多くの埋めてて事業については報道しないからである。

先ず「沖縄の埋立地と埋め立て計画」を見てほしい。

リンクが不可なら↓。

http://www.ne.jp/asahi/awase/save/jp/data/higatagenjyou/
index.htm

左翼団体があれほど激しく反対運動をしている辺野古と泡瀬の埋め立ては、実は沖縄全体の多くある埋め立て計画のほんの一部であることが一目瞭然である。

沖縄県の一年間の埋立て実績地は辺野古の埋め立て予定地の何倍も、いや何十倍もの海岸線が埋め立てられていることを知る県民は少ないだろう。

2001年の国土地理院の発表によると前年度の沖縄の埋め立て面積は2.21平方キロに及ぶという。

具体的に言うと多良間村水納島の面積に相当する海岸線が埋められていることになる。

これは、その一年間だけの例外的数字ではなく、埋め立て面積は年々増えており、一年間の平均値をとると過去19年間の間に奥武山球場の34倍の面積を埋立て続けてきたという計算もある。

ところが沖縄のマスコミは、これらの事実を一切報道せず、連日普天間基地代替施設の埋立て問題で紙面をうずめているので'県民が埋め立ての現実を知る機会は無い。

泡瀬埋立てと普天間代替施設埋立てを比べてみても、埋立ての規模、そして自然環境に

与える影響も遥かに泡瀬の方が大きいが、沖縄マスコミの報道するのはその殆どが

埋め立て地といえば辺野古と泡瀬しか知らされていないので、それ以外の埋立て計画の名前を言える人が果たして何人いるだろうか。

もう一度、これをご覧頂き、辺野古埋め立てにのみテント小屋を作り「ジュゴンを守れ」という人々の偽善行為を確認してほしい。

⇒沖縄の埋立地と埋め立て計画http://www.ne.jp/asahi/awase/save/jp/data/higatagenjyou/
index.htm

反米・抗日一辺倒の偽善者達が叫ぶ「ちゅら海守れ」のいかがわしさが一目瞭然である。

普天間基地代替施設埋立てに反対しても、その何十倍もの規模で計画されているそれ以外の埋立て事業には一切反対しない沖縄のマスコミと「プロ市民」。

良識ある県民はマスコミにより「情報封殺」されていることに気がつきはじめている。

それが新聞購読者の減少となってあらわれているのだ。

沖縄県内における環境破壊、公有水面の埋立てによる環境破壊となると、環境学者なる「有識者」がイデオロギーには無関係を装って、反対意見を披露するが彼らこそ「環境」で化身した左翼勢力である。

環境学者といえば理系の学者で、イデオロギーには縁遠いとおもわれるが、そこが彼らの思う壺であり、沖縄は左翼環境学者の掃溜めだという人もいるくらいだ。

左翼学者の掃溜めである沖縄大学などはその典型だろう。

学長のマスコミ露出が他大学学長に比べて多すぎるのがその証拠である。

人間あっての環境保護であり、環境を守るためには人間の命(普天間基地近隣の住民の命)はどうでもよいわけはないだろう。

最近では、ジュゴンの他に「海がめを守れ」と叫ぶ偽善者も現れているが、彼らの意見に従えば希少動物を守るために人間は何処かへ追いやられて、沖縄が「ガラパゴス島」になるということである。

 

【おまけ】 保存資料です。

めったに沖縄の新聞に載らない記事が、こんなとこ。

琉球新報 2001年 1月30日 朝刊 23面

県土全国一の増加/1年で2.21平方キロ/昨年分、国土地理院発表

/多良間村水納島に匹敵/経済振興で埋め立て進む

 国土地理院は二十九日、二〇〇〇年の全国都道府県市区町村別面積を発表した。沖縄の県土面積は二二七一・三平方㌔㍍となって、前年より多良間村水納島に匹敵する二・二一平方㌔㍍増え、都道府県別の増加面積で初めて一位となった。増加は埋め立てによるもので、国土全体の増加面積分(九・四平方㌔㍍)の四分の一近くを占めた。

 二〇〇〇年の県土全体の増加面積は、国土地理院が基準地形図を現在の二万五千分の一に変えて統計を取り始めた一九八九年以降で最大規模。この十二年間の合計増加面積は八・四九平方㌔㍍となり、与那原町(四・四五平方㌔㍍)のほぼ二つ分に匹敵する県土が、生まれた計算だ。
 増加面積は市区町村別でも、県内から二位の豊見城村(〇・八平方㌔㍍)を筆頭に、六位に平良市(〇・三二平方㌔㍍)、八位・糸満市(〇・二六平方㌔㍍)、九位・西原町(〇・二五平方㌔㍍)の四市町村が、全国十位内にランクイン。
 観光リゾート地の形成や企業立地、宅地造成など地域・産業振興を目的に、臨海部の埋め立てが進行する県内の状況が浮き彫りになった。一位は福岡市の一・〇九平方㌔㍍だった。
 国土の増加面積が、北方四島の再測定で約五十平方㌔㍍に増加修正された九二年を除き、ほとんど十平方㌔㍍前後で推移し、「数年前に比べると埋め立ては落ち着いてきている」(国土地理院)。
 逆に沖縄は、この三年間で増加傾向。中城湾港泡瀬地区の事業が走り出すのをはじめ、同沖縄支所では「空港、港湾整備の需要は今後もあることから面積の増加は当面続くだろう」とみている。 

 

【付記】

今朝の沖縄タイムスに「最高裁判事の国民審査」の意見広告が紙面全面を使って掲載されていた。

これまでにないことだが、ネットによる「国民の権利行使運動」に影響されたのだろうか。

同広告は「一票の不平等」を容認した裁判官を不適格として、涌井紀夫、田原睦夫、那須弘平の三人を不適格裁判官としている。

当日記でも、「国籍法改正」を理由に、次の四人を不適格としたが、上記三人と重複するので、やっぱりどこから検討してもダメなヤツはダメだとの確信を得た。

不適格判事

那須弘平(弁護士)
涌井紀夫(裁判官)
田原睦夫(弁護士
)
近藤崇晴(裁判官)


沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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コメント (12)

沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

2009-08-28 06:50:08 | ★集団自決
沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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沖縄タイムスが沖縄戦に関して多くのデマを流し沖縄戦を歪曲したことを書いてきた。

沖縄タイムスの歴史歪曲の罪は大きい。

『うらそえ文藝』が、過ちを訂正して謝罪せよと告発に踏み切ったのは、良識ある県民の意志を肌で感じたからであろう。

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、

1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、

「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

 

 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで報じる沖縄タイムスの無知はさておき、

その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であり

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、

沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸したが、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、

「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、

33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道しかしないが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内でのみ読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、

あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の

「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている。

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、

赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、

赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

続く

コメント (9)

「侘び状」再論 親族の伝聞証言を採用する法廷

2009-08-27 06:35:28 | ★集団自決

梅澤元隊長は、1987年(昭和62年)3月26日、座間味村の慰霊祭に初めて参加した。

そのとき問題の「侘び状」が書かれるのだが、そのときの状況を栗原佳子著『狙われた「集団自決』(社会評論社)から引用する。

同書は「集団自決訴訟」の被告応援団の目取真俊氏が推薦するくらいだから、自ずとその内容も想像つくが、

取材相手が自決命令を下したとされる宮里盛秀助役の親族であることを考慮に入れても参考になる。

書評『狙われた「集団自決」』

著者の栗原氏は、目取真ブログによると、次のように紹介されている。

《著者の栗原氏は上毛新聞社、黒田ジャーナルを経て、現在はフリーのジャーナリストとして大阪を活動拠点に「新聞うずみ火」の発行に携わっている。大江・岩波沖縄戦裁判では第一回から傍聴し、同裁判の支援連絡会の世話人としても活動してきた。》

著者の栗原氏が取材した宮里芳和氏は、

琉球新報の連絡員をしながら平和ガイドをし、集団自決論争では公平を装いながら、一方では沖縄タイムスとも連絡を取り合って、島に来る保守系取材者の情報を沖縄タイムスへも流すというスパイ的活動をしている人物である。

さらに親族関係を言えば、宮里芳和氏は自決命令を出したとされる助役の宮里盛秀氏の親族であり、当然盛秀氏の実弟であり「侘び状」を書いた宮村幸延氏の親族でもある。

栗原氏の取材記事は、「親族の証言」ということと、本人が係争中の裁判の支援世話人であることを念頭に置いて読んでいただきたい。

「親族の証言」を何の疑いもなく採用したのも、この裁判の特徴である。

●・・・兄二人の無念

春子(宮平春子ー引用者注)さんと会ったのは宮村肇さんが営む民宿だった。 座間味港に近い、島のメインストリートにある。 ここで1987年3月の「念書」(「侘び状」-引用者注)事件が起きた。 梅澤さんが、肇さんの父である宮村幸延さんを泥酔させて、一通の「念書」を書かせたというものだ。 春子さんは「一番悔しいのはこのことですよ。 盛秀兄さんだけじゃなくて、幸延兄さんまで。 きょうだい二人、こんなふうにされて、行けるもんなら大阪に行って、裁判官に直接訴えたい」と語気を強めた。 「集団自決」から42年めのことだった。 1987年3月26日、村主催の慰霊祭に、元戦隊長の梅澤さんが戦後初めて参加した。(略)

芳和さんによると、このとき慰霊祭の夜の懇親会で初めて梅沢さんと話をしたという。梅沢さんは、隊長命令だと報じられたことで家族にも戦争犯罪者と言われていると、苦しい胸の内を語った。 そのため、芳和さんは、「梅澤さんの責任ではない、戦争がいけなかった、あなたのことを恨んでいる村民はいない」という主旨の話をした。 梅沢さんはとても喜び、「家族にもそれを話してほしい」と言った。 芳和さんは梅澤さんの申し出に応じ、近くにあった公衆電話で梅澤さんの妻と話をしたという。 妻も喜んだ。 「これで戦後処理がいいかたちでできたら」と芳和さんも安堵したという。 

「それから、翌々日の朝九時ごろでした。 民宿の一階のマチャグワー(雑貨店)いつも店番をしている幸延おじさんがいません。 奥をのぞくとおじさんと梅澤さん、ほかに男の人が二人いて、おじさんは梅澤さんの前で何か書いていました。 横にお酒があって、一人の男の人は中腰になって上から見ていて、もう一人は後ろからカメラで撮影していました」

それから一か月後のことだった。 「幸延を呼んでこい!」。 当時の田中登村長の激しい剣幕に気圧されるように、芳和さんは慌てて幸延さんを呼びに行った。 
「村長は『お前は、慶良間戦も知らんのに、あんなこと、どうして書くか!』と、おじさんを怒鳴りつけたのです」

