狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

■究極の「軍命」-縦の構造■沖縄タイムスのセカンドレイプ記事、1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場

2024-06-22 11:59:06 | ●●沖縄の黒歴史
 

■1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場

その日は、渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、沖縄タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果
 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」(実際は陸軍大尉)と大見出しで事実誤認する沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

紙面に躍る「県民の声」を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名前後のサヨク団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民の猛抗議であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

赤松元大尉に罵声を浴びせた実際の抗議団は那覇市職労を中心にしたサヨク団体であった。赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく、那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎していた。 そのため、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空に居合わせ、その「騒動」の一部始終を目撃していた。

一連の騒動で赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊する。翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。

星氏は、前日空港で目撃したの左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの報道を見て、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。「定説」とは、「赤松元大尉の命令で集団自決が起きた」という『鉄の暴風』の伝聞による記述だ。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かう。船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続けていた。そして渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと左翼団体が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で別の舟をチャーターして島に接岸し、島民に弔文と花束を託すに止め、結局上陸することなく島を去った。

赤松氏は、慰霊祭で徒に騒ぎを起こすこと避け、別行動をした。

この赤松元大尉の配慮も、琉球新報の報道は「赤松元大尉、ついに雲がくれ」と悪意に満ちた大見出しで紙面トップを飾っている。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

赤松元大尉の那覇空港での騒動を報じた1970年3月27日の沖縄タイムスの記事は、沖縄戦後史を歪な方向へ書き換え、県民を「沖縄分断」という「タイムス史観」へ扇動していくマイルストーンの役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、「住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民」といった印象を強烈に刷り込まれる。

■大江健三郎が『沖縄ノート』を書く切っ掛けとなる記事

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、沖縄タイムスの新川明氏記者らの即席ブリーフィングから「軍命論」を「真実である」と信じるようになる。 そして、そのにわか仕込みの知識で、現地取材をすることなく、作家としての想像力を逞しくして『沖縄ノート」を『岩波書店』から出版することになる。 

後に梅澤隊長らに提訴される「大江岩波訴訟」の原点は『鉄の暴風』だが、直接の引き金になったのは、この1970年の沖縄タイムスの記事ということが出来る。

ちなみに「大江岩波訴訟」は、大江が『鉄の暴風』の内容を真実と信じたのは止むを得ないとする「真実相当性」という法律概念を適用し、大江の名誉棄損を免責している。

沖縄集団自決のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年のタイムス記事」によって決定的になる。

■「軍命派」の重要証人、金城重明氏がマスコミに初登場

この記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場し記者の質問に答えている。金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版したり全国各地で講演するなどで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

後に詳述する重要証言者の宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかった。

過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。

 

■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■

金城重明氏は、沖縄タイムスのインタビューで、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。

米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、「一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。

「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがある。まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。

その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」などと強弁する。 その矛盾に、贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。

沖縄タイムスに初めて登場する金城重明氏は、正直に心の内を吐露してはいる。 だが、当時から金城氏にとって「軍命」とは、自分が犯した「殺人」に対し一生叫び続けねばならぬ一種の免罪符であったのであろう。

金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。

≪1970年3月27日付沖縄タイムス

集団自決の生き残りとして

ー牧師となった金城重明さんの場合ー

記者:当時の状況はどうでしたか。

牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。

記者赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。

牧師直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。

記者自決命令についてはどう思うか。

牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。

記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。

牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。

記者村民の集結から自決までの間が不明だが。

牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった肉親を殺し、自分も死ぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(1970年3月27日付沖縄タイムス)》

                   ◇

1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。

ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。

沖縄県民は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。

沖縄県民の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。

同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。

だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 学校の先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。

■死者の命令で肉親を殺害する不可解■

軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。

自決とは通常自分で自分の命を奪う自殺を意味するが、金城兄弟の場合、「自殺」を試みたのではなく「他殺」で家族を含む多くの他人を殺している。

金城重明兄弟の「自決」については、同じ渡嘉敷島の出身で当時14歳の山城守治安が『渡嘉敷村史 資料編』で次のように証言している。山城盛治は、「金城重明」その兄「金城重栄」と共に「集団自決」の体験者である。

金城重明兄弟と同じ年頃の山城盛治が三人一組になって村民たちを殺戮している状況が、生々しく描かれている。 

「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。
 女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。
僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。
    そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。 
 私は一四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。
行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。
それで(ゴボウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。
  そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。
私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。
 年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊すのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのです」(『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(p399~406))

上記「大学の先生」とは「金城重明」、「区長」とは金城重明の実兄「金城重栄」のことである。「集団自決」は多様な態様を含むものであるが、『鉄の暴風』による「赤松命令説」は、この多様な態様を全て説明できるものではない。

しかも赤松隊長は、この自決現場に臨場しておらず、「玉砕で既に死亡している」と思われていた。

銃剣で威嚇する軍人に囲まれた村民が、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺あるいは惨殺されるされる状況なら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられよう。ところがその時赤松隊長はすでに死亡したと思われていたのだ。

既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。

このことからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。

ここで描かれているには「集団自決」の現場ではなく「集団殺戮」の現場であるという点に、留意しておくべきだ。

では、大江岩波訴訟の被告側証人として出廷した金城重明は、証人尋問でどのように対応したか。

渡嘉敷島出身で集団自決を体験した山城盛治の証言、つまり「金城重明の殺害記録」が原告側の証拠としてが提出され、反対尋問で原告側弁護士が金城重明に「これは事実ですか」と聞いた。 原告側は金城重明が「殺害記録」を否認すると予測していた。

ところが想定外の事が起きた。

金城が「事実です」と認めてしまったのだ。まさにこの場面は裁判のクライマックスである。

これまで集団自決の語り部として有名になっていた金城牧師は、家族を殺したのは「愛」からだと、告白していた。 そこで原告側弁護士が「貴方は、親兄弟だけではなく第三者の人たちも殺害しましたね」と問い詰めたら、意外にも「はい」と呆気なく認めてしまったのだ。 

この機を逃すまいと原告側弁護士が、こう畳み掛けた。

「合計何人殺しましたか」

しかし、金城は沈黙して、答えない。

そこで弁護士が「もう一回聞きます」と繰り返した。

今度は裁判長が介入してきた。 あたかも言葉に詰まる金城に救いの手を差し出すように。

「証人がいいたくないことを、それ以上問い詰めるな」と。

この裁判長が介入した場面について、秦郁彦は曽野綾子との対談で、こう述べている。

「これは、全裁判を通じての決め手かと思った。 要するに金城牧師は、一種の「殺し屋」だったということ、しかも彼は他の人も殺したのを今までかくしていたんですよ。 それを認めちゃった。 ですから、彼の証言は、すべて当てにならないということにもなります。彼はその後も集団自決は軍の命令と声高に叫び続けているのです。偽善者の典型ですね。」(『「沖縄集団自決」の謎と真相』)

歴史の専門家の秦郁彦が「勝負あった」と感じたこの場面で、秦は金城重明が偽善者の典型と見抜いたのだ。秦は慰安婦問題で詐欺師・吉田政治の嘘を現地調査で嘘と証明した実証的歴史家として知られている。

一方、作家の曽野綾子は金城重明の印象をどう見ていたか。

曽野は、「自分は勘だけはが良い方だ」と断りながら金城牧師の初めて会った時の印象は「なんて変なひとだろう」と思ったという。

曽野が金城牧師に面談し時、金城が「一人の人間は地球より重いとイエスが言われた通り」と述べたので、同じクリスチャンの曽野は「イエスはそんなことおっしゃっていません」と反論した。曽野は、金城が牧師でありながら聖書もよく読まずに聖書を平然と間違って引用する態度を見て、信用できない人という印象を受けたという。 曽野は金城に面接取材した時も「この方は後で『そんなことは言ってなかった』と言われそうだと思った」ので、金城重明の証言だけ特別に録音していた。

金城重明に関しては歴史の専門家の秦郁彦も作家の曽野綾子も期せずして慰安婦問題の詐欺師・吉田政治と重ねて偽善者の印象を持っていたようだ。

自分がパニック状態による「まったくの異常心理」などと弁明しながら肉親や他人を殺害し、その一方で「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と自己弁するのは責任転嫁の典型であり、吉田政治と同様の詐欺師と言われても仕方がない。

 さらに金城重明は「軍の命令」を証言するには不適格な人物と言える発言をしている。

2007年9月10日那覇の出張法廷で証人として証言台に立った金城氏は、憤りと不信感を表したはずの日本軍に、傷の手当てを受けていたのだ。

証人の金城氏は、集団自決後、米軍の迫撃砲で負傷した。その傷は軽いものではなく、傷跡に指が四本も入るほどのケガだったという。その後、赤松嘉次隊長と遭遇。 直接、隊長と言葉を交わしているのである。 法廷で金城氏はそのときの様子をこう証言している。 「軍の医療班のところへちょいちょい通って消毒、絆創膏(ばんそうこう)だけです。 薬は無かった。 それでたまたま赤松さんに会ったら、渡嘉志久に行けば薬はあるはずだよと。 そして、確認の意味で言ったけれども、ああ渡嘉志久に行けば薬はありますかと。 隊長から、権威ある者の発言はもう一回で十分だといわんばかりに叱られた」 この発言は重要だ。つまり、金城氏の傷は軽症ではなかったので、日本軍の医療班を訪ねた。 ちょいちょい通ったが、医療班からは消毒や絆創膏を張ってもらっただけだという金城氏。 こうした傷の手当ての場合、一日に何度も行くわけではない。 毎日、日本軍の医療班のある所に通って消毒してもらい、絆創膏を張ってもらったのだろう。 負傷して何日かの或る日、赤松隊長は金城少年を見て、「渡嘉志久に行けば薬はあるはずだ」と助言している。 この証言は結局、明らかに赤松氏が住民に自決命令なるものを発していないというものだ。(略)

金城重明氏は法廷証言を通じて、「赤松氏の自決命令はなかった」という証人であることを浮き彫りにした。 被告の大江健三郎氏・岩波書店に勝訴判決を出した深み敏正裁判長が、判決文の中で金城証言に言及しなかったのは、そのためでないかと思えて仕方がない。(「Viewpoint  August 2008」よりー太字強調は引用者) 

 仮に「自決命令」が事実だったらどうなるか。

自決命令を出した相手が生きてウロウロしている姿を発見したら、命令した日本軍は、「命令違反」として即座に射殺するか斬殺するだろう。

ところが『鉄の暴風』が「鬼の赤松」と決めつけた赤松大尉は、実際は傷の手当ばかりか、薬の世話までしてくれたのだ。

玉砕で死んだと思われていた赤松隊長に会った時の状況を金城は後にこう語っている。

一緒に死ぬはずが、どうして生きているのか。裏切られた思いが出てくるわけです。実は私は赤松隊長に山の中で偶然二度あっているのです。一回目会った時は硬い表情で、一言も話さなかったのですが、二回目に会った時は『われわれは、大本営に報告しなければいけないから、生き残らなければならないんだ』と、言っていました」(『僕の島は戦場だった』佐野眞一著)

結局、赤松隊長は生き残った金城重明を見ても、追加の命令は出していない。軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であったことを自白したに等しい。

 

■軍命令はすべて推論■

軍命令をにおわす証言については、金城氏はこれまでいろんな場面で証言しており、それが62年も経った今頃になって新しい証言が出たらかえって信憑性を疑われるだろう。

結局、金城証言のどこを見ても「体験者」としての証言ではあっても「軍命を聞いた」証人ではない。

琉球新報によると「軍命あり」と断定する部分は次の点だ。

①村長が音頭を取った「天皇陛下万歳」とは玉砕の掛け声。 村長が独断で自決命令を出すのはありえず、軍から命令が出たということ。

②村長が「天皇陛下万歳」唱える前、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令が伝えられ、村長が号令を書けたことが分かった。

③軍から手りゅう弾が配られた。 

琉球新報の論理に従えば、村長が独断で自決命令を出すのはありえないので、軍から命令が出たに違いないということ。

「Aが○○をすることはあり得ないから、Bがやったに違いない」。

これは原告弁護団がいみじくも言うように金城氏の「推論」であり、彼の証言は「悲惨な体験」の証言者としては価値があっても、金城氏が集団自決隊長命令を語る証人として資格が無いことがはっきりした。

■耳打ち「それが軍命だった」ー伝聞の又伝聞■

ところが元々論拠があやふやな金城の軍命説を補強するために、被告側は渡嘉敷出身の吉川勇助氏の証言を法廷で金城の推論の補強に使った。

少し長いが、伝聞による金城重明の証言を補強する証言が、更なる伝聞であるというデタラメな「軍命」証言を知る意味で、以下に全文引用する。

≪吉川勇助さん -上- (2007年6月14日沖縄タイムス朝刊総合3面)
村長の「陛下万歳」合図に
(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

 渡嘉敷島。西の御嶽と日本軍の北山(にしやま)陣地の谷間。一九四五年三月二十七日、米軍上陸後、各地に避難していた住民が、軍命でフィジガー、後に第一玉砕場と呼ばれる場所に集められた。

 

 住民は家族や親族、集団ごとにまとまっていた。当時六歳で、母親と妹と来た新崎直恒(69)。グループには手榴弾がなく、知り合いの集団に加わった。その輪には直恒らが「皆から、とても信頼をされている人」と話す、当時十五歳で役場職員の吉川勇助(78)がいた。

 

 勇助の家族で七、八人、直恒らも合わせると、輪は合計二十人になっていた。輪には勇助が二発、兄が二発、計四発の手榴弾があった。「役場に集められてもらった。一つはあまりに旧式だと、村長に九七式という新しい型に換えてもらった」と説明する。

 

 米軍上陸直前、日本軍は、役場を通して十七歳未満の少年を対象に、厳重に保管していた手榴弾を二発ずつ配った。米軍上陸後、一発は攻撃用、もう一発は自決用と言い渡された。

 

 役場職員の勇助は、フィジガーに来ても、村長の傍らにいた。不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。迫撃砲や艦砲射撃のすさまじい音と爆発の音、防衛隊員が村長に何を伝えたか、勇助の所までは聞こえない。
 しかし、村長は、防衛隊員の言葉に「うん、うん」と何度もうなずいた。おもむろに立ち上がり「天皇陛下万歳」と叫んだ。
 それが号令となった。フィジガーのあちこちで、手榴弾がさく裂した。バン、バン、バン。勇助の輪でも手榴弾を爆発させようとしたが、すべて不発だった。
 しかし、周りでは血だらけの遺体、手や足が吹き飛ばされた人、悲鳴、泣き声、地獄図だった。
 そのうちに、生き残った者たちが生き地獄を逃れようと、群れを成し北山陣地を目指し始めた。
 勇助たちも陣地になだれ込んだ。「それを見た、隊長はものすごい勢いで怒った」。村長に伝令した防衛隊員も、本部に来ていた。住民が殺到する混乱の中で、腰に下げた、銃剣用の剣が手榴弾に当たり、「しまった」という言葉と同時に爆死した。
 村長の傍らで一部始終を目撃した勇助は「住民が勝手に死ぬことはあり得ない。村長に伝えられたのは軍命だった」と語気を強めた。=敬称略(編集委員・謝花直美)》

 

吉川氏によると村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令(らしきもの)が伝えられ、村長が号令をかけた事実だけは判明する。

しかし金城氏は軍の命令を直接聞いていない。 しかも、他人の伝聞、それも「耳打ちしたのを見た」であり、耳内の内容を聞いたわけでも無い。

金城氏は伝聞のその又伝聞を自分の「推論」の補強にしているに過ぎない。

推論が推論を呼ぶともはや法廷の証言者としては欠格である。文学の世界では興味深い逸話でも、これが法廷での証言のもなると法廷を混乱させるだけである。

おまけにその耳内を目撃した吉川勇助氏の証言によると、耳打ちの最中にすさまじい迫撃砲や艦砲射撃の爆発音で、その伝聞の伝聞さえ爆音で聞き取れなかったのだ。

このような状況での「耳打ちを目撃」した吉川証言に頼らざるを得ないほど金城氏は「隊長軍命令」を語るには不適格な証言者なのである。

■究極の「軍命」-縦の構造

元々曖昧だった金城重明の「軍命」を、補強する意味の吉川勇助の「耳打ち軍命説」が登場するに及び、軍命説が総崩れの様相を呈してきた。曽野綾子や星雅彦が現地で聞き取り調査した結果「軍命があった」というコメントは一度も聞いていないという。のだから当然の結果である。

しかし、ここで登場するのが裁判の被告人が語る究極の「軍命」だ。2007年11月9日午後には大江健三郎氏本人が初めて出廷した。

大江は、「軍命令はあったと考えている」「(『沖縄ノート』の)記述は訂正する必要はないと考える」と述べ、「集団自決命令は隊長個人の資質や選択ではなく、日本軍の縦の構造の力が島民に強制した」とし、隊長命令があったか否かという裁判の争点を「広義の強制」にすり換えた。

日本軍の縦の構造とは、命令系統が縦割り社会という日本軍組織の特徴を意味し、軍隊の最高司令官が下した訓示などに「決死」とか「玉砕」などの文言があれば、それは「自決命令」を意味することであり、現場の隊長の個々の「軍命」など必要ない、という極めて乱暴な主張である。

 

■真実の吐露■

「沖縄戦『集団自決』の真実を探る」と題するフォーラムで集団自決の現地取材に深く関わったジャーナリストの鴨野守氏が「集団自決の生き残りという人がいろんな証言をしているが、出来ることならジャーナリストとして集団自決で死んだ人たちの胸の内を聞いてみたいとを語った。

なるほど、いろんな沖縄戦の体験者が連日新聞の特集欄を賑わしているが実際の集団自決の生き残りの証言は少ないし、ましてや生き残ることもかなわず死んでいった人々の胸の内を聞く事は誰も出来ない。生き残りの証言者たちは集団自決の生き残りではあっても実際には自決しなかった。

もし、軍の命令を主張するのなら彼らは「軍命違反」して生き残ったことになる。

軍命令違反は軍法会議か即処刑だろうが、それはさて置いても生き残った者に複雑な心理的葛藤が起きても不思議ではない。

本人の意識、無意識に関わらず証言には自分が手にかけた家族への贖罪の気持ち、音頭を取った村長としての自責の念など、これらが渾然一体となって微妙にその証言に影を落しても不思議ではない。

宮平さんの「論壇」の次のくだりを思い起こしてほしい。

≪彼らの死は、生き残ることにより死よりつらい生き地獄が愛する肉親に降りかかることを恐れての行動であり、家族以外の何物でもなかったのだろうと考える。≫県民大会開催に反対する 

金城氏は被告側証人として「軍命があった」を証言する筈だったのが自分が手をかけた家族のくだりになると「本心」を吐露して上記引用の宮平さんの意見を裏付ける証言をしている。

≪金城さんは家族を手にかけたときの気持ちについて、「米軍が上陸し,(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常に恐怖で、愛するが故に殺した」と語った。≫(琉球新報一面)

この部分は新報記事の「金城氏の証言骨子」には何故か記載されていないが、計らずも金城氏は、「集団自決は軍の命令や強制ではなく、家族への愛だった」と、真実の証言をしてしまったのだ。

 

