■1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場
その日は、渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。
その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。
忘れられぬ戦争の悪夢
<赤松元海軍大尉が来島>
空港に“怒りの声”
抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、沖縄タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。
赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」(実際は陸軍大尉)と大見出しで事実誤認する沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。
「赤松帰れ」
「今頃沖縄に来てなんになる」
「県民に謝罪しろ」
「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」
「慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」
紙面に躍る「県民の声」を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。
わずか40名前後のサヨク団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民の猛抗議であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。
赤松元大尉に罵声を浴びせた実際の抗議団は那覇市職労を中心にしたサヨク団体であった。赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく、那覇市職労の山田義時氏であった。
肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎していた。 そのため、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。
『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空に居合わせ、その「騒動」の一部始終を目撃していた。
一連の騒動で赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊する。翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。
星氏は、前日空港で目撃したの左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの報道を見て、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。「定説」とは、「赤松元大尉の命令で集団自決が起きた」という『鉄の暴風』の伝聞による記述だ。
星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かう。船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続けていた。そして渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。
慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと左翼団体が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で別の舟をチャーターして島に接岸し、島民に弔文と花束を託すに止め、結局上陸することなく島を去った。
赤松氏は、慰霊祭で徒に騒ぎを起こすこと避け、別行動をした。
この赤松元大尉の配慮も、琉球新報の報道は「赤松元大尉、ついに雲がくれ」と悪意に満ちた大見出しで紙面トップを飾っている。
■沖縄戦史を歪曲した記事■
赤松元大尉の那覇空港での騒動を報じた1970年3月27日の沖縄タイムスの記事は、沖縄戦後史を歪な方向へ書き換え、県民を「沖縄分断」という「タイムス史観」へ扇動していくマイルストーンの役割りを果たすことになる。
先ず、この記事を見た県民は、「住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民」といった印象を強烈に刷り込まれる。
■大江健三郎が『沖縄ノート』を書く切っ掛けとなる記事
またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、沖縄タイムスの新川明氏記者らの即席ブリーフィングから「軍命論」を「真実である」と信じるようになる。 そして、そのにわか仕込みの知識で、現地取材をすることなく、作家としての想像力を逞しくして『沖縄ノート」を『岩波書店』から出版することになる。
後に梅澤隊長らに提訴される「大江岩波訴訟」の原点は『鉄の暴風』だが、直接の引き金になったのは、この1970年の沖縄タイムスの記事ということが出来る。
ちなみに「大江岩波訴訟」は、大江が『鉄の暴風』の内容を真実と信じたのは止むを得ないとする「真実相当性」という法律概念を適用し、大江の名誉棄損を免責している。
沖縄集団自決のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年のタイムス記事」によって決定的になる。
■「軍命派」の重要証人、金城重明氏がマスコミに初登場
この記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場し記者の質問に答えている。金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版したり全国各地で講演するなどで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。