4月18日付けの神戸新聞に《座間味村の集団自決の命令者は助役だった 遺族補償得るため “隊長命令”に》、さらに23日付け東京新聞でも《大戦通史 勇気ある訂正》と大きく報じられていた。

いずれも、幸延さんは匿名扱いだが、「集団自決は部隊長の命令ではなく、戦時中の兵事主任兼役場助役だった兄の命令で行われた。 弟の私が遺族補償のためやむをえず隊長命令として補償を申請した」と「親書」を寄せた、という内容になっている。

幸延さんは遺族年金のための業務を長く中心的に執り行い、島の人からの信望も厚かった。 

芳和さんは「おじさんは、梅澤さんから『家族にも戦争犯罪者と言われて苦しんでいる。 家族にしか見せないので書いてほしい」と頼まれ、やむなく書いた、と泣きながら説明していた」という。>

                  *

引用文の冒頭に出てくる宮平春子氏は、宮村幸延氏の妹であり、宮里芳和氏も含めて全員が親族である。

彼らは軍命を出したとされる宮里盛秀助役の為に「軍命を下したのは梅澤隊長である」と「親族の証言」をする点では全員一致している。

さらに宮平春子氏は『母の遺したもの』の著者宮城晴美氏が法廷証言のわずか一か月前に母の証言を踏みにじる根拠となった「重要証言」をした人物である。

琉球新報がその証言を掲載しているが、どう読んでも本人が直接軍命を聞いたというのではなく、盛秀氏が父盛永氏に話したのを父から聞いたという「伝聞のその又伝聞」である。

おじさんは、梅澤さんから『家族にも戦争犯罪者と言われて苦しんでいる。 家族にしか見せないので書いてほしい」と頼まれ、やむなく書いた、と泣きながら説明していた

芳和氏の「侘び状」作成時の目撃証言や、上記証言を読む限り、「泥酔云々」は苦し紛れのウソであることが分かる。

また宮村幸延氏は「侘び状」を書く前、梅澤氏の妻に電話をして「侘び状」と同じ内容のことを伝えているが、この行為も泥酔していたら考えられないことである。

「集団自決」生涯忘れず 宮平春子さん証言

2007年7月7日

「生涯忘れることができないことをなくすのはおかしい」と語る宮平春子さん=6日、座間味コミュニティーセンター

 「集団自決」のあった座間味島を視察で訪れた県議会文教厚生委員会の委員らに対し、座間味村阿佐の宮平春子さん(80)は6日、当時助役を務めていた兄の宮里盛秀さんが米軍の上陸が目前に迫った時、父の盛永さんに「軍から玉砕するように言われている」と伝えていたことを証言した。宮平さんは教科書からの「集団自決」の日本軍関与削除について「あの悲しみ、苦しみは私にとって一生涯忘れることができない。それを(教科書から)なくすのはおかしいのではないか。戦があったら悲しいし、苦しい。平和である教育をしてほしい」と訴えた。
 米軍の激しい艦砲射撃があった1945年3月25日。春子さんは盛永さんや親類ら約30人と壕に避難していた。夜になって盛秀さんが壕に来た。
盛秀さんは、父の盛永さんに「軍から米軍が上陸するのは間違いないので敵の手に取られないように玉砕するよう命令があった。だから潔く死のう」と話したという。
 びっくりする盛永さんに、盛秀さんは「いろいろ生きている間は親孝行できなかったけどあの世に行って孝行する」と伝えた。
 春子さんは「兄が4歳から7歳までのわが子3人を抱きしめ、涙を流しながら『こんなに大きく育てて、軍の命令でなくすというのは生まないほうがよかったのか。お父さんが一緒にいるからね』と語り掛けていた。今でもあの姿を思い出すと涙が出る」と述べ、兄の無念さを思い出し、言葉を詰まらせた。
 盛永さんは、盛秀さんに最後の別れとして水杯を勧め交わしたという。
 集合時間の午後11時半に合わせ、春子さんらは盛秀さんに続いて集合場所の忠魂碑に向かった。しかしそこに照明弾が落ちたことを知らされ「集団自決」で多くの犠牲者が出た産業組合壕に移動した。
 組合壕にはすでに多くの住民がおり、中に入ることができなかった春子さんらは生き延びたが、壕の中にいた盛秀さん家族はそこで「集団自決」で亡くなった。
 教科書検定問題については「みんな苦しんで犠牲になった。(記述を)なくしてはならない」と訴えた。

                    ◇

原告側はこの「親族による伝聞証言」である宮平春子氏の証言に基づく宮城晴美氏の証言を完膚なきまで論破するのであるが、常識欠落の裁判官は、ことごとくこれを退けている。

以下は原告側サイトによる論告の引用です。(太字強調は引用者)

(5)宮平春子の証言について
 宮城晴美は、これまで隊長命令については、証拠上も自らの直感においても存在しなかったという立場を明確にしてきたのだったが、平成19年6月に宮平春子の新証言なるものに接した後に「あったかなかったわからない」との認識に変わったと証言した。
 しかし、宮城晴美の証言は、宮平春子の新証言なるものに対する根本的な疑問を提起することになった。
 すなわち、前記のとおり宮城晴美は、過去にも宮平春子から綿密な聞き取りを行い、これに基づいて『母の遺したもの』の白眉ともいうべき場面を記述している。自決の覚悟を固めた助役の盛秀が、幼い子供達を膝間付いて抱擁し、盛永に、十分な親孝行ができなかったことを詫び、水杯を交わして壕の外に出て、忠魂碑前に向うも途中で引き返し、結局、自決を免れたシーン(甲B5 p216~219)は、宮平春子の証言に基づくものである(調書p43~47)。
 これだけの場面を描くのには、相当の聞き取りを要することが推測される。しかも、その場面には、盛永の『自叙伝』から「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着換えて集合しなさい」との盛秀の言葉が挿入されており、そこから宮城晴美が、予め『自叙伝』を読み込み、そこに記載された盛秀の言葉を強く意識していたことが推認できるのであり、宮平春子からの聞き取るにあたっては、このことについて宮城晴美が質問するのを忘れていたなどということはありえない。
晴美は、この点を問う反対尋問に対し、聞き取りが春子の作業中になされたとか、他の仕事に追われて忙しかったと陳弁するが、『母の遺したもの』の白眉ともいうべき感動的場面、しかも《盛秀助役命令説》をうち出すにあたって最も重要な場面を書くにあたってなされた取材が、そうした杜撰なものであったとは到底信用できるものではない。
すなわち、『母の遺したもの』に書かれた盛秀が壕に戻ってきてから盛永と水杯を交わし、壕を出て忠魂碑前に向う場面が、宮平春子に対する取材に基づくものであるという晴美の証言は、相当の時間をかけて綿密になされたはずの取材のなかで宮平春子は、陳述書に記述された「軍の命令がすでにでた」との内容の発言はしなかったことを意味しており、春子の新証言なるものの信用性に対する最大の弾劾である。
 更に、その証拠価値については、盛永の『自叙伝』(乙28)における盛秀の言葉との齟齬のことを吟味しなければならない。『自叙伝』では、「軍」という主体がなく、盛秀の「今晩 -中略- 命令があるから」という予想を語ったにすぎない(結局、その後、出る予定だった命令が、現に出されたという記述はない)。春子の陳述書(乙51)では、「軍から」、既に「命令で -中略- 言われている」とされている。
 そのときの言葉は、盛永は盛秀から直接告げられており、春子はそれを傍観していたに過ぎない。そのときの盛秀の言葉が、春子のいうようなものであったとすれば、そのことを直接聞いていた盛永が書き漏らすはずがないのである。
 軍命令があったとする春子の新証言は、60年もたった後に突如出てきたものであり、しかも盛秀が盛永に語るのを傍観したというものである。しかも、これまで晴美の綿密な取材のなかでも一言も話されたことがなかったのであるから、春子の証言自体、その信用性は甚だ疑わしいといわざるをえない。
 さらに指摘すれば、宮城晴美は、盛秀の言ったという言葉についての盛永の『自叙伝』の記述も、宮平春子の新証言も「同じことが基本的に言われている」との旨証言した(宮城調書p49)。
 そうなのである。宮平春子の新証言に新味はないというべきであろう。
 宮城晴美は、『母の遺したもの』において「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから」という盛永の言葉を引用しており、その言葉を踏まえたうえで、原告梅澤が自決命令を出したことを否定し、かつ、命令を出したのは助役の盛秀だったと判断したのである。
 春子の新証言なるものは、その信用性においてもその証拠価値においても甚だ問題を抱えるものであり、それをもって軍命の証拠だということができないことは明かである。
 (6)まとめ
  結局、宮城晴美の証言は、彼女が丹念に積み重ねてきたライフワークともいうべき調査研究の成果や、秘められた真実を世に広く明らかにし社会的にも非常に評価の高い自著『母の遺したもの』の歴史的意義、周囲を敵に回してでも原告梅澤の社会的名誉を回復せねばならないと決意した母初枝の遺志などを、ことごとく否定するものであった。
  種々の政治的圧力に屈しての不本意な証言であったろうとは想像するが、近年までの、宮城晴美の歴史家としての誠実な足跡、業績を顧みるとき、その価値を、今回の証言をもって自ら貶める結果となったことは、強く惜しまれるところである。

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コメント (6)

裁判官の非常識と県警監察官の常識

2009-08-26 07:37:34 | 県知事選

 

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◆裁判官の非常識と県警監察官の常識

3児死亡から3年の福岡で…警官が飲酒事故 (1/2ページ)

2009.8.26 05:05
3児死亡から3年の福岡で…警官が飲酒事故
逮捕された巡査部長の血液検査でアルコールが検出され、記者会見で謝罪する福岡県警の村上正一首席監察官=25日午後、福岡県警本部

 福岡県警は25日、国道を逆走して対向車に衝突、女性にけがをさせ逃走したとして、自動車運転過失傷害と道交法違反(ひき逃げ)の疑いで、同県警の巡査部長(49)を逮捕した。血液検査では酒気帯び運転の基準値の約4倍に当たるアルコールを検出。この日は、飲酒した元福岡市職員の車が追突、幼児3人が死亡した事故から丸3年だった。