参考までに沖縄タイムスで金城氏の「家族に手をかけた」くだりを見ると、

「手をかけなければ、非人情という思いがあった」と簡単に記するに留めている。戦隊長下の軍命証言/「集団自決」沖縄法廷

タイムスがあまり触れたくない金城氏のコメントは被告側にとっては致命的な「本音告白」だったのだろう。

金城氏の証言は被告側にとって思わぬ自殺点(オウンゴール)になってしまった。

■金城兄弟は父親殺害を隠していた■

もう一つ疑問がある。

金城重明氏は早い時期から母親と兄弟を殺したことは告白していながら父親を殺害していたことを長期間隠していた。

多くの証言によると、自分で自分の命を断つことのできない女子供は父親や祖父などの年長者が手を下した。

だが、注目すべきは、金城兄弟の場合未成年の重明、重栄兄弟が壮年の父親を殺害している点である。

これは集団自決の場合でも他に類を見ない例である。

やはりこれは、本人が吐露するように「キラーズ・ハイ」ともいえる「異常心理」が働いたのであり、これを軍命だと強弁しても誰も信じるものはいない。

 

沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分

2008-07-11

2008年の雑誌『WILL』増刊号で、集団自決問題の真相解明に精力的に調査活動を続けているジャーナリスト鴨野守氏の渾身のレポート「村民多数を手にかけた『悲劇の証人』金城牧師」が掲載された。

3月28日の大阪地裁の判決文には、渡嘉敷島での集団自決の体験者で、裁判長がわざわざ沖縄まで出張して尋問(非公開)した金城重明への言及が全くなかった。

裁判前後から集団自決体験者の生き残りとして、県内二紙が絶えず金城の一挙一動を大きく報じ、県内各地は勿論本土各県にも講演に出かける、いわば集団自決証言者のシンボルともいえる金城氏の、わざわざ出張までして行った法廷証言が何ゆえ判決文では無視されたのか。

これに着目した鴨野氏は、彼のこれまでの証言などを掘り起こしながら、なぜ金城証言は無視されたかを検証し、金城氏がすでに語ったものとは違う「集団自決の真相」に迫った。

雑誌『WILL』増刊号に寄稿した鴨野氏の渾身のレポートはこのような動機で書かれた。

重要ポイントになる一箇所のみを引用する。(強調は筆者)

< 昨年九月十日午後、福岡高裁那覇支部で行われた所在尋問(出張法廷)で、金城氏は証人として証言した。この尋問は非公開であるが、そこでのやりとりは反訳されて文書にまとめられている。自決の場面を、氏は次のように語っている。
  「多くの家族がそれぞれ身内の者を殺していく。その主役を演じたのは父親です。しかし島では父親は軍隊に行ったり、県外、海外に出稼ぎに行ったりして数は少ない。したがって、そのかわり祖父がその役割を演じる。自分では死ねない幼い子供、女性、老人、そして最終はみずからも死んでいく。そういう手法でした。私たち家族に関しては六名家族ですけれども、父親は離れて、おりません。
ですから手をくだす人はいないわけです。二つ上の兄と私は男性ですので、これは当然自分たちがやるべきことだと、・・・

金城氏は出張法廷で、他の家族は力のある父親や祖父が身内を手にかけていったが、自分の家族は父親は離れていたので、仕方なく自分と兄が家族に手をかけたのです、と“釈明”している。

ところが鴨野氏の調査によると、金城兄弟は父親も殺しており、その後沖縄紙の発言や講演などでも父親殺しは隠して発言している。

金城氏は何ゆえ一家の大黒柱の父親を殺害していながらそれを隠し続けてきたのか。 鴨野氏は告発する。

渡嘉敷島の住民たちのほとんどは、金城兄弟の父親殺しを知っていたが、一家の大黒柱をその子供が殺害することは隠し置くべきタブーとして口を噤んでいたという。

沖縄のマスコミが決して報じることのない、鴨野氏のレポートを読んで、一番胸のつかえの下りた人たちは、渡嘉敷島の集団自決被害者の遺族の方々ではなかっただろうか。

彼らが言いたくてもいえない「真相」を、鴨野記者が代弁してくれた形になったのだから。

 
 
                      ◇
■『沖縄ノート出版差し止め訴訟

 大江健三郎と岩波書店は厚顔無恥にも、『沖縄ノート』の誤った記述を変えないまま発行し続けており、梅澤・赤松両氏への「報道被害」はその後も続いている。
 そこで、2005年8月、梅澤氏と故・赤松氏の実弟が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。

『母の遺したもの』は本来なら隊長命令がなかったという証拠になりえたはずだが、2007年7月27日の公判で宮城晴美氏は、軍命令はあったと見解を変えて出廷した。原告側の徳永弁護士による尋問により、宮城晴美氏は見解を変えたのはわずか1か月前であることを証言した。そして、梅澤氏が命令を出したという証拠があるわけではなく、軍に責任があり、そうなら部隊長の梅澤氏に責任があると考えるようになったに過ぎないことを認めた。1か月前に考えを改めたことに対して、深見裁判長は「本当にその証言でよいのですか」と聞き返すほどの180度の証言変更だった。

 梅澤氏は2007年11月9日午前に大阪地裁で行われた口頭弁論で、「(自決用の弾薬などを求める村民に対し)死んではいけないと言った」と改めて証言、軍命令説を強く否定した。また、梅澤氏は「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」とも語っている。産経11/9産経iza11/9本人尋問詳報はこちら)。
 
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沖縄戦後史の大ウソ、軍は住民を守ろうとした! 沖縄戦秘話4

2024-01-03 05:07:32 | ●●沖縄の黒歴史

 

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■狼魔人日記・文藝コーナー■(毎日三首紹介します)

これは平成22年から令和4年まで私の生活の中で見て聞いて感じた事をメモのつもりで三十一文字にまとめたものです。 一つでもこれはとこれはと思われるものがありましたら幸いです。令和五年一月  

富原盛安(82歳・南城市

携帯をスマホに変えた老いぼれに使いこなせる手だてはありや

老いぼれの貴重な一年コロナ漬け湧き立つ怒り誰にはらさん

おだやかに余生を過ごす人々に魔の手が迫るコロナくたばれ

 

■瀬良垣譲二様のコメント

いつも投稿していただいている瀬良垣譲二様より、那覇以南の図書館蔵書に『沖縄「集団自決」の大ウソ』の献本して頂いた旨連絡が入りました。

昨日、「西原町中央図書館」に一冊寄贈してきました。ちょっと見落としてたもので、遅くなりました。

今日「豊見城中央図書館」に1ヶ月経ったのでどうなってますか?と電話しました。「南城市・糸満市・八重瀬町では既に貸し出し本として名簿に載ってます」と言ってプッシュしました所「即、リストに載りましたー」これ、効果あるよーです。

沖縄県の図書館を横断検索ーカリールローカル沖縄県
https://calil.jp/local/search?csid=okinawa&q=99%25%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%20%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%80%8C%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E3%82%A6%E3%82%BD

これで那覇市以南の市町村には全て寄贈したことになります。

那覇の方も配りたいところですが、当方も辰年生まれ(1940)けっこう高齢で田舎の運転はマーマーですが、都会の方は・・と言ったところで、誰か若い適当なかたにお願いされては、と思いますので、、よろしく。

江崎様へ
取り合えず、報告がてら

糸満・瀬良垣譲二より】ーーーーーーーーーーーーーーー■読者の皆様で、近辺の図書館蔵書の献本の可能性のあるところがあれば、ご協力ください。献本は私共の負担ですので、遠慮なく冊数をお申し付けください

          

             ★

軍は住民を守ろうとした! 沖縄戦秘話4 2008-08-01

 

沖縄タイムス、琉球新報の沖縄二紙が説く沖縄戦史のスローガンは、「軍は住民を守らなかった」。 そして沖縄戦はまるで日本軍が沖縄住民を虐殺する戦いであったかのような報道で県民を扇動する。

だが、県民が地上戦に巻き込まれるのを最も憂慮していたのは軍であり、牛島第32軍司令官の沖縄着任の一ヶ月前に県民の県外疎開の閣議決定を発議し、県民の安全を真っ先に考えたのは他ならぬ、軍当局であった。

少なくとも、「軍は住民の安全を守ろうとしていた」のである。

■県外疎開が進まなかった理由■

軍の命令が絶対であり、軍命であれば愛する親兄弟も殺すと主張するが正しいならば、住民の県外疎開など軍の命令一下で、容易に実行できそうなものである。

ところが容易なはずの県外疎開には、いろんな阻害要件が次々発生して、軍と県による県外疎開の実施は思うようにうまくはいかなかった。

その第一は、沖縄の地理的要因であった。 今と違って当時の沖縄では、本土他県に行くと言うことは大変なことで、特に疎開の対象が老幼婦女子に限られていた関係上、家族と別れるくらいだったら一緒に沖縄で死んだ方がマシだという風潮も県外疎開の阻害要因であった。

東京から長野に汽車で疎開する学童に比べれば、沖縄の学童が船路で九州各県に疎開することは大変な決心を要する一大事であった。

次に当時の泉県知事がどういうわけか軍の指示にことごとく反抗し、県外疎開に消極的な態度を示した。

泉知事は「公的な立場では言えないが、個人の意見では引き揚げ(疎開)の必要はないと思う・・・」と発言し、県外疎開などせずに済めばこれに越したことは無い、といった県内の風潮に拍車をかけていた。(浦崎純著「消えた沖縄県」)

第32軍は牛島司令官が着任の一ヶ月前から、県民の県外疎開を実施を計画していたが、軍の意思に反して疎開が無くても良いといった風潮は、泉知事や県民の大多数だけではなく、疎開を促進しようとする軍司令部の末端にも散見した。

軍の指令のうまく行きわたらない地方の部隊では、第32軍が沖縄で頑張っているのに、わざわざ疎開などする必要は無い、と疎開実施をぶち壊すような放言するものもいた。

遅々としてはかどらなかった疎開が一挙に盛り上がったのは、昭和19年10月10日、那覇市が米軍の大空襲で壊滅的打撃を受けてからである。

戦後60数年経った現在でも、「不発弾処理」のため、自治体が住民避難勧告等の広報を流しても、なかなかこれに従おうとしない。

何事も切羽詰まってからでないと行動を起こさない県民性は昔も今も同じことであった。

■県外疎開は軍の発議■

軍が沖縄県民の疎開を考え始めたのは、米軍がサイパン島に上陸し、「絶対国防圏」の一角が崩れ始めた昭和十九年六月下旬の頃である。

アメリカ軍の投降勧告によって集められた日本人住民の老人及び子供の周りにガソリンがまかれ火が付けられたり、米軍の呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性全員が裸にされトラックに積み込まれ運び去られたということは戦後いろんな証言で記録されている。

当時の沖縄県民がどの程度「サイパンの悲劇」に関する正確な情報を持っていたかはさておき、当時の沖縄には南方帰りの県人が多かったり、大本営がサイパン陥落の直前に沖縄住民の県外疎開を急遽準備し始めたといった事実から、沖縄県民が「サイパンの悲劇」を知っていた事は容易に想像できる。


昭和19年6月28日の陸軍省局長会報で富永恭次陸軍次官は、

「小笠原ト硫黄島・沖縄・大東島・先島ノ石垣島土民ヲ引キアゲル様ニシテ居ル。問題ガアルカラ外ヘ漏レヌ様ニ」と述べ、真田第一部長は、間もなく沖縄の第32軍参謀長に着任する長勇少将に「球ノ非戦闘員ノ引揚」の研究を指示している。             

サイパンが陥落直前の七月七日の陸軍省課長会報で、軍務課長は「沖縄軍司令官ヨリ国民引揚ゲノ意見具申アリ、本日ノ閣議デ認可スルナラン」と報告、翌八日の陸軍省局長会報では、軍務局長が「球兵団地区ノ住民ハ、希望ニ依リ地区毎ニ、引揚ヲ世話スル事ニナル」と述べている。

沖縄県、陸軍省、内務省などの間で疎開計画を協議した結果、疎開
人数は県内の60歳以上と15歳未満の人口(約29万人)の三分の一にあたる十万人、疎開先は宮崎、大分、熊本、佐賀の九州四県と台湾に決まった。

サイパン陥落の後、米潜水艦による疎開船「対馬丸」の撃沈(8月22日)もあったが、同年10月19日の那覇大空襲によって疎開機運は高まり、昭和20年3月上旬までに、延べ187隻の疎開船で、沖縄本島の約6万人が九州、宮古・八重山の約2万人が台湾に疎開した。

■軍は住民を守ろうとした■

米軍の沖縄上陸の可能性が高くなった昭和19年12月以降は、第32軍と県、警察、学校の間で、沖縄に残った住民の県内疎が計画され、3月中旬までに、沖縄本島中南部の住民約3万人が北部の国頭郡に疎開した。

辛うじて北部に疎開できた住民は南部に逃れた住民に比べて戦火の被害は比較的少なかった。

3月24日、米軍の艦砲射撃が始まった後も、上陸した米軍が沖縄本島を南北に分断、疎開の道が閉ざされた4月3日までの間、県北部へ向けて殺到した中南部の住民約5万人が県北部へ疎開した。

本格的な地上戦が始まる前、県外外の疎開をした沖縄県民は16万人に至った。

当初は軍中央部の要請で政府が県外疎開を決定し、19年末からは、主として現地の32軍と沖縄県の間で県内疎開が実施された。

現在、昭和19年7月7日の閣議決定の記録は確認できないが、同じ日付の陸軍省課長が、

「7月7日 課長会報 軍務(課長二宮義清大佐)沖縄軍司令官より国民引揚げの具申あり。本日の閣議で認可するならん」

と述べていることから、沖縄県民の県外疎開が7月7日に閣議決定され、それが軍の発議で行われたことは歴史的事実であると考えられる。
(大塚文郎大佐ー陸軍省医事課長ー「備忘録」、「戦さ世の県庁」孫引き)

 

 

12月20日発売の月刊willに『沖縄「集団自決」の大ウソ』が掲載されました。

月刊WiLL(マンスリーウイル) 2024年2月号 (発売日2023年12月20日) の目次


目次
グラビア 現代写真家シリーズ オーロラの奇跡 谷角 靖
朝三暮四 加地伸行

◎スクープ! 
■和田秀樹(日大常務理事・精神科医)・須田慎一郎(日大OB・ジャーナリスト)…日大の病理 

◎言論史に汚点? 
■竹内久美子…言論弾圧(テロ)に屈したKADOKAWA

◎沖縄
■江崎孝…「集団自決」の大ウソ

 
 
 

読者の皆様へ

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完売品切れでご迷惑をおかけしていた『沖縄「集団自決」の大ウソ』の増刷が完成しました。ご注文次第発送できます。ご注文の方は下記要領でお申し込みください。

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■沖縄経済を支えた軍用地料と援護金

2023-10-26 16:11:20 | ●●沖縄の黒歴史

中国新聞胡子記者は2年前からやばい。我慢出来ずに石丸市長が吹き出す。軌跡編①

 

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■狼魔人日記・文藝コーナー■(毎日三首紹介します)

これは平成22年から令和4年まで私の生活の中で見て聞いて感じた事をメモのつもりで三十一文字にまとめたものです。 一つでもこれはとこれはと思われるものがありましたら幸いです。令和五年一月  

富原盛安(82歳・南城市)

子供らの生命奪うタリバンの天にツバする悪魔の所業

天国があるか無いかはお楽しみ己は望む永遠の無を

バカなれど務(つとめ)果さんそれなりにそう思いつつ飯をかきこ

 

■狼魔人日記・文藝コーナー■への投稿
瀬良垣譲二 (糸満市)

東京より大阪 大阪より沖縄 沖縄よりは台湾と 辺境に行くほど残る日本精神

作者注:
50年ほど前に台湾の離島( 台湾 台東県 蘭嶼島)へ行ったら通用するのは日本語だけだった・中国語=北京語・台湾語=閩南語・英語・ドイツ語みんなダメ。

 

■貉(宜野湾市)

腐敗した 日本の新聞ドブ掃除 安芸高田市 市長が奮戦

 

              ★

■沖縄経済を支えた軍用地料と援護金

石原昌家沖国大教授は、ジャーナリスト佐野真一氏の取材に答え戦後沖縄経済を支えた「軍用地料と援護金」について、次のように答えている。

ー「援護法」で最も重要なポイントは、その適用者が”戦闘参加者”として靖国に合祀されるという”栄誉”だけでなく、遺族年金という実質的な”利益”も得ていることです。沖縄戦で”英霊”になった人の遺族はいくらぐらいもらっているんですか。四万円ぐらいですか?

「いえいえ、これがすごいんです。年度によって違いますが、ここ何十年前からは、年間一律でおよそ196万円」

ー 一人頭ですか?

「ええ、だから慶良間(諸島)で家族のうち四人が集団自決した場合は、196万円かける四人で、800万円近くになります」

ーそれはバカになりません。

だから僕は、産業らしい産業がない沖縄で大きな収入になったのは軍用地料と遺族年金だと言ってきたんです」

ーつまり金でがんじがらめにされている。これじゃ靖国合祀を取り消せという声が大きくならないわけです。石原さんは旧厚生省の役人は物凄く頭がいいと思った理由が、やっとわかりました。(佐野眞一著『僕の島は戦場だった』39頁~40頁)

 

 

■オウンゴールの石原教授

琉球新報の「言論封殺」は慶良間島の集団自決の真相にターゲット絞っており、集団自決は「援護法」に大きく絡んでいる。

簡単に言えば本来軍属にのみ適用されるはずの「援護法」を政府主導で強引に沖縄住民に適用するように政令を発して特例を設け、住民の中の「戦闘参加者」を適用対象としたのである。

「援護法」の申請の流れはこうだ。

住民(遺族)⇒各市町村の援護課⇒琉球政府⇒厚生省援護局

そして各担当部門で出来るだけ「『非該当者』を『該当者』となるように救う」という思惑が働いた。 昨日紹介したように厚生省側でも祝嶺さんのような沖縄出身者を担当職員に配置転換し出来るだけ「援護法』の適用させるように指導した。

当初は市町村の窓口でも申請書の記入などに不慣れな職員が多く、多くの申請書が厚生省側から突きき返されたという。 だがそれには厚生省側の「受理されるノウハウ」の指導が付いており、結局要領を掴めば簡単に「戦闘参加者」として受理れ援護金支給の対象となった。

政府(厚生省)、琉球政府、各市町村の三者が「出来るだけ受理する」という思惑で動けば、その申請手続きの過程で、どうしても該当しない申請者に虚偽の申請をするものが出てきても、見て見ぬふりをするどころ積極的に「偽造申請書」に加担する者も多かった。 組織ぐるみで加担した場合も多かったと聞く。

「援護法」の研究者を自認する石原昌家沖国大名誉教授は、申請書を書けない住民に代わって申請書を書く手伝いをしたと語っている。 この石原氏、援護法の研究だけやっておればそれなりの評価をされたのだろうが、沖縄で名声を得るには反日左翼複合体に迎合する必要を感じたのか、イデオロギー丸出しの論調で新聞紙上を賑わし「集団自決」訴訟では被告の大江・岩波側の弁護に回り、「軍命派」の論陣を張った。

その一方で「沖縄靖国訴訟」では原告(遺族)側の証人となって法廷で証言をした際、イデオロギーと研究の狭間でついうっかり自分の現在の立ち位置を見失ってしまい致命的発言をしてしまった。

石原氏は、沖縄戦で犠牲になった住民を靖国に合祀するため政府主導で「軍命による自決」などの「戦闘参加者」を作って援護金を与え口封じした、という趣旨の意見書を提出し、証言台では次のような趣旨の証言を行った。