後に詳述する重要証言者の宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかった。
過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。
■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■
金城重明氏は、沖縄タイムスのインタビューで、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。
米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、「一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。
「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがある。まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。
その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」などと強弁する。 その矛盾に、贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。
沖縄タイムスに初めて登場する金城重明氏は、正直に心の内を吐露してはいる。 だが、当時から金城氏にとって「軍命」とは、自分が犯した「殺人」に対し一生叫び続けねばならぬ一種の免罪符であったのであろう。
金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。
≪1970年3月27日付沖縄タイムス
集団自決の生き残りとして
ー牧師となった金城重明さんの場合ー
記者:当時の状況はどうでしたか。
牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。
記者:赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。
牧師:直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。
記者:自決命令についてはどう思うか。
牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。
記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。
牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。
記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。
牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し、自分も死ぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ。 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(1970年3月27日付沖縄タイムス)》
◇
1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。
ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。
沖縄県民は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。
沖縄県民の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。
同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。
だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 学校の先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。
■死者の命令で肉親を殺害する不可解■
軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。
自決とは通常自分で自分の命を奪う自殺を意味するが、金城兄弟の場合、「自殺」を試みたのではなく「他殺」で家族を含む多くの他人を殺している。
金城重明兄弟の「自決」については、同じ渡嘉敷島の出身で当時14歳の山城守治安が『渡嘉敷村史 資料編』で次のように証言している。山城盛治は、「金城重明」その兄「金城重栄」と共に「集団自決」の体験者である。
金城重明兄弟と同じ年頃の山城盛治が三人一組になって村民たちを殺戮している状況が、生々しく描かれている。
≪「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。
女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。
僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。
そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。
私は一四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。
行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。
それで(ゴボウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。
そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。
私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。