【続きを読む】
 
                                            ◇

昨日のエントリーで、署名捺印の「侘び状」に関するコメント欄が賑わった。

「泥酔していた」という理由で、署名押印の「侘び状」を無効にした常識欠落の裁判官の是非が争点であったが、

裁判官と違って警察官には社会常識が備わっていると思われるが、やはり社会人としての常識欠落者もいるようだ。

「泥酔して」轢き逃げ事故を起こした警察官が容疑を否認している。

容疑者の警察官は、「自分は運転していないので、関係ない」ということらしい。

さすがに「泥酔していたので無罪だ」と主張していないのは、僅かに残っていた常識が働いたのだろうか。

だが、容疑者の上司である福岡県警主席監察官は、監督不行き届きの咎を受けても、常識欠落で非難を受けることはないだろう。

上記写真で、薄い頭を深々と下げて,泥酔して轢き逃げした警察官の不始末を謝罪しているから。

コメント欄で、必死になって裁判官の判断を支持する方もいるようだが、「常識か非常識か」の論争は、

結局は常識人と非常識人の論争であり、

決着点を見出すことは困難である。

 

                     ◆

琉球新報 金口木舌 2009年8月24日

 いつ見ても手品師のたくみな手つきと語りにだまされてしまう。手品は「考えをめぐらして人をたぶらかす手段」でもある(「広辞苑」)。だまされた人間は「しまいには戦争に連れて行かれる」と安斎育郎さんは語る
▼立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎さんは22日、ひめゆり平和祈念資料館開館20周年を記念して講演。イラク戦争は「だましで始まった」ことを手品を使って説明した
▼人間の脳が一部分を見ただけで全体の姿を想像してしまう、思い込みを利用したトリックだ。イラク戦争で米国が開戦理由にした「大量破壊兵器」は見つからなかった
▼安斎さんが講演した22日、「だましで始まった」イラク戦争に部隊を派遣した米軍普天間飛行場でフェスティバルが開かれていた。イラクの戦闘に使われたかもしれない軍用機や車両の前で親子連れが記念撮影をしていた
▼22日はまた、疎開学童を乗せた「対馬丸」が撃沈されてから65年。子どもたちの命を守るためという理由で送り出したが、その航路は日本の制海権が失われ危険であることは伏せられていた
▼どうすればだまされないのか。安斎さんの言う「無力=0」と「微力=1」の違いがヒントになる。0を1万集めても無でしかないが、1を1万集めるとそれだけの力を発揮する。1票の権利を行使することも私たちにできることの一つだ。

                                              ◇
 
 
 ◆「悪意」と「恨み」の新聞論調
 
沖縄戦を沖縄の新聞が語るとき、事実の解明に先行するのは「悪意」とそれに伴う「恨み辛み」である。
 
学童を戦火かから守るために、数少ない輸送船と貴重な燃料を使った県外学童疎開も、口減らしのためだったとか、受け入れ家族の待遇についても、「ひもじい思いさせられた」などと、体験者の証言には常に「悪意」と「恨み」の文言に満ちている。
 
 
又、同じく少ない船舶と燃料を使って住民を西表に疎開させたが、そこで運悪く罹患したマラリヤも「戦争マラリヤ」と称して、まるで日本軍が特殊なマラリヤ菌を培養して故意に住民に罹患させたような悪意に満ちた記事もある。
 
問題になっている慶良間島の「集団自決」についても、梅澤隊も赤松隊も、元々島の守備隊ではなかったので少数の旧式鉄砲しか装備されていなかった。 そんな貧弱な軍装備で、島を包囲した米艦船の砲撃に対して反撃の術はなく、まさにブルドーザーの隊列に斧で立ち向かう蟷螂の状態であった。
 
そんな状況で「軍隊は住民を守らないで、自決命令を下した」と悪意の恨み辛みを言っても、赤松隊長や梅澤隊長は自分に降りかかる火の粉を振り払うのが精一杯で、とても住民を守る余裕はなく、ましてや住民に自決命令をして回る暇などなかったことが、多くの証言から読み取れる。
 
唯一の証拠とされる手榴弾も、チビチリガマの毒薬と同じで、顔見知りの兵隊さんが万が一の場合にと手渡した「善意」の表れであるのに、戦後の後付けで「悪意」の自決命令の証拠とされている。
 
集団疎開や手榴弾にまつわる「悪意」はまだしも、片道燃料で決死の反撃のため沖縄に向かった戦艦大和にさえ、「沖縄人を虐殺に向かったのだから撃沈されて良かった」という主旨の文を掲載するほど沖縄の新聞は「悪意」と「恨み」に満ち溢れている。
 
 
そのうち慶良間沖で米艦船に体当たりして散華した神風特攻隊も沖縄住民を攻撃に来たと言い出す人が出るかも知れない。
 
上記新報コラムも、民間人員輸送船を承知で撃沈した米潜水艦の無差別攻撃に対する恨みはさておいて、
 
学童疎開を実施した第32軍に対する「悪意」と「恨み辛み」の記事である。
 
新報コラムが言わんとすることは、騙しのテクニックに優れた手品師は沖縄守備の第32軍であり、騙される観客は疎開のため対馬丸に乗船した学童と言うことになる。
 
手品師が観客を騙す導入部からつられて読むと、まるで日本軍が学童を騙して米軍の標的にでもしたとミスリードされる悪意ある文である。
 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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コメント (11)

宮村「侘び状」に対する大阪地裁判決文

2009-08-25 06:42:32 | ★集団自決
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宮村幸延氏の「詫び状」について、常識ある人間なら当然抱くはずの疑問を、KOBAさんと涼太さんのコメントで代表させていただきました。

泥酔させられて書いた詫び状 (KOBA)
2009-08-24
 不思議の思うのですが、その「詫び状」の筆跡はどうなっているのでしょう?
 「酔った状態で書いた」なら判読しがたい筆跡になっていると思うのですが、誰が観ても判読可能な筆跡なら、「酔って書いた」というのは無理があるのではないでしょうか? 
 裁判官はどういう判断で、「詫び状」を「泥酔した状態で書かされた」と判断したのでしょう?

                    *

Unknown (涼太)
2009-08-22

<何より信じられないのは、酒を飲まされて詫び状を書いた。です。そしてそれを認めた異常な判決です。もしそんなことが認められたら、契約社会そのもが崩壊します。人を殺しても酒を飲んで覚えていない。婦女暴行しても酒を飲んで覚えていない。こんな言い訳が通用するような判決です。

                    ◇

自筆押印の書類を、「泥酔して書いたから」と否定されたら、涼太さんのご指摘を待つまでもなく契約社会の屋台骨が崩壊してしまう。 

署名捺印の借用書を差し入れて、借用書も「泥酔していたので記憶にないから無効」で通ってしまうわけである。

裁判官は社会常識に欠けるので、一般社会人の常識を判決に導入するのが「裁判員制度」であるとすれば、署名押印の書類を、泥酔を理由に無効とする裁判員は一人もいないだろう

さて、問題の「侘び状」に関連する部分を「大阪地裁判決 文」から抜粋して引用する。

引用は当日記に時折「一太刀」を浴びせておられni0615さんのサイトを利用させて頂いたが、立場こそ違っても資料保管・整理の労力には謝意を表しておきます。(太字強調は引用者)

なお、「大阪地裁の判断」で出てくる、梅澤氏作成と思われる類似文面のもう一枚の「侘び状」とは、実際に詫び状を書く際に良く生じる例である。

口頭で謝罪した経験はあっても、侘び状を書いた経験のある人は少ない。

そこで、「あなたが見本を書いたら、それに倣って書きます」と見本を要求する例が多い。 ただ、その見本を破棄するのが普通だが、梅澤氏は迂闊にもその見本が相手方の手に渡るのを気にしなかったようだ。

裁判官は、世間ではよくある「見本文」の存在でもって、「侘び状」の信憑性を否定する重要な根拠にしているが、それこそ裁判官の社会常識が欠落しているという証左である。

以下引用。

                    ◇

被告らの主張

 宮村幸延の証言について

宮村幸延は,「証言」(甲B8)を作成し押印した記億はなく,宮村幸延が作成し押印したものではないと述ぺている(乙17及び18)。

宮村幸延は,その経営する旅館に宿泊した原告梅澤から,昭和62年3月26日,
「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく,家内に見せるためだけだ。」
と迫られたが,これを拒否した。同月27日,原告梅澤が同行した2人の男が宮村幸延に泡盛を飲ませ,宮村幸延は泥酔状態となった。宮村幸延は,この時に「証言」を書かされた可能性があるが,そうだとすれば,「証言」は仕組まれたものであり,宮村幸延の意思に基づくものではないことは明らかである。

宮村幸延は,座間味島の集団自決があった当時,山口県で軍務についており,集団自決の経緯について証言できる立場になかったし,また,実兄である盛秀助役が自決命令を出したなどと証言するはずがない。

原告らの主張

d 宮村幸延の「証言」
(a) (親書の手交)*
座間味村の遺族会長であり,当時の援護係として「座間味戦記」を取りまとめた宮村幸延は,原告梅澤に対し、昭和62年3月28日,「証言」と題する親書(甲B8)を手交した。この親書には,「昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず ママ 隊長命として申請した,ためのものであります」と記載されている。

宮村幸延の談話は,昭和62年4月18日付けの神戸新聞にも記載されている。

(b) (原告梅澤が語る経緯)*
被告らが主張する「証言」の作成経緯は全く理由がない。

原告梅澤は,合同慰霊祭が行われた昭和62年3月28日,集団自決に関する座間味村の見解を尋ねるぺく,村長の田中登に会ったが,補償問題を担当していた宮村幸延に聞くように言われたため,1人で宮村幸延を訪ねた。原告梅澤と宮村幸延は,面識があったため,再会を懐かしんだ。

原告梅澤が訪問した理由を話すと,宮村幸延は,突然謝罪し,援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を語ったのである。

「証言」(甲B8)は,このような経緯で宮村幸延が述ぺたことを文書にしてほしい旨,原告梅澤が依頼し,宮村幸延自身が一言一言慎重に言葉を選んで作成したものである。決して,原告梅澤が原稿を書き,宮村幸延に押印だけさせたものでもないし,泥酔状態の宮村幸延に無理矢理書かせたものでもない。原告梅澤が原稿を書いたのであれは,末尾宛名の「裕」の字を間違えるはずがないし,宮村幸延が泥酔状態であれば,筆跡に大きな乱れが生じるはずである。

また,宮村盛永の息子である宮村幸延は,集団自決当時,山口県にいたとしても,その後,村に帰ってから,集団自決の真相を知ったことは明らかであり,「証言」を作成する立場になかったとの被告ら指摘も当たらない。