被告側弁護士:「石原先生の説明ですと、沖縄の遺族の中で援護金を貰っている人の中には本来、もらう資格が無い方々が多く含まれているということですか?」 

石原証人:   「いえいえそうではありません。ほとんどです」

被告側弁護士と石原証人との尋問で、石原証人は次のことを証言したことになる。

■石原証言のポイント

1)戦闘参加者という受理条件を与えるために、日本政府がその基準に合うように暗に指導していた。

2)日本軍が住民に命令や要請を受けた時点で国と住民に雇用関係が発生すると考えで、積極的な戦闘協力をした、と指導した。

3)壕の提供は、軍事行動であり、現認承認があれば軍属と認める。

4)厚生省から付き返されることは、結果的に書き換えて受理となった。

5)援護法の実態を解明することは、沖縄戦の事実を引き出すことになる。

               ☆

この証人尋問が、反日サヨク勢力にとって何ゆえ致命的なのか。

石原氏は別の裁判である「集団自決訴訟」では大江・岩波側を支援し「軍命あり派」の論陣を張ったが、「沖縄靖国訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であり、国がそれを指導したと主張した。 ということは法廷で軍命は虚偽だったと証言したことになる。

石原氏の証言に関しては反日左翼側からも批判の矢が飛んでいると聞くが、結局、石原氏は、法廷での宣誓の通り、真実を語ったことになる。

真実を語ったため「集団自決」は軍命であるという持論を結果的に否定してしまったのだ。

もっともこの石原氏の致命的証言は、「不都合な真実」は徹底的に隠蔽する琉球新報、沖縄タイムスが報道するはずもなく、法廷記録として残っているだけである。

石原氏の証言を要約すると、援護法と靖国合祀は、住民を死に追いやった戦争責任を回避するための口封じという「恨み辛みの歴史観」になる。

<沖縄タイムス 2005年3月6日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](8)
東京の目
援護法での救済に腐心
「生かされた」責任感じ

 沖縄戦で看護隊として亡くなった女子学徒は、援護法で「準軍属」にあたる。一九五五年、女子師範学徒八十八人に、死亡公報が発せられた。それに基づき、援護法申請の手続きが取られていった。

 申請書類をめくると、女子師範、一高女、寮で一緒だった同級生や下級生の名前が記されていた。審査にあたった厚生省職員の祝嶺和子さん(77)=静岡県=は「寮で枕を並べた友達が、死んでいるんだから。絶対救わなくちゃいけない。そんな気持ちがありました」。当時の悲しみが再び込み上げて、言葉を詰まらせた。

 「でも、それだけやったから、私はね、自分が生きてもね、みんなには『お前は来なかったな』と言われないで済むと思っていました」

 夫、正献さんの生前の口癖は「特攻隊で自分の友達も皆、死んだ。自分らは生き残ったから、国のために何かやれということなんだ」。名護にいた幼少時から空手を学んでいた正献さんは、六三年に空手を基にした武術「躰道」を本土で広めることに努めた。

 「自分は生き残った」という思いを持ち続けた祝嶺さんは、沖縄戦で犠牲になった人々を援護法の対象として救うことに、心を傾けていった。

 一般の住民は逃げ回っていたのではないか。軍人が住民にも一緒に戦えと命令したのか。軍人が「自分たちが使うから、おまえたちは出て行け」と言って、住民を壕から追い出した―。

 「戦闘参加者」として、一般住民の申請書類が上がってきた時に、厚生省で批判的にみる人もいた。

 祝嶺さんは振り返る。「逃げ回っていた人もいたと思う。でも、そういうと沖縄の人が救われない。『戦闘参加者』として参加したんだと、はっきり言った」

 沖縄戦では、住民と軍隊が混在した。三カ月にも及ぶ戦闘の中で、一人の人間の死に至る過酷な体験は問題にされることはない。援護法の適用で、注目されるのは「軍への協力」、その一点だ。

 書類の審査で難しいケースについては、最終的には沖縄戦体験者の祝嶺さんのところに、回ってくるようになった。

 「軍への協力」が必要と、入り口を絞られた書類の上の沖縄戦。戦場で同じような行動をしていても、書き方一つで住民は「戦闘参加者」か、そうでないかに分けられる。

 「事実を書いてあるのだが、書類では通すことが難しい事例がある。だから、ほかはこのようにして通っているのだから、これと同じような書き方でと、そうちらっと教えた覚えはあります」

 「今からいうとおかしいかもしれないが、自分は生かされた。死んだ人はどうしても救わないといけないという、責任みたいなもんがあった。私はただ、沖縄の人を救えばいいという気持ちだった」(社会部・謝花直美)(毎週木―日曜日に掲載)



■未公開資料を入手

「援護金のカラクリ」が、沖縄の集団自決論争に深く関わっているといわれて久しい。だが、肝心の「援護金」関連の公的資料はプライバシーに関わる案件ということで、これまで一般には公開されていなかった。

 「援護法のカラクリ」とは専ら、日本軍を誹謗中傷する左翼陣営の専売特許として用いられてきた。石原昌家沖縄国際大学名誉教授などのサヨク学者が沖縄戦の研究という大義名分を掲げこれら資料を独占してきたからだ。

 石原氏が頻繁に沖縄紙に発表する「援護法」関連の論文は、独占した資料を都合のいいように解釈(歪曲)し、「国が援護金の給付という飴を与えて、その代償として国による沖縄戦の捏造が行われた」という類のものだった。石原氏が主張する「国による沖縄戦の捏造」とは、概ね「国が歴史を捏造し、『集団自決に軍命はなかった』という虚偽の歴史に作り変えた」というものだ。

ところが沖縄戦遺族会のご協力で援護法に関する非公開のマル秘資料を入手できた。 未公開資料を分析し、さらにこれまで口を閉ざしていた遺族会の方々の証言を検証すると、このような事実が判明した。

「援護法のカラクリ」とは、実際には存在しなかった軍命を援護金受給の方便のため、援護金申請の際「軍命があった」と虚偽の記入をしたら援護金が貰える。

つまり「援護法のカラクリ」とは、反日サヨクが日本軍を貶めるため、沖縄住民に示した政府の「善意」を逆手に取った卑劣な手口であったということだ。

■沖縄経済を支えた援護金

米軍統治下の沖縄の経済に大きく貢献したのは「米軍用地代」と「援護法受給」だといわれている。

軍用地については、新聞などで絶えず取り上げられるので、国が支払った軍用地代金が沖縄経済に貢献したことは誰もが認めることである。 だがもう一つの援護法受給金については、プライバシーの要素などが絡み、マスコミの話題になることもなく、その実態は当事者だけの内密の問題とされていた。

 戦後、子どもを抱え親戚の厄介者扱いされていた未亡人が、突然莫大な援護法の支給を受け、親戚が群がってきたという話も仄聞するが、受給者の大多数は受給を内密にしており、表立って援護金の受給を語る人は少なく兄弟でさえ秘密にしている人もいるくらいだ。

渡嘉敷島の集団自決の生き残りで、親兄弟5人の家族を手にかけたことを「軍の命令」だと証言し、大江・岩波訴訟では被告側証人として証言台に立った金城重明氏は、星雅彦氏のインタビューに答えて自身が援護法を受給したことを否定している。 金城重明氏は兄重栄氏と2人で5人の家族を含む、複数の村人を殺害したと証言している。 援護法の受給手続きさえすれば、金城兄弟は「軍の命令により」親兄弟を殺害したのであるから、少なくとも親兄弟5人分の遺族として莫大な額の援護金を受給しているはずだが、金城重明氏はこれを否定しているのだ。 重明氏は青山学院大で神学を学びその後沖縄キリスト教短大の設立にもかかわった。後には教授から学長まで務めているが、その当時の一連の学費は本人の弁によるとキリスト教教会の援助によるものであり、援護金の給付によるものではないという。
重明氏に取材した星雅彦氏によると、当時のキリスト教会は重明氏の大学進学の援助をするほど資金的余裕がなかったとのこと。 ただ重明氏は、戦後座間味村に留まってペンション経営をした兄重栄氏(故人)の方に援護金が行っている可能性は否定しなかったという。



■大甘な厚生省の対応 そのわけは?■

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書の記入ミスを指摘し、できるだけ給付金を与えないようにする。

ところが沖縄戦に関わる「援護法」の給付金申請の場合、役所の対応は豹変する。 それも申請者が沖縄県民に限ってのことだが、多少の記入ミスには目をつぶってでも何とか給付しようという態度に変わってしまうのだ。

つまり当時の厚生省は、本来軍人に給付すべき「援護金」を、沖縄戦と沖縄県民に限り拡大解釈し、軍に協力したという虚構を黙認し、何とかして給付させたいという善意が働いた。 かくして書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見された。当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にしたのだ。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■
当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。
 
政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。
 
その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。
 
< 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。
 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。
 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。
 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。
 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。
 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。
 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ
 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」
 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。
 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。
 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」
 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >
                    ◇
沖縄県出身の祝嶺和子さんは、19584年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

祝嶺さんは戦後、元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、1954年、厚生省に入省したが、沖縄出身ということで「沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい」と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた。 祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 祝嶺さんは「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」 と証言する。 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。
集団自決における「軍命」は援護金支給のための方便であり、それを指導した援護課の拡大解釈による強引な援護金支給は、政府主導の公金横領といわれても仕方がない。 だが、結局一連の政府の指導は「集団自決に軍命はなかった」という証明に他ならない
 
「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。
同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。
また、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。
従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。
 
■石原昌家氏の二枚舌■
集団自決の軍命論争ではいろんな場面で沖縄の識者たちがカメレオンのようにくるくると自説を変えていく例が多い。これを一々論じていたら一冊の本が出来るくらいなのでここでは深く立ち入らないが、援護法の研究者を自認する石原昌家氏の立場は微妙である。
石原氏は「集団自決訴訟」では被告・大江、岩波側を支援し、軍命はあったと主張する。
石原氏は「集団自決」という述語は「強制集団死」と呼ぶべきだと主張し、述語の中に軍命を意味する「強制」を使うなど、徹底した「軍命派」である。
その一方で、沖縄靖国訴訟では原告の遺族側の証人に立ち、「軍命は政府側が住民を靖国に祭るためのに指導した方便」という意味の証言をして、結局は軍命が「政府によって偽造されたもの」(軍命否定)といった自己矛盾の発言をしている。
つまり政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と偽って申請するように示唆したというのだ。
もっと具体的に言えば、石原氏は自分の体験も含めて、援護法申請書に「実際はなかった軍命による自決」と書いて出せば、援護金をもらえたと証言しているのだ。
この人物、同じテーマの裁判に首を突っ込んでしまい原告と被告が逆の立場であることをうっかり失念して「オウン・ゴール」をかましたことになる

 



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「援護法の解釈」厚生省に引き継がれた「特別のご高配」

2022-12-31 12:58:35 | ●●沖縄の黒歴史
 
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大弦小弦

[大弦小弦]「島守の塔」を見る

2022年8月15日 07:21

 公人を評価する軸は、業績か人柄か。公開中の映画「島守の塔」は、そんな問いを生む。沖縄戦に協力した島田叡知事と荒井退造警察部長の苦渋を描く

 ▼北部疎開という棄民政策を進め、学徒を戦場に送った2人の内務官僚は人格者だった。同様に、日本軍の牛島満司令官も「温厚篤実」と評された。では、牛島を「いい人」とたたえる映画は成立するか。人柄は責任を洗い流さない

 ▼映画化は荒井の地元栃木県の下野新聞社と、島田の地元兵庫県の神戸新聞社が呼びかけた。2人は郷土で「偉人」とも呼ばれる

 ▼製作委員会には沖縄タイムス社と琉球新報社も参加した。作品は沖縄の人々が身をもって知った「軍隊は住民を守らない」事実も伝えるが、全体の基調は「戦場に咲いたヒューマニズム」。結果、日本の加害、沖縄の被害という構図はぼやけた

 ▼監督は「沖縄戦を知るきっかけに」と話す。学ぶ目的を、考えてみる。お年寄りが、身を削るように体験を語ってくれた理由を。それは次の戦争を止めるためではなかったか。止めるためには、惨劇が起きた原因の解明が欠かせない

 ▼劇中、うそだらけの新聞発行を終えた記者が言う。「次に新聞を作る時は、戦争の事を、何が起きたかを、本当の事を、報道したい」。負の系譜の末端に連なる者として、責任のありかを問い続ける。阿部岳

 

GHQの東京裁判史観にからめとられた沖縄タイムスは、『鉄の暴風』が説く「残虐非道なに日本軍」というイデオロギーを脱皮できず、現在でも日本軍極悪説を主張し続けている。

中国の工作員と噂の高い阿部岳記者は、『鉄の暴風』の初版の「まえがき」に記載された「人道的な米軍」を今でも信じているのだろうか。

以下過去ブログの再掲です。

改訂版・沖縄戦、厚生省に引き継がれた「特別のご高配」(援護法の解釈)2019-08-23

沖縄の学童疎開船・対馬丸が米軍の魚雷を受け撃沈。8月22日で75周年になる。

今日23日の沖タイは一面トップを含む合計三面を使って大発狂である。

■一面トップ

対馬丸 鎮魂の祈り

撃沈75周年 慰霊祭に550人

■第二社会面トップ

幼い兄に平和誓う

島袋さん、自ら遺影を掲示

■社会面トップ

75年 癒えぬ悲しみ

「戦いは絶対許せない」

対馬丸慰霊祭 生存者ら継承誓う

沖縄戦対馬丸撃沈の記憶の継承という建前に異論はない。

だが、沖縄メディアが沖縄戦を語るとき、他県には見られない特徴がある。

あたかも沖縄戦は日本軍と沖縄住民の戦いだったかのような論調で「残虐非道な日本軍」を執拗に告発するのだ。

対馬丸を撃沈したのは米軍の潜水艦であり、日本軍ではない。

明らかに米軍による民間人虐殺だ。 沖縄タイムス編著『鉄の暴風』が説く「人道的米軍」とは対極のジェノサイドだ。

しかし、沖縄2紙が「対馬丸」を報じるときは加害者はあたかも日本軍であるかのような印象報道をする。

曰く「食糧難の当時、口減らしのため学童を強制疎開させた、そのため多くの犠牲者が出た」という印象操作だ。

「石油の一滴は血の一滴」と言われた石油不足の戦時中、戦火を避けるための疎開を悪意に満ちた歪曲報道で県民を煽るのが沖縄2紙の常道だ。

その一方で敵の米軍は、沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだという印象報道。

沖縄国際大学名誉教授 石原昌家氏t

 沖縄の地上戦突入前、学童疎開は老幼婦女子の避難というより、(1)戦闘の邪魔にならないようにする(2)食料確保のための口減らし(3)明確に示されていないが次の戦闘員確保-という軍事的な戦略として行われた。背景に1937年、日中戦争の本格化の中で改正された軍機保護法がある

 

■援護法と歴史捏造

沖縄戦の真実を追究するといつも行く手に立ちふさがる大きな壁に行き当たる。

「援護法」のことだ。

本来軍人・軍属にしか適用できない同法を当時の厚生省が「拡大解釈」で無理やり沖縄の民間人に適用した。

その善意が逆に「残虐非道な日本軍」と言う神話を捏造した。 軍の命令による民間人の戦争被害は準軍属扱いで同法の適用可としたのだ。 「壕を追い出した」のも日本軍の命令であり、「食糧強奪」も日本軍の命令と政府は「指導」した。

その結果沖縄だけは民間人も援護法の適用を受けるという恩恵に浴した。 

「沖縄県民かく戦えり」で知られる大田海軍司令官が、「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ長い電文は沖縄県民の奮闘をを知る故に、沖縄に対する深い敬愛や同情もあってのことと思われる。

沖縄戦史が歪曲・捏造された原因が「援護法」の「拡大解釈」にあることは、少しでも援護法と沖縄戦の関係を知るものにとってはよく知られた事実である。

「援護法と歴史捏造」について触れた過去記事から選んで引用する。

           ★

「援護法」と「特段の配慮」のカラクリ

2008-06-06

 63年前の昭和20年6月6日。

大田実海軍少将は、沖縄県南部の海軍濠から長文の電文を海軍省に送った。

そして、その最後を次のように結んだ。

「太田中将 電文」の画像検索結果

<沖縄県民斯く戦えり。

県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。>

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手の多田武雄海軍次官は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して打電後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 

これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍であることは間違いのない事実。

ところが何故か、戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の艦砲射撃で県民を爆撃した下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住民を日本人から分断する占領方針から、沖縄住民には「優しく」対応するように努めていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、年寄りや子供に手を差し伸べる優しい米兵の顔だけしか見ていない。

艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさせ、住民を無差別殺戮し、学童輸送船を撃沈させた米兵のもう一つの酷薄な顔を見ていないのだ。

一方、沖縄県民を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態を晒した敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵、と言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍。

「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

参考⇒県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

                  *

「沖縄戦 援護法 集団自決」の画像検索結果

 

■厚生省に引き継がれた「特別のご高配」

大田少将の電文の遺言ともいえる「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」は、厚生省に引き継がれ、

「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」

と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。

意味は全く違うが、最近でもこんな例もある。

「沖縄に特段の配慮」 唯一県名挙げる 国民保護方針(2005.3.27)

                      ◇

■「特段の配慮」による「援護法」の民間適用■

大田少将の遺言は、厚生省の本来軍人対象の「援護法」を沖縄住民へ適用するという形で姿をあらわす。

日本政府は「1952年(昭和27年)6月、米軍占領下の沖縄に政府出先機関である南方連絡事務所を設置する。 今でいえば沖縄開発庁の先駆けのようのものである。

そして教職員組合と遺族会の強力な後押しによって、琉球政府でも翌53年4月に援護課を設け、援護法と恩給法に基づく復員処理事務に着手することになる。 

54年には琉球政府職員照屋昇雄さんが援護課に異動配属となっている。

慶良間島の「集団自決」に関しても、村役場の総務課が地元の窓口となり、総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走する。

「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。

■「軍命」の持つ意味の変化■

「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。

「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、

それまでの「軍命」は、「援護法」のための口裏あわせというより、親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や贖罪意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。

つまり生き残った者が、死んだ相手や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。

少なくとも、当時の座間味村助役の山城安次郎氏が、「渡嘉敷島の赤松の暴状」を訴えて沖縄タイムス大田記者の取材を受けた昭和25年前後には、

「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。

ところが、琉球政府援護課や村役場の担当課が、厚生省援護課と交渉していく過程で「集団自決」の「軍命」は別の意味を持つようになる。

元来「援護法」は「復員処理」の目的があり、対象者は戦地での戦死者か外地からの引揚げ者で、しかも対象は軍人・軍属と限られていた。

そこで琉球政府援護課と村役場が、地上戦が行われ戦場となった沖縄に「特別の配慮」をするようにとの運動を展開する。

だがこれには問題が生じてきた。

たとえば、本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならず、沖縄の一般住民に「特別の配慮」をした場合の齟齬が問題になったのだ。

日本政府は「政令」を連発するという非常手段でこれを乗り切った。

政令とは、行政府の命令のひとつで内閣が制定する成文法のことで、行政機関が制定する成文法である命令の中では優劣関係で最も高い位置づけになる。

日本政府は復員事務を処理する必要から、沖縄本島を中心とする南西諸島は政令で「戦地」と認定した。

元々軍人・軍属を対象にした「援護法」を沖縄の民間人に適用させるために政令を連発したが、それでも足りない場合は「援護法」の拡大解釈を行った。

一例を挙げると、地理に不案内な軍に道案内をした場合でも、結果的にその住民が戦死しておれば、「軍命」とされ「準軍属」扱いで遺族は年金の対象になった。

軍の命令というお墨付きが付けば「集団自決」は勿論のこと、他にも「食料供出」や「漁労勤務」という名目でも「準軍属」扱いとなった。

かくして、1983年には軍の命令が理解されるとは思われない0歳児から6歳までの幼児も「準軍属」扱いとされるようになる。

 ■宮村幸延総務課長の奔走■

座間味島の助役で、事実上「集団自決」を命令したとされる宮里盛秀氏の弟で、戦後村の総務課長として「援護法」の適用に奔走した宮村幸延氏は、この0歳児以下の適用に功績があったとして村で表彰されている。