年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊すのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのです」(『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(p399~406))》
上記「大学の先生」とは「金城重明」、「区長」とは金城重明の実兄「金城重栄」のことである。「集団自決」は多様な態様を含むものであるが、『鉄の暴風』による「赤松命令説」は、この多様な態様を全て説明できるものではない。
しかも赤松隊長は、この自決現場に臨場しておらず、「玉砕で既に死亡している」と思われていた。
銃剣で威嚇する軍人に囲まれた村民が、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺あるいは惨殺されるされる状況なら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられよう。ところがその時赤松隊長はすでに死亡したと思われていたのだ。
既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。
このことからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。
ここで描かれているには「集団自決」の現場ではなく「集団殺戮」の現場であるという点に、留意しておくべきだ。
では、大江岩波訴訟の被告側証人として出廷した金城重明は、証人尋問でどのように対応したか。
渡嘉敷島出身で集団自決を体験した山城盛治の証言、つまり「金城重明の殺害記録」が原告側の証拠としてが提出され、反対尋問で原告側弁護士が金城重明に「これは事実ですか」と聞いた。 原告側は金城重明が「殺害記録」を否認すると予測していた。
ところが想定外の事が起きた。
金城が「事実です」と認めてしまったのだ。まさにこの場面は裁判のクライマックスである。
これまで集団自決の語り部として有名になっていた金城牧師は、家族を殺したのは「愛」からだと、告白していた。 そこで原告側弁護士が「貴方は、親兄弟だけではなく第三者の人たちも殺害しましたね」と問い詰めたら、意外にも「はい」と呆気なく認めてしまったのだ。
この機を逃すまいと原告側弁護士が、こう畳み掛けた。
「合計何人殺しましたか」
しかし、金城は沈黙して、答えない。
そこで弁護士が「もう一回聞きます」と繰り返した。
今度は裁判長が介入してきた。 あたかも言葉に詰まる金城に救いの手を差し出すように。
「証人がいいたくないことを、それ以上問い詰めるな」と。
この裁判長が介入した場面について、秦郁彦は曽野綾子との対談で、こう述べている。
「これは、全裁判を通じての決め手かと思った。 要するに金城牧師は、一種の「殺し屋」だったということ、しかも彼は他の人も殺したのを今までかくしていたんですよ。 それを認めちゃった。 ですから、彼の証言は、すべて当てにならないということにもなります。彼はその後も集団自決は軍の命令と声高に叫び続けているのです。偽善者の典型ですね。」(『「沖縄集団自決」の謎と真相』)
歴史の専門家の秦郁彦が「勝負あった」と感じたこの場面で、秦は金城重明が偽善者の典型と見抜いたのだ。秦は慰安婦問題で詐欺師・吉田政治の嘘を現地調査で嘘と証明した実証的歴史家として知られている。
一方、作家の曽野綾子は金城重明の印象をどう見ていたか。
曽野は、「自分は勘だけはが良い方だ」と断りながら金城牧師の初めて会った時の印象は「なんて変なひとだろう」と思ったという。
曽野が金城牧師に面談し時、金城が「一人の人間は地球より重いとイエスが言われた通り」と述べたので、同じクリスチャンの曽野は「イエスはそんなことおっしゃっていません」と反論した。曽野は、金城が牧師でありながら聖書もよく読まずに聖書を平然と間違って引用する態度を見て、信用できない人という印象を受けたという。 曽野は金城に面接取材した時も「この方は後で『そんなことは言ってなかった』と言われそうだと思った」ので、金城重明の証言だけ特別に録音していた。
金城重明に関しては歴史の専門家の秦郁彦も作家の曽野綾子も期せずして慰安婦問題の詐欺師・吉田政治と重ねて偽善者の印象を持っていたようだ。
自分がパニック状態による「まったくの異常心理」などと弁明しながら肉親や他人を殺害し、その一方で「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と自己弁するのは責任転嫁の典型であり、吉田政治と同様の詐欺師と言われても仕方がない。
さらに金城重明は「軍の命令」を証言するには不適格な人物と言える発言をしている。
2007年9月10日那覇の出張法廷で証人として証言台に立った金城氏は、憤りと不信感を表したはずの日本軍に、傷の手当てを受けていたのだ。
<証人の金城氏は、集団自決後、米軍の迫撃砲で負傷した。その傷は軽いものではなく、傷跡に指が四本も入るほどのケガだったという。その後、赤松嘉次隊長と遭遇。 直接、隊長と言葉を交わしているのである。 法廷で金城氏はそのときの様子をこう証言している。 「軍の医療班のところへちょいちょい通って消毒、絆創膏(ばんそうこう)だけです。 薬は無かった。 それでたまたま赤松さんに会ったら、渡嘉志久に行けば薬はあるはずだよと。 そして、確認の意味で言ったけれども、ああ渡嘉志久に行けば薬はありますかと。 隊長から、権威ある者の発言はもう一回で十分だといわんばかりに叱られた」 この発言は重要だ。つまり、金城氏の傷は軽症ではなかったので、日本軍の医療班を訪ねた。 ちょいちょい通ったが、医療班からは消毒や絆創膏を張ってもらっただけだという金城氏。 こうした傷の手当ての場合、一日に何度も行くわけではない。 毎日、日本軍の医療班のある所に通って消毒してもらい、絆創膏を張ってもらったのだろう。 負傷して何日かの或る日、赤松隊長は金城少年を見て、「渡嘉志久に行けば薬はあるはずだ」と助言している。 この証言は結局、明らかに赤松氏が住民に自決命令なるものを発していないというものだ。(略)