また,神戸新聞の中井和久記者は,宮村幸延に対する電話取材を確かに行い,記事記載のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34)。神戸新聞が,記事中で「Aさん」とされている宮村幸延のコメントを捏造する理由はない、宮村幸延から神戸新聞に対し抗議があったこともない。

 

◆大阪地裁の判断

オ(宮村幸延「証言」について)*

(ア)(「証言」の記述)*
盛秀助役の弟である宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)には、
「昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(*兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります   右 当時援護係 宮村幸延  」 との記載がある。

(イ)(経緯から真意かどうかの疑問)*
しかしながら,宮村幸延は, 「別紙証言書は,私し(宮村幸延)が書いた文面でわありません」 との書面(乙17)を残しているほか,証拠(甲B5,33,85,乙18,41,宮城証人及び原告梅澤本人)によれば,昭和62年3月26日の座間味村の慰霊祭に出席するために座間味島を訪問した原告梅澤は宮村幸延の経営する旅館に宿泊したこと,宮村幸延は,原告梅澤から,昭和62年3月26日, 「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく,家内に見せるためだけだ。」 と迫られたが,これを拒否したこと,同月27日,原告梅澤が同行した2人の男が宮村幸延に泡盛を飲ませ,宮村幸延は泥酔状態となったこと,その際,原告梅澤は,宮村幸延に対し,自らが作成した 「昭和二十年三月二十六日よりの集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく助役盛秀の命令であった。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です。右証言します。昭和六十二年三月二十八日元座間味村役場事務局長宮村幸延」 と記載された文書(甲B85)を示したこと,宮村幸延は,これを真似て前記昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)を作成したことが,それぞれ認められる。

こうした事実によれば,宮村幸延の昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲b8)が,その真意を表しているのかは疑問である。

(ウ)(証言間で異なる梅澤証言は措信しがたい)*
原告梅澤は,その陳述書(甲B33)で,宮村幸延が前記「証言」と題する親書(甲B8)を,その意思で作成したかのように記載する。そして, 原告梅澤の陳述書(甲B33)では, 「私は宮村幸延氏に,是非とも今仰った内容を一筆書いて頂きたいとお願いした。宮村幸延氏はどのように書いたら良いでしょうかと尋ねられたので,私は,お任せします,ただ,隊長命令がなかったことだけははっきりするようお願いしますとお答えしました。」

「大手の清水建設に勤務され,その後厚生省との折衝等の戦後補償業務にも携わっていた経歴をお持ちの宮村幸延氏は,私の目の前で,一言々々慎重に『証言』(甲B8)をお書きになりました。」 と記載されている。

しかし,そのような作成状況であれば,前記「証言」と題する親書(甲B8)と酷似する文書(甲B85)が存すること自体不自然で,原告梅澤の陳述書(甲B33)は,この部分で措信し難いし,原告梅澤が沖縄タイムスの新川明に前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況として語った内容(乙43の1及び2・5頁)とも異なり,措信し難い。すなわち,原告梅澤は,新川明に対しては, 「今度,忠魂碑を,部下の切り込んだやつの忠魂碑を建てるために今度行った。その時に聞いたら,彼はまあ,酔ってないとは言いませんが,彼がそういう風に私に 『本当に梅澤さん,ありがとうございました。申し訳ございません』 とこうやってね,手をこうやってね,謝りながら書いたんですよ。
『一筆書いてくれんか』 って。
『いやー書くのは苦手だけれどもなあ』 と。
『だってあんたは役場におった人でいろいろ文書も書いたろうと。わかるだろう』 と。
『どういうふうな書き出しがいいでしょうか』 と言うから,
『そうか』 と,
『書き出しはこれぐらいのことから書いたらどうですか』
と私は2,3行鉛筆で書いてあげました。そしたら彼は
『あ,分かった分かった,もういい。あとは私が書く』
と言って,全然私が書いたのと違う文章を彼が書いてああいう文書をつくったわけです。まあ,よく聞いてくださいよ。それで結局私は 『ありがとう』 と。
『ついでに判を押してもらえたらなあ』 と言ったら,彼は商売しておるから店の事務所の机の上から判を持ってきて押して
『これでいいですか』 と。
『ありがとう』 と。
『これはしかし梅澤さん,公表せんでほしい』
と言った。
『公表せんと約束してくれと』 と。
私はそれについては
『これは私にとっては大事なもんだと。家族や親戚,知人には見せると。しかし公表ということについては,一遍私も考えてみよう』 と。
公表しないなんて私は言っておりませんよ。やっぱりこれはですね,沖縄の人に公表したら大変だろうけれども,内地の人に見せるぐらいは,しらせたいというのが私の気持ちだから。そういうふうなことで別れた。」

「あの人はね,まあ言うたらやね,毎日,朝起きてから寝るまで酒を続けています。」 と語っており,この新川明に語った作成状況と原告梅澤の陳述書(甲B33)の前記記載内容は異なっており,原告梅澤の陳述書(甲B33)の記載に疑問を抱かせる(なお,原告梅澤の陳述書(甲B33)には,沖縄タイムスの新川明との対談の経緯等についての記載もあるところ,この陳述書(甲B33)が被告らからの反論を踏まえて検討して書かれたものであるにもかかわらず(同1頁冒頭),前記新川明との対談の経緯等は,乙第43号証の1及び2に照らして措信しがたく,この陳述書(甲B33)全体の信用性を減殺せしめる。)。

また,前記のとおり,証拠(乙43の1及び2)によれば,原告梅澤が沖縄タイムスの新川明に語った前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況では,宮村幸延がこれを酔余作成したことを認めている(乙43の2・5頁)。

(エ)(宮村幸延の集団自決時不在と座間味村の回答)*
そして,原告梅澤が沖縄タイムスの新川明との会談で認めていたとおり(乙43の1及び2),宮村幸延は,座間味島で集団自決が発生した際,座間味島にいなかったのであって,前記「証言と題する親書(甲B8)にあるように, 「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行われた。」 と語れる立場になかったことは明らかで,この点でも前記「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容には疑問がある。

沖縄タイムスが,昭和63年11月3日,座間味村に対し,座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20),座間味村長宮里正太郎は,同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答したことは,第4・5(2)ア(ア)mに記載したとおりである。座間味村長宮里正太郎は,前記回答書(乙21の1)で 「宮村幸延氏も戦争当時座間味村に在住しておらず,本土の山口県で軍務にあった。」 として,その記載に疑義を呈するとともに,
「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない。遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基づき作成し,又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」い,「当時の援護主任は戦争当時座間味村に住んでなく,住んでいない人がどうして勝手な書類作成が出来るのでしょうか。」 とも記載している。

(オ)(まとめ)*
こうした事実に照らして考えると、宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容は、
「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(*兼)村役場助役の盛秀の命令で行われた。」
との部分も含めて措信しがたく,併せて,これに関連する原告梅澤の陳述書(甲B33)も措信し難い。

コメント (22)

最高裁判事審査の投票基準資料

2009-08-24 06:52:28 | 県知事選

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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最高裁裁判官の国民審査が告示 9人対象http://www.asahi.com/national/update/0818/TKY200908
180075.html

2009年8月18日9時20分

最高裁判所裁判官の国民審査が18日、中央選挙管理会から告示された。総選挙と同じ30日に投票される。15人の裁判官のうち、審査を受けるのは05年9月の前回総選挙後に任命された次の9人(数字はくじで決められた告示順)。

 (1)桜井龍子氏(62)=行政官出身(2)竹内行夫氏(66)=同(3)涌井紀夫氏(67)=裁判官出身(4)田原睦夫氏(66)=弁護士出身(5)金築誠志氏(64)=裁判官出身(6)那須弘平氏(67)=弁護士出身(7)竹崎博允氏(65)=裁判官出身(8)近藤崇晴氏(65)=同(9)宮川光治氏(67)=弁護士出身。

 期日前・不在者投票の期間は23日から29日までの7日間。

                  ◇

これまで選挙の度、ほとんど棄権することなく投票してきたが、同時に行われる最高裁裁判官の国民審査については、

はて、棄権しなかっただろうか。

何も考えずノーマークでほとんど棄権のような状況で投票してきたが、これでは結局全員を信任したことになる。

日常生活で縁のない最高裁裁判官についての情報を持っていないので、やむを得ない面もあったが、それは単なる言い訳であり、いまやネット時代ではないか。

その気になれば情報は容易に得られる。

裁判所 | 最高裁判所の裁判官

お互いに情報を共有しあって、不適格な裁判官にはビシビシ×を付して不信任しよう。

上記の赤字は退官して欲しい裁判官です。

ジャーナリストの水間様の情報をコピペで皆様にお届けする。

 

                   ◇

Subject: Fw: 最高裁判事審査の投票基準資料

昨年の「国籍法一部改正」に怒りを爆発させて、FAXによる要請をして頂いたインターネットユーザーの皆様、この衆院選と同時に最高裁判事審査投票もあります。

自民党が現在、苦戦している原因の一つに昨年の「国籍法改悪」があります。あの時、全会派一致で国会を通した悪夢は、まだ頭をよぎります。

その時の憤りをぶつける千載一遇のチャンスが巡ってきました。

最高裁判事の審査投票は、全国の有権者の権利です。

平成20年6月4日、最高裁判所大法廷で「結婚していない日本人の父とフィリピン人の母から生まれた子供10人に国籍を与える判決をしたことで、唐突に国旗法が一部改正され、偽装認知が横行することになっています。」その判決で、「国籍を認め
ることに賛成した」判決を下した裁判官は以下の通りです。

島田仁郎(裁判官)
藤田宙靖(学者)
泉徳治(裁判官)
才口千晴(弁護士)
今井功(裁判官)
中川了滋(弁護士)
那須弘平(弁護士)
涌井紀夫(裁判官)

田原睦夫(弁護士)
近藤崇晴(裁判官)

以上10名には、退官して頂きたいと思ってます。

参考に、「国籍を認めることに反対した」裁判官は以下の5名でした。この5名には、今後も活躍して頂きたいものです。この中に弁護士が一人も入っていないことで、日本の法曹界が抱えている問題点も見えています。

横尾和子(行政官)
甲斐中辰夫(検察官)
津野修(行政官)
堀龍幸男(裁判官)
古田佑紀(検察官)

最高裁判所裁判官の審査投票で、否認数が200万人以上になったら、全有権者の約2%になり、解任されなくても日本人であれば、自発的に退任するであろう。

また、仮に民主党が政権を取っても、反日法案(外国人参政権、重国籍法案、偽装人権擁護法案、1000万人移民推進法案)に、日本国民は断固反対している意志を示せます。

自民党にも民主党にも頭にきていて、支持政党が無いから投票に行かないと考えている方で、真剣に日本の行く末を心配しているのであれば、その意思表示として、最高裁判所裁判官審査投票に国民の貴重な権力を行使してください。

http:/mizumajyoukou.jp/転載フリー
ジャーナリスト・水間政憲

                  ◇

コメント (9)