ちなみに宮村氏は梅澤元隊長に「侘び状」を書いていながら「酔わされて書いた」として前言を翻した人物である。

また、昨年の法廷尋問のわずか一ヶ月前に証言して、宮城晴美氏の考えを変えた宮平春子氏は宮里盛秀、宮村幸延両氏の妹である。

「集団自決」に「軍命があった」ということは「事実の如何」を問わず、戦後の村にとっては、どうしても押し通せねばならぬ真実を超越した、必要欠くべからざる「証言」であった。

宮平春子氏の証言「動画」
⇒ 『日本軍の強制による集団自決 はあった!』証言2.3.4

 

■本土と沖縄の齟齬■

本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならなかった。

一方、沖縄の一般住民は「特別の配慮」で援護法の対象になった。

静岡県浜松市在住の上原宏日本戦災遺族会理事長は、本土における一般戦災者に補償がない点を、

沖縄タイムスの取材に答えて次のように語っている。

[戦闘参加者とは誰か](18) 
日本戦災遺族会 
一般戦災者に補償なし 
被害の規模が実現阻む

太平洋戦争で、日本の各都市が空襲に襲われ、一般被災者約五十万人が犠牲になったとされる。その補償を求めて、一九六六年に「全国戦災死没者遺族会連合会」が結成された。七七年には「日本戦災遺族会」と名称を変更、事務局を東京都千代田区に置き、現在全国二十地域に約二千人の会員がいる。 
 理事長の上原宏さん(84)=静岡県浜松市=は、浜松市戦災遺族会の会長を務める。 
 浜松市は、多数の軍需工場や軍施設が集中していたため、米軍の空襲が反復して行われ、約三千五百人もの死者が出た。上原さんは、この空襲で女学校二年生だった妹を自宅の防空壕で亡くしている。「空襲は、非戦闘員を狙った消滅作戦だった」と憤る。 
 一般被災者の場合、戦時中は「戦時災害保護法」で、住宅焼失は三百五十円、負傷は治療全額補償がなされていた。ところが、戦後、一般被災者への補償はなされていない。日本の戦災補償は、軍人軍属を補償した援護法が軸になってきたからだ。 
 援護法は、国との雇用関係が前提。しかし、法運用の中で、対象の「軍人軍属」の枠は次第に拡大されてきた。五八年に沖縄戦の「戦闘参加者」、全国でも五九年「学徒動員」、六三年「内地勤務軍属」、六九年「防空監視隊員」など。 
 そうした流れから、上原さんは「最後に残ったのが一般戦災者だ」と強調する。「現状は、けがの状態から、障害福祉年金などを受けている。しかし、それはけが人としての補償である。戦争による同じ『死』でも、差があるのは納得いかない」 
 また、上原さんは「私は一般被災者は約八十万人とみている。空襲時の戦死だけでなく、その後に戦病死、戦傷死が続いたからだ」と指摘する。この一般被災者の被害の多さが、補償が実現しない要因でもある。 
 連合会の前身「全国戦災死没者遺族会連合会」の時代、戦災各都市での慰霊行事への国費支出、弔慰金支給を国会と自民党に要望した。しかし一般被災者への弔慰金支給は実現していない。 
 連合会が七七年に社団法人化した時に、一般戦災者の戦災実態の調査研究、慰霊行事や慰霊碑の管理などを主に掲げ、補償要求は掲げることはなかった。 
 届かない補償要求。上原さんらが、力を入れているのは、戦争体験の継承だ。自らも、満州(中国東北部)、フィリピンの従軍、マニラへ向かう途中撃沈され、仲間を失った体験を「語り部」として小学生に話してきた。「遺族は高齢化し、消えていく。私たちの体験を伝えるために、会員それぞれが語り部活動をやっている」 
 一方で、「浜松空襲で亡くなった妹のことはつらくて話せない」という。遺族が向かい合う悲しみは戦後六十年たっても、何も変わらない。「遺族は本当は、補償をしてほしい。戦後六十年の節目に、扶助と慰霊を同時にしてほしいんです」と訴える。(社会部・謝花直美)(2005年3月26日 沖縄タイムス)

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「時は偉大なる主で多くのことを正しく裁く」、沖縄タイムス史観の集団自決、阿鼻叫喚、美しい島々 地獄絵図に

2022-10-04 04:56:09 | ●●沖縄の黒歴史

 

 

2022年10月2日 付沖縄タイムスに、次のようなエッセイが掲載された。

[琉球風画 今はいにしえ]絵と文 ローゼル川田(68)

 

渡嘉敷島 あの時の光景

美しい島々 地獄絵図に

 沖縄戦で、慶良間諸島の渡嘉敷島で起きた「集団自決」に関する書を読んだ。大江健三郎著「沖縄ノート」、曽野綾子著「ある神話の背景」、金城重明著「『集団自決』を心に刻んで」、こみねこうきち著「記憶の中の戦争」。その中で金城氏、こみね氏は「集団自決」が起きた際の玉砕場からの生き残りであり、当時を阿鼻(あび)叫喚の光景に例えている。書を読むにつれ、美しい自然に恵まれた島々の「場の時刻の時間」の記憶が沖縄戦の悲惨な惨状の場になった。

 1945年3月、渡嘉敷島に日本軍、赤松大尉を隊長とする陸軍海上挺進隊の第三戦隊が駐屯していた。隊員130名に朝鮮軍夫も数百名、慰安婦、その他も。23日に空襲があり、25日の未明、慶良間海峡に米軍の潜水艦や艦隊が侵入した。島民は艦砲射撃におののいた。島の駐在巡査は「ウンダチ山に集まれと伝令して回った。さらにそこから今度は西山へ行けとなった」(こみね著)。

 第三戦隊は234・2高地へと移動している。村民が移動させられた近い位置にあり、「軍隊の布陣地の近くに移動させることは、住民を最も危険な場所に曝(さら)すことであり、死の道連れとしか考えられず、その疑問が永久に拭い去れない」と金城著は述べている。防衛隊員から住民に渡された手榴(しゅりゅう)弾は、1個は自決用、1個は敵陣に投げ込むための物。わずか数日間での急変の出来事は、この世とは思えず、死を起こすのみとなる。玉砕場となったのは恩納河原の付近の沢の辺り。

 「突然、ドカーンと爆発音、家族らしい4、5人が倒れている。尾根はたちまち騒然、大混乱となり大人も子供も気が狂ったように、玉砕だぁ!殺してくれ!早く、早く!絶叫のなか、次々と爆発音。死体や血にまみれた人たちのうめき声。親族の手榴弾は、木に打ちつけても爆発せず、村の幹部は軍の陣地に機関銃を借りに行くが却下される。鍬、鎌、こん棒で身内を殺し合う地獄絵図となる」(こみね著)。

 渡嘉敷島では315人(330人説あり)、座間味島では177人、慶留間島では53人が残虐な死を遂げた。

(略)

 集団自決の深層には「皇国、同化・差別からの脱却、口減らし」の三つが根底にあると言った。その言葉の奥に言葉を失う。

(水彩画家・エッセイスト)

 

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オキナワの黒歴史

2022-09-18 11:10:14 | ●●沖縄の黒歴史

『狼魔人日記』が暴く

オキナワ『黒歴史』

・・・歪められた沖縄戦後史

 

前書き

目次

第一編 GHQの公職追放と沖縄

・敗戦直後、アメリカは沖縄返還を考えていた

・マッカーサーの「沖縄領有」を阻止した「天皇メッセージ」

・QHQは何故沖縄に公職追放を適用しなかったか

・自虐史観の原点は「敗戦利得者」

・沖縄の戦後史は「敗戦利得者」が作った

第三編 沖縄「集団自決」の解明

日本軍は住民を守らなかった

・当初は軍命を否定した証言者たち

・「集団自決」の解明は援護法と政府の関係にある。

・援護法を利用した援護金詐欺とは

・援護法の裏手引書の出現

・援護法のカラクリを自白した石原教授

第三編 沖縄をダメにした四人の「カリスマ」」

瀬長亀次郎

・左翼から翼賛会に転向、戦後左翼に戻った「不屈の男

太田昌秀

・デタラメ沖縄戦記でボロ儲け、沖縄最強の「敗戦利得者」

翁長雄志・「辺野古阻止」で県民を騙した嘘つき男

・嘘も方便、「辺野古阻止」で県民を騙した嘘つき男

玉城デニー・口も軽いが頭も軽いオミコシ男

 

第四編 ウクライナ戦争と台湾有事

・台湾有事より、尖閣有事が先の理由

・軍事戦略のパラドックス、軍事大国は軍事小国敗北する

・中国は現状現状維持の曖昧作戦

 
「鬼畜米英」と「ストックホルム症候群」■

8月15日の玉音放送で日本人の価値観は根底からひっくり返った。

玉音放送の約2週間後、GHQ最高司令官マッカーサーが、丸腰でコーンパイプを片手に専用機バターン号から日本に降り立った。その日から、日本人の心理状態は精神医学上極めて興味ある状況に陥る。バターン号とはマッカーサーが日本軍に惨敗したバターン半島での戦いとそれに続くバターン死の行進へマッカーサーの執念を物語ている。 マッカ―サーはフィリピンの戦闘で自分の戦歴に「敗北の屈辱」を与えた日本に、復讐のためやってきた。 二度と日本が立ち上がれないように、大日本帝国を解体するために。

だが戦時中、鬼畜米英と恐れられたアメリカ軍は意外と紳士的だった。

戦勝国の軍隊が敗戦国の住民に接する場合、略奪と女性への暴行は国により国民性に差が出てくる。

日ソ不可侵条約を踏みにじって満州に侵略したソ連兵の日本人に対する暴虐やベルリン陥落でソ連兵が行った女性への性的暴行は今でも語り草である。

その点、占領軍のアメリカ兵が日本の国民に接した対応は、比較的紳士的だった。 少なくとも、ソ連兵が満州で行った日本国民に対する乱暴狼藉にくらべたら、はるかに米兵は紳士的だった。(この原稿を書いている2022年のウクライナ戦争におけるロシア兵のウクライナ住民への虐殺行為を見れば夫々の国の国民性の違いを知るだろう。)

あくまでも比較の問題だが、日本を占領した軍隊がソ連兵ではなく、米兵であったことはラッキーと言えなくもない。

日本を占領した米兵は先ず、ガムとチョコレートで、子供たちの心を鷲づかみにした。

それだけではない。マッカーサーは、これまで日本には無いと思われていた「自由と民主主義」を手土産に持ってきた。

以後マッカーサーは、7年の間、占領下という閉鎖空間で日本人と共に暮らすこととなる。ここに日本人は、後に精神医学用語となる「ストックホルム症候群」を全国的に体験することになる。

ストックホルム症候群とは、
1973年、ストックホルムで起きた銀行強盗による人質を盾にした銀行立てこもり事件に由来する。

4人の人質の犯人に対する複雑な人間の心理状態を指すための言葉で、人質は被害者であったにも関わらず長期間犯人と時間を共にすることによって、最終的には犯人に対して連帯感、親近感、同情を感じるようになる。 そして犯人逮捕の際彼らは感謝すべき警察を非難し、非難すべき犯人を支持した。この人質の心理状況が後にストックホルム症候群と言われるようになる。

米軍の日本占領時で例えれば、凶悪犯人は鬼畜と思った米軍の総大将マッカーサーであり、人質は敗戦国民の日本人、そして人質現場の銀行は、米軍占領下の日本にあたる。

見た目が強面で昔ヤンキーだったという男が、普通に接していても「優しい」と感じる心理状態も同じと考えられる。

 

「ストックホルム症候群」は特に「鉄の暴風」と呼ばれる地上戦の激しかった沖縄戦で顕著に現れた。
沖縄でも終戦を待たず米軍の捕虜になった人は価値観の逆転を味わった。

鬼畜のはずの米兵が食料を与え怪我人の治療をしてくれた。

敗戦直後、沖縄戦のバイブルと言われた『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)の初版には、米軍のヒューマニズムが賞賛された。

同書の序文にこうある。

「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。1950年版から一言の言及もなく削除されている)

 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、その救出劇を見た住民が米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 当時の沖縄住民は日本の敗残兵に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。

県民を守るはずの日本兵は、武器・弾薬を持たず食糧補給もままならず、無残な姿で逃げ回っていた。県民を壕から追い出して自決する日本軍は「敵」になった。少なくとも敵に見えた。この瞬間米軍は解放軍になった。


更に沖縄を日本から永久分断するための米軍の心理作戦、そしてそのため善意を強調する米軍との共同生活は、沖縄でも「人道的米軍」という心理状態に陥った。
この辺の複雑な心境を、後に「集団自決」の証人となった宮城晴美氏は次のように書き残している

米軍に保護された住民にとって、それまでの『兵隊さん』は、いつしか『日本兵』という“敵”に変わっていた。住民は、すっかり”親米派”になっていたのである。『お国のために』と信じ、日本軍と行動をともにしてきた私の母・宮城初枝も、大けがをして投降したものの、島の人たちからあらぬ噂をたてられ、日本軍に加担したとして批判の的にされていた。
戦争は終わった。しかし母にとっての”戦争”は終わらなかった。さまざまなできごとが戦後に尾を引き、母はその当事者になってしまうのである。≫
(宮城晴美著 「母の遺したもの」)


創業したのは奄美群島出身の故・元山嘉志富さん。

アメリカ統治下の沖縄には、米軍相手にひと山当てようと、沖縄の外からも大勢の人が集まり、基地の周辺は活況を呈していました。

元山さんもそうした1人で、故郷から親族や若手を呼び寄せ、従業員として雇いました。
左側の白髪の男性が元山さん
「ニューヨークレストラン」の経営は、すぐに軌道に乗りました。

元山さんに呼び寄せられた1人が、おいの徳富清次さん(77)。

2008年まで「ニューヨークレストラン」を経営しました。

沖縄に「アメリカンドリーム」を夢見て海を渡った当時、徳富さんはまだ小学生でした。

レストランで働き始めた徳富さんに任された仕事のひとつが、ステーキを焼くためのまき割り作業でした。

沖縄本島北部、深い森が広がる通称「やんばる」からトラックで運ばれてくる丸太を必死に割ってまきを作った作業が今でも忘れられない思い出だと言います。

憧れのライフスタイル

レストランで徳富さんが目の当たりにしたのは、豊かなアメリカ人の姿でした。

当時のコザの街はアメリカ兵であふれていました。

女性を連れ、毎晩のように店を訪れる兵士たちは、300グラムのステーキを勢いよくぺろりと平らげ、気前よく大量のドルを落としていきました。

店で売るハンバーガーも、サンドイッチも、コーラも、飛ぶように売れに売れました。

当時、立派な家が建つのに必要だった2000ドルを、たった1日で売り上げた日もあったというほど、街は好景気に沸いていました。

徳富さんの目に映る米兵はみな“紳士”でした。
「兵士が歩くときには必ずボタンをきっちり締めて、きれいな姿で歩く。飲みに行くときには、床屋で髪を整える。その頃の兵隊は、紳士だった」
太平洋末期の地上戦で焦土となった沖縄。

戦時に作られた文書、写真等が国策、或いは軍の作戦に沿ったプロパガンダ的要素に満ちていることはよく知られている。

後世これらの文書や写真を検証する場合、これらがどのような意図を持って製作されたか、その背景を検証しないとせっかくの資料が時代を見誤る有害物にもなりかねない。

沖縄戦といえば、日本軍が住民を壕から追い出したとか、凄惨な集団自決に追いこんだとか住民を守らない残虐な日本軍のイメージが強調されて来た。

他方、「アメリカ軍は人道的であり、沖縄住民を残酷な日本軍から救うためにやって来た平和と民主主義の守護者、“解放者”である」かのような、アメリカが作った情報がまかり通ってきた。 

■戦場カメラマンが同行した沖縄戦

アメリカ軍は沖縄侵攻作戦を、「アイスバーグ作戦」と名付け、それまでの太平洋戦争ではみられなかったカメラマン部隊を投入し、沖縄戦の様子を克明に記録している。

それらの記録映像には老女を壕から助け出したり、赤ん坊を抱いてミルクを飲ませたり或いは住民の負傷者に手当てをしているヒューマニズム溢れる米兵の姿を記録した。写っている米兵は気のせいかハンサムで体格のいい白人が多い。

実際に沖縄に上陸した米軍は白人、黒人それにフィリピン人や日系二世も混じっていたが、プロパガンダとして残す人道的米兵としてはハンサムな白人の若者が適役だったのだろう。

それらの映像記録は、未編集のまま米国国立公文書館に保存されているが、「1フィート運動の会」によってその大部分は収集されている。

だが、スチール写真等は、沖縄の米軍統治時代に「琉米親善」のプロパガンダに利用された。

米軍の従軍カメラマンの中には、有名なアーニーパイルも含まれていた。

彼の名は70歳代以上の人なら東京の「アーニーパイル劇場」として記憶にあるだろう。

だが、アーニーパイルは米軍占領下の沖縄で小学校時代を過ごした人なら、沖縄戦で日本兵の狙撃により非業の最期を遂げた英雄として学校で教えられていたのを思い出すだろう。

イメージとしては沖縄を解放しに来た“解放軍”の従軍記者が、侵略者・日本軍の狙撃により非業の戦死をしたという英雄物語である。

(沖縄の伊江島にあるアーニーパイル記念碑)

終戦当時ルーズベルト米大統領の名は知らなくともアーニーパイルの名は知っている小学生、中学生は沖縄には多数いたくらいだ。

アーニーパイルは第二次世界大戦に従軍記者として同行し、1944年にピューリッツァー賞を受賞するなど、第二次世界大戦期のアメリカの従軍記者を代表する存在の1人となったが、翌年4月に従軍先の沖縄県伊江島にて日本軍の機関銃から射撃を受け戦死した。遺体は一度現地に埋葬されたのち米軍基地に移され、1949年にハワイ・ホノルルの国立太平洋記念墓地に埋葬された。毎年4月18日に最期の地となった伊江村で慰霊祭が行われる。

戦後、日本を占領下においたGHQが東京宝塚劇場を接収した際、アメリカ軍の強い要望により「アーニー・パイル劇場」と名付けられた。

アメリカ軍統治時代の那覇の国際通りにも、米軍政府と琉球政府の協力で「アーニーパイル国際劇場」という映画館が建設された。「アーニーパイル国際劇場がある通り」から現在「国際通り」と呼ばれるようになった。

■マッカーサーの沖縄領土化計画と「太平洋の要石」

マッカサ―は沖縄をを本土と分離し、アメリカの領土にする計画だった。

 その最大の根拠は、アメリカが中国、アジア支配の戦略のために、そして沖縄を共産主義の防波堤として気兼ねなく使うためであった。

マッカーサーが沖縄をアメリカの領土にする意図を持っていた証拠は、沖縄戦後史の研究家R・エルドリッジ博士が、その著書『沖縄問題の起源』で「マッカーサー覚書」として紹介している。この「マッカーサー覚書」については後で詳述する。