金城重明氏は法廷証言を通じて、「赤松氏の自決命令はなかった」という証人であることを浮き彫りにした。 被告の大江健三郎氏・岩波書店に勝訴判決を出した深み敏正裁判長が、判決文の中で金城証言に言及しなかったのは、そのためでないかと思えて仕方がない。>(「Viewpoint August 2008」よりー太字強調は引用者)
仮に「自決命令」が事実だったらどうなるか。
自決命令を出した相手が生きてウロウロしている姿を発見したら、命令した日本軍は、「命令違反」として即座に射殺するか斬殺するだろう。
ところが『鉄の暴風』が「鬼の赤松」と決めつけた赤松大尉は、実際は傷の手当ばかりか、薬の世話までしてくれたのだ。
玉砕で死んだと思われていた赤松隊長に会った時の状況を金城は後にこう語っている。
「一緒に死ぬはずが、どうして生きているのか。裏切られた思いが出てくるわけです。実は私は赤松隊長に山の中で偶然二度あっているのです。一回目会った時は硬い表情で、一言も話さなかったのですが、二回目に会った時は『われわれは、大本営に報告しなければいけないから、生き残らなければならないんだ』と、言っていました」(『僕の島は戦場だった』佐野眞一著)
結局、赤松隊長は生き残った金城重明を見ても、追加の命令は出していない。軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であったことを自白したに等しい。
■軍命令はすべて推論■
軍命令をにおわす証言については、金城氏はこれまでいろんな場面で証言しており、それが62年も経った今頃になって新しい証言が出たらかえって信憑性を疑われるだろう。
結局、金城証言のどこを見ても「体験者」としての証言ではあっても「軍命を聞いた」証人ではない。
琉球新報によると「軍命あり」と断定する部分は次の点だ。
①村長が音頭を取った「天皇陛下万歳」とは玉砕の掛け声。 村長が独断で自決命令を出すのはありえず、軍から命令が出たということ。
②村長が「天皇陛下万歳」唱える前、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令が伝えられ、村長が号令を書けたことが分かった。
③軍から手りゅう弾が配られた。
琉球新報の論理に従えば、村長が独断で自決命令を出すのはありえないので、軍から命令が出たに違いないということ。
「Aが○○をすることはあり得ないから、Bがやったに違いない」。
これは原告弁護団がいみじくも言うように金城氏の「推論」であり、彼の証言は「悲惨な体験」の証言者としては価値があっても、金城氏が集団自決隊長命令を語る証人として資格が無いことがはっきりした。
■耳打ち「それが軍命だった」ー伝聞の又伝聞■
ところが元々論拠があやふやな金城の軍命説を補強するために、被告側は渡嘉敷出身の吉川勇助氏の証言を法廷で金城の推論の補強に使った。
少し長いが、伝聞による金城重明の証言を補強する証言が、更なる伝聞であるというデタラメな「軍命」証言を知る意味で、以下に全文引用する。
≪吉川勇助さん -上- (2007年6月14日沖縄タイムス朝刊総合3面)
村長の「陛下万歳」合図に
(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」
吉川氏によると村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令(らしきもの)が伝えられ、村長が号令をかけた事実だけは判明する。
しかし金城氏は軍の命令を直接聞いていない。 しかも、他人の伝聞、それも「耳打ちしたのを見た」であり、耳内の内容を聞いたわけでも無い。
金城氏は伝聞のその又伝聞を自分の「推論」の補強にしているに過ぎない。
推論が推論を呼ぶともはや法廷の証言者としては欠格である。文学の世界では興味深い逸話でも、これが法廷での証言のもなると法廷を混乱させるだけである。
おまけにその耳内を目撃した吉川勇助氏の証言によると、耳打ちの最中にすさまじい迫撃砲や艦砲射撃の爆発音で、その伝聞の伝聞さえ爆音で聞き取れなかったのだ。
このような状況での「耳打ちを目撃」した吉川証言に頼らざるを得ないほど金城氏は「隊長軍命令」を語るには不適格な証言者なのである。
■究極の「軍命」-縦の構造
元々曖昧だった金城重明の「軍命」を、補強する意味の吉川勇助の「耳打ち軍命説」が登場するに及び、軍命説が総崩れの様相を呈してきた。曽野綾子や星雅彦が現地で聞き取り調査した結果「軍命があった」というコメントは一度も聞いていないという。のだから当然の結果である。
しかし、ここで登場するのが裁判の被告人が語る究極の「軍命」だ。2007年11月9日午後には大江健三郎氏本人が初めて出廷した。
大江は、「軍命令はあったと考えている」「(『沖縄ノート』の)記述は訂正する必要はないと考える」と述べ、「集団自決命令は隊長個人の資質や選択ではなく、日本軍の縦の構造の力が島民に強制した」とし、隊長命令があったか否かという裁判の争点を「広義の強制」にすり換えた。
日本軍の縦の構造とは、命令系統が縦割り社会という日本軍組織の特徴を意味し、軍隊の最高司令官が下した訓示などに「決死」とか「玉砕」などの文言があれば、それは「自決命令」を意味することであり、現場の隊長の個々の「軍命」など必要ない、という極めて乱暴な主張である。
■真実の吐露■
「沖縄戦『集団自決』の真実を探る」と題するフォーラムで集団自決の現地取材に深く関わったジャーナリストの鴨野守氏が「集団自決の生き残りという人がいろんな証言をしているが、出来ることならジャーナリストとして集団自決で死んだ人たちの胸の内を聞いてみたいとを語った。
なるほど、いろんな沖縄戦の体験者が連日新聞の特集欄を賑わしているが実際の集団自決の生き残りの証言は少ないし、ましてや生き残ることもかなわず死んでいった人々の胸の内を聞く事は誰も出来ない。生き残りの証言者たちは集団自決の生き残りではあっても実際には自決しなかった。
もし、軍の命令を主張するのなら彼らは「軍命違反」して生き残ったことになる。
軍命令違反は軍法会議か即処刑だろうが、それはさて置いても生き残った者に複雑な心理的葛藤が起きても不思議ではない。
本人の意識、無意識に関わらず証言には自分が手にかけた家族への贖罪の気持ち、音頭を取った村長としての自責の念など、これらが渾然一体となって微妙にその証言に影を落しても不思議ではない。