「軍民一体化」の意味変更!宮村幸延氏の映像

2009-08-23 07:16:46 | ★米兵事件


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前稿の補足説明です。

座間味村援護係り宮村幸延氏押印自筆した「侘び状」には次のように明記されている。

「遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した」と。

これには二つの意味がある。

①沖縄タイムスにとっては、「隊長命令論」の崩壊であり、

②座間味村にとっては、「死亡者・梅澤氏」の署名偽造と偽印章を利用した「公文書偽造」そして「公金横領」を公式に認めることである。

「侘び状」の問い合わせに驚いた村長と宮村氏が「泥酔云々」の言い訳を考え出し、「侘び状は無効」の判決を得たことを書いた。

「梅澤隊長は不明死」したと思って、長年「隊長命令」の署名捺印を偽造し「公文書偽造」を続けていた、宮村氏は梅澤氏が生存していたことに気が動転し、「侘び状」を書いて詫びたが、後にことの重大さを村長や沖縄タイムスから聞かされ、必死になって「侘び状」の無効を訴え続けた。 

村ぐるみの「犯罪」を隠蔽するため、「泥酔させられて書いたので覚えていない」と死ぬまで言い続けた宮村氏。

その映像がここで見ることが出来る。⇒TBS 080416(ニュース23)沖縄集団自決

村を救うために病床で必死に抗弁する宮村氏の姿は、立場を超えてお気の毒に思える。
 
                    ◇
沖縄慶良間の集団自決論争が途中から参入した人にわかり難いのは、証言や使用語句の意味が右往左往でクルクル変わることにある。
 
読者の理解を容易にするため、大雑把に二つの立場を次のように分けてみた。
 
A・ 「軍命なし派」、「原告側」、「右派」
 
B・ 「軍命あり派」、「被告側」、「左派」
 
係争中の集団自決には多くの体験者、学者、研究者が証言しているが、主としてBの左派の側に証言の転向や使用語句の意味変更が多く見られ、問題を複雑にしている。
 
前稿で引用した梅澤氏の宮城初枝氏、宮村幸延氏、座間味村長に関するその発言には、その時点では彼らは「軍命なし派」で梅澤氏の立場を支持してくれるものと信じている様子が見られる。
 
梅澤氏はこう発言している。
 
「村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。」
 
                  ◇
大阪高裁の判決で原告側は敗訴したが、最重要争点である「両隊長の自決命令」については証明できず、事実上隊長命令説は否定された。
 
隊長命令が否定されると、被告側は「隊長命令の有無は問題ではない」などと論点ズラシを始めているが、
 
個々の隊長命令はともかく、軍の大方針が「自決命令」だという極めて乱暴な論がまかり通り、それを示す「軍官民の強制共死の大方針」という合言葉が新聞を飾っていた。
 
だが、現代史家秦郁彦氏が発掘した第32軍の「南西諸島警備要領」の英訳文書により、住民は玉砕を避け安全地域に避難させるのが軍の方針だったことが確認され「軍官民共生共死」の合言葉も今では死語となり、最近の宮城晴美氏の論文からも姿を消している。
 
裁判が提訴される3年前、「軍命あり派」にとって「軍民一体」は、「軍命なし派」が援護法適用のため捏造した歴史歪曲だといったニュアンスの主張をしている研究者がいる。
 
つまり、「軍官民共生共死の一体化」は、軍命の根拠とされているが、提訴以前では、「軍民一体化」は右派が援護法適用のため、そして適用者を靖国に合祀するための深慮遠謀による歴史捏造だと言うのだ。
 
さらに単純化して言えばこうだ。
 
左派は「軍官民共生共死の一体化」は歴史の事実だと主張する一方、「軍民一体化」は歴史の捏造だと言うのだ。
 
まさに凡夫の理解では遠く及ばぬ「左派」の学者さんの論考である。
 
「軍民一体」、定説化図る表現/石原昌家氏 2002年4月10日 
  私は、数年前から、沖縄戦を「まぼろし化」する動きがいずれ日本政府やその筋から出てくることを、新聞などで危ぐの念を表明してきた。この教科書記述を読んで、その懸念がついに現実となったか、と唖然あぜんとなった。沖縄戦では、「県民が一丸となって抗戦し」とか「守備隊が、軍民一体となって上陸米軍とはげしい戦闘をつづけた」と、沖縄戦の定説化を図ろうとする表現は、これまでの沖縄県史や各市町村字史などで何十万人もの体験者の証言にもとづいて認識されてきた沖縄戦の真実を根底からくつがえすものである。
  県民は、目を凝らしてこの表現に注目していただきたい。この動きはどこから生まれてきたか。いうまでもなく「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の適用に遠因がある。戦闘参加者、戦闘協力者や軍の作戦に協力したものがその対象になる「援護法」は、日本国内では「唯一地上戦に巻き込まれた沖縄県」に適用されることになった。
  つまり、日本軍に「壕追い出し」された住民が被弾死した沖縄戦の真実は、「援護法」の適用を受けるとき、日本軍の作戦に協力するため「壕提供」して戦没したことになるのである。ここに私がいう「沖縄戦体験記録の二重構造性」が生まれたのである。「援護法」の適用を受けたために、すべての県民が日本軍と「一丸となって」、「軍民一体」となって米軍に抗戦したという遺族や証人の署名捺印入りの「公式文書」が政府に何万通も存在することになったのである。1982年に日本軍の沖縄住民殺害の教科書記述を政府が抹殺しようとしたとき、住民証言の「沖縄県史」は一級史料ではないと言い放ったのは、この厚生省資料を暗に盾にして強気に出たのである。数年前突然、政府が沖縄戦の実態調査をすると表明したとき、すぐさまこの厚生省資料で「沖縄戦のまぼろし化」を図ろうしているのではないかと、私は本紙で警鐘を乱打した。この記述は今後国民を「軍民一体化」させる有事法制化を目論む政府の深慮遠謀の策といえよう。
 (沖縄国際大学教授)
                                               ◇
 
 
   【南城】南城市玉城の糸数で沖縄戦当時、地域住民が避難していた自然洞窟(どうくつ)「ウマックェーアブ」で「集団自決」(強制集団死)が起き、乳幼児4人を含む男女9人が犠牲になっていたことが、糸数字誌編さん作業の過程で明らかになった。生存者が聞き取り調査に初めて証言した。

 洞窟内では「集団自決」をめぐり、住民意見が賛否に分かれ、実行前に住民の一部が洞窟を出て命を取り留めた。沖縄戦研究者や南城市史編さんを進める市教育委員会によると、糸数での「集団自決」が明らかになるのは初めて。聞き取り調査をした元玉城村長の知念信夫さん(74)は17日、市立玉城小学校で証言内容を児童に伝え、平和の尊さを訴えた。
 知念さんは字誌編さん委員長で、今年3月に公民館で洞窟の生存者6人から聞き取り調査を行った。
 聞き取り証言などによると「集団自決」は1945年6月3日、米軍が投降を呼び掛けて洞窟入り口に迫った際に起きた。
 
洞窟内には地域住民ら36人がいたが「どうせ死ぬなら太陽を見て死のう」という住民と「捕虜になれば女は辱められて殺され、男は重労働をさせられて殺される。ガマの中で『自決』した方がいい」と言う住民に分かれた。家族でも意見が分かれ、親同士が子どもを引っ張り合う事態も起きたという。
 「
集団自決」は洞窟にいた女性が沖縄人の防衛隊員からあらかじめ譲り受けていた手榴弾2発が使われ、乳幼児3人を含む一家族のほか、親子1組などが円陣を組んで手榴弾を爆破させて「集団自決」を行い、9人が即死した。
 命を取り留めた27人は米軍に収容された。犠牲者の遺骨は同年12月に収集された。
 当時小学5年生として洞窟内にいた知念さんの妻アキさん(74)は「自分たちが壕から出ようとしているときに、後ろの方で(爆発)音がしたのを聞いた。自決だと分かった」と話す。
 知念さんは「40年ほど前から何度も聞き取り調査を試みてきたが、ようやく遺族数人の承諾が得られ、証言してもらった。糸数で集団自決が起きていたことを風化させたくなかったので、調査ができてよかった」と話している。
 30年以上、糸数地域での沖縄戦体験の聞き取り調査を行ってきた沖縄国際大学の石原昌家教授は「糸数には何度も通い詰めたが、初めて聞いた。教科書検定問題など沖縄戦をねつ造しようとする国の動きに対する沖縄戦体験者の強い危機感の表れではないか」と指摘した。

                     ◇
「集団自決」というと座間味、渡嘉敷両島に固有のものであるかのような報道もあるが、サイパン等の南方戦線や、満州さらには樺太でも集団自決は起きているし、沖縄本島でも起きている。
 
上記は、沖縄本島南部の例だが、その証言のどこを読んでも米軍に包囲されたパニックの結果だとは読み取れるが、軍の命令であるというニュアンスは読み取れない。
 
では座間味、渡嘉敷両島の場合とどこが違うから「軍命」の声が上がらないのか。
 
それは、座間味、渡嘉敷の場合は『鉄の暴風』と『沖縄ノート』がデタラメな「隊長命令説」を流布させたからである。
 
一方の上記玉城村の例の場合は、幸か不幸か『鉄の暴風』のデタラメな記事にならなかったと言う単純な理由からである。
 
【おまけ】
 
【動画】⇒NHKの捏造報道、沖縄集団自決の問題、軍命令はあったのか? NHKの捏造報道、沖縄集団自決の問題、軍命令はあったのか? あったとは言わないが、あったとほのめかす朝日的方法。番組を見れば 軍による自決命令はあったと思い込みますね。編集でいかようにもなるテレビ報道、見る ほうの知的レベルも要求されます。
 
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宮村「侘び状」の衝撃!沖縄タイムスが村長に圧力?