アメリカは、沖縄戦が終結する前に沖縄について綿密な調査研究をしていた。

マッカーサーは、沖縄人と日本人は違う民族であり、沖縄人は明治期以降武力で日本の植民地とされた被支配民族と言う捉えていた。

そのため収容された捕虜収容所でもはじめから本土兵と沖縄兵を分離するなど、本土と沖縄の対立を意図的に組織した。

このアメリカの意識的な本土・沖縄分断策は成功し、施政権返還後も一部のグループに受け継がれている。

以下に引用する大田前沖縄県知事の著書「沖縄の決断」の紹介文にこれが凝縮されている。

まぎれもなく、沖縄はかつて日本国の植民地であった。

古くは薩摩の過酷な搾取に支配され、太平洋戦争で沖縄県民は軍務に活用され、やがて切り捨てられ、そして卑劣にも虐待された歴史がある。

その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)

◆参考:この情報に注目! http://www.kamiura.com/chuu18.htm

米軍が沖縄に上陸した時点で米軍の侵攻作戦には、密かに分類した三つのカテゴリーがあった。

①「解放者」は、米軍であり正義と民主主義の伝道者。

②「侵略者」(沖縄を異民族として侵略)は、日本軍であり、独裁・侵略国家の先鋒

③「被侵略者」は、沖縄住民であり、残忍な日本軍の被害者

 

■掌返しの日本国民


マッカーサーが7年後日本を去るとき「鬼畜」は「親愛なるマッカーサー様」に様変わりしていた。

マッカーサーのもとには日本国中から感謝と惜別の念に満ちた数万通の手紙と贈り物が届けられていたと言う。

当時のNHKはその模様を次のように報じている。

「4月16日午前6時半、マッカーサー元帥は夫人、令息同伴でアメリカ大使館を出発、帰国の途に就きました。朝早くから詰めかけた人々が20万を超え、沿道をうずめ尽くしました。19発の礼砲とどろくうちを、車は羽田空港に到着。吉田首相と堅く握手を交わすマッカーサー元帥。手を振っていつまでも別れを惜しむ元帥夫人。いよいよ出発の時刻が迫りました。見送るリッジウェイ総司令官。愛機バターン号は静かに日本を離れ、一路アメリカに向かいました。」

マッカーサーに対する掌返しが最も甚だしかったのは朝日新聞だった。

「鬼畜米英」など日本国民を煽った朝日新聞は、マッカーサーの日本上陸と共にマッカーサー教徒に変身した。

マッカ―サの帰国時、朝日新聞は「われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥だった」(昭和26年4月12日)と報じた。 そして驚いたことには、朝日新聞社の長谷部忠社長は、マッカーサーをご神体にした「マッカーサー神社」を作ろうとしていた。

結局「マッカーサー神社」の建設は不首尾に終わったが、今考えると建設して欲しかった。 そして「平和憲法」と並んで世界遺産に登録して欲しかった。

■マッカーサーの置き土産-焚書坑儒

だが、マッカーサーが日本に残したものは「民主主義」や「言論の自由」の他に、秦の始皇帝並みの「焚書坑儒」があった。「焚書」では文字通りGHQにとって不都合な書籍が没収・処分されたが、「坑儒」とは、戦前からの知識人を震え上がらせた「公職追放」のことである。
特に戦後日本の言論界や思想界に悪影響を与えた「坑儒」は、教育追放である。

■マッカーサーの功罪

マッカーサーは当時のアメリカでも実施していなかった男女平等を始めとする数々の民主主義の理想を持ち込んだが、軍人でありながら何故このよう、現在でも類のない理想主義に満ちていたたのか。

その鍵をとく為に彼が日本に第一歩を印すまでの足跡を辿ってみる。

バターンの復讐

マッカーサー、この誇り高きエリート軍人はフィリピンでは日本軍に敗走の屈辱を味合わされた。

挌下と見下していた黄色民族の軍隊に敗走する事は彼の辞書には無かった。

ダグラス・マッカーサーは1880年1月26日アーカンソー州リトルロック生まれる。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり名誉勲章を受章している職業軍人家系だった。

1898年、アメリカ陸軍士官学校に入学し、1903年に陸軍少尉になり卒業した。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上最高で、マッカーサーの取った成績以上の成績で卒業したものは未だに現れていない。

1942年5月7日、その誇り高きマッカーサーがフィリピン・コレヒドールで日本軍本間中将との戦いに敗れてオーストラリアに敗走する。

この屈辱の負け惜しみに「I shall return」(必ず戻る)という有名な言葉を残した。

彼の屈辱の敗走の2年後、彼より10歳若いアイゼンハワーがヨーロッパ戦線でノルマンディ作戦を指揮して世界的英雄になった。

後に米大統領となるアイゼンハワーは、一時マッカーサーの部下として補佐官を務めた時期もあり、軍人として必ずしもエリートコースを歩んでおらず一時は閑職で燻っていた時期もあった。

一方、マッカーサーは軍人のエリートコースを歩みながら、その巧みな雄弁術はむしろ政治家を志向し、戦後大統領候補にもなっている。

かつての部下のアイゼンハワーが連合国遠征軍最高司令官として「ノルマンディ作戦」を指揮し大成功を収めたニュースを忸怩たる思いで聞いていた。 そしてアイゼンハワーが戦後、アメリカ大統領になろうとは夢想もしていなかった。

日本占領までのマッカーサーはフィリピンでの屈辱を晴らす復讐の念に燃えていた。

それには日本の軍隊を徹底的に壊滅させる必要があった。

日本を手足のもぎ取られた子羊のように、二度と米国に反抗できない状態にしておく意図に燃えていた。

そのためには日本国憲法の設定、その中でも交戦権の否認は不可欠であった。

■マッカーサー 皇居を睥睨しながら執務をした■

マッカーサーは皇居に面した第一生命ビルの6階に占領軍の本部を構えた。

そこから皇居を見下ろして天皇の権威の上に君臨する全能の権力者となった。

日本の歴史上権力と権威を1人で独占して日本を統治した者は彼をおいて他に例が無い。

日本の歴史では朝廷の権威と幕府の権力は常に補完しあってきた。

マッカーサーと言えば日本に「自由と民主主義」を普及させた恩人とと見られている。

しかし彼が日本で最初に行ったことは「自由と民主主義」とは逆の「焚書坑儒」であった。

「焚書坑儒」とは中国の専売特許かと思ったらマッカーサーもこれを行った。

秦の始皇帝にも劣らぬ絶大な権力を振るったマッカーサーなら「焚書坑儒」もけして不思議ではない。

マッカーサー司令部は昭和21年3月に一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の特定の書物を書物の存在すべきあらゆる場所から没収し、廃棄することを日本政府に指示した。

書物没収のためのこの措置は時間とともに次第に大がかりとなる。

昭和23年文部省の所管に移って、各都道府県に担当者が置かれ、大規模に、しかし、秘密裏に行わた。

没収対象の図書は7千7百余種に及んだという。

そのとき処理し易いように作成されたチェックリストが分厚い一冊の本として公開されている。

戦後のWar Guilt Informasion Programの一環であった私信にまで及ぶ『検閲』の実態はかなり知られている。

だが、数千冊の書物の『焚書』の事実はほとんどまったく知られていない。

チェックリストは、昭和57年に文部省社会教育局編として復刻され、やっと公開されるようになった。

失われた書物の内容を、殆んどの日本人は知らない。

つまり、先の大戦に関して、戦後の日本人は偏った情報を与え続けられ現在もそれが継続していることになる。

 

■「三年殺し」に潰された安倍政権■
   
マッカ―サーの「焚書」という荒業は彼の予想を遥かに越えて、60年経った現在でも日本の内部組織を破壊しつづけている。

マッカーサーの負の遺産である「戦後レジーム」。

それは「戦後民主主義」という形で今でも左翼マスコミの中に奥深く染み込んでいる。

その解消に果敢に挑んだ安倍前首相は、「戦後レジーム」そのものともいえるマスコミと左翼官僚によって見事に潰されてしまった。

 

「沖縄人は日本人にあらず」 占領米軍の分断工作工作

2007-05-16 11:43:49 | 未分類
復帰を阻止せよ!」~アメリカ軍 宣撫工作~ (2007年5月15日放映)

QAB琉球朝日放送http://www.qab.co.jp/okinawa-reversion/index.html

<沖縄が本土復帰した1972年5月。13年間、毎月発刊されてきた月刊誌がその歴史に幕を閉じました。その月刊誌は『守礼の光』。 沖縄の産業や文化、アメリカの文化などを紹介したカラー写真付きの雑誌で学校や公民館などに無料で配布されました。 『守礼の光』には、琉球の昔話も掲載されました。運玉義留、野底マーペー、空を飛んだ男・・・各地に伝わる昔話を集め、記事にしたのは沖縄のひとりの女性でした。女性は琉球文化を誇りに精力的に仕事を続け、各地を回っては口承されてきた物語を掘り起こしました。 雑誌を発行したのは、米国琉球列島高等弁務官府。しかし、それは表向きの発行元で、実際は「アメリカ陸軍・第7心理作戦部隊」が編集発行を行っていたのです。当時「第7心理作戦部隊」を知る者は殆どおらず、その存在はこれまでベールに包まれたままです。 部隊の任務はビラや放送などでアメリカ軍のアジア戦略をスムーズにする事。沖縄での仕事のひとつが『守礼の光』の発行でした。アメリカ軍は、琉球文化が色濃く表現されたその昔話の数々を大いに評価します。実はアメリカ軍にはある狙いがあったのです。 「沖縄は日本にあらず」ーアメリカ軍は日本とは違う独特の琉球文化を強調して、沖縄の人達の日本復帰への思いを逸らせようとしたのです。 >

 

第7心理作戦部隊が行った事は今で言えば広報活動のようなことだが、戦火で荒らされた沖縄にとっては「宣撫工作」としての効果は充分あったのだろう。

先ず食い物を食わしてモノを与え、それから飴と鞭で洗脳するのは情報戦の常道。

洗脳については「撫順戦犯管理所」からの帰還兵が有名である。

1950年にシベリアで捕虜となっていた日本人のうち約1100人が中国にひきわたされ、撫順、および太原で収容された。この施設の一つが撫順戦犯管理所である。

問題点
日本人が釈放されたのは1956年以降であったが、釈放された日本人捕虜はみな中国を賛美するようになっていた。これが「撫順の奇蹟」と中国では称されている。しかし釈放された人々の言動から、洗脳行為が行われたのではないかという疑いがもたれている。
(ウィキペディア)


沖縄人をあえて琉球人と呼び、<日本は琉球を侵略した異民族>と、沖縄人を洗脳した。

これらアメリカの工作は現在も一部ウチナンチュに受け継がれ、琉球独立という幻想は今でも息づいている。

アメリカが最も嫌ったサヨクの反日工作に琉球独立が利用されている事実は歴史の皮肉とも言えよう。

 

アメリカが沖縄を日本から分断する作戦だったことは沖縄上陸時から実行されていた。

これについては下記エントリで詳しく述べている。

「集団自決」の米公文書 「アメリカは解放軍だった」

 

さらに「洗脳工作」は現在でも県知事が記者の引っ掛け質問にあえて「ウチナンチュは日本人」と答えねばならぬほどねじれた形で後を引いている。

 

沖縄住民の「スパイ容疑虐殺」の真相

2008-12-21  

 沖縄戦で、米軍は上陸の前、沖縄中に「鉄の暴風」を吹き荒れさせ、沖縄住民の生命と肉体に壊滅的打撃を与えた。

米軍が上陸した後、降り注ぐ砲弾の合間に空から舞い降りてきたのは、膨大な数の「鉄の爆弾」ならぬ「紙の爆弾」であった。

炸裂する砲弾に替わる「紙爆弾」は、今度は沖縄住民の心を破壊していった。

沖縄戦で米軍は沖縄住民の身体のみならず心も共に破壊したのだ。

 

太田昌秀著『沖縄戦下の米日心理作戦』は、米軍が沖縄戦で行った心理作戦ついて、次のように述べている。

さる太平洋戦争末期の沖縄戦では、米軍が空から撒いた一枚の宣伝ビラ読んで命が助かった人もいれば、それを所持していただけでスパイの汚名を着せられ命を落としたものもいた。このように戦時中、軍人も民間人も一枚の宣伝ビラの対応いかんによって文字どおり、生死を分かったのである。 一片の紙片は、まさに「紙爆弾」そのものだった。 沖縄戦で日本軍は、敵が散布した宣伝ビラを拾ったまま警察や憲兵に届けないで所持しているものは「銃殺に処す」と厳命を下していた。>(『沖縄戦下の米日心理作戦』太田昌秀 岩波書店)

「紙爆弾」といわれる宣伝ビラは、60数万枚にも及ぶ膨大な数量が、小さな島にばら撒かれた。

その種類も日本軍用、沖縄住民用と内容が別れ、

目的別に更に20種類に細分されるという徹底ぶりだった。

だが、米軍の心理作戦部隊が最も重要視したのは、

本土出身の将兵と地元住民との仲を疑心暗鬼の状態にして、

お互い離反させることであった。

沖縄住民と日本兵との間に楔を打ち込むことを目的にした宣伝ビラの例には、次のようなものがある。

沖縄住民用ビラ

<この戦争は、沖縄の皆さんの戦争ではありません。貴方たち沖縄人は、内地人の手先に使われているのです。皆さんは、彼ら内地人の犠牲になっているのではありませんか。(略)>(『沖縄戦した米日心理作戦」)

このような沖縄人用の宣伝ビラを読むと、60数年前に米軍が書いたビラながら、その呪縛は現在の沖縄にも生きており、今でもどこかで良く見るアジ文である。

 

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沖縄戦は米軍のジェノサイドであり、戦争犯罪である

2022-08-29 00:36:19 | ●●沖縄の黒歴史

 

 

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読者の皆様へ

昨年来、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定でした。 ところが思わぬ難問が続出して出版の足枷となりました。 まず昨年末から今年の初めにかけて、激しい腰痛を患い寝たきり状態を余儀なくされました。 そのため、ブログを休載したり、今まで経験のないコロナ禍、ウクライナ戦争で思考が乱れ、加えて安倍元首相の暗殺というショッキングな事件でカオス(混沌)に陥り、脱稿が遅れてしまいました。

最後のそして最大の難関が出版費用の問題です。

出版不況の折、すでに忘れ去られた感のある「沖縄集団自決」という地味な問題の出版に興味を示す出版社が無いという現実です。

 

■出版費用の献金のご協力願い

しかしながら、沖縄タイムスが、梅澤、赤松両隊長の名誉を傷つけ、同時に旧日本軍を「残虐非道」と決めつけ、日本を貶める反日史観に対し、已むに已まれぬ思いで、歴史の歪曲に立ち向かう決意です。

出版の目的の詳細は下記引用の「前書き」(※)に、説明してあります。

※★前書き★

つきましては、コロナ不況で経済情勢もきびっし折柄、誠に勝手ではございますが、皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口1000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

江崎 孝

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  • 店番:708
  • 口座番号:0555798

※「前書き」に続き、週一回の割りで本文の一部を抜粋、紹介して、皆様のご理解に供したいと思います。
 
 

沖縄戦を説明する際「悲惨な地上戦」を強調するがあまり、米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月1日を起点にする人が多い。

これは、間違いである。

米軍のジェノサイドを隠蔽するための歴史歪曲である。

米軍は、前月の3月26日には那覇と目と鼻の先にある座間味島、渡嘉敷島など慶良間諸島を海が黒く見える程の大規模軍艦で取り囲み、逃げ場失った島民を艦砲射撃で無差別攻撃して大量虐殺(ジェノサイド)を行っている。

後に国民を二分する大論争を巻き起こした沖縄集団自決論争は、沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』が端緒となるが、米軍は、「近代戦の勝敗は鉄の消費量ににある」と言われるほど、民間人が右往左往する慶良間島を「”鉄”の暴風」で無差別攻撃した。米軍は大量の爆撃で民間人を虐殺したが、その一方島に駐屯した梅澤大佐、赤松大尉らが率いる軍隊は、島の「守備隊」ではなく海の特攻隊であった。

それもベニヤ板で作ったマルレと称する特攻艇で大量の米軍艦に体当たりして自爆する極めてお粗末な特攻隊であった。したがって、特攻隊である彼らは特攻の自爆攻撃に必要な爆薬や手りゅう弾と旧式の小銃のみの軍装備であった。

更に沖縄戦における米軍の住民虐殺の痕跡を辿ると、前年の1944年10月10日の那覇空襲にたどり着く。那覇空襲の詳細は省くが紛れもない民間人に対する無差別爆撃であり、翌年の東京大空襲、広島、長崎への原爆投下によるジェノサイドに繋がっていく。 沖縄メディアは学童疎開船対馬丸を撃沈を、口減らしのため軍が強制した悲劇と報じて米軍の民間輸送船攻撃を隠蔽するが、対馬丸撃沈も学童輸送船と知りつつ攻撃した米軍のジェノサイドである。

 

対馬丸事件とは、1944(昭和19)年8月22日、本土への疎開のため、沖縄の児童約800名を含め、約1800人を乗せた貨物船「対馬丸」がアメリカの潜水艦によって沈められ、児童の9割以上が亡くなったという痛ましい事件のこと。

①なぜ「非戦闘員」を乗せた対馬丸が攻撃されたか? 

アメリカは、開戦当初から、「軍民を問わず敵国に関係すると思われる艦艇・船舶すべてに対し、潜水艦が無警告で攻撃する」という「無制限潜水艦作戦」を実施していた。

このため、対馬丸のような民間船も攻撃対象とされた。

②それは戦時国際法違反ではないのか? 

違反である。

アメリカの潜水艦は「学童の乗船」を知っていたのか? 