宮平さんの「論壇」の次のくだりを思い起こしてほしい。
≪彼らの死は、生き残ることにより死よりつらい生き地獄が愛する肉親に降りかかることを恐れての行動であり、家族以外の何物でもなかったのだろうと考える。≫県民大会開催に反対する
金城氏は被告側証人として「軍命があった」を証言する筈だったのが自分が手をかけた家族のくだりになると「本心」を吐露して上記引用の宮平さんの意見を裏付ける証言をしている。
≪金城さんは家族を手にかけたときの気持ちについて、「米軍が上陸し,(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常に恐怖で、愛するが故に殺した」と語った。≫(琉球新報一面)
この部分は新報記事の「金城氏の証言骨子」には何故か記載されていないが、計らずも金城氏は、「集団自決は軍の命令や強制ではなく、家族への愛だった」と、真実の証言をしてしまったのだ。
参考までに沖縄タイムスで金城氏の「家族に手をかけた」くだりを見ると、
「手をかけなければ、非人情という思いがあった」と簡単に記するに留めている。戦隊長下の軍命証言/「集団自決」沖縄法廷
タイムスがあまり触れたくない金城氏のコメントは被告側にとっては致命的な「本音告白」だったのだろう。
金城氏の証言は被告側にとって思わぬ自殺点(オウンゴール)になってしまった。
■金城兄弟は父親殺害を隠していた■
もう一つ疑問がある。
金城重明氏は早い時期から母親と兄弟を殺したことは告白していながら父親を殺害していたことを長期間隠していた。
多くの証言によると、自分で自分の命を断つことのできない女子供は父親や祖父などの年長者が手を下した。
だが、注目すべきは、金城兄弟の場合未成年の重明、重栄兄弟が壮年の父親を殺害している点である。
これは集団自決の場合でも他に類を見ない例である。
やはりこれは、本人が吐露するように「キラーズ・ハイ」ともいえる「異常心理」が働いたのであり、これを軍命だと強弁しても誰も信じるものはいない。
2008年の雑誌『WILL』増刊号で、集団自決問題の真相解明に精力的に調査活動を続けているジャーナリスト鴨野守氏の渾身のレポート「村民多数を手にかけた『悲劇の証人』金城牧師」が掲載された。
3月28日の大阪地裁の判決文には、渡嘉敷島での集団自決の体験者で、裁判長がわざわざ沖縄まで出張して尋問(非公開)した金城重明への言及が全くなかった。
裁判前後から集団自決体験者の生き残りとして、県内二紙が絶えず金城の一挙一動を大きく報じ、県内各地は勿論本土各県にも講演に出かける、いわば集団自決証言者のシンボルともいえる金城氏の、わざわざ出張までして行った法廷証言が何ゆえ判決文では無視されたのか。
これに着目した鴨野氏は、彼のこれまでの証言などを掘り起こしながら、なぜ金城証言は無視されたかを検証し、金城氏がすでに語ったものとは違う「集団自決の真相」に迫った。
雑誌『WILL』増刊号に寄稿した鴨野氏の渾身のレポートはこのような動機で書かれた。
重要ポイントになる一箇所のみを引用する。(強調は筆者)
< 昨年九月十日午後、福岡高裁那覇支部で行われた所在尋問(出張法廷)で、金城氏は証人として証言した。この尋問は非公開であるが、そこでのやりとりは反訳されて文書にまとめられている。自決の場面を、氏は次のように語っている。
「多くの家族がそれぞれ身内の者を殺していく。その主役を演じたのは父親です。しかし島では父親は軍隊に行ったり、県外、海外に出稼ぎに行ったりして数は少ない。したがって、そのかわり祖父がその役割を演じる。自分では死ねない幼い子供、女性、老人、そして最終はみずからも死んでいく。そういう手法でした。私たち家族に関しては六名家族ですけれども、父親は離れて、おりません。
ですから手をくだす人はいないわけです。二つ上の兄と私は男性ですので、これは当然自分たちがやるべきことだと、・・・>
金城氏は出張法廷で、他の家族は力のある父親や祖父が身内を手にかけていったが、自分の家族は父親は離れていたので、仕方なく自分と兄が家族に手をかけたのです、と“釈明”している。
ところが鴨野氏の調査によると、金城兄弟は父親も殺しており、その後沖縄紙の発言や講演などでも父親殺しは隠して発言している。
金城氏は何ゆえ一家の大黒柱の父親を殺害していながらそれを隠し続けてきたのか。 鴨野氏は告発する。
渡嘉敷島の住民たちのほとんどは、金城兄弟の父親殺しを知っていたが、一家の大黒柱をその子供が殺害することは隠し置くべきタブーとして口を噤んでいたという。
沖縄のマスコミが決して報じることのない、鴨野氏のレポートを読んで、一番胸のつかえの下りた人たちは、渡嘉敷島の集団自決被害者の遺族の方々ではなかっただろうか。
彼らが言いたくてもいえない「真相」を、鴨野記者が代弁してくれた形になったのだから。
大江健三郎と岩波書店は厚顔無恥にも、『沖縄ノート』の誤った記述を変えないまま発行し続けており、梅澤・赤松両氏への「報道被害」はその後も続いている。
そこで、2005年8月、梅澤氏と故・赤松氏の実弟が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。
『母の遺したもの』は本来なら隊長命令がなかったという証拠になりえたはずだが、2007年7月27日の公判で宮城晴美氏は、軍命令はあったと見解を変えて出廷した。原告側の徳永弁護士による尋問により、宮城晴美氏は見解を変えたのはわずか1か月前であることを証言した。そして、梅澤氏が命令を出したという証拠があるわけではなく、軍に責任があり、そうなら部隊長の梅澤氏に責任があると考えるようになったに過ぎないことを認めた。1か月前に考えを改めたことに対して、深見裁判長は「本当にその証言でよいのですか」と聞き返すほどの180度の証言変更だった。
梅澤氏は2007年11月9日午前に大阪地裁で行われた口頭弁論で、「(自決用の弾薬などを求める村民に対し)死んではいけないと言った」と改めて証言、軍命令説を強く否定した。また、梅澤氏は「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」とも語っている。(産経11/9、産経iza11/9、本人尋問詳報はこちら)。