2009-08-22 01:14:03 | ★集団自決
《 証言  座間味村遺族会長

昭和20年3月26日の集団自決は梅澤隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した、ためのものであります

右 当時援護係 宮村幸延 捺印

 

梅澤裕 殿

昭和62年3月28日 》(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編著 PHP研究所)より)

                    ◇

この「侘び状」を自筆捺印して書いた宮村幸延氏は、後に「泥酔させられて書いた」ので記憶にない。従って無効であると主張し判決もその主張を認めた。

もしこの「侘び状」を有効と認めたら、援護係りの宮村氏は死んだと思われていた梅澤隊長の命令を、30数年間もの間偽造し、「公文書偽造」、「公金横領」を島ぐるみで行ったことを認めたことになる。

どんな理由を見つけてでもこの「侘び状」の内容を無効にする必要に迫られた宮村氏と村当局は、苦肉の策で「泥酔云々」と強弁し、それはめでたく判決で認められることになる。

同じく、この「侘び状」の存在で当初衝撃を受けた沖縄タイムスは、「侘び状の無効化」で座間味村当局と共同戦線を張る。

■水掛け論の決着には一枚の文書が・・・■

人間社会に争いは付き物である。 中でも「言った、言わない」の決着には、証言、証拠を準備せねばならず、一筋縄ではいかないのが世の常である。

一旦謝罪をしておきながら、後に都合が悪くなり前言を翻し、「謝罪した覚えがない」と開き直られると、「詫びた、詫びない」の水掛け論となる。

だが、そこに一枚の自筆捺印の「侘び状」があれば、水掛け論は一件落着する話である。

裁判の証拠物としても自筆捺印の書類が有効であることは論を待たない。

日本のお役所は書類重視主義である。

■官僚無謬の神話■

一昔前までの日本には「官僚は無謬」という奇妙な神話があり、官僚は融通は利かないが任せておけば間違いはないともよく言われた。 「日本は政治家はダメでも官僚がしっかりしているから大丈夫」というのもこの神話の亜流である。

だが、いくら優秀な官僚でも神ならぬ身の人の子。無謬があり得るはずはない。 過ちは過ちとして素直に認めれば済むことを、それを認めないところが「官僚無謬論」の神話の所以である。

最近の例でいえば、日本が核の傘で守られている安保体制の元では明らかに米軍の「核の持込」は事実であるにもかかわらず、そのような密約は存在しないと言い張る外務省。

更に遡ると、菅直人厚生大臣の頃、薬害エイズの処理に当たり、官僚が無いと主張していた行政の過ちを証明する“郡司ファイル”を菅直人大臣が発見し、官僚の抵抗を押し切って、エイズ被害者たちに対して、初めて行政の責任を認めた厚生省の例が記憶に新しい。

このような場合でも官僚が「問題のファイルは無い」と発言していたら過ちになるが、「所要の調査を行った結果当該ファイルの存在は確認できなかった」といった官僚用語を駆使して煙に巻き、自己の過ちになるのを逃れていたのだろう。

                    ◇

■三位一体の公金横領■

さて、『渡嘉敷島「集団自決」の真相』の後書きの石川水穂氏の解説に話題が飛ぶ。

また昭和六十二年三月、集団自決した助役の弟が梅沢氏に対し、「集団自決は兄の命令で行われた。私は遺族補償のため、やむを得ず、隊長命令として(旧厚生省に)申請した」と証言した。 (略)

 後に、この問題に興味を持った私は平成十五年三月、中村教授とともに、厚生労働省援護課を訪ねた。担当者は「昭和三十二年の現地聞き取り調査で、軍命令によって集団自決したという裁定を下し、犠牲者全員を援護法の対象にした。最近、一部報道などで、軍命令がなかったという話も聞いているが、再調査はしない」と回答した。行政側がいったん下した決定を容易に変えようとしない日本の官僚の姿を思い知らされた 》(『渡嘉敷島「集団自決」の真相』)

                     ◇

■政府主導の「公金横領」■

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法性の疑いも充分考えられる強引な拡大解釈をしている。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

■援護金業務での宮村幸延氏の功績■

座間味村役所の援護係・宮村幸延氏は、援護法の折衝のため何度か上京しており、その結果、軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満児から0歳児でも、63年以降準軍属として確定することになったようである。

そしてそのときの宮村氏の努力は現在も座間味村役所に宮村氏の「功績」として記録に留められていると言う。

現在公式には厚生労省に「軍命を付した援護法の申請書」の存在はないということになっている。

当時の厚生省の「拡大解釈」は、拡大を通り超して「違法解釈」と言われても仕方がない。 

つまり当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理である。

■宮村が「侘び状」を書いた理由■

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。

おそらくは『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、援護担当の宮村氏は梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していたのではないか。

そして、宮村氏は、死んだはずのお富さんならぬ梅澤さんが生きていると知って驚天動地の心境だったのではないか。

何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたとしたら、「公金横領」は厚生省の指導による共同責任だとしても、公文書偽造の個人責任はまぬかれない。

梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのではなかったのか。

ところが、その後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻すことになる。

その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力が推測される。

■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■

それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できることである。

その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。

ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。

梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。

「軍命派」の総本山の沖縄タイムスとしては、「誤記」に対する謝罪要求に動揺はしたが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。

沖縄タイムスは次のように考えた。

富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題であるが、梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。

そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。

そこで、タイムスは確認の時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。

驚いたのは座間味村当局。 宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。

そこで苦労の結果考え出した結果はこうだった。

最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。

沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。

結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、新川明氏を安堵させることになる。

約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。

そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えたことは容易に想像できる。

沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。

「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。

一方の梅澤氏は、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている上、宮村氏の「侘び状」まで持っている余裕からなのか、

座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。

「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)

その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もせずに、このような余裕の発言をし、

村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。

事実その後交渉は打ち切られている。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美)

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

 

【おまけ】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大教授の論文はこれ。

政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

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ジュゴンを人命より尊ぶ左翼!普天間代替反対で国提訴

2009-08-21 13:39:29 | 未分類

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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一人の死傷者も出ていない「沖国大米軍ヘリ墜落事件」を、広島の原爆ドームやスペインのゲルニカと比べて大騒ぎするのは、戦没者に対する冒涜だと書いた。

沖国大ヘリ墜落 事故と虐殺の混同!主客転倒の基地移設論

これに対する反論はおそらくこうだ。

「住宅密集地に隣接する普天間基地は戦争並みに危険だ」

「一歩間違えば大惨事」

そしてこのような主張がこれに続く。

「普天間基地は無条件で閉鎖され、沖縄県民に土地が返還されるべきなのだ。」(目取真ブログ)

 

なるほど、住宅密集地に隣接する普天間基地の危険性を疑うものはない。

そこで小学生でも分かる理屈をくり返す。

だったら、早急に移設を実行せよ!

人命尊重を考えるなら、より危険性の少ない辺野古へ移設するのが正論ではないか。

辺野古移設は日米両政府の合意事項でもあり、これを一刻も早く実現するのが民意ではないのか。

ところが、県民の人命よりジュゴンを守れと、移設を妨害する勢力がある。

ほとんどの県民が一度も見たこともないジュゴンの命が、多くの県民の命より大事だと言うのだ。

彼らが日頃口にする「命どぅ宝」の合言葉は「一匹のジュゴンの命は数万人の県民の命より尊い」という意味らしい。

 

沖縄タイムス 2009年08月20日 社会 

普天間代替 アセス違法と国提訴/市民ら344人那覇地裁に やり直し要求

 米軍普天間飛行場の代替施設建設に伴う環境影響評価(アセスメント)で、事業者の沖縄防衛局による方法書や準備書の作成手続きに違法があったとして、原告344人が19日、国にアセス手続きのやり直し義務の確認と国家賠償を求める訴えを那覇地裁に起こした。弁護団によると、アセス手続きそのものの不備を問う訴訟は全国で初めてという

 原告は、環境問題の専門家や辺野古への新基地建設に反対してきた県内外の市民ら。今後も原告が増えそうな見込みから弁護団は、二次提訴も視野に入れている。

 訴状では、(1)具体的な事業計画が示されないなど問題点が多い方法書や準備書はアセス法の要件を欠く(2)1700万立方メートルの海砂採取や四つのヘリパッド建設などを追加・修正するにはやり直しが必要―などと指摘し、手続きのやり直し義務が事業者側にあると主張。また、違法な手続きが行われ「住民が意見を述べる機会を失った」として、原告1人当たり1万円の慰謝料を求めている。

 原告団長の安次富浩・ヘリ基地反対協代表委員は「沖縄防衛局は県民の思いを無視して違法なアセス手続きを積み重ねている。国の横暴を許してはいけない。この裁判に勝利し辺野古の新基地建設を絶対に止めるという戦いにつなげたい」と訴えた。

 県内外の41人で組織する弁護団の団長を務める三宅俊司弁護士は「沖縄防衛局がやっていることは『ザル法』と言われている日本のアセス法にも反するずさんな調査で、絶対に認めてはいけない。沖縄で環境アセスの悪例を作らせてはいけない」と意義を強調した。

原告「基地止める」

 提訴前に那覇地裁前で開かれた集会には、名護市辺野古への新基地建設に反対する原告ら約60人が集まり、「沖縄防衛局はアセスをやり直せ」と気勢を上げた。

 弁護団事務局長の金高望弁護士は「準備書を作成後も調査が続けられていて、現場で反対運動する人から、こんな違法を裁判で訴えないでいいのかとの意見があった。決して簡単な裁判ではないが、勝ってなんとしても基地建設を止める」と訴えた。

 提訴後の記者会見で、原告団事務局長の東恩納琢磨・ジュゴン環境アセスメント監視団長は膨大な追加・修正の在り方を問題視。「防衛局は本当は最初から把握した上で後出ししたことを裁判で明らかにすれば、(防衛局の)自浄能力が働くと思う。ここで違法なアセスを止めることができれば沖縄が環境を通して自立した沖縄になれる」と話した。

                                               ◇

記事では原告は「県内外の市民」としているが、ほとんどが県外からきたプロ活動家であることは県民の間では周知のこと。

今から39年前、沖縄タイムスが、プロ市民の過激な行動を「住民の行動だ」と誤った印象操作して大きな禍を残した事件があった。

1970年3月26日、翌日座間味村で行われる戦没者慰霊祭に参加するため那覇空港に降り立った元渡嘉敷島戦隊長赤松嘉次氏は空港で待ち受けた「左翼集団」により「人殺し」などの罵声を浴びせられ慰霊祭参列を阻止されてしまった。

ところが、翌27日の沖縄タイムスは社会面のトップを、あたかも「渡嘉敷住民」の行動であるような印象操作記事で飾った。

この記事が大江健三郎の『沖縄ノート』執筆の動機となるのだから、沖縄タイムスは今も昔も印象操作記事で世間に害毒を流し続けていることになる。

ジョゴンの命を守るため普天間基地の移設を妨害する勢力は、「一歩間違えて大惨事が起きた場合」、その責任を取る覚悟があるのだろうか。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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【最終章】オカッパの少年の正体