学童疎開の児童が乗った船であることはまったく知らなかったと言われているが、暗号解読により学童疎開船であることは認識していた。


「無線傍受翻訳 対馬丸 1944年8月16日」【0000036968】

 米潜水艦部隊は、日本軍の暗号解読に成功し、日本近海を航行する商船、艦船の待ち伏せ攻撃を強化していました。この資料は、米軍が傍受した日本軍の無線の翻訳記録です。対馬丸その他の船舶が「8月16日16時に上海から那覇へ向けて出航する」ことを伝えています。KAZUURA MARU(和浦丸)、GYOOKUU MARU(暁空丸)、そしてTSUSHIMA MARU(対馬丸)の3隻は、船団を組んで8月21日に那覇港を出港しました。

米潜水艦ボーフィン号の対馬丸撃沈に関する報告書は、下記の資料群に含まれています。
米国潜水艦戦時哨戒報告書、1941年~1945年

 

 

■沖縄戦から、東京大空襲、広島、長崎原爆投下に繋がるジェノサイド

昭和20年(1945年)3月10日深夜、米軍のB29が東京下町に325機襲来し、焼夷弾38万発を投下した。  

その無差別空爆の結果、約10万人が死亡し、100万人が被災するという史上最大の空襲になった。

この作戦の特徴は、通常の爆弾ではなく、ガソリンを振りまく焼夷弾だったことだ。

ガソリンを振りまいて火をつける為、木造家屋が多かった下町地区はあっと言う間に火の海になった。

戦争とは国際法に基づいた一定のルールのもとに行われる。

一定のルールとは

⑴ 軍事目標以外への攻撃禁止(降伏者、負傷者、民   
  間人等の攻撃禁止)

⑵ 休戦旗を揚げながら戦闘する行為の禁止

⑶ 遭難信号を不正に発信する行為の禁止

⑶ 赤十字旗を揚げながらの軍事行動の禁止

⑷ 軍事的必要性を超える無差別な破壊・殺戮
  の禁止

⑸ 捕虜虐待の禁止

⑹ 対人地雷使用の制限

⑺ 化学生物兵器使用の制限

⑻ 開戦に先立つ宣戦布告義務

非戦闘員や民間人を殺戮したり、無差別な破壊、殺戮は禁止されている。

従って沖縄戦の那覇空襲、慶良間島の無差別民間人虐殺、東京大空襲、広島、長崎原爆投下は明らかな戦時国際法違反であり、東京大虐殺、広島大虐殺、長崎大虐殺、と呼ぶべき非人道的戦争犯罪である。

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★新・沖縄タイムスを恐喝した男!究極の転向者:富村順一、

2022-08-25 08:34:36 | ●●沖縄の黒歴史

 

 

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読者の皆様へ

昨年来、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定でした。 ところが思わぬ難問が続出して出版の足枷となりました。 まず昨年末から今年の初めにかけて、激しい腰痛を患い寝たきり状態を余儀なくされました。 そのため、ブログを休載したり、今まで経験のないコロナ禍、ウクライナ戦争で思考が乱れ、加えて安倍元首相の暗殺というショッキングな事件でカオス(混沌)に陥り、脱稿が遅れてしまいました。

最後のそして最大の難関が出版費用の問題です。

出版不況の折、すでに忘れ去られた感のある「沖縄集団自決」という地味な問題の出版に興味を示す出版社が無いという現実です。

 

■出版費用の献金のご協力願い

しかしながら、沖縄タイムスが、梅澤、赤松両隊長の名誉を傷つけ、同時に旧日本軍を「残虐非道」と決めつけ、日本を貶める反日史観に対し、已むに已まれぬ思いで、歴史の歪曲に立ち向かう決意です。

出版の目的の詳細は下記引用の「前書き」(※)に、説明してあります。

※★前書き★

つきましては、コロナ不況で経済情勢もきびっし折柄、誠に勝手ではございますが、皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口1000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

江崎 孝

お振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 名義:江崎 孝
  • 記号:17050
  • 番号:05557981

 

ゆうちょ銀行以外からお振り込む場合の振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 金融機関コード:9900
  • 預金種目:普通預金
  • 名義:江崎 孝
  • 店名:708(読み ナナゼロハチ)
  • 店番:708
  • 口座番号:0555798

※「前書き」に続き、週一回の割りで本文の一部を抜粋、紹介して、皆様のご理解に供したいと思います。
 

 

究極の転向者:富村順一、新・沖縄タイムスを恐喝した男!

2021-11-18

新・沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一2009-08-11

■究極の逆転向者ー富村順一■

日頃言論の自由を標榜する沖縄タイムスが、その歴史に致命的汚点を残した事件がある。

沖縄タイムスの御用作家だった富村順一氏から50万円を口止め料として脅し取られた事件だ。

沖縄タイムスが、極左作家富村順一氏の恐喝に屈した理由は、大阪で警備会社に勤務する梅澤元裕元大佐を『鉄の暴風』の記事で「不明死した」と間違って報道した件だ。何しろご存命の方を、「不明死」などとデタラメを書いたのだ。

富村順一氏の恐喝に屈した沖縄タイムスは人目を避けるように「不明死」の記述を削除し口止め料として50万円を脅し取られた。

ところが富村氏は、タイムスの願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした。

現在大阪西成区に在住の元極左活動家富村順一氏は、係争中の「大江岩波集団自決裁判」には不自由な車椅子の体を忍て大阪地裁まで来て、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。

左翼に襲われ車椅子生活に!

 

それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。 

富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。

富村氏は、左翼集団の暴力により、手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。

■富村氏が極左作家になった経緯■

富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうけるが、生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。

【追記】富村氏は2012.04.19に大阪で死亡したとされている。(享年82歳?【追記】2参照)

15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。

以後全国を放浪するがその間も犯罪を繰り返し、各地の刑務所の出入獄をくり返す。

1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。 

その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。

「日本人よ、君たちは沖縄のことは口をだすな」

「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」

「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」

結局、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成され、獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄」(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。

出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそり、この手の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。

ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。

<○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。

○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。

○送りガナはあえて統一しませんでした。

○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。

○原文中、「   」の部分を傍点をつけ、「    」をはずしました。>

支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。

同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続け、沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。

富村氏の著作を拾ってみても沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。

『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書 

『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。 

沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。 

『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。 

『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。 

皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。 

最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。 

『十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。

富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。 

もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。  

 『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。  

 『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。 

                    ◇

富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。

ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)

毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。

                   *

 
嘗て「東京タワ-事件」というのがあった。1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。
 
私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、
また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。
私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)
 
【おまけ】
沖縄タイムス・コラムに掲載された富村順一氏に関する記事。
1973年は沖縄返還の翌年である。
 

1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html

  沖縄タイムス  唐獅子

  意識した熱狂を

 

わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。

60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。

マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。

ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。

先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。

さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。

 

【追記】2

ブログ「富村順一死す | 無恥無情/『大阪府警の隠し事』の2012.04.19 に富村の死亡が載っている。

いつまで経っても、彼の死亡情報がネット上に現れないので、本ブログで述べておく。平成13年秋の生活保護法による保護決定から十有余年に及ぶ生活・住宅・医療扶助を受けつつ、何不自由のない生活を大阪市西成区にて送っていた富村順一は、同区梅南2にある借家を終の棲家として、この冬に死亡した。晩年には車椅子生活となり、昨秋までは電動式のそれを駆って、早朝に自宅を出て勝間街道を北上、鶴見橋商店街を東進して国道26号線を越え、あいりん地区(通称・釜ケ崎)にある労働センター付近を徘徊して露店で買い求めた弁当類を付近の公園や南海電鉄の高架下あたりで食して朝食をすませるという生活を続けていた。

【追記】3

 

【おまけ】

沖縄集団自決の真実

「沖縄人の見た沖縄戦」①

――座間味戦の裏側にあるもの――

 

ルポライター(沖縄県国頭郡出身)   冨村順一(大阪市西成区77歳)

 

平成20年1月10日  昭和史研究所会報 第129号

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。

これは本来国家のなすべき事業なのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔解説〕

平成19年11月9日、大阪地裁。大江・岩波裁判の日。

傍聴券を求める人々の中に車椅子の人物がいた。

この人が配布したA4判3頁の文書は、梅沢・赤松両元隊長の無実を訴え、

大江健三郎に謝罪を求める切々率直な内容のものであった。

 

この人こそ誰あろう。

かつては左翼反戦平和運動に携わりながら、梅沢裕隊長の「自決命令」の

なかったことを知るや、翻然梅沢氏弁護の運動を開始し、それが宮崎初枝

女史の告白を決意させ、また神戸新聞に「梅沢隊長の命令なし」の記事

を掲載させるきっかけをつくった冨村順一氏(『隠された沖縄戦記』などの著者)だ。

 

いわば梅沢隊長の冤が晴れる大きな一歩を刻んだ富村氏の正直で義に

強い人柄に、かねて中村は敬服していたが、大江裁判の折に氏の配布した

文書を読んで感銘を新たにし、氏に二、三の質問を含んだ書簡を送った。

 

それに対して11月30日、氏からテープレコーダーに録音した

委曲を尽した返事を頂戴した。貴重な体験と証言を含む内容なので、

一部を割愛して掲載させて頂くことにした。(中村)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔註〕「中村」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B2%B2

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★以下、富村順一氏のテープおこしの本文です。★

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 中村先生、今晩は。

先生からの御手紙を拝読し、直ぐに手紙を出そうと思いましたが、

何分にも手足が不自由で遅れたこと申し訳ありません。

 

話は違いますが、近所に梅南座という芝居小屋があります。

そこの主は沖縄出身の渡口さんというお婆ちゃんです。

このお婆さんは、娘さんやお孫さんも毎日のように私の家に来て

よく私の面倒を見てくれます。

そのような方ですから、私は先生から来た御手紙を劇場のママに見せました。

ママが「返事を書いたのか」と聞くので、ヘルパーに代筆を頼んで、

毎日四、五枚づつ書いていると話したところ、「このように大切なことは

ヘルパーの代筆では駄目だ。

貴方は手足は不自由でも口は利ける。

録音を取って生の声を包み隠さず、テープで差し上げなさい」と仰有った

ので、「テープレコーダーがありません」と話したところ、ママが

「じゃ、買えばいいんじゃないか」と仰有ったので、「そのようなお金は

ありません」と云ったところ、「じゃ、金は私が出すから録音テープで

自分の気持を先生に伝えた方がいい」と仰有って金を置いて行って下さった

ので早速テープレコーダーを買い、録音で先生に座間味戦記のことを

お伝えしようと思っています。

 

大城明さんの自殺

 

 私はここ十四、五年間、大衆の前へ出たことがありません。

故に梅沢さんはじめ私の知ってる方には、

私が死んだという噂が飛んでいる現在です。

何故、そのような私が今頃、大江裁判傍聴に行こうと思ったのか、

訳があります。

 

 一昨年(平成17年――中村)の10月1日、大阪西成区の津守公園で

大城明さんという沖縄出身の方が自殺いたしました。

彼は若い頃、ベトナム戦争反対、基地反対、部落開放運動なんかに

首を突っ込んでました。また非常に読書家でもありました。

 

 彼が自殺一週間前、突然私の家に来たのです。私の家に来るなり跪いて

「富村さん、本当に申し訳ありませんでした。

富村さんが練馬区の元町公園で二匹の犬と野宿しているときに、

夜六人の仲間と一緒に襲い、二匹の犬を殺し、富村さんに怪我をさせ、

富村さんが車椅子の生活をするようになったのは私達です。

私がそのリーダーでした。

その理由は、富村さんが書いた「座間味戦記 / 梅沢隊長は生きている

――自決命令はなかった」という『隠された沖縄戦記』を読みました。

沖縄には沖縄の偉い大学の先生や文化人が書いた『鉄の暴風』、

沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』、『沖縄県史』がある。

それらは何れも自決命令で、梅沢隊長は従軍慰安婦と爆死したことになっている。

 

だが富村さんは「隊長は生きている」と云う。

富村さんは右翼から金を貰って嘘の本を書いたに違いない。

このような沖縄人はいない方がいい。

二度と本を書けないようにしてやろうと、富村さんを襲い、袋叩きにしたのは

私達で、そのリーダーが私でした。本当に申し訳ありませんでした」

と云いながら鞄から一冊の本を取り出しました。

 

宮城晴美さんが書いた『母の遺したもの』という本でした。

十年以上も本と縁がなく、新聞も余り読みませんでしたので、

この本が出ていることも全く知りませんでした。

 

その本をテーブルの上に置き、「梅沢さんは自決命令を出していない、

ましてや、死んだといわれた梅沢さんが健在であることを知りました

。自分たちは取り返しのつかないことをしてしまった。

富村さん、本当に申し訳ありませんでした」と跪いて詫びたのです。

 

余りに突然のことで、私も宮城晴美さんが本を出したことも知らず、

どのように大城君に返事をしていいやら、言葉を失い、黙っていると、

大城君が

「富村さん、近い中に私は本を読めない所へ行くんだ。

富村さん、この眼鏡はフランス製です。いい眼鏡です。

もしレンズが合わなければ、レンズだけ替えてお使い下さい」

と眼鏡をテーブルの上に置きました。

彼は読書家でもあったので、私は「じゃあ、お前は好きな本を読まないのか」

と云ったところ、「本を読めない所へ行くんだ」と――。

 

 私はその意味をすぐには理解できませんでした。

それから一週間ほど経って、彼の友人が私の家に訪ねてきました。

 

 「実は大城明さんが自殺しました。

彼の部屋に富村さん宛の手紙がありました」と云いました。

彼はその手紙で何度も何度も「申し訳ありませんでした」と詫びていました。

またお母さん達にも、富村さんに迷惑をかけたから、お詫びするようにと

遺言があったようです。

その後、大城君のお母さんやお姉さんからも電話がありました。

「申し訳ない。何か困ったことがあったら連絡下さい。

可能なことはして上げます」ということでしたが、

私は「何も困っていません」と申し上げてお断りいたしました。

 

私は大城さんの自殺を考へ(ママ)た場合、まだ沖縄戦は終わって

ないんだと思うと同時に『鐵の暴風』や沖教組が捏造した

座間味戦記を書かなければ、このような自殺は出なかった訳です。

故に私は仮(たと)え手足が不自由でも、車椅子で外へ出かけることが出来る、

今度の大江裁判でも傍聴して、加納であれば事実を訴えようと思い、

裁判所へ行きましたが、残念ながら、傍聴出来ず帰ってきました。

 

 その後、大阪の関係者から二回ほど話を聞きに来ましたが、初対面であり、

どのような方かよく分からないので一部始終は話していません。

だが、先生のお手紙を読み、劇場のママからも、知ってること思ってる

ことを全部包み隠さず先生にお伝えするようにと云われておりますので、

私も知ってることを包み隠さず先生にお話しようと思います。

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売国奴、究極の目的は教科書改ざん!沖縄戦研究者に意見打診/文科省、県内外2氏へ文書求める

2022-08-24 00:15:04 | ●●沖縄の黒歴史

当日記では何度も繰り返してきた事実だが、議論をする場合間違った前提で行われる議論は空虚であり、議論すること自体が時間の無駄である。

沖縄戦後史を歪めてきた沖縄タイムス編著『鉄の暴風』に記述されたことを正しいという前提に立つ限り、沖縄集団自決に「軍命があったか否か」という議論は空虚ということが出来る。

なぜならば『鉄の暴風』の執筆者太田良博記者は、戦史ドキュメントの基本である裏付け調査を全て省いて「伝聞」「ウワサ」を基に記述したと、作家曽野綾子氏との対談で吐露している。

さらに言えば、「〇〇があるか否か」という命題を論証する場合論者は「〇〇がある」と主張する側に挙証責任がある。 なぜなら、逆を証明するのは悪魔の証明と言われるほど立証が困難だから。

従って、『鉄の暴風』が記述する「軍の命令による集団自決」を立証するのは『鉄の暴風』の編著者である沖縄タイムスであり、大江岩波集団自決訴訟の場合『鉄の暴風』の記述を鵜呑みにした大江健三郎側に挙証責任はある。

結局、反日サヨクが歴史を歪める究極の目的は、日本軍を「残虐非道な日本軍」と貶めて教科書に記載させ、最終的に日本国民を卑屈な自虐史観に落とし込むことに在る。

沖縄タイムス  2007年11月20日(火) 朝刊 27面  
 
沖縄戦研究者に意見打診/文科省、県内外2氏へ文書求める

 文部科学省が高校の日本史教科書から、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に対する軍の強制を示す記述を削除させた教科書検定問題で、沖縄戦や琉球史の研究者らに意見提出を求めていることが十九日までに分かった。教科書会社からの訂正申請を受けて開かれる教科用図書検定調査審議会での参考意見にするとみられる。人選や経過が不透明なうえ、沖縄戦の専門家が審議会に直接加わらない形での意見聴取に「また歴史解釈を歪曲する審議が繰り返されるのでは」と懸念の声も聞かれる。
 意見提出を求められているのは、沖縄戦を含めた日本の戦争責任を研究している林博史・関東学院大教授や、県内の琉球史研究者らとみられる。

 文科省は今月中旬に意見提出を打診した。文書を提出するか、文科省職員が意見を聞いて審議会に伝える方法を示したという。今月最終週までに意見提出される予定で、訂正申請の是非を話し合う教科書審議会の開催はその後になる見込み。

 二〇〇六年度の教科書検定では、林教授の著書「沖縄戦と民衆」(大月書店)も参考にされた。林教授は同書の中で、日本軍が住民に手榴弾を配って「自決」を指示していた実例などを示し、「(『集団自決』には)日本軍の強制と誘導が大きな役割を果たした」と結論付けている。(略)

                     ◇

>二〇〇六年度の教科書検定では、林教授の著書「沖縄戦と民衆」(大月書店)も参考にされた。

>林教授は同書の中で、日本軍が住民に手榴弾を配って「自決」を指示していた実例などを示し、「(『集団自決』には)日本軍の強制と誘導が大きな役割を果たした」と結論付けている。

林教授といえば、沖縄タイムス、琉球新報にその文が掲載され、両紙の論説顧問ではないかと疑うほど沖縄では著名人である。

林教授は係争中の「集団自決裁判」では被告側の理論的中心人物で、彼の「研究」が被告側の証拠として提出されている。

林教授の「集団自決」における立場は、「従軍慰安婦」における吉見義明中央大学教授と同じ立ち位置にあるといったら分かりよいだろうか。

事実両者は共同研究もしている模様で次のような共著も出している。

吉見義明・林博史編『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年。
 
結局林教授がいくら研究をしても、「慶良間島の集団自決」では軍が命令を出したという客観的証拠、証言は出てこない。

そこで手りゅう弾が証拠だと言い、これが論破されると今度は米公文書館から米軍の住民に対する尋問調書を探し出してきて、これを地元紙が「軍命令の新証拠発見」と何度も報道された。

ところが英文のtold(話した)を命令した(commnaded)と故意に誤訳する等、とても学者の研究とは思われない「研究成果」であった。

この林教授の「誤訳作戦」は目くらまし作戦② 「テルかコマンドか」 「沖縄・集団自決訴訟」で詳しく述べてある。

 

そもそも当時の米軍は沖縄を永久占領するつもりであり、そのため住民に対する心理作戦は徹底しており、「紙爆弾」と呼ばれた大量のビラにも住民と日本軍を分断させるような文面になっていた。

当時投下されたビラの一例を挙げよう。

住民に告ぐ

日本軍は食物でも飲水でも沢山持っています。 皆様が生活出来なくなったのは日本軍の為です。(略)

日本軍が町の中に留まって居た為に、皆様の家を壊され声明も危うくんりとうとう日本軍に頼らなければならないようになったのです。

日本軍に食べ物や飲み水をくれるようにお願いしなさい。

無いといっても聞き入れてはいけません。
(「太陽の帝国」にビラの写真があります。
http://empire.cocolog-nifty.com/sun/2007/11/post_8be2.html

食べ物も飲み水も枯渇している日本軍と知りながら、敢てこのようなビラを撒いて住民に「無いものねだり」をさせ、断られると日本軍への憎悪が募るという構図だ。

ちなみに、渡嘉敷島の生き残りの証言によると島民で餓死したもの居なかったが、日本軍にはが死者が数名出たと記されている。

とにかく米軍は豊富な食料を具備しており日本側は軍民とも食物に飢えていたというのが事実であった。

そんな状況で投降した住民に米軍が聞き取り調査をしたらどうなるか。

米軍の心理作戦は大成功だった。

詳しくは⇒「集団自決」の米公文書 「アメリカは解放軍だった」

                     *

>意見提出を求められているのは、沖縄戦を含めた日本の戦争責任を研究している林博史・関東学院大教授や、県内の琉球史研究者らとみられる。

 

当初、林教授のような極左学者は教科書検定の「沖縄戦専門家」から外すべきだと書いた。⇒林教授の理屈は「画一的教条論」

だが、むしろ意見を提出させて木っ端微塵に粉砕したほうが後顧の憂いを遺さないような気もする。

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以下は林教授の理屈は「画一的教条論」の抜書きです

 

2007年10月12日(金)「しんぶん赤旗」

論戦ハイライト沖縄戦集団自決「軍の強制」削除
文科省が検証なしに20年来の記述覆す
検定意見こそ政治介入

(略)

調査官の意見の根拠とされた著書の作者の反論
 『沖縄戦と民衆』の著者・林博史氏(関東学院大学教授)

・「著書では(『集団自決』は)日本軍の強制と誘導によるものであることを繰り返し強調している。これが検定の理由にされているとしたら心外だ」(「沖縄タイムス」6月17日付)

・「私は、著書の中で1つの章を『集団自決』にあて、その中で『日本軍や戦争体制によって強制された死であり、日本軍によって殺されたと言っても妥当であると考える』との認識を示したうえで各地域の分析をおこない、渡嘉敷島のケースでは『軍が手榴弾を事前に与え、『自決』を命じていたこと』を指摘している」(同10月6日付に掲載された意見から抜粋)

                     ◇

 何度でも言うが慶良間諸島の「集団自決は軍の命令であった」という証拠は何一つない。

係争中の裁判で被告側が唯一の証拠としているものが手りゅう弾である。

手りゅう弾は軍の管理下にあるはずだから、手りゅう弾で「自決」したのだから軍の命令と同じ、というのが「軍命あり派」の唯一つの論拠だ。

だが、この手りゅう弾軍命論は、手りゅう弾を配ったとされる富山兵事主任の証言に基づいており、その証言自体が崩れ去っていることは再三述べた。

論拠を失った被告側は苦し紛れに反則技の「すり替え論」で対抗しようと悪あがきを始める。

まるで、チャンピオン内藤の技に手も足も出ないと分かった亀田大毅があせって見苦しい反則技を繰り出したように。

沖縄戦史の専門家と称する林博史関東学院大学教授の論法がまさにそれだ。

「軍の命令」という証拠がないと次のような反則技(すり替え論)を繰り出してくる。

>「『日本軍や戦争体制によって強制された死であり、日本軍によって殺されたと言っても妥当であると考える』

「戦争体制」?

「日本軍によって殺されたと言っても妥当である」?

これが沖縄戦史の専門家と称する学者の説とはにわかに信じがたい。

本人の思い込みと推論だけの主張を、詳しく論評をするまでもないだろう。

この「沖縄戦史の専門家」は「直接の軍の命令の有無は問題ではない」と主張している。

「11万人の集会」が揺らいで来ると、「人数の問題ではない」といった誰かさんと理屈は同じである。

おまけとして、林教授の「すり替え論」の例を沖縄タイムスで鑑賞してみよう。

◆沖縄タイムス<2005年7月4日 朝刊24面>

[「集団自決」を考える](20)
(20)識者に聞く(3)
林博史関東学院大教授


命令有無こだわり不要
前提に「逆らえない体制」

 ―「集団自決」に至る背景をどうとらえますか。

 「直接誰が命令したかは、それほど大きな問題ではない。住民は『米軍の捕虜になるな』という命令を軍や行政から受けていた。追い詰められ、逃げ場がないなら死ぬしかない、と徹底されている。日本という国家のシステムが、全体として住民にそう思い込ませていた。それを抜きにして、『集団自決』は理解できない。部隊長の直接命令の有無にこだわり、『集団自決』に軍の強要がないと結論付ける見解があるが、乱暴な手法だろう

 ―沖縄戦で住民が置かれた社会状況や支配の構図は。

 「軍人がいると住民は投降できない。投降できないとしたら、壕に隠れていて、攻撃されるしかない。あるいは、軍人がいなくても在郷軍人など軍の意思をたたき込まれた者が『集団自決』の口火を切る」

 「沖縄のような島では、逃げ場がなく、教育も徹底している。役場も軍も、そこから言われたことはお上の『命令』である。村の幹部らが『集団自決』を主導したとしても、幹部自体が国家の末端だから、『村が勝手にやった』とはいえない。軍の免罪にはならない。個々の軍命令かどうかは、必ずしも重要ではなく、住民が追いつめられ、『自決』しかないと思い込ませる状況をつくったのは軍を含めた国家だということが前提になる」(略)

 

お見事と拍手を送りたいくらいだが、ついでにもう一つおまけを付けておこう。

現代史の専門家秦郁彦元千葉大教授も、林教授の理屈を「画一的教条論」として厳しく批判している。
 
『まずは沖縄タイムスだが、『鉄の暴風』の発行元であるだけに責任は重いはずなのに、・・・(略)・・・なぜこんなに挑戦的なのか理由は不明だが、沖縄タイムス社の役員が梅沢氏を訪ねて丁重に謝罪し、善処を約したことへの反発かもしれない。』
 (中略)
『この新聞を呪縛している「沖縄のこころ」風のイデオロギー性は、前述した「<集団自決>を考える」シリーズでも濃厚である。連載の終わりの4回分は「識者に聞く」として安仁屋政昭、石原昌家、林博史などの四氏を起用しているが、「集団自決は厚生省の(援護用語)で、(強制集団死)とよぶべきだ」とか「軍命令かどうかは、必ずしも重要ではなく、、、、状況を作ったのは軍を含めた国家」のようなたぐいの見事なまでに画一的教条論の羅列ばかり。

 盧溝橋事件や南京虐殺事件の論争でいつも出てくる「第一発を誰が撃ったかは重要ではない」「虐殺の数にこだわるな」と同類の異議で、争点をそらす時に好んで用いられる論法ではある。
 (「歪められる日本現代史」(秦郁彦著・PHP研究所 第29~第32ページより引用)

 

赤嶺  専門委員から事前の意見も寄せられなかった。今回の教科書検定は文科省の一職員が自分の考えで意見をつくって、学術的にも専門的にも、肝心の沖縄戦を体験した沖縄の県民の検証にたえられない意見だ。学問的検証もなされないで、文科省の役人の起案で、いつまでも残るようなことが許されるのか。

文部省の一職員と誇張して云うが、この「一職員」は文部省の一般事務職員ではない。

文部省教科書課の専門官はその名の通り「専門官」であり、歴史の素人ではない。

他の省でも専門職の役人が有名大学の教授に転出した例は枚挙に暇がないはずだ。

>沖縄戦の専門家がいない。(文科省の)調査官のほうがよく調べており、(審議会の)委員より知っている。説明を聞いて納得してしまう部分がある。沖縄戦の専門家がいれば結果はだいぶ違っただろう

サヨク偏向の「沖縄戦の専門家」がいれば、当然不毛なイデオロギー論争が続き結果はどうなったか分からない。

まぁ、この(文部省の)「一職員」の意見書作成資格の有無はさて置こう。

だが、「沖縄戦専門家審議会に不在」という理由で、林教授のような学者というより、むしろ政治活動家といった方が相応しい人物を沖縄戦の専門家として審議会に加える愚だけは避けねばならぬ。
  

 

サヨク学者を沖縄戦の専門家として、「審議会」に入れることに反対するのは日本の名誉を守るための最低条件である。

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対馬丸撃沈は、米軍のジェノサイドである。

2022-08-22 09:59:56 | ●●沖縄の黒歴史

[大弦小弦]ウクライナ戦争日記

2022年8月22日 06:53

 子どもに一番言いたくない言葉。「いい? 心配しないで聞いてね。戦争が始まったの」。息子にそう伝えざるを得なかった女性(43)は「くっそ、なんてひどい母親なんだ私は!」と日記に書きつけた

▼ロシアが侵略を始めた2月24日から半年が過ぎようとしている。「ウクライナ戦争日記」(左右社)は、戦時下ウクライナの24人の手記を収める

▼近所のショッピングセンターが砲撃で全焼した。ブランド店やカフェがあって大好きだったのに-。記されるのは昔ではなく、現在進行形の被害。同じ時代を生きながら、ロシアの無法を止められない非力を痛感する

▼続くと信じた日常が突然壊れる。学童疎開船「対馬丸」が米軍に撃沈されたのは78年前のきょう8月22日だった。子どもたちも、送り出した親たちも、この日を境に全てが変わってしまった

▼破局が近づいてからでは、か弱い私たちには止められない。ずっと前から注意し、声を上げ、力を合わせて押しとどめる。きっとそれしかない

▼爆撃が始まった頃の首都キーウは、まだコーヒーショップが開いていた。女性(29)が店員の少女に注文した時のことを記している。「彼女は微笑(ほほえ)み涙を流した。私も同じように涙を流した。その瞬間はまさしく私たちが送りたい普通の生活そのものだったが、それはもう不可能なのだ…」(阿部岳

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ノーベル賞作家大江健三郎への配慮が裁判官を萎縮させた!秦郁彦氏

2022-08-19 13:09:57 | ●●沖縄の黒歴史
 

 

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売国奴大江健三郎、現代史家秦郁彦の大江岩波裁判批判

2022-08-01 04:26:08 | ●●沖縄の黒歴史

 

集団自決、大江・岩波訴訟、現代史家秦郁彦の高裁判決批判

2021-07-02

現代史家秦郁彦の高裁判決批判

2008-11-19

 

現代史家秦郁彦氏の「集団自決控訴審判決」に関する、インタビュー記事。(強調部分は引用者)

沖縄戦集団自決控訴審判決
現代史家 秦 郁彦氏に聞く


 沖縄戦で住民に集団自決を命じたとする虚偽の記述で名誉を傷つけられたとして、元隊長・梅澤裕氏らが「沖縄ノート」の著者、大江健三郎さんらを相手に出版差し止めなどを求めた控訴審で、大阪高裁(小田耕治裁判長)は請求を退けた一審判決を支持、梅澤氏らの控訴を棄却した。判決の評価を、現代史家の秦郁彦氏に聞いた。
(聞き手=編集委員・鴨野 守)
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「判決は暴論で非常識」

 はた・いくひこ 昭和7年、山口県生まれ。東京大学法学部卒。ハーバード大学、コロンビア大学に留学。防衛研修所教官、大蔵省財政史室長、プリンストン大学客員教授、日本大学教授などを歴任。法学博士。平成5年度の菊池寛賞を受賞。著書に『現代史の争点』『昭和史の謎を追う』(上・下)『昭和史20の争点―日本人の常識』『南京事件増補版―「虐殺」の構造』『統帥権と帝国陸海軍の時代』『旧制高校物語』など。


 ――判決の内容をどう見るか。
 裁判の争点は隊長の自決命令があったか否かであるのに、「その有無を断定することはできない」としながら、「総体としての日本軍の強制ないし命令」を認めたもので、「逃げ」の判決だ。名誉毀損があったと認めているが、さまざまな理由で原告側を勝訴させるわけにはいかないという大前提があり、事実上の門前払いをした。

 原告側を勝たせることができない理由の第一は、もしノーベル文学賞作家の作品が出版差し止めとなれば、世界中に報じられ、大騒ぎとなる。これは、日本の国益にマイナスになるという判断だ。

 第二は、沖縄への特別の配慮。昨年九月の県民大会に象徴される、ただならぬ「反対」の気勢を見て、沖縄の世論を敵に回したくないという気持ちがあったのだろう。

 第三に、戦時中の古い話を論議するのは歴史家の仕事であって、これを裁判所に持ってくるな、という考え方。第四に、原告側弁護団のビヘイビア(振る舞い)が、裁判所の心証を悪くしたという面だ。

 ――判決文のどこからそのように判断したのか。

 例えば判決の中に、「このような歴史的事実の認定については……本来、歴史研究の課題であって……司法にこれを求め、仮にも『有権的な』判断を期待するとすれば、いささか、場違いなことであると言わざるを得ない」などという判示は、こんな訴訟をやるな、と言っているに等しい。また、「新しい資料の出現によりある記述の真実性が揺らいだからといって、直ちにそれだけで、当該記述を含む書籍の出版の継続が違法になると解するのは相当でない」という指摘は、ひどい暴論。

 新しい資料、新しい証言が出て、過去の通説に間違いがあると分かれば、そのたびごとに訂正し、修正するというのが常道であり、歴史に対する本来の姿というべきだ。小田判決は、非論理的で、非常識な判決と言わざるを得ない。

 ――原告、被告双方から多くの陳述書や証言が出たが、原告側のものが一審に続き、全くと言ってよいほど評価されなかったが。

 梅澤氏の主張は「到底採用できず」、ニセ命令書を捏造したという照屋昇雄氏の証言も「全く信用できず」、座間味島の宮平秀幸氏の新証言に至っては「明らかに虚言」などと、その信憑性を一切認めないという極端な判断を出したのは極めて珍しい。梅澤氏は原告だが、照屋氏も宮平氏も第三者の立場で全くの別人格なのに。裁判長が意地になっているとしか思えない。

 ――高裁が「明らかに虚言」とした、宮平秀幸氏の証言については、どう評価するか。


 これが単独で出てきたのであれば疑問も出よう。だが、すでに梅澤氏が命令を発しなかったという証言は、宮城初枝さんが語り、宮村幸延が詫び状まで書いており、その内容と宮平証言は符合するもので大筋で正確だと私は判断している。裁判長は、過去の発言とブレがあるから信用できない、と指摘するが、時間とともに証言に多少のブレが出てくるのは当然であり、その理由も「村幹部の圧力」に起因するというのは、宮城初枝証言と同様、理解できる。逆に、時間を隔てた証言が全く違わないとなれば、それこそおかしい。

 ――判決は、住民自決命令について「関与」という形で認めたわけだが。

 「関与」という範疇には、「関与しなかった」ということも含まれる曖昧な言葉だ。だが、当時の日本政府も第三二軍も、大方針は「非戦闘員を県内外の安全地帯に避難させる」というもので、これは住民自決とは正反対の指示である。だが、判決はこの流れに沿わない住民殺害など例外的な事件をことさら重視して、自決命令に「関与」したと決め付けており、変な判決と言わざるを得ない。(世界日報 2008年11月18日)

                   ◇

 

再三繰り返しているが、高裁判決を、狼魔人日記風に言わしてもらえば、小田裁判長は、次のような判決を下したことになる。

裁判長⇒「原告の元軍人が、命令を出したといえないが、梅澤氏も老い先短いことだし、今さら名誉毀損なんて我慢しなさい。 ノーベル賞作家と大手版社の表現の自由に比べたら、90歳余の老人の名誉なんてどうでも良いではないか、それにもう一人の赤松氏は死んでいるのでしょう。 我慢、我慢」

こんなデタラメな判決が通るなら、日本はとんでもない人権無視の国家であるということを司法が示したことになる。

原告側の証言を一切認めないという裁判長の判断は、被告側の「証言者は嘘つき」という被告側の主張を、そのまま鵜呑みにした恣意的判断である。

原告が軍命を下したという証拠がないので、被告側は、本裁判とは関係ない別件の「住民虐殺」を持ち出してかく乱作戦を企てた。裁判長は、この被告側の「印象操作」に取り込まれて、軍の「関与」を全て原告が不利になるようにムリヤリつじつま合わせの判断をした。

>第二は、沖縄への特別の配慮。昨年九月の県民大会に象徴される、ただならぬ「反対」の気勢を見て、沖縄の世論を敵に回したくないという気持ちがあったのだろう。

この点に関して、原告側はマスコミ等の「法廷外闘争」で徹底し、「原告側は沖縄を敵にしている」という印象操作で裁判官にプレッシャーを与える作戦を続けており、結果的に成功している。

今朝の沖縄タイムスは「『集団自決』訴訟 控訴審判決を読む」(村上有慶・沖縄平和ネットワーク代表)というタイトルで連載特集が始まっているが、その記事の中でも「・・・『正論』や『WILL』などの雑誌上で展開される、沖縄側への口汚い攻撃を見れば明らかである」といったさりげない表現で、卑劣にも、この裁判が「原告側vs沖縄」の裁判であるかのような印象操作をしている。

いうまでもないが「集団自決訴訟」の被告は大江健三郎と岩波書店であり、沖縄が被告ではない。

原告側が被告側を、口汚いかどうかはさておき,攻撃するのは当然のことであるが、それがどうして「沖縄側への口汚い攻撃」に摩り替わるのだ。

沖縄タイムスに聞きたいのだが、いつから沖縄県民が「大江健三郎・岩波書店=沖縄」という等式を認めたというのだ!(怒)

こういうところで、勝手に「県民」と言うのは止めて欲しい。

岩波・大江訴訟 県民納得の妥当判決だ (琉球

 

0071/産経4/14・秦郁彦コラム-ノーベル文学賞作家・大江健三郎の「醜悪な心事」。

 

 産経新聞4/14コラム「正論」の秦郁彦「沖縄戦の集団自決と大江氏裁判」は内容的にきわめて適切なもので、秦郁彦と掲載新聞・産経に敬意を表する。
 

私もこの件についてはこのブログの3/30の20時台でまず言及した。そして、大江がたんに沖縄タイムズ社刊の本を信じて虚偽を事実と思い込んだというのではなく、沖縄ノート(岩波新書)で、事実であったことには微塵の疑いも抱かず、それを前提として、渡嘉敷島元守備隊長(赤松嘉次氏)の沖縄再訪時の心情を想像=創作=「捏造」する長々とした叙述をしていることの方が許せない、と感じた。
 秦郁彦は、大阪地裁への訴訟提起を受けたとき「ついでに、沈黙を守ればよいのにと思わぬでもなかった。/だが、くだんの『沖縄ノート』を読んで、その思いは砕かれた。大江氏は両守備隊長を集団自決の命令者だという前提で、「ペテン」「屠殺(とさつ)者」「戦争犯罪人」呼ばわりしたうえ、「ユダヤ人大量殺戮(さつりく)で知られるナチスのアイヒマンと同じく拉致されて沖縄法廷で裁かれて然るべき」と「最大限の侮蔑を含む人格非難」(訴状)をくり返していたからである」と書く。私も全く同様の思いだった。≪稀に見る人権侵害的記述≫との見出しは完璧に正しい。
 しかも、私も既述のように大江と岩波書店は1970年以来、上の新書を売り続けているのだ。秦はこう書く。-「他の孫引き本がほとんど絶版となっているのに、この本は昭和45年の初版から修正なしに50刷を重ね、現在も売られているのは信じがたい事実だった。/こうした稀(まれ)にみる人権侵害的記述を有名文学者だからという理由で、許容する余地はないと私は感じている
 よくぞ書いてくれた。大江には有名作家、ノーベル賞受賞作家という慢心・「思い上がり」があるのではないか。それに加えて、原告たちは(簡単に表現すれば)<右翼・反動派だ>といった「政治的」感覚の偏向があるのだろう(後者は岩波書店にも共通する)。
 必ずしも詳細には知らないが赤松氏、梅沢裕氏は「すぐれた人間性」をもつ方々らしい。それに対して、と秦は書く。-「「現存する日本人ノーベル文学賞作家」の醜悪な心事はきわだつ」。
 大江健三郎よ、自信と良心があるなら、すみやかに法廷の証言台に立て。
 秦氏の文によると2005.08.16に大江は法廷で証言したい旨述べたようだが、原告が要求しているにもかかわらず、まだ実現していないのだ

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沖縄戦、沖縄県民をジェノサイドをした米軍

2022-06-20 07:26:35 | ●●沖縄の黒歴史

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沖縄タイムスの紙面を見ていると、すべての沖縄県民は約77年前の沖縄戦のトラウマを抱え、毎日「戦争反対!」と叫んでいる印象を受ける。

沖縄タイムスが沖縄戦の特集記事を掲載するのは3末の「集団自決」の起きた時期、そして「屈辱の日」と言われる講和発効の4月7日前後、そして6月23にの慰霊の日前後と、大体スケジュールは決まっている。