2009-08-21 06:09:11 | オカッパの少年

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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■失明は「援護法」の適用除外?■
大城氏の証言を以下に紹介する。  
<戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。沖縄戦から48年後の1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れた。その2年前に戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづく障害年金の適用を厚生省へ申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。
「日本兵の暴行による障害は援護法の対象にならない」
席上、援護課長は従来からの見解をくり返した。援護法の対象は基本的に軍人・軍属・準軍属などの「戦闘参加者」に限られ、原爆や空襲などの「一般戦災」は除外されている。 しかし全島戦場と化した、「壕の提供」や伊江島・座間味・渡嘉敷の「集団自決」者なども「戦闘参加者」として援護法が適用されたのだ。
「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」
こういって大城さんは怒る。
「提訴したいが日数がかかるのであきらめました。もっと若ければ…。戦後補償は沖縄だけの問題ではない。日本が侵略したアジアの被害者に、まず補償しなければ。これからも、そんな実情を訴えていきます」>(『『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

ここらで「援護法」について概略を説明したい。

 ■「援護法」の概略■
「軍命の有無」が争われている集団自決論争で、「軍令であった」としたのは、「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)による遺族年金の受給をするための方便だったと当時の琉球政府職員が証言している。

そもそも「援護法」とは、軍人が負傷、または疾病した場合、恩給法の規定に基づき軍人に恩給を支給する法律であり、支給対象は軍人とその遺族に限られる。

だが沖縄戦の場合、悲惨な地上戦で住民が塗炭の苦しみを経験した事情に鑑み、政府は政令を発布することにより、その適用範囲を拡大して民間人も準軍属として支給対象にした。

軍が関与した民間人への適用範囲も漸次拡大し、軍の命令、関与が理解できるとは思えない6歳未満の幼児にも適用、更に再度の政令改正により遂には0歳児にも適用対象の範囲を広げた。 
つまり、軍の関与で親兄弟や知人に殺害されたり、傷を負った住民は、0歳児に至るまで「援護法」の対象になったのである。援護を受けるには、申立人(遺族)と死亡または負傷の証言をしてくれる住民の証言を記した現認証明書があればよい。
日本兵に壕を追い出されたり、食料を強奪された場合でも、「壕提供」や「食料提供」という名目の現認証明書を知人らに書いてもらい、「援護法」の適用となったのである。

そのため実際には他の住民に追い出された場合でも、「日本兵に追い出された」と証言して援護法の対象になったと言う。

政府は「援護法」の沖縄住民への適用には比較的寛大で、「戦前から目の悪かった者が戦後援護法の適用を受けている」といった話は良く聞く公然の秘密である。

大城氏の場合、日本兵に食事・宿舎の提供などで実際に協力しており、日本兵の暴行を受けたとき壕を連れ出され食料を強奪されている。その結果失明したのなら現認証明書さえあれば「援護法」に適用されて、なんら不思議でない。

ところが大城氏が「援護法」による障害年金の適用を厚生省に申請したのは戦後半世紀も経ってからあり、厚生省はこれを却下している。1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れているが、何故その時に膨大な数の署名に代わり、たった一枚の現認証明書を準備できなかったのか。
 
暴行を受けたとき近くにいた(と思われる)住民の証明があれば済むことだ。しかも援護課は現認証明書に関しては比較的大目に見ていたではないか。大城氏は「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」と怒りを露わにしているが、「日本軍の命令」により命を絶たれた子供が補償されていることを考えれば、大城氏の受けた障害が補償されなかったのは他に理由があったのではないのか。

■戦後46年経ってから「援護法」を申請■
「援護法」の適用に関し、ここで二つの疑問が生じてくる。 

第一の疑問は、大城氏は1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知ったというが、その時は既に終戦後32年も経過しており大城氏のような重篤な障害者ににしては知った時期があまりにも遅すぎる。
戦後大阪に在住した時期があり、そのため知るのが遅かったとも考えられるが、大阪とはいえ大城氏が住んでいた大正区は沖縄出身者が多く住み、沖縄人の情報ネットワークが濃密なことで知られた地域。 大城氏は日本兵の暴行による右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず苦労したというのが事実なら、何故自ら障害の補償に関する情報を求めなかったのか。 大城氏の場合は歩行障害と失明という他人が容易に識別出来る障害なので、仮に自ら情報を求めなくても、大阪の濃密な沖縄人コミュニティーの知人縁者や、沖縄の親戚から「援護法」の情報を知らされていてもおかしくはないはずだ。 重い身体的ハンディを抱えながら、何故、戦後半世紀も経過するまで「援護法」適用の申請をしなかったのか。 百歩譲ったとしても申請のための情報を得る努力をしなかったのか。

さらに不可解なのは、大城氏が「援護法」の適用を申請したのは、「援護法」の存在を知った年(1977年)から遅れること更に14年も経過した1991年になってからという事実である。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)) 
したがって大城氏が実際に申請したのは、戦後というより沖縄が返還されてから既に19年も経過してからである。
このような仕事にも影響のある重大な障害を抱えながら、「援護法」の申請を長期にわたり放置していた理由は一体何であったのか。

■得られなかった現認証明書■
次の疑問は、大城氏は、「援護法」申請のために2815人の署名を持って厚生省を訪れているが、申請手続きには一枚の現認証明書があれば済むことであり、大人数の署名など必要ないはずだ。
「援護法」の申請手続きに必要なたった一枚の現認証明書が得られないので、本土各地で行った千回以上の講演会で得た署名で現認証明書に替えようとしたのではないか。   

署名を持って大城氏は日本兵の暴行による失明を「援護法」にもとづく障害年金の適用を求めて申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。

■故郷沖縄で講演を避けたその訳は■
ここで、朝日新聞記事「75歳語り部 来年引退」を振り返ってみると、次のような記述がある。

<以来、講演は1230回を超えた。語り部は多くが沖縄在住で旅行客が相手だが、兵庫県在住の大城さんは主に本土で沖縄戦を語り続けてきた。>

沖縄は「平和教育」の盛んな地域であり、講演会やその他の手段で日本軍の住民に対する残虐行為がことさら誇張されてきた。その意味ではオカッパ頭で女装した少年が日本兵の暴行で失明し、手足に不自由をきたす障害を受けたのなら、こんな絶好の「平和教育」の題材はないはずだ。

だが、大城氏はまるで故郷沖縄での講演を避けるように、主に本土で講演会を行っている。
一方沖縄では一冊の出版物もなく、引退前の故郷での講演会も那覇市などの沖縄本島ではなく、石垣島だけの一回限りだということに疑念は更に深まる。
大城氏も地元新聞も一体何を恐れているのか。
まるで大城氏は何か写真の「少女」と現在の自分の関係で知られたくない秘密を持っており、そのため故郷での講演会や自伝等の出版物を避けているのではないのか。

■「悪逆非道の日本兵」ではなく「残酷な戦争」■
 冒頭に引用した2008年6月23日付「朝日新聞」夕刊の一面トップを飾った「残酷なのは戦争」という大見出し再度戻る。 

記事を見たときからこれが心にひっかかっていた。
 この見出しで係争中の裁判で行われた論点のすり替えが脳裏を過ぎったのだ。
 
「集団自決訴訟」で、当初は慶良間島の両戦隊長が「自決命令を下したかどうか」が争点だと思われたが、両隊長の「命令又は強制」の存在が証明されないと分かると、被告側は一転して戦隊長個人の問題から日本軍全体の責任に論点を摩り替えた。
 
大城氏の受けた日本兵による暴行に話をもどすが、人間はそんなに寛大になれるものだろうか。

  友軍のはずの日本兵に壕を追われ、食料を強奪され、更に失明と歩行障害を患うほどの暴行を受けているのだ。

それだけではない。 

大城氏の母親は身に覚えのないスパイ容疑で日本軍に虐殺されたという。大城氏が日本軍から受けたこのような理不尽な仕打ちに対して、せめて戦後の日本政府が「援護法」等の適用で報いてでもおればともかく、それさえも非情に却下されているではないか。

大城氏が日本軍に対して恨み骨髄に達したとしても不思議だとはいえまい。
 
ところが朝日記事には大城氏のまるで神か仏のように寛大なコメントが掲載されている。

「でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」と。

この大城氏の言葉は果たして大城氏の本心なのだろうか。
 「集団自決訴訟」の例と同じように、大城氏の場合も「事実として証明できないもの」の存在で、

やむを得ず恨みのターゲットを「悪逆非道の日本兵」から「残酷な戦争」にすり替えたのではないのか。

いや、論理は「集団自決訴訟」の場合より更に大幅にすり替わり、焦点は「日本兵」から「日本軍」を飛び越えて「戦争」へと拡散している。

そして論理のすり替えは、大城氏が被害を被った「沖縄戦」から、更にベトナム戦争、イラク戦争と「戦争一般」にすり替わっているではないか。
 大城氏は寛容にも、自分を失明させ足を骨折させ、さらには実母を虐殺した日本兵の残酷さを許し、戦争そのものの残酷さを訴えているのだろうか。 

■「うつろな目の少女」の真相を■
果たして「うつろな目の少女」は、間違いなく大城盛俊氏その人なのか。それにしては、あまりに当人の語った戦時中の証言に致命的とも言える矛盾が存在する。

これまでに全国で1230回を超える講演を行い、数十万の日本人に語りかけ、今年、その講演活動にピリオドを打つという大城氏には、「沖縄戦の語り部」として、「うつろな目の少女」にまつわる真相を語る責任がある。(完)

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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4・オカッパの少年の正体

2009-08-20 09:29:36 | オカッパの少年

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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■少年の兵役動員■
琉球新報の記事を読んで、ざっと思いついただけでも、これだけの疑念が湧いたが、何よりも一番の疑念は少年が女装した理由だった。

沖縄戦では米兵の毒牙を逃れるため女性が男装した話は多いが、日本兵から逃れるための「女装の男性」の話は大城氏の例の他には聞いたことがない。
記事を読んで真っ先に脳裏に浮かんだのは「兵役逃れ」という、当時としては恥ずべき行為だ。大城氏が正式な兵役には未だ早い少年だったとはいえ、人手不足が究極に達した当時の状況では、少年といえども兵役を免れ得なかった。
戦争末期になると、戦況の悪化、長期化により兵士が不足し、兵役対象者が大学生にまで及んだ(学徒動員)。そこで、沖縄も、1945年3月に“鉄血勤皇隊”として沖縄の学徒が召集された。
日本陸軍第32軍の「鉄血勤皇隊ならびに活用に関する覚書」によると、「各学校ごとに鉄血勤皇隊を編成し、軍の緊密な協力の下で軍事訓練を施し、非常事態ともなれば直接軍組織に編入し戦闘に参加させる」と記されており、当初から軍の援助・指導を前提に、県立学校が積極的に軍事訓練・戦闘へ取り組んでいたことが伺える。
さらに、その添付文章などによると、召集対象年齢を下回る14~16歳の学徒についても召集に備えた書類を作ることが定められていた。そうした覚書・協定に基づいて、当時の沖縄県庁は、各学校で集めた学徒名簿を軍に提出し、沖縄の14~16歳の少年を動員した。
戦争が長引けば、そのうち大城少年も正式に招集される。仮に正式な兵役召集ではなくても、少年が伝令や道案内で軍に協力するのは当時の沖縄ではよくある話だった。
結局、大城少年は兵役の手伝いを逃れるためにオカッパ頭の少女に変装していたのではないのか。
  現在の価値観でいえば、12歳の少年が将来兵役に取られるのが忍びがたく、オカッパ頭の女の子に変装させて兵役を逃れさせる親心はよく理解できる。だが、時代は63年前の戦時中のこと。当時の常識で言えば兵役逃れは恥であり、非国民といわれても仕方のない行為だ。
 
食料を要求する日本兵とそれを拒んだ「少女」が、もみ合ううちに男であることがばれてもおかしくはない。
  琉球新報の記事にある、「生意気なやつだ」という日本兵の一言から筆者が想像するのは、「女の癖に生意気だ。おや貴様、男だな。兵役逃れだな!」と言って兵隊に殴られたと見るのが自然だろう。本土各地では講演を続けられても現地の沖縄では、実質上の「徴兵逃れ」がばれてしまうのを恐れて沖縄での講演を避けたのではないか。
 それとも琉球新報が恐れたのは「うつろな目の少女」が大城盛俊氏であるという確証が得られなかったからなのか。

■オカッパ頭は「兵役逃れ」■
  このように幾つかの疑問を残したままその年を過ごしたが、年が明けて2008年の2月1日付「朝日新聞」に、「 ニッポン人脈記/沖縄の「少女」」と題する記事が出た。同記事でオカッパ頭にした理由は、「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」となっており、「女装」の理由が、ここでは「徴兵逃れ」と取れる表現になっている。 
大城氏が現在住む地元の新聞を調べてみたら、5年前の2003年8月16日付「神戸新聞」に次のような見出しの記事があった。
 ≪「沖縄戦と平和をつたえる会」会長 大城 盛俊さん(72)
無関心の怖さに警鐘 ―沖縄に生まれ、戦争は十三歳で体験した≫
 この神戸新聞の記事ではオカッパ頭にした理由を「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて.」とはっきりと明言しているではないか。
14歳以下の少年の兵役について、大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』には次のような記述がある。
 <…14歳以下の子どもたちの死因を見ると、戦地では、徴兵適齢どころか年端も行かぬ子どもたちまでが大人同様に軍隊に使役されて死んだことは明らかです。>
 さらに調べていくと、2005年8月11日放送の朝日放送の戦争特集「語りつぐ戦争」に登場した大城氏が、オカッパ頭にした理由を、次のように証言しているのを発見した。
<女の子に変装したのには、理由がありました。
「お父さんは私に向かって、『兵隊たちは年齢に関係なしに連れて行くから、髪を伸ばしなさい』と…」>(http://webnews.asahi.co.jp/you/special/sengo.html

やはり、オカッパ頭の真相は徴兵逃れであったのだ。

■新たな疑惑が浮上■  
  大城氏の引退を報じる朝日新聞の二枚の写真で、更に新たな疑惑が湧いてきた。確かに講演をする現在の大城氏の右目は写真で見ても失明の様子が伺える。だが、63年前の「少女」はカメラ目線で、焦点もしっかりしていて、とても右目に失明を伴う重症を受けているとは見て取れない。果たして米軍のカメラに撮られた「うつろな目の少女」は大城盛俊その人なのか。 

 沖縄は出版の盛な県であり、特に沖縄戦に関する本は、専門の作家やジャーナリストもおれば、歴史研究と作家の二足のわらじを履く人もいるくらいで、話題性のある逸話は必ずといっていいほど自著か、そうでなければ学者や作家の筆により出版されるのが普通である。
例えば沖縄戦の写真で、もう一人の有名な「白旗の少女」は、地元ジャーナリストと版画作家により絵本になり、さらにそれを基にしてアニメ映画が作られているほど。そして絵本には、白旗の少女を盾にした醜い日本兵がついて来たという意味の一文が加えられて、日本兵に対する憎悪を煽って「平和教育」の目玉になっている。

前述したように、「うつろな目の少女」は、ベストセラー写真集の表紙を飾り、日本軍の暴行で失明したというストーリーなど、「白旗の少女」以上のインパクトを持つる写真である。しかし、不思議なことに本人の自著は勿論、普通ならこの種の証言に飛びついてきた沖縄のメディアも、「沖縄戦研究家」たちも、この「少女」をテーマに出版したという形跡が見当たらなかった。
そんな中、上羽修著『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』(株式会社草の根出版社発行1999年)が、大城氏に触れていることを知った。 
著者の上羽氏は1996年から翌年にかけて約半年間沖縄に滞在して沖縄戦を取材し、その中で、大城さんの体験談を取り上げている。同書には大城少年に関して次のような記述がある。
<1944年夏ごろ、大城さんが玉城国民学校5年生(12歳)のとき、「これまで見たこともない大きな軍艦が横付けされ、その中からトラックや戦車が吐き出されるのを見て、みんなびっくりしました」それから村は急にあわただしくなった。4年生以上の児童は陣地構築に動員され、石や土を運ばされた。もう授業どころではなかった。女性も部隊の炊事や洗濯をさせられた。兵舎を前もって建てずにやってきた日本軍は、学校や大きな家に兵隊を分宿させた。大城少年は村会議員のおじさん夫婦と三人で暮らしていたが、家が大きいので兵隊に座敷を提供して、三人は炊事場で寝起きした。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)>
「うつろな目の少女」が米兵に撮影される一年前の1944年には、大城少年は玉城国民学校5年生(12歳)で、4年生以上は陣地構築にかり出され、女性も炊事洗濯させられていたという事実がこの記述で分かる。つまり写真を撮られた時、大城少年は13歳になっており、男の子なら戦地に引っぱりだされ伝令や道案内をさせられても当時は不自然ではなかったのだ。これは神戸新聞の「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて.」という記事とも符合する。 
更に同書で「少女」が日本兵の暴行を受ける場面が出てくる。少し長くなるが引用する。

■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■
<アメリカ軍が沖縄本島中部へ上陸すると、玉城村にいた日本軍はいったん首里のほうへ移動した。
「まもなく首里が攻められると、兵隊たちは自分の命を守るため一生懸命逃げ帰ってきました。鉄砲も持たない兵隊は持っていても杖がわりにした兵隊が村にきて、壕を探しはじめたんです」 
とうとう大城さんの壕へも5人ほどの兵隊がきた。
「ここは軍の陣地にするから民間人は出ろ」こう命令し、村びとをみんな追い出した。おじさんは炊事道具と着替えを、おばさんは味噌や塩などを、大城少年は米の入ったリュックサックを背負い、玉城城跡の南側にあった小さな自然壕へ移った。
6月に入って、この壕へも兵隊が5、6人あらわれた。
「なんだ、お前は男の子か」
兵隊は大城少年の顔を見て不信の声を上げた。
オカッパ頭だったからだ。中国戦線で日本軍の暴行を見てきたおじさんが、大城少年にも暴行をふるわないように女の子の格好をさせていたのだ。
「食べ物があったら、よこせ」  
兵隊は壕の中を引っ掻きまわした。大城少年はリュックを見つけられてはたいへんと、サッと引き寄せるところを見つかってしまった。 兵隊が引ったくろうとするのを必死にしがみついた。
「この野郎、殺したろか、沖縄人め!」

大城少年が殴られるのを見て村びとが騒いだので、兵隊は大城少年をリュックごと壕の外へ連れ出し、さんざん殴り、大きな軍靴で踏みつけた。大城少年は意識を失った。気づいたときには頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。二世が大城少年のけがをみて「これはひどい」と知念村志喜屋収容所に連れていった。そこで撮られた写真が「うつろな目の少女」である。ていねいに、治療されたが、視力と歩行は元に戻らなかった。>(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)
 
あらためて『これは沖縄戦だ』に掲載の「少女」の写真と上記引用文の大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較検証してみた。写真には「傷つき血みどろになった少女」とのキャプションが付いている。オカッパ頭の少女は着衣が黒く汚れているが、「血みどろ」という説明がなければ「泥まみれ」とも見て取れる。
細紐で首に右手を掛けているので、右肩が脱臼しているようには見えるが、顔や手足の露出部分に怪我や傷の痕跡はない。写真撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。少なくとも目の周辺に怪我らしい痕跡は見当たらない。

ここで写真の「少女」の目と大城氏が説明する目の怪我の状況に大きな矛盾が生じてくる。
怪我は日本兵の暴行により目が腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院での治療がどのようであったか知る術はないが、ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。 

もっと決定的な矛盾がある。

大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』(クリエイティブ21 2007年)には、<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが>とある。
これは、大田氏が大城氏を取材してまとめた記事である。ところで、2003年8月16日付「神戸新聞」で、大城氏は記者の質問にこう答えている。
<―体験を語るきっかけになったのは、約二十年前に新聞に「うつろな目の少女」として掲載された大城さんの写真だった
 「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて。それで、ガマに避難しているときに、日本兵がやってきて、砂糖を奪おうとした。抵抗したら『貴様は女の子かと思ったら男か。生意気だ』と、意識を失うまで殴られ、けられて全身血だらけになった。その後、今度は米兵がきて『何もしないから出てきなさい』といった。恐る恐る外へ出て、生まれて初めてもらったチョコレートを銀紙ごと食べてしまい、吐き出した。それから軍の診療所に連れていかれ、治療を待つ間に撮られたのがあの写真だ」>

米軍診療所で治療を受ける前であったとすれば、眼帯をつけられる前の写真と言えるが、その眼帯を一カ月もつけるほどの大ケガをしている目とは到底、見えない。
これらをまとめれば、大城氏が全くの虚偽を語っているのか、さもなくば「うつろな少女」が大城氏ではない、という結論となる。大城氏が右目を失明した原因が戦時中の日本兵から受けた傷のせいだという主張さえ、疑念が生じてくる。

続く

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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