ところが昨日6月19日付沖縄タイムスは、一面トップを、この記事で飾った。

以前から日本軍と日本人を県民の敵と見なしている玉寄哲永氏は、最近メディアで顔をみなくなっていたが、一体何を血迷って一面トップに顔を晒しているのだろう。

沖縄タイムス紙面掲載記事

[記憶を重ねて 沖縄戦とウクライナ侵攻](1) 玉寄哲永さん(87) 戦禍の国民 かつての私 「人間の地獄」再来憤る 

2022年6月19日 05:00

 病身を押して、一歩ずつ、前へ出る。集まった人たちが息をつめて見守る。視線の先に、87歳になる玉寄哲永さんの姿があった。

 4月6日、ロシアのウクライナ侵攻に抗議して那覇市の県庁前で開かれた集会で、マイクを握った。10歳で戦場を逃げることを余儀なくされた沖縄戦を語り、呼びかけた。「侵攻に全国民が、全世界が一つになって反対するきっかけを大きくつくってまいりましょう」。侵攻に巻き込まれた住民に、かつての己が重なった。

◇    ◇

 両親と弟の4人で暮らしていた。1944年10月10日に那覇市を襲った10・10空襲で、父が営む仕出屋は全焼。米軍上陸で日本軍から南へ避難するよう言われた。逃げ惑う毎日が始まった。

 向かった先々で、嵐のような艦砲射撃と機銃掃射にさらされた。避難のために一緒に歩く人たちが米軍艦からの砲撃で一人、また一人と倒れていった。道に折り重なる遺体の腐臭が鼻にしみつき、離れない。

 住民を守るはずの日本軍は命をおびやかす存在になっていた。日中の攻撃を避けて徹夜で掘った壕は翌朝、兵士に銃剣を地面に突き立てて脅され、奪われた。

 食べ物がなく飢えに苦しむなか、母が頭の上半分がない日本兵の背嚢(はいのう)から、靴下に入った米を見つけた。衰弱した弟のために鍋で炊いたかゆは、軍刀を抜き放ち切りかかってきた将校に取り上げられた。軍服の上から浴衣を着て、住民を装っているように見えた。「貴様らこれ使え」。代わりに手りゅう弾を渡された

               ★

時期外れの戦争記事が一面トップを飾っている。

一体何にコジツケた記事だろう。

不審に思っていたらウクライナ戦争での住民虐殺と沖縄戦を強引に重ね合わせ記事と知り納得した。

しかし、戦後77年も経過してよくもこのような裏付けのない記事で一面記事を飾れる沖縄タイムスには呆れかえる。この記事のように日本兵の名前さえ特定しなければ、「極悪非道な日本兵」を表現するにはどんな作り話でも書き放題というわけだ。

15年前の記事を拾ってみよう。

 沖縄タイムス2007年7月7日の1面、社会面でこのような記事が掲載された。
見出しは、こうだ。

隊長「死になさい」

<軍命ない限り悲劇おこらぬ>

座間味体験者、切々

結局これが誤報だったというから驚きだ。

しかもこの誤報の訂正記事が小さなベタ記事で、よっぽどで無いと気がつかない。

こうなると、沖縄タイムスの確信的犯行と思わざるを得ない。

念のため上記見出しの該当記事を下記に引用する。

《「軍の命令がない限りは、日本兵が入ってこなければ、そんなこと(『集団自決』)はなかった」。6日、県議会文教厚生委員会(前島明夫委員長)の聞き取り調査に応じた座間味村の「集団自決(強制集団死)」体験者6人は、それぞれの体験を率直に証言した。聞き取るのがやっとの小さな声で話したり、じっとうつむいたり。語り、向き合うにはつら過ぎる62年前の記憶を口にしたのは、「教科書からの軍関与削除は絶対に許せない」との思いを伝えるためだった。》《吉田春子さん(81)は1945年3月25日、妹を連れて日本兵がいる壕に避難した。翌26日になり壕が米軍に攻撃され、夜になったら脱出しようと相談し、その夜に玉砕命令を聞いた。だが「母と会うまでは死ねない」と逃げだし、助かった。》
《当時25歳だった大城澄江さん(87)は座間味島への米軍の艦砲射撃が始まり、友人4人と避難中、壕内で「忠孝碑の前に集まれ」との声を聞いた。一度は忠孝碑の前に行ったが、その後、逃げ回っている途中で日本軍に遭遇、手りゅう弾を渡された。逃げ場を失い、自決しようとしたが爆発せず、生き延びた。》 《上洲幸子さん(84)は母ら4人と壕に避難。母は殺ソ剤での自死を主張したが、上洲さんが「逃げられるうちは逃げよう」と訴え、島内を歩き回った。ため池近くに村民や日本兵がおり、梅沢裕部隊長の姿もあった。梅沢部隊長は村民を集め「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでくるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話したという。》(
沖縄タイムス2007年7月7日)

沖縄タイムス編著『鉄の暴風』では、梅澤隊長は「不明死」させられたが、上記記事の時はご存命であり、デタラメな記事は抗議して訂正させている。

だが、沖縄タイムスの「梅沢部隊長は・・・もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」の記事は朝日新聞に引用され、訂正されずにそのまま放置されている。悪質な「情報ロンダリング」と言わざるを得ない。

 ■デタラメな新報コラム

日本兵の名前さえ特定しなければ、どんな捏造記事を書いても構わないという例は他にもある。

2013年6月12日付琉球新報の次のコラムもその類のいい加減な証言があたかも真実であるかのように語られている。


< 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた ▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という 。 > (2013年6月12日付琉球新報)

上記コラムの事例が嘘である証拠は、米兵の目を恐れる日本兵が赤ん坊の泣き声は気にするが、射殺した銃声が米兵の耳に入るのを気にしていない。 これなどは戦争体験者の証言ではよくでてくる矛盾であり、誰もが気がつく嘘の証言である。

証言者の名前を記すと全てが真実のように受取られがちだが、よく読み返すと嘘は自ずと矛盾が露呈してくる。

壕に潜んでいた母親が、赤ん坊の泣き声が気になり、湿ったオムツを赤ん坊の口に当てて窒息させたと言う悲惨な話は今でも密かに語られている。

それが新聞などで証言となって公開されると、そこに「残虐非道な日本兵」が介在し、「日本兵によって殺された」という話に変化していく。

わが子を自分の手にかけた贖罪意識のある母親としては、せめて「残虐非道な日本兵に殺された」とでも証言しなければやりきれなかったのだろう。 だが、この場合日本兵の名前が特定されていないからまだ救える話だ。

だが、自決命令を下して住民を集団自決に追いやったのは、「赤松、梅澤両隊長だった」などと名前を特定されたのが慶良間島集団自決の悲劇である。 そして名前を特定した理由が、当時の厚生省役人の漏らした「軍命があったなら集団自決の遺族も援護法の適用が可能」というひと言だという。

以後「軍命による集団自決」が集団自決のあった座間味村役場の公式見解になる。座間味島村の援護係宮村広延は援護金の支給で何度も当時の厚生省と交渉し援護金支給に貢献したして村役場から表彰を受けている。

■「援護法」が作り上げた極悪人

本来なら軍人の遺族にしか適用できない「援護法」を、軍属でもない集団自決の遺族に適用するための「拡大解釈」という厚生省の善意。 それが、仇となって2人の軍人に「集団自決を命じた極悪人」という汚名を着せることになる。 歴史の皮肉である。 上原正稔さんの琉球新報を相手取った戦いの目的は、不当に汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長の汚名返上にある。

 

■戦争にもルールがある、

冒頭に引用した玉寄哲永氏のコメントは日本兵に対する憎悪を剥き出しにして『鉄の暴風』が主張する日本兵=残虐非道という構図を表している。

だが「戦争にもルールがある」という事実を沖縄タイムスは知らないようだ。

●戦時国際法ではどんなことが定められている?

国際法のひとつである戦時国際法は、戦争状態であってもあらゆる軍事組織が遵守すべき義務を明文化したものです。

戦時国際法と呼ばれるものとしてハーグ陸戦法規やジュネーヴ条約などがあり、代表的なルールとして以下の8つがあります(条約締結国だけに適用されるものもあります。)。

⑴ 軍事目標以外への攻撃禁止(降伏者、負傷者、民間人等の攻撃禁止)

⑵ 休戦旗を揚げながら戦闘する行為

⑶ 遭難信号を不正に発信する行為

⑶ 赤十字旗を揚げながらの軍事行動

⑷ 軍事的必要性を超える無差別な破壊・殺戮

⑸ 捕虜虐待の禁止

⑹ 対人地雷使用の制限

⑺ 化学生物兵器使用の制限

⑻ 開戦に先立つ宣戦布告義務

個々の法規違反の解説は省略するが、米軍が1944年10月10日に那覇市を空爆したことは、紛れもなく(1)の民間人への攻撃禁止に相当する。

さらにアメリカ軍は1945年3月10日の東京空襲や、8月6日に広島に原爆を投下した。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる民間人が亡くなった。9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8万人ほどの民間人が亡くなった。

これ等の例は、誤爆による民間人虐殺ではない。

確信犯的ジェノサイドだ。

これ等は全て、すべて戦時国際法違反の民間人の大量虐殺に相当する。

沖縄タイムス編著『鉄の暴風』は、那覇10・10空襲を含む沖縄県民の大量民間人虐殺の事実を知りながら、「人道的米兵」「残虐非道な日本兵」を現在でも主張し続けている。

県民は『鉄の暴風』の呪縛から一刻も早く目覚めるべきである。

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集団自決、「援護金支給」は政府主導の「善意の」公金詐取

2022-06-11 04:56:24 | ●●沖縄の黒歴史

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慶良間島の戦隊長だった梅澤氏らが大江健三郎氏と岩波書店を訴えた「集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側が敗訴し、被告の大江健三郎側が勝訴した。 その結果大きな誤解が生じている。

つまり、集団自決の「軍命の有無」論争は「軍命説」が確定したと一般には思われているのだ。

だが、これは沖縄2紙による印象操作による大きな歪曲報道である。

たしかに最高裁で原告側の名誉毀損と損害賠償の請求は敗訴が確定した。

だが、最大の争点である「軍命」については挙証責任のある被告大江・岩波側は立証することが出来ず、事実上梅澤氏らの名誉回復は確定した。 

ただ名誉毀損が訴因である裁判で大江・岩波側が勝訴したため、あたかも「集団自決は軍命だった」ということが最高裁で確定したかのような印象操作記事を沖縄2紙が垂れ流し、それに誤誘導された読者が多い。

この沖縄2紙の印象操作については、しつこいが何度でも指摘しておく。

沖縄2紙を筆頭に反日左翼勢力は、「援護法」の」カラクリを必死になって隠蔽しようとしているが、これが結果的には「極悪非道の日本軍人」という歴史の捏造を生み出すことになり、その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤さんと赤松さんということになる。

読者の中には集団自決と「援護法」の関係を深く検証すればするほど、援護法申請書の偽造などに行き着き、詐欺行為の疑いを持つ人も多い。

より直裁的にいえば、援護法申請書の偽造は「公文書偽造による公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄人の立場としては言い難い言葉だが、筆者はこれまでに何度も「公金詐取」と指摘している。

■石原教授のトンデモ発言

反日左翼の急先鋒であるOABテレビに、石原昌家沖国大教授が出演し、靖国合祀拒否訴訟の援護法関係でこんな意味の発言をしていた。

「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」という印象で放映された。 

だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、遺族が知らない間に合祀される筈はない。裁判で遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言している。

したがって遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

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■政府主導の「公金詐取」■

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈である。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

元々「援護法」は沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にした。  

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘しできるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも役所は給付したくないように見える。 お役所仕事といわれる所以である。

ところが、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦に限り拡大解釈し軍に協力した住民に適用したときの当時の厚生省は、何とかして給付させたいという善意が働いて、書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見される。

 申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側でも沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って現在の厚労省も「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

■石原昌家氏の二枚舌■

集団自決の軍命論争ではいろんな場面で沖縄の識者たちがカメレオンのようにくるくると自説を変えていく例が多い。これを一々論じていたら一冊の本が出来るくらいなので立ち入らないが、援護法の研究者を自認する石原昌家氏の立場は微妙である。

石原氏は「集団自決訴訟」では被告・大江、岩波側を支援し、軍命はあったと主張する一方、「集団自決」という述語は「強制集団死」と呼ぶべきだと主張し、述語の中に軍命を意味する「強制」を使うなどの徹底した「軍命派」である。

その一方で、沖縄靖国訴訟では原告の遺族側の証人に立ち、「軍命は政府側が住民を靖国に祭るためのに指導した方便」という意味の証言をして、結局は軍命が「政府によって偽造されたもの」といった自己矛盾の発言をしている。

つまり政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆したというのだ。

もっと具体的に言えば、石原氏は自分の体験も含めて、援護法申請書に「実際はなかった軍命による自決」と書いて出せば、援護金をもらえたと証言しているのだ。

この人物、同じテーマの裁判に首を突っ込んでしまい原告と被告が逆の立場であることをうっかり失念して「オウン・ゴール」をかましたことになる。(爆)

参考: 茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

 

【おまけ】

石原教授は、沖縄靖国訴訟の原告側証人として法廷に立ち、原告側にとって致命的ともいえる発言をしているが、これについては稿を改めて述べてみたい。

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白旗フンドシの老人、沖縄分断を目論む沖縄タイムス・新川明が捏造した「白旗の少女」、捏造された卑劣な日本兵

2022-06-05 15:13:05 | ●●沖縄の黒歴史

 

 

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過去ブログで最近アクセスの多い記事を、再掲しています。

 

沖縄タイムス・新川明が捏造した「白旗の少女」、捏造された卑劣な日本兵

2021-06-29 

 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログ新川明と白旗の少女 捏造された一フィート運動2009-08-12 を編集・再掲します。

                ★

『うらそえ文藝』の集団自決特集の対談で、「一フィート運動」の創始者である上原正稔氏が「沖縄タイムス恐喝事件」を暴露したことが話題になった。

当時富村順一氏の恐喝に50万円を脅し取られた沖縄タイムス編集局長新川明氏(後に社長)は、定年退社後も極左評論家として健筆を振るっている。当日記には何度も登場した沖縄タイムスOBである。

新川明

新川明氏は、米軍が写したフィルムの中に、偶々写っていた白旗を持つ少女の映像を発見し、絵本という形で子供たちに「悪逆非道な日本兵」を教え込む平和教育教材を作った。

 

以下は白旗の少女の神話ー改定版を編集した再掲です。

                   ◇

「白旗の少女」は沖縄戦記で良く知られた話だが、「白旗フンドシの老人」は沖縄タイムスで初めて知った。

「白旗の少女」と同様に、沖縄タイムスの捏造臭いが、真実は不明である。

⇒文末に掲載。

 

「白旗の少女」や長寿の秘密 高校英語教科書に“沖縄” 

 

米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿は見るもの胸を打つ。

中でも特に有名な二枚の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。

その写真の一枚が白旗の少女として知られ、もう一枚は「うつろな目の少女」として後に有名になる写真である。

うつろな目の少女が、実は女装した男の子であったということを知る人は少ない。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

  

白旗の少女とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女のことで、大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場。

「1一フィート運動」の成果である1986年公開の米軍撮影記録フィルムの中の少女の笑顔が県民の印象に残った。

少女は当時7歳の比嘉富子さんであった。

手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)

後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影した。

以後白旗の少女の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。

白旗の少女の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。

新川明が白旗の少女を捏造ー卑劣な日本兵を創作

白旗の少女が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。

 白旗の少女が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。

読者が衝撃を受けたのは、「平和教育」のため、歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿である。

米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは異存はない。

だが、事実を捻じ曲げ日本兵貶めるとなると話は別だ。

記録写真を見た「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される典型的例が「白旗の少女」だ。

新川明著『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)で、少女は日本兵と住民が雑居する壕にもぐりこむが、壕を取り囲む米軍に投降勧告をされ、誰が最初に壕をでるかで日本兵達が醜く言い争う。

そのクライマックス・シーンで次のようなくだりがある。

 兵隊たちがいいあらそいをはじめました。

「おとなしく出れば殺さないはずだよ」

「では、だれがさいしょに出るのか」

「こういうときは、兵隊さんがさきだよ」

ほかの人たちもいいあらそっています。

「あなたたちは、そんなに死ぬのがこわいのか!」

りゅう子をガマに入れまいとした女の人が叫び出すと

隊長はあわてて雑のう(ものをいれるもの)から白い布をとりだしていいました。

「ためしに子どもをさきに出してみよう!」

ゆっくりと目をあけると

すきとおるひかりのむこうに

アメリカ兵のすがたがみえました。

戦車のかげで鉄砲をかまえたまま

白い歯をみせてわらっています。

 

ふりかえると、日本兵たちが

両手をあげてついてきました。

おじいさんや女の人も

よろよろとつづいていました。

そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。

 

同書の「あとがき」には次のように書かれている。

 
  <さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
 本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。
 >
 
<私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
 はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、モンぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
 さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
 

日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は、元沖縄タイムス社長で、沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリスト。

また、版画絵を担当した儀間比呂志氏は、沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は読者に大きなインパクトを与えた。

絵本が糾弾するのは、白旗を持った少女を盾に米兵に命乞いする日本兵の卑劣な姿であった。

■実際はどうであったのかー比嘉富子さんの証言

記録映画版の映像で動画を見ると、虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振ったという印象である。

それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人(防衛隊という民間人の可能性も)のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する少女を盾にした卑劣な日本兵という雰囲気は画面からは読み取れない。

 


1985年、新川明氏が創作した『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。

比嘉さんは当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していたと記されている。

そして比嘉さんが、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。

・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません
。(204、205頁)>

比嘉富子さん、よくぞ無事で生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、どうなっていたか。

「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に沖縄戦の歴史に刻まれていた語であろう。

ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。

だが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が沖縄戦史に刻まれていたであろう。

記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。

だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。

では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

いや、そうではない。

相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、全県の図書館で読むことが出来る。 そして子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。

デタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

「りゅう子の白い旗」の書評

●沖縄タイムスの書評(1988年6月22日)=「琉子」は沖縄戦を描いた絵本「りゅう子の白い旗」を映画化したもの。主人公・琉子の体験を通して、日本軍の住民に対する残虐な行為など戦争の悲惨な実態を描いたもの。対照的に沖縄の自然や情景を織り交ぜた美しい映像で、命の尊さを訴えている

 

■白旗フンドシの老人

沖縄戦終結後77年を経過し、沖縄タイムスによる「残虐非道な日本軍」という歪曲報道はそろそろ色あせてきたと思ったが、実はそうではない。

2022年6月6日付沖縄タイムスオピニオン面のコラムに、宜野湾市にお住いのN(85)さんが「白旗フンドシ」の老人という記事を書いている。 Nさんが沖縄戦の体験調査をしているとき白いフンドシを掲げて投降する老人の次のような例を聞き取った。

≪摩文仁での証言者によると、棒の先にフンドシを掲げて米軍に向かって投稿すると米軍は捕虜にするが、背後のアダンの陰から銃を向けて狙い撃ちするのは日本軍だったようだ。敵の米軍より浅ましい日本軍の行動は、見た人は激しい憤りを感じたという。≫

執筆したNサンは、取材相手が語った通り記録したのだろが、それが事実か虚偽かを判別する術を知らなかった。しかし、『鉄の暴風』の影響を受けていることは容易に想像できる。

『鉄の暴風』が目論む「本土と沖縄の対立分断」という合言葉が上記コラムの「人道的な米軍に対する残虐非道な日本軍」と見事に重なっている。

事実をないがしろにした議論ほど無益で虚しいものはない。 それは混乱を生み出すだけだ。解釈はいろいろあってよい。 しかし、事実は一つなのだ。